第37話 ヒカルのお願いと大人のヒミツ。
その週の、土曜日のこと。
昼食にはだいぶ遅く、夕食には少し早い時間に、俺は彼女を発見した。
そこは駅前通りから一本裏に入った、雑貨屋やカフェが立ち並ぶ通りで、ガス灯を模した街灯や地面に敷き詰められた石畳が小洒落た雰囲気を演出していた。
彼女は一軒のカフェの前を行ったり来たりして、看板をじーっと眺め、中を伺って、入るのをやめて立ち去りかけ、思い返したように戻ってきて、また看板を眺めている。
「ヒカルさん?」
「わ!星くん……っ!?」
振り向いて驚いた彼女の顔は、丁度俺の肩の下、鎖骨のあたりにある。下ろしたストレートヘアが揺れて、可愛らしい。
「やだ、変なとこ見られちゃった」
「そんなことないですよ。一人ですか?」
「うん、このお店ずっと気になってて。おいしそうだなあって思って……でも一人だし、贅沢かなあ、なんてね。やっぱりスーパーでビールと焼きそばパンでも買って帰ろうかな!」
俺は思わずぷっと吹き出してしまった。
「え、何よ?」
「だって……ナポリピッツァとワインの看板見てたのに、スーパーで焼きそばパンとビールって」
「悪かったわね、オヤジくさいチョイスで!」
ぷうっと膨らませた頬が空太くんにそっくりで、俺は不覚にもどきっとした。
「よかったら、一緒に入りません?」
何食わぬ調子でそう言ったが、内心は心臓が喉に詰まりそうなほど、俺は緊張していた。手が汗ばんでるのがわかる。声は裏返っていないだろうか。
「……え?」
ヒカルさんの瞳が大きく見開いて俺を見上げている。秋の風がこめかみのおくれ毛を揺らしていく。
可愛い。どうしよう。
思い返せば、もう何年も片思いしてきた。でも彼女の中の俺はいつまでも高校生かそこらの少年のようで、全く眼中にないのだ。だから今日、空太くんとの約束にかこつけて、ようやく誘った。俺の下心に純粋な少年を利用するのは少しだけ心が傷んだが、こんなチャンスは二度とないかも知れない。
「入りましょうよ。僕もちょうどおなかすいてるし」
「うーん……」
ヒカルさんは顎に手を当てて首を傾げ、数秒間考えてから言った。
「今日はやめとくわ。また今度、空太も一緒に」
振り絞った勇気が胸の中でしゅるしゅると縮んでいくのを、俺は感じた。あっけなく下心がばれたのか。それとも子どもをダシに使っちゃいけないという神のお告げか。
いや、だがここで引き下がっていいのか。俺は心の中で百歩ほど後退ったところで、ぐいっと踏みとどまった。そして最後の最後の小さな望みをかけて言った。
「あ、じゃー……えっと僕、もうちょっとぶらぶらしてますんで。どうせ一人で、暇ですし。もし気が変わったら連絡ください!」
と、スマホを出した。
「あ、うん、わかった」
少しだけ戸惑いを見せたヒカルさんだったが、それでもスマホを出してアプリの連絡先を交換してくれた。
百一歩目の勇気が実ったのは、それから一時間後のことだった。
ポコン、と通知が来た。
『セイくん、まだ外にいる?』
俺は夢中で――平静さを必死で装って、返信した。
『いますよ』
『やっぱり、ゴハン付き合ってくれるかな?』
更に十数分後。さっきの店の前で、星が瞬き始めた空を眺めていたら、程なくして彼女は現れた。
「ごめんねぇ……っ」
ずっと走ってきたのか、息を切らせている。そして、さっきはパンツルックだったのに、黄色いワンピースに着替えている。
「急がなくても大丈夫だったのに」
こっくりとした色に磨き込まれた木製のドアを開けると、カランコロン、とベルの丸っこい音がした。いらっしゃいませ、と落ち着いた声が迎えてくれる。暖色系の照明が、店内を柔らかい光と陰で彩っている。こぢんまりとして気負わない、居心地のいい店だ。
「一度断っておいて、ほんと、ごめん」
席についたヒカルさんが言った。
「いや、嬉しいですよ。ほんと、暇してたので。ワインでも飲みます?」
メニューを広げて言うと、ヒカルさんは目を見開いた。
「セイくん、お酒飲めるの?」
出た。子ども扱い。
「まあ、人並みには。ヒカルさんは、普段、飲みに行ったりするんですか?」
ヒカルさんは首を振った。
「空太いるしね、行けないよ〜。昔は好きだったけどね。もう何年も、飲みになんて行ってないなぁ」
「……今日は、空太くんは?」
「今日はねぇ、空手道場の合宿なの。だから明日まで帰ってこないのよね」
実は、俺はそのことを知っていた。この間公園で会った時に、空太くんに聞いていたのだ。
「じゃ、飲めますね。久しぶりに」
「いいのかなぁ?」
「いいんじゃない?」
俺は勝手に、店員にスパークリングワインをふたつ注文した。運ばれてきたグラスを掲げて乾杯する。
「……おいしーい……」
ヒカルさんはワインをひと口飲んで、沁み渡るような笑顔を浮かべた。
「なんかね、家に帰ったらもう夕方で……空太もいないし、暗くなってくるし、やけに静かで……なんだか寂しくなっちゃって」
ずきん、と心臓が鳴った。
(なんだこれ……?)
