トワイライト イン ネオ・ホンコン

 ビル群の向こうに広がる海から、南国の生ぬるい夕風が吹いてくる。

 ホテル・サブスペースの屋上からは、暮れかけた街とビクトリア湾が一望できた。淡いピンク色からすみれ色へ変化するグラデーションが摩天楼を彩り、夢のように美しい。

 下方には、巨大な銀色の飛行空母が異様な存在感を放って浮遊している。

 リンタロウはグウィネヴィアに銃を突きつけ、空母をホテルの屋上まで呼び寄せるよう命じた。

「目的は私なのだろう?私さえ投降すれば、無益にホテルを攻撃する必要などなかろう」

 リンタロウは屋上の端までグウィネヴィアを歩かせて、飛行空母を見下ろした。それからゆっくりと、何かを確かめるように屋上の周囲をぐるりと巡った。

「彼らはどうするの?」

 グウィネヴィアは後ろからついてくる兄妹を指していった。

「ジョシュアとシャーロットは元の時空へ戻す。ただし、ヘイゼルも一緒だ。その交渉を時間管理局保安部ケルベロスの長官にする」

「ハッ!調子のいいことを。おあいにくさま、私に人質の価値はないわよ。たとえ撃ち殺されたって再生するわ。そんなもの」

 グウィネヴィアはリンタロウの銃をちらりと見下ろした。ハルが持っていた古風なリボルバー式の拳銃ではなく、最新式のレーザー銃だ。

「再生液が必要だろう?長官のところにたどりつくまで、首だけ残して手足の先から少しずつ焼き潰してやるさ」

「やめてよ」

 シャーロットが眉をしかめた。

「……冗談だよ、シャーロット」

 ジョシュアはそう言ったものの、この男ならやりかねないな、と思った。

「ねえグウィネヴィア、ジル博士と会いたくないの?博士はきっとまだあなたを待っているわ」

 諭すように言うシャーロットに、グウィネヴィアはふん、と鼻を鳴らした。

「今更?博士は私から逃げたのよ。私が捕まってほっとして、のうのうと好きな研究を続けている。そんな老いぼれにもう用はないわ」

 その口調は、どこか投げやりで、痛々しい――とシャーロットは思ったが、口には出さなかった。

「長官には会わせてあげる。でも忘れないで、あなたたちのことはいつでも殺せるのよ」

「……どうかな」

 リンタロウは低く呟いて、それからおもむろにグウィネヴィアを引き寄せ、接吻した。

「なっ!」

「少しは大人しく言うことを聞けよ。どうせお前は退屈しているんだろう?ジル博士に捨てられ、ラーンスロットにも去られ、永遠に老いも死も無縁のその肉体を持て余して」

 リンタロウは口の端を歪めて皮肉な笑みを漏らした。凄まじい形相のグウィネヴィアが何やら聞くに堪えない悪態をついたようだったが、その声はゴウンゴウンゴウン……という飛行空母の音にかき消された。

「君、性格変わったな……」

 呆れたジョシュアに、リンタロウは笑顔を向けた。

「人間、成長するものだからね。さあ、犬どものボスのお出ましだ」

 実際に真上に来ると、飛行空母は文字通り空を覆い尽くした。

『犬ども、とはまた、辛辣ですね』

 おもむろに上方から声が降ってきて、ジョシュアが思わず振り仰ぐと、男が一人空中に浮かんでいた。

『ようやく会えましたね。ネオ・ホンコンの時間屋にして超一級の犯罪者桜木リンタロウ――いや、今はハルキ・モーガン……でしたっけ?』

 男は背が高く、青みがかった艷やかな黒髪を後ろで束ねている。すっかり暗くなった空を背景に、男の周りだけが青白く発光していた。

「なんで……浮いてるんだ……?何かに乗っているのか?」

 ジョシュアはあっけにとられたが、その一方でもう人が浮くくらいではそれほど驚かなくなっている自分もいた。

「ホログラム映像だ。本人はここには居んよ。我々にはすこぶる好都合なことにね……おいミナト!そんなににいないで地上に降りてきたらどうだ?」

『どうしてそんな必要が?五百名の兵士に命じれば、あなたを一瞬でこの世界から抹殺できるのに?』

 ケルベロス長官のミナトは面長の端正な顔に朗らかな笑みを浮かべて言った。

『あなたはご自分の立場をわかっていない……俺は今、あなたを殺すためにはどんな手を使っても許される立場にある。あなたさえ消えてくれれば、この時空せかいは美しく保たれるんですよ』

 長官が片手を軽く掲げると、空母の底が開いて二〜三人乗りの小型の乗り物がいくつも吐き出され、次々と屋上に降下してきた。ジョシュアたちは、あっという間に数十名の兵士たちに囲まれた。

