恋人は赤いバラのように

 てっきり留守だと思ったのに、鍵は空いていた。

 暗闇の奥にかすかな気配を感じて、ジョシュアは足を止めた。

 ジョシュアは明かりをつけないまま、階段に足をかけた。一段、また一段と登るごとに、気配は明瞭になっていく。

 客間のある二階を過ぎ、ジョシュアの寝室のある三階も過ぎる。

 とうとうジョシュアは、四階まで登りきった。果たして目の前の、閉じたドアの向こうから、ひそひそと囁き合う声がする。

 ジョシュアは期待に胸が高鳴った。ここはジャックの寝室だ。

(ジャック……生きていたのか!)

 何と言って再会を喜ぼうかと考えながら、ドアノブに手を掛ける。と、思いがけない声が、ジョシュアの動きを止めた。

「無理よ。そんなこと、できるはずがないわ」

 押し殺した声の主は、ジョシュアがよく知っている女のものだった。

「ポーリーン、俺はずっと諦めようと思ってきた。でも、やはり君しか考えられない。娼婦なんてやめて、一緒に暮らそう。ロンドンを出て、どこか田舎で」

「わたしに何もかも捨てろというの?」

高級娼婦クルティザンヌなんて長くは続けられないよ。君の身体が心配なんだ。わかってくれ、いくらか蓄えもある。ふたりでささやかな生活を始めるくらいは」

「ごめんなさい、やっぱりわたし、あなたの気持ちには応えられない」

「ポーリーン、愛してる。結婚しよう」

「ジャック……お願い、困らせないで」

「……ジョシュアか?」

「……」

「でも彼は、君のことは――」

「それ以上言わないで!」

 ドアが開いて、ポーリーンが飛び出してきた。

「……ジョシュア!!」

 驚きと後ろめたさの入り混じった顔で、ポーリーンはその場に立ち尽くした。ジョシュアが見たこともない質素な服に身を包み、つややかなブルネットの髪は化粧っ気のない顔の横で無造作にくくられている。

「やあ」

 ジョシュアはかすれた声でそれだけ言うのがやっとだった。触れることすらためらわれるほどに、愛しいポーリーン。青ざめた顔すら美しい。

「聞いて……いたの?」

「――僕はどうやら新しいバトラーを探さなければならないようだ」

 ジョシュアは無理に微笑おうとしたが、うまくいかなかった。ポーリーンに背を向け、足早に階段を降りる。

「そんな……ねぇ待って。わたし結婚なんてしないわ」

 ジョシュアを追って、ポーリーンが階段を駆け下りてくる。

「とんだ茶番だ。僕の家で、僕の執事が、僕の留守に僕の友人を口説いているなんてな」

 言いながら、ジョシュアは自分にうんざりした。なぜこんな惨めなせりふを吐いているのか。本来は祝福すべきではないか。ものわかりのいい主人として、あくまでスマートに。

 よくよく考えてみれば、元々ジャックはエヴァンズ男爵家の使用人だったし、ポーリーンも家庭教師の母親に連れられて一時期屋敷に住んでいた。ジョシュアが気付いていなかっただけで、年も近い二人が親しくなる機会などいくらでもあっただろう。

「ジョシュア、お願い聞いて――」

 その時、ポーリーンがドレスの裾を踏んでつまづいた。

「きゃあっ」

 ジョシュアは落ちてきたポーリーンをとっさに抱きとめた。

「……おめでとう、ポーリーン。幸せになってくれ。――そして、君を幸せにできなかった僕を二人で笑ったらいい」

 腕の中のポーリーンに贈った言葉は、ジョシュアの意に反して吐き捨てるような口調になった。

 ゆっくりと階段を降りてくる足音がして、ジョシュアは振り向いた。そこには、あんなにも無事を願った男がいた。

「ジャック」

 この目眩がするほどの嫉妬は、果たしてポーリーンに対してのものか、それともジャックに対してのものか、あるいはその両方か。

「お帰りなさいませ、旦那様サー

 暗がりでジャックの表情は見えない。しかし口調は穏やかだった。不気味なほどに。

「ジャック……ごめんなさい。わたし、やっぱり一緒には行けないわ。わたしはロンドンにいたいのよ。たとえ結ばれることがなくても、せめてジョシュアのそばに――」

「それ以上、俺を惨めにさせないで、ポーリーン」

 ジャックの悲しげな声がして、細い光がきらりとひらめいた。


 なぜ赤い色が見えたのか、わからない。それほど家の中は暗かった。

 窓から差し込むぼんやりと暗い光に照らされて、ポーリーンの白い喉が紅く染まっていく。ポーリーンの唇が、声にならないままジョシュアの名を呼んだ。

 ――ジョシュア、愛してる――。

「もう、終わりです、サー」

 そこから先は、記憶がない。

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