番外編 星
第36話 空太のお願いと男のヤクソク。
その日は会社に戻らなければならない業務もなかったので、出先から直帰することにした。明日までにやっておきたい細々した仕事は、家で1、2時間PCに向かえば片付くだろう。作業は社のクラウド上で完結するため、セキュリティ的にも問題はない。便利な時代のおかげで、入社一年目でも電車が混み始めるよりずっと前に帰宅することができる。それは素晴らしい価値で、移動に伴う身体的ダメージは格段に少ないし、夕食の時間も早められて健康にいい。まだ近所の商店街も開いているし、好物のコロッケでも買って帰ろうか、などと思っていた矢先のこと。
もう日もだいぶ傾いて、風も冷たくなってきたというのに、見覚えのある小さな姿をジャングルジムのてっぺんに見つけて、俺は思わず立ち止まった。
住宅地の片隅にある小さな公園には、他に人はいない。
公園の入り口の柵を越えると、彼もこちらに気がついた。
「星くん!」
「やあ、空太くん。どうしたの?もうすぐ暗くなるよ」
ジャングルジムの下まで行って、声を掛ける。
「知ってる。つべるおとし、だからね」
そう言って、それでも空太くんはジャングルジムのてっぺんに腰掛けたまま、降りようとしない。
つべるおとしってなんだろう、と思いながら視線を落とすと、ジャングルジムの下にランドセルが置かれていた。
「学校帰り?」
に、してはちょっと遅くはないか。時刻はもう5時を回っている。が、空太は
「うん」
と言って、降りようともしない。
「誰か待ってるの?」
俺は小さな公園を見回した。誰かが来る気配はない。
「ううん」
「――ヒカルさんは?」
「いない」
「え?おうちにいないの?」
空太くんはこくんとうなずいた。
「鍵は?」
「忘れちゃった」
「どこに?」
ようやく事情がつかめてきた。空太くんは鍵がなくて家に入れないのか。
「今朝、お母さんに持っていけって言われたんだけど、出る時に雨が降ってて、それで傘持っていかなきゃって思ったら、鍵忘れちゃって」
「じゃあおうちにあるんだ?」
空太くんはまたこくんとうなずいた。
「でも、おうちの前で待ってないと、ヒカルさん帰ってきた時に心配するよ?」
「いいんだ」
空太くんはぷうっと頬を膨らませた。丸いほっぺからつんと突き出した唇がかわいい。
「僕、今ちょっとお母さんと話したくないの」
「どしたの?ケンカでもした?」
親子げんかか。反抗期というにはまだ可愛らしいけれど、初めて会った頃からしたらだいぶ成長したものだ。
「先週ね、運動会があったんだ。僕、かけっこで1位になったんだよ!」
「へええ!すごいじゃん!」
あれ。笑顔になったぞ。機嫌直ったかな?
「しかもね、借り物競走でも、1位に……なったのは、セイカクには、僕じゃないんだけど」
あれれ。こんどはまた声が沈んでいく。上がったり下がったり、忙しい。
「え?どういうこと?」
「あっ……えっと、あの、肩車してゴールしたのは、僕じゃなくて、お母さんの友達って人」
「友達?」
普通、友達の子どもの運動会に行くものなのだろうか。親になったことも、子どものいる友達もいないので、俺にはわからない。
「知らない男の人だよ。でも一緒にお弁当食べたんだ。サンドイッチ持ってきてて、おいしくて」
……男?しかも弁当まで持って?
俺の心臓がどきんと鳴った。
「空太くんは……その人に、初めて会ったの?」
空太くんはこくんとうなずいた。
「たぶん。でも覚えてないだけかもしれない。……あの人、お父さんだったのかな……」
そういえばだいぶ前に、ヒカルがバツイチだ、と肉屋の息子が言っていた。中学で同級生だった、関西弁が抜けないお調子者。
「どうだろうねえ」
あまりに微妙すぎる話題を無邪気に振られて、なんとも言えずに、曖昧に相槌を打つ。
「でね、僕、お母さんに聞いてみたんだ。僕のお父さんってどんな人?って。そしたら、お母さん、『お父さんほしい?』って言うんだ。……僕、そんなこと言われてもわかんないよ。お父さんって、どんな感じなんだろう……」
「うーん……俺の父さんは、仕事から帰るのも遅かったし、正直いてもいなくても変わらないなって思ってたけど……まあ、父さんの存在を意識したのって中学とか高校とか……空太くんは、お父さんがいたほうがいいなって思うの?」
「僕、別にお母さんだけでいいのにな」
「じゃあ、そうヒカルさんに言えばいいじゃん」
「でもさ、お母さんは、お父さんがいてほしいのかなぁ?」
また心臓がどきんと鳴った。心なしか息苦しいような気がして、俺は深呼吸した。
そうだ。空太くんにとってはお父さんだけど。
ヒカルさんにとっては、旦那さんなんだ。
ヒカルさんと会うときって、水族館とか夏祭りとか、なんだか楽しそうにしてるところしか見ていないけど、母子家庭って大変なんだろうな。そういえばいつかのクリスマスは、熱出して辛そうだった。
「……空太くん……」
まだこんなに小さいのに、母親のそばにいて、そんなことまで気遣えるなんて。
俺は唐突に空太くんを抱きしめたくなった。
鞄をランドセルの横に放り投げ、ジャングルジムに登る。空太くんの隣に腰掛けると、夕空が広く見えた。地上より少しだけひんやりした風を顔に感じる。
「ねえ、星くん。お母さんから聞き出してくれない?」
空太くんが急に振り返って、思い立ったように言った。
「えっ!?」
「僕のお父さんのこと。お願い、星くん」
唐突な願い事に面食らったが、空太くんがあまりにまっすぐな瞳で見上げてくるものだから、つい反射的に頷いてしまった。
「あ、ああ」
「あっ、このこと、お母さんには内緒だよ!?」
「おう、任せとけ!男の約束だ」
俺たちは沈む夕日を背に、互いの拳を突き合わせた。
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