ヒカルさんが寂しいなら、俺が慰めてあげればいいじゃないか。
空太くんだって、お父さんがいなくて寂しいなら、俺が遊んでやれる。
そう考えれば考えるほど、胸の内にもやもやとしたものが広がっていく気がして、俺は暗雲を振り払うように口を開いた。
「ヒカルさん……あの」
「なに?」
いきなり空太くんの父親の話を切り出したら、おかしく思われるだろうか。切ってしまった口火の始末に困り、必死で話題を探す。
「あの、そう、運動会でした?先週だったか、先々週?」
「ああそう、先々週ね」
「音が聞こえてきたんですよ。晴れてよかったですね!」
これは嘘ではない。俺が学生の頃から借りているアパートは、空太くんの小学校のすぐ近くなのだ。
「うん……」
(……あれ?)
ヒカルさんの顔が曇った。
「何か、嫌なことでもあったんですか?」
「ううん、そうじゃないの。ただ……」
ヒカルさんは口ごもる。
そうだ。運動会には空太くんの父親……つまり、元夫が来ていたかもしれないのだ。そのことを説明できなくて、悩ませてしまったのかもしれない。
「おまたせしました、ナポリの漁師風ピッツァとサルシッチャです」
折よく料理が運ばれてきて、しばし話題はそちらへ移った。
「おいしいですね」
「星くんも、このお店初めてなの?」
「ええ」
「なあんだ、私てっきり、よく来てるのかと」
「まさか!一人じゃ入りづらいですよね、ここ」
「ほら、お友達とか、彼女とか?」
酒が回ってきたのか、ヒカルさんが挑発するような目つきで言った。良かった、元気になったみたいだ。
「いませんて、そんな人」
「またまたーあ」
酔ったふりなのか、ほんとうに酔っ払っているのか、ヒカルさんは機嫌よくはしゃいでいる。
「絡むなぁ」
こうなったら絡み返してやる。俺はグラスに残っていたワインをぐいっと煽った。
「ヒカルさんこそ、どうなんですか?恋人の一人や二人や三人や四人……」
「だから、そんな暇も余裕もありません!こう見えて私、空太ひとすじですから」
ああそうでしょうとも。見ていればわかりますよ。でも諦められないから、こうしてだらだらと無粋な言葉の駆け引きをしているんであって。
俺はまたワインを煽った。
白ワイン、赤ワインとグラスで頼んで、いい具合にお腹も膨れてきたところで、ヒカルさんがぽつりと言った。
「ねえ星くん、肩車って、してもらった記憶、ある?」
「え?ああ、肩車ね。ありますよ、小さい時に。あれはじいちゃんだったかな。天井に手がつくのが嬉しくて、でも鴨居におでこぶっつけそうになって、じいちゃんがばあちゃんに叱られてて。たぶんじいちゃん、酔っ払ってたんですよ」
「おじいちゃんあるあるだ!」
ヒカルさんがころころ笑う。
「私ねぇ、空太が小さい頃は、肩車してあげたんだけどね。もう覚えてないだろうなぁ……」
小さな溜息と一緒に、ヒカルさんがつぶやいた。
それからなんとなく会話が途切れた。もうだいぶ酔っていたし、思考も働いていない。なにか聞かなければならないことがあったような……と、デザートのティラミスをつつきながら考える。
「……あ。お父さんだ」
思い出した。空太くんと約束した。
「え?」
「ヒカルくんのお父さんって、今なにしてるんですか?」
ものすごく、どストレートに、聞いてしまった。でもきっと、ヒカルさんもだいぶ酔っているらしく、突然の質問にさして驚いたふうもない。
「それがねぇ、わかんないのよねぇー」
「え?」
だって、運動会に来てたんじゃ……と口が滑りそうになって、慌ててコーヒーを流し込む。
(やばいやばい、これは空太くんに口止めされてたやつだ)
「空太が生まれてから一度も会いに来たことなんかないのに、いきなり現れたのよ。そう、あの、運動会に」
「えー、そうなんだー」
既知の事柄をさも今聞いたばかりのようにリアクションするのは意外と難しい。
「で、昼ごはん食べて、借り物競争に出て、帰っちゃったの。飛行機の時間だからとかなんとかもっともらしいこと言って」
「飛行機?」
「そう。飛行機」
「そんなに遠くから来たんですか?」
「アリゾナだって」
「アリ……ゾナ!?って、どこだっけ……」
「アメリカ?よくわかんないけど」
