第七章 時間迷宮
ホーム・スイート・ホーム〜旅の終わり〜
ツン、と鼻の奥に刺激臭を感じて、浅い眠りから覚めた。
ジャックは持ってきた水差しをベッドの脇に置く。
窓から外を見下ろすと、鉄柵に囲まれた狭いテラスがある。その柵の前の石畳に、無残に引き裂かれた死体が転がっていた。
死体を囲んで数人の警察官が小さな手帳にメモを取ったり遺品を調べたりしている。集まりだした野次馬を追い払っている警官もいる。
そのとき、家の呼び鈴が鳴った。
玄関に出ると、黒い服の警官が二人、立っていた。
「
「そのようですね」
「昨夜不審な物音や声を聞きませんでしたか?」
「いいえ」
「昨日はずっと家に?」
「はい」
「失礼ですがこの家のご主人はどちらに?」
「あいにく留守にしております」
「ふむ……ご遺体に面識は?」
チェスターが身体の向きを変え、死体を指し示した。
原型をほぼ留めていない死体を見て、ジャックはハンカチで口と鼻を塞いだ。
「やはりご存じないですかね」
チェスターが言った時、死体の下で何かがきらりと光った。
「あれは?」
「おや、なんでしょう」
ニコルが手袋をはめ、更にハンカチに包んでそれを拾い上げた。
「貴方のですか?」
「いいえ」
「見覚えも?」
「それに見覚えはありませんが、亡くなっている方はこの家の主人、サー・ジョシュア・エヴァンズその人です」
ニコルのハンカチに赤黒い染みをつけたそれは、金色に鈍く光る懐中時計だった。
***
はっと気付くと、ジョシュアの前にはビールがなみなみと注がれたグラスが置いてあった。
「……っ!?」
ジョシュアは乱れた息を整えた。グラスを握った手に、じっとりと汗をかいている。
「……なんだったんだ……今のは」
あれは確かに、あの朝だった。血のにおいで目覚めると、窓の外には――。
「死んでいたのは……僕か……?」
うっすらとこみ上げてきた吐き気を飲み込んで、ジョシュアは周囲を見回した。客で溢れかえった店内は、喧騒に包まれている。見慣れた〈ライオンとウサギ亭〉の光景だ。
「ハルは……いないのか……?シャーロットは……ヘイゼルは?」
客の中に見知った顔はない。ジョシュアはふらふらと店の外に出た。
外には翼の生えた馬も飛んでいなければ、騎士姿の男もいなかった。
(まさか、ぜんぶ夢だったのか?)
いつもとまったく変わらない街の様子に、ふとそんな考えがよぎる。
「そんなはずはない……僕は確かに、中世に行ったし、未来にも行った!」
ジョシュアは自分に言い聞かせるように小さく叫び、頭を振った。
「……だが……実際、今にして思えば夢のようなことばかりだったな」
騎士の城、妖獣の砦、魔女の生首……かと思えば、天を衝くような建造物が林立し、宇宙までも飛行できる世界。
(むしろ夢だったと言われたほうが、納得できる……)
現実感のないまま、ジョシュアは辻馬車を拾い、家の場所を告げた。夢ならば、家ではいつもの通りジャックがジョシュアの帰りを待っているはずだ。夢でなければ――
「確か今夜、ヘイゼルは新聞社にいたはずだ……もしもあれが夢ではなくて、一緒に
だが、それならばハルは一体どこにいるのか。
絶対に夢などではない、と思う反面、ぜんぶ夢であってほしいような気もする。そう思いたくなるほど、あまりにも途方も無い旅だった。
「旦那、着きましたぜ」
御者の声で我に返ると、馬車はいつの間にかジョシュアの家の前に着いていた。金を渡して馬車を降り、チャイムを鳴らす。しかし誰も出ない。
「ジャック……いないのか……?」
窓はどれも真っ暗だ。
「――待てよ、この状況には覚えがある……そう、最初に
そうだ。ヘイゼルが言っていた。『ベルを鳴らしたんですが誰もいなくて』――。
ジョシュアは必死で記憶をたどった。
「あの時、ヘイゼルはシモンに襲われて――死んだ――」
ジョシュアは心臓を掴まれた気がした。鼓動が耳元にせり上がってくる。
ヘイゼルが死んでしまった世界を、ジョシュアは見た。そしてジャックが死んだ世界も。その死を覆すために、
ということは、ジョシュアが死んだ世界もあるということではないのか。
秋の朝。窓の外、無残に引き裂かれた自分の死体。
「あれは、夢じゃなくて――記憶か……?」
ジョシュアはぞくりとして振り返った。暗い通りにひと気はない。だが、闇の中に双頭の獣の姿を思い描いて、ジョシュアはいそいでドアを開けて家の中へ入った。
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