第34話 天国と地獄

 もうサンドイッチも唐揚げも味なんかしなかった。

 ソラタも無言で黙々と食べ物を口に詰め込んでいる。あー、焦ってるだろうな……。

 ソラタはもうこの不思議現象――年に一度くらい、私と身体が入れ替わること――を自覚している。そして「このことは誰にも内緒」ってことも、なんとなく分かってるみたい。まあ、言っても信じてもらえないだろうしね。そもそもこの現象自体が数分〜数時間しか続かないので、他人に説明する暇なんてない。

 でも、さすがに運動会に、初対面の正体不明の男の目の前で、入れ替わるなんて、ソラタが慌てないほうがおかしい。なんなら私だってだいぶ混乱している。

(ねえ、お母さん、この人に気づかれちゃダメだよね!?)

(当たり前じゃない!こんなこと、説明しようがないし!)

(ねえ、運動会はどうするの?午後もまだあるよ?)

(いつ元に戻るかわかんないし……とりあえずお母さんが行くわ!)

 ……と、ソラタとアイコンタクトで会話する。余計なことを話してバレても面倒なので、いきおい、ふたりとも無口になってしまう。

 そんな私たちをよそに、どこまでもマイペースな男・カイト。唐揚げ頬張って「うまい!やっぱ定番が最高だよねー」なんて言ってる。

「それにしてもソラタくん、大きくなったねえ」

「え?あ、えっと、はい?」

 カイトがいきなり私に向かって話しだしたので、慌てて顔を上げた。

「感慨深いなぁ。あ、実は俺、ソラタくんのパ……ぐっは!」

 私は思わず、手にしていたおにぎりをカイトの顔めがけて投げつけた。何を言い出す気だよ、まったく。百歩譲って親子の名乗りを上げるとしても、少なくとも運動会にやる話ではないだろう。

「あー、ごっめんなさーい!虫が飛んできたからびっくりして投げちゃったよー!」

 棒読みで言い訳する私。

 その時、天の救いか悪魔の声か、校庭にアナウンスが響き渡った。

『間もなく午後の競技が始まります。児童の皆さんは応援席に戻ってください。低学年の児童の皆さんは、競技の準備をしてください……』

「……じゃ、じゃあ、そろそろ行くね!えーと、次の競技って……」

「借り物競走だよ!」

 ソラタがすかさず教えてくれる。

「あ!そうだったそうだった!じゃ、行ってきます!」

 ううう、運動会、張り切ってただろうに、ごめんよソラタ……願わくは、早めに元の体に戻りますように!


 出番を待っている間も、私は気が気ではなかった。

(カイト……ソラタに変なこと喋ってないでしょうね……?)

 チラチラと二人の様子を伺っているうちに、順番が回ってきた。

「位置について、用意――」

 パァン!

 ピストルが鳴る。

 事ここに至っては、せめてソラタの顔に泥を塗るまいと、私は全速力で飛び出した。

 よし。視界には他の走者はいない。真っ先に地面にまかれた紙を拾い上げる。

「えーと、えーと」

 そこに書かれていたのは。

【応援に来た家族におんぶしてもらってゴールを目指す】

「……まじか?」

 おんぶ……だとう!?

「早く早く!」

 私の――つまり、ソラタの声が聞こえた。ハッと周りを見回すと、続々と走者たちが追いついてきて紙を拾っている。

 私はとにかくソラタとカイトのところまで行った。

「何!?何が書いてあるの!?」

 興奮したソラタが、私の手から紙をひったくった。そして。

「おんぶ……おんぶ……?」

 ソラタは、一瞬固まった後、「無理無理無理無理!」って顔で首をぶんぶん振った。

「で、すよね〜〜〜……」

 いくら身体が大きくても、中身は小学二年生。どう考えても私をおぶって走れるとは思えