第38話 願いを叶える日。

 あれから、ヒカルさんとはちょこちょこと連絡を取るようになった。

『元気ー?こちらも元気です!』

そんな他愛のないものから、

『空太とケンカしちゃったよー(´;ω;`)』

なんてのも来る。大抵、夜。きっと家で飲んでるんだろうな。ビールと焼きそばパンか何かで。その光景を想像して、俺はついつい笑みをもらす。

 ある日。ふと思い立ってこっちから誘ってみた。

『今度の連休、キャンプに行きませんか。車借りますんで』

 案の定。

『え!?キャンプ!?行く行く!え!初めてなんだけど、何すればいいの?寝袋買えばいい?』

 そんな返事が返ってきた。よっしゃ。男の子といえばアウトドア。しかしヒカルさんは車は持っていない。絶対かかると思ったんだよな、この網に。俺は嬉々として、釣り上げかけた魚にダメ押しの餌を放った。

『キャンプ初心者はバンガローに泊まるのがおすすめです。なので寝袋は不要です。必要なものは借りられますから大丈夫です。着替えと、たぶん寒くなるので防寒着を用意してください』

 こうして、俺はヒカルさん親子を一泊二日のキャンプに誘い出すことに成功した。


 キャンプ場まではレンタカーで二時間半ほど。

 近くには渓流が流れ、温泉施設もある。

「魚だ!お母さん、魚!」

 澄んだ清流に魚影が素早い動きで行き来している。

 俺とヒカルさんが川のすぐそばのバンガローに荷物を下ろしている間、空太くんはたっぷり川と森で遊んだ。

「よし、ちょっと向こうにも行ってみよう」

 一段落したので散策に出る。森が切れると、そこはだだっ広い野原が広がっていた。

「わあ、あれ!あそこに行きたい!」

 野原の向こうには、子供向けのアスレチック遊具がある。空太くんは目ざとくそれを見つけたのだ。

 その時ふと、俺はあることを思い出した。

「おい、ちょっと待って!」

 駆け出そうとする空太くんを引き止める。

「え?」

 きょとんとした空太くんの後ろに回り、両脇を持ち上げてかがみ込む。

「よいしょっと」

「え?え??」

 肩車なんて、初めてやった。

「わあ……っ!」

 肩に体重が食い込む。自分の頭の少し上の、少し後ろ側に、自分のものではない重心を感じる。

「うわあ!高い!高い!怖い!!怖い!!」

 空太くんが叫ぶ。

「大丈夫だって!あんまり動かないで!」

 俺は叫び返した。これで暴れられたら、立っていられる自信がない。

 空太くんのほうも、自ら危険に飛び込んでいくほど無謀ではないらしく、口で言うほどには身体は動いていない。

「よし」

 俺はひとつ息を吸って、吐いて、また吸った。

 そして広い広い野原のゆるやかな斜面を、一気に駆け下りた。

「……わあああああああ!!!」

「ひゃっほーーー!!!」

 俺の歓声と空太くんの悲鳴が重なる。

 風が光りながら吹いてきて、目の前で分かれて両の耳元を過ぎていく。

 ――空太に、一度だけでも、あの景色を見せてあげられたら――。

 ヒカルさんは、そう言っていた。

 あの景色。まるで、ヒカルさんが肩車されたかのような。

(でも、運動会で肩車したのは、空太くんの……)