「アリゾナに住んでるんですか?」
「知らない。アゼルバイジャンに行くって言って、消えた」
「アゼルバイジャン!?どこだそこ?」
「えーっと……」
考え込みながら、ヒカルさんは今にも寝てしまいそうだ。
「……帰りましょうか」
「はい……」
会計を済ませて外に出る。時間はまだ九時前。だけど。
「わあー!こんな時間に外でお酒飲むなんて、久しぶりだなー!楽しかった!ありがとう!」
ヒカルさんは大満足だったようだ。
そして、夜道を少し弾むような足取りで帰りながら、話してくれた。
「あいつはねぇ、何考えてるかわかんない奴だったよ、昔から」
俺の数歩先を歩きながら、半分独り言のように話し続ける。
「勉強も、運動も、ほんとになんでもできたの。だから、私が独占していい人じゃなかったんだよ」
「よく……わからないです……だって結婚って、そういうものじゃないんですか」
「結婚ってどういうものなのか、私にはまだわかんないなぁ……」
そんなの、俺にだってわからないけど。でも俺の「わからない」とヒカルさんの「わからない」は、なんていうか、次元が違うような気がした。それで俺はまた少し、置いてきぼりを食らったような気分になった。
(いつになったら、追いつくんだろう……)
秋の夜、酔いも手伝って、切ない気分になる。
「今は、空太を育てる……いや、違うな。空太と生きていくので精いっぱい」
そう言って振り返ったヒカルさんは、笑っていた。
「……っとと」
振り向いた勢いでよろめいたヒカルさんを支える。もうヒカルさんの家の前まで来ていた。
「ねえ、星くん」
肩の下あたりで、ヒカルさんの潤んだ瞳が見上げてくる。
心臓がどきんと鳴った。やばいやばい。
だけどヒカルさんは、俺の動揺などお構い無しで、どこまでも母親だった。
「空太に肩車、してあげてくれない?空太さ、大きくなっちゃって、私もう重くてしてあげられないの。でもね、あの子に、一度だけでも、あの景色を見せてあげられたらなって」
「え、でも確か、運動会で」
空太くんの話では、運動会には父親が来ていたはずだ。
肩車、その父親とやらがしてやったんじゃないのか。
そう思ったけど、ヒカルさんはもう聞いていなかった。
眠ってしまったヒカルさんのポケットに鍵を見つけて、ドアを開ける。
「……っしょっ……と」
ヒカルさんの家には前に一度入ったことがある。
「お邪魔しまーす……」
明かりをつけ、靴を脱ぐ。起きないヒカルさんを抱き上げて寝室に運び、靴を脱がせる。
……やばい。これは、たぶんダメなシチュエーション。
台所に行き、適当なコップに水を汲んで一気に飲み干した。
コップを軽く洗って、もう一度水を汲み、今度は寝室に持っていく。
「ヒカルさん、ヒカルさん」
うんともすんとも言わない。そんなに飲ませたかな、俺。
「ヒカルさん、お水、置いときますよ」
「う……ん」
小さく唸って、また眠りに落ちる。
(ちょっと、だけなら)
手なんか出さない。
襲ったりしない。
だけど。ほんのちょっと。
一瞬だけでいいから。
俺は、ヒカルさんの唇に、顔を寄せた。
だけど、唇に触れるか触れないか、その瞬間に、ヒカルさんの唇が動いたんだ。
吐息のように漏れた言葉に、俺はもうそれ以上彼女に触れることはできなかった。
鍵をしめて、その鍵をドアについた郵便受けから中に戻す。
夜風が冷たくて、ジャケットの襟を立てた。
ヒカルさんは明日、どこまで覚えているんだろうか。そんなことを考えながら、誰も待っていない家に向かう。
一人暮らしは寂しくない。寂しいのはきっと、一人暮らしじゃないからだ。
「…………さびしいなぁ…………」
ヒカルさんはさっき、そう言ったんだ。
それが空太がいないからなのか、夫がいないからなのか、恋人がいないからなのか、そんなことは知る由もない。
(俺は、ヒカルさんと空太くんの寂しさにつけこんでいるだけなのか?)
だんだんわからなくなってくる。
見上げた空には、細い細い月が不安げに浮かんでいた。
(俺はいったい、何がしたいんだろう……)
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