記憶はときに夢と混じり合い、歪みゆく認識の前に為すすべもなく
「……シャーロット……!!」
水槽に満たされた水の中、長い金色の髪に包まれるようにして、シャーロットはいた。細い若木のような腕と脚を折り曲げて、胎児のように丸まっている。まだ成熟していないシャーロットの裸体は、言いしれぬ神々しさを宿し、肌は宝石のように光を集めていた。
水槽はひとつではなかった。暗い部屋の中にいくつも並び、ぼんやりと青白い光を放っている。
「ポーリーン……ああ……!うそだろう?ヘイゼルまで!?」
ジョシュアはひとつひとつ水槽の中を確かめていった。そしてとうとう一番奥に、彼を見つけた。
「……ジャック……」
青白い顔。紫色の唇。半眼に開いたまぶたの奥の瞳は、濁ったガラス玉のよう。いつも黒い服の下にあった肉体は、均整の取れた骨格が無駄のない筋肉をまとって、ため息が出るほど美しい。ジョシュアは胸が締め付けられた。
「なぜここに……?だって、さっきまで家にいたのに」
「思い出せ、ジョシュア」
ハルの静かな声は、薄暗い室内で変に響いた。銀縁の眼鏡が青白い光を反射する。
「すべて君の心の中で作り出した世界だ」
***
「ライオンとウサギ亭」は喧騒に包まれていた。
二十年以上続いた不況にようやく回復の光が見え、来たるべき新世紀に向けて市場は活気に満ちている。ジョシュアは幾人かの紳士と取引の情報をやりとりし、社交界の少々のゴシップなどにも触れつつ、普段どおりの夕刻を過ごしていた。
ジョシュアはその日、久しぶりに気分が良かった。インド洋からの船が、心配していた嵐をやり過ごしてスエズを通過したと連絡が入ったし、いくつかある投資先も軒並み好調だ。
二杯目のグラスが空になったところで、ジョシュアは懐中時計を開いた。八時少し前。もう一杯頼んでもいいが、丁度会話のきりもいい。ジョシュアはかねてより、パブに長っ尻はあまりスマートではないと考えていた。
(ここでもう一杯飲むよりは――)
ジョシュアはふと思い立って、その場にいた知り合いに「僕はそろそろ切り上げるよ」と声をかけて店を出た。
花屋は既に閉まっていたが、コヴェント・ガーデンではまだ花売りがいた。
「君、それ、全部おくれ」
「ありがとうございます、サー」
店じまいしかけていた花売りは、そばかすの浮いた顔に笑みを広げて、売れ残った花々を包んだ。ジョシュアは代金を多めに渡すと、辻馬車を停めて乗り込んだ。
馬車の中で、萎れかけた花を摘みとっては捨てていく。石畳に落ちた花は行き交う馬車の車輪に踏まれ、闇の中ですぐに見えなくなった。まもなく馬車は、白い小さな家の前に着いた。
仔馬のドアノッカーを鳴らすと、女中のソフィがドアを開けた。
「ま……!エヴァンズ様!」
「こんばんはソフィ。ポーリーンは起きてる?」
「お部屋ですわ。今お呼びしますから、居間でお待ちになってくださいな」
言われるままに、ジョシュアはコートを脱いでソフィにあずけ、居間の一人掛けのソファに掛けた。ソフィがお茶とワインを持ってきて、ティーテーブルに置き、また出ていった。
ジョシュアはお茶を飲みながら女主人を待ったが、なかなか現れない。壁の時計が九時を打った。
「……遅いな……」
花がどんどん萎れていく。お茶はすっかり冷めてしまった。横にワインの瓶とグラスも置いてあったが、ワインはポーリーンが来てから開けるつもりだった。ジョシュアは花束を手に、立ち上がった。
ポーリーンの部屋は二階だ。階段を上がって、ドアノブに手を掛け――ジョシュアは動きを止めた。
閉じたドアの向こうから、ひそひそと囁き合う声がする。
(一人じゃなかったのか)
ジョシュアは一気に酔いが冷めた。胃のあたりがずしりと重くなる。まるで石でも飲み込んだような気分だ。よく聞き取れないが、相手の声は確かに男のそれだった。客だろうか、出直すべきか――と踵を返しかけた時、ポーリーンの声がした。
「無理よ。そんなこと、できるはずがないわ」
盗み聞きなど見苦しい、と、わかっているのに、足が動かない。
「ポーリーン、俺はずっと諦めようと思ってきた。でも、やはり君しか考えられない。娼婦なんてやめて、一緒に暮らそう。ロンドンを出て、どこか田舎で」
「ごめんなさい、やっぱりわたし、あなたの気持ちには応えられない」
「ポーリーン、愛してる。結婚しよう」
男の声が大きくなって、ジョシュアは驚いた。その声の主は、ジョシュアがよく知っている男のものだった。
「ジャック……お願い、困らせないで」
「……ジョシュアか?」
「……」
「でも彼は、君と結婚するつもりは」
「それ以上言わないで!」
ぱたぱたと軽い足音がして、ジョシュアは慌ててドアから離れた。が、間に合わなかった。
ドアをあけて、ポーリーンが飛び出してきた。
「……ジョシュア!?まあ、どうしたっていうの?」
ジョシュアは青ざめた顔で、階段の上に立ち尽くしていた。
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