無重力ピエロ
「コールドビーフ……ハムエッグ……ブラックプディングにニシンの燻製……畜生、もうあの最低なウナギのゼリーでも喜んで食える自信があるぜ」
『プルガトリウム』の中では、19世紀の大ブリテン王国で恐らく初めて宇宙を体験した新聞記者が、表現の自由……ならぬ、空腹と戦っていた。
「腹が減ったなぁ。あの兄さん、変な錠剤しかくれなかったしなあ。『成人男性が必要とする栄養素が適量含まれていて、肥満とは無縁、有害物質を含まない、健康的で
ヘイゼルはおどけた口調で口真似してみせ、肩をすくめた。
「未来の食事とやらは全く食べた気がしないな。ああ、ロンドンに帰ったら真っ先にタラのフライをビールで流し込みたいよ」
懐かしいロンドンに思いを馳せて、ヘイゼルは目を閉じた。なので、円形の窓の外の宇宙空間を、金属製の巨大な竜がちらりと横切ったことには気付かなかった。
「キドニーパイ……スコッチエッグ……ホットチョコレート……」
「ヘイゼル!」
全く思いがけず自分を呼んだ声に、ヘイゼルの妄想は打ち切られた。
「……ミスター・モーガン!シャーロット嬢も!無事だったんですね!?ああ良かった……と、そちらの坊っちゃんは?」
「彼はD.J.レイ。医者の心得がある。ヘイゼル、怪我はないか?」
ハルがレイを紹介した。
「食欲が胃を突き破りそうなほかは、至って元気ですよ。それでミスター、あの、助けに来てもらえたのはありがたいんですがね、グウィネヴィア妃と背の高い東洋人が、どうやらあなたがたを探していて、いや探すって言ってもあまり穏やかな感じじゃなくってですね」
「知っている。彼女はケルベロス側の人間だ」
「あっ、ご存知だったんですね!いや、びっくりですよねぇ!あっはっは!」
「ときにヘイゼル、なぜあなたはぷかぷか浮かんでるの?」
「ああシャーロット嬢、こっちが聞きたいですよ!なぜ皆さんは浮かんでないのかってね?」
「シャーロット、ジル博士にもらったブーツを脱いでごらん」
レイに言われて、シャーロットは足元を見下ろした。先ほど「プルガトリウム」へ向かうアナンタの中で、ジル博士が全員にブーツを配ったのだ。言われるままにそのブーツを脱ぐと、シャーロットの身体がふわりと宙に浮いた。
「……きゃ!」
慌ててレイの両手を掴む。レイはいたずらっぽく微笑むと、そのまま軽く弾みをつけてシャーロットを回転させた。
「きゃあ!ちょっと、レイったら!」
きゃあきゃあとはしゃぐ子どもたちを、ヘイゼルはぽかんと眺めた。
「……なんだか、今までこの浮かぶ身体に困っていた自分がばかばかしくなってきましたよ」
「随分と楽しそうじゃない」
皆が一斉に声のした方を振り向くと、はたしてそこには大型の真っ黒な犬を従えたグウィネヴィアが立っていた。
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