「お前こそわかっていないだろう。時間屋わたしを相手に戦うのがどういうことなのか」

 瞬間、四人の姿がかき消えた。

「どこを見ている。こっちだ」

 突然目標を見失って辺りを見回している兵士たちの背後に、四人が現れる。

「捕らえろ!」

 兵の誰かが言う前に、再び四人の姿が消えた。今度は真逆に現れる。

「ミナト、お前に私を殺すことはできんよ」

 ミナトの顔から笑みが消えた。

『……言ったでしょう。手段は選ばないって』

 再び片手を上げて合図をすると、飛行空母の胴体にいくつもの砲門が開いた。禍々しい砲口が屋上に狙いを定める。屋上にいた兵士たちが、撤収の合図を求めて指揮官を見た。

「今だ」

 リンタロウが小さく呟いた。

 屋上に降下した兵士たちの指揮官もまた、指示を仰いで長官の方に一瞬注意を向けた。そのすきに、視界の端で四人の姿がまた消えた――と思った次の瞬間、

「ぐっ!」

「うあっ!」

 背後でうめき声がしたかと思うと、降下用シャトルのひとつにリンタロウたちが乗り込むのが見えた。が、そのシャトルもすぐにかき消えた。

「どこへ行った!?」

 兵士たちは身構えた。だが、またすぐに姿を現すと思っていた相手は、いつまでたってもどこにも現れない。

「くそ……逃げられたのか……?」

 くっくっくっく……と押し殺した笑い声が、空中から降ってきた。

『それならこっちはネオ・ホンコンすべてを人質に取るだけですよ、リンタロウさん』

 ミナトは怒りに瞳をきらめかせて、攻撃命令を発した。

 飛行空母から、爆撃機が次々と飛び立った。


「始まったな」

 地上の爆撃の振動が、地下にも伝わってくる。

 トラッシュは一年後のネオ・ホンコンでリンタロウに言われたことを思い出していた。

「ネオ・ホンコンへの空爆を止めることはできない」

 こんな歴史は変えてしまえばいい、と言ったレイに、リンタロウはそう答えた。

「どっちみち世界政府は崩壊する運命だった。時間管理局が時間旅行者狩りを始めたのを口実に、ネオ・ホンコンへの粛清が早まったに過ぎない。そして時間管理局をこの歴史から排除するのは不可能なんだよ。あちらにも時間旅行者タイムトラベラーがいるからね。それに、私自身、別にネオ・ホンコンがどうなろうが知ったことじゃないのだよ」

「なんだって!?」

 色めき立つトラッシュに、リンタロウは意味ありげな視線を返した。

「私はもっと他のことに興味がある――破滅に向かう人類を救済する方法がないかとね……」

 ドォン……と何度目かの振動が、地下街を揺らし、トラッシュは我に返った。

「トラッシュ、大丈夫か?」

 レイがやってきて、トラッシュの横に座った。

「……ああ。ちょっと考え事してただけ」

 生まれた時から家のないトラッシュにとって、ネオ・ホンコンは生まれ育った家そのものだった。

 父親は顔どころか名前も知らない。母親は薄汚れた売春宿でトラッシュを産み、育てていたが、トラッシュが一歳になる前に麻薬中毒の客に殺されたという。その売春宿で数年は面倒を見てもらえたが、三歳になる頃に養護施設に入れられた。コンピュータはその施設にあった古い機器をいじり倒して独学で覚えた。六歳か七歳になると、トラッシュは脱走を繰り返すようになった。外の世界が見たくて仕方なかった。やがて施設でもトラッシュを探さなくなり、トラッシュは施設に帰らなくなった。飛び出したストリートは刺激に満ちていたが、貧困と犯罪はどこにでもはびこっていた。そこは所詮、母親を殺した街だった。それでもやがて仲間ができて、いつの間にか少年たちを束ねるボスになった。

「俺さ、こんなクソみてぇな街、いつか出てやるって思ってた。タイムマシンで未来に行って、すげえ進んだ世界を見てやるって。そこではみんな、オンボロのつぎはぎじゃない、かっこいいPCを持ってて、それでなんでもできるし、金も稼げて、どこへでも行けるんだ。毎日うまいもん食えて、麻薬中毒者ジャンキーも人殺しもいなくて、未来ってそういう世界だと思ってたんだよ」

「ああ……そうだね」

 正直なところ、レイにはトラッシュの語る世界はいまいち想像できなかった。レイは幸福な世界を知っていたし、それはまだ見ぬ未来などではなく、失われた過去だ。

「クソみてえな街だけどさ。なくなっちまえなんて思ってなかったのにな……」

「ああ」

 レイはトラッシュの肩に腕を回して、彼の頭を軽く抱き寄せた。

「あんなの」

 黒々とどこまでも続く、瓦礫の大地。

「あんな未来……聞いてねぇよ……」

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