 何かがわかりそうで、わからない。

 遊具広場にたどり着いた俺は、流石に息が上がっていた。

「ありがとう!すっ………っごい、面白かった!」

 空太くんの眼がきらきらと輝いている。

「お、おう……」

「ねえ、またやってよ!」

「いや、無理」

 慣れないことはするもんじゃない。子育てって重労働で、体当たりだ。今日はそれを身を以て知ってしまった気がする。だけど。

「えー……」

 しゅんとしょげかえった空太くんを見ていたら、気が変わった。

「じゃあ、明日な。明日。もう一回だけやってやるよ」


 夕方までたっぷり遊んで、近くの温泉に汗を流しに行く。

「空太くんは俺と入ろう。ヒカルさんはゆっくりしてください」

「ほんとう!?いいの?」

「お母さん、僕もう二年生だよ?女湯はやだよ」

「あっそう。いいもーん、お母さん、ひとりでのーんびり、ゆーったり、しちゃうもーん」

「ごゆっくり~~~。行こ、星くん!」

 遠くに街を見下ろす露天風呂に浸かりながら、空太くんは早速本題に入った。

「ねえ星くん、どうだった?聞き出せた?」

 わくわくとした顔がかわいい。でも、実は空太くんが期待しているほどの収穫はないに等しかったので、俺は言葉を選びながら報告した。

「えーっと……まず、運動会に来ていたのはお父さんで間違いない」

「やっぱり……!」

「で、お父さんは今、外国にいる」

「え!どこ!?」

「えーっと……アルゼンチン……いや違うな、アゼ……アジル……あ、アゼルバイジャンだ!」

「……どこ?」

「……知らない」

「なんで?」

「知らない。っていうか、たぶんお母さんも知らないと思うよ」

「……ふうん……」

 空太くんは唇を尖らせて、遠い町並みを眺めている。

「あのさ、空太くん。これは俺の勝手な想像なんだけどね」

 想像というか、願望というか。

「なに?」

「お母さん、たぶん、お父さんに戻ってきてほしいと思ってはいないんじゃないかな」

「なんで?」

「なんとなく……空太くんが一番で、他には考えられないって言ってたから」

「ふうん」

 空太くんがぶくぶくとお湯に沈んでいく。なんだか嬉しそうな顔をしながら。

 それで俺は唐突に、理解した。

(そうか。お父さんがいないから寂しいんじゃないんだ。ヒカルさんがちゃんといれば、空太くんは寂しくないんだ)

 ざばあっ、と空太くんがお湯から飛び出した。

「っぷはあっ!」

 空太くんの顔には、満面の笑みが浮かんでいる。

 そうだ。

 家族がいないことが寂しいんじゃない。

 家族が自分を見てくれていないことが、寂しいんだ。

「空太くん、ヒカルさんには、いつだって、いつまでだって、空太くんが一番なんだよ」

「うん!」

 空太くんは大きく頷いた。

 そして、思いもかけないことを言ったんだ。

「僕さ、星くんがお母さんのこと好きなら、お母さんと結婚して一緒に住んでもいいよ!」

「……え?……って、え!?あ、ちょ、違っ……!いやあの!!!」

 露天風呂の真ん中で真っ赤になっている俺を置いて、空太くんは脱衣所へと走っていってしまった。


 11月のキャンプ場の夜は肌寒い。火を囲んでバーベキューをした後、空太くんは流石に遊び疲れたのか、バンガローのベッドに横になるなり眠ってしまった。

 ヒカルさんと二人、残り火を眺めながら、赤ワインの栓を抜いた。

「今日はありがとう、星くん」

「いいえ、こちらこそ、空太くんと遊べて楽しかったですよ」

「ごめんなさいね、子守りさせちゃって」

「……大きくなりましたよね。なんか、赤ちゃんみたいだったのに」

「最初に会った時?」

「そうそう、こう、抱っこされてて」

「あはは!それで星くんにも抱っこされたんだったね!」

 そうだ、思い出した。

「そうそう……なぜかヒカルさん、空太くんのこと置いて走って行っちゃったから」

「あ……っ……!そ、そうだった?よね……あはは……」

「あれ、なんだったんですか?今思い返すと、すごい謎行動ですよね」

「あー……あれはねぇ……なんだったんだろうね?」

 ヒカルさんはワインの入ったプラカップを片手に、きまり悪そうな笑いを浮かべている。

「それに、二回目に会ったのは水族館、でしたっけ?空太くん迷子になってて」

「そうだそうだ!私あの時、星くんが人さらいだと思ったのよ!」

「え!?何それ、初耳!」

「あ!」

 しまった、というセリフが、そのまんまヒカルさんの顔に書いてある。

「……ひっでぇなぁ……俺、こんなにヒカルさんと空太くんのこと大好きなのに」

「え、それってむしろ、ヤバくない?」

 ヒカルさんが冗談めかして言う。

 だけどもう俺には余裕は残ってなかった。

「ヤバいですよ」

 片手をヒカルさんの頭の後ろに回して、引き寄せる。

 ああ、どうか空太くんがバンガローの中でぐっすり眠っていますように。

 そう心の底から願いながら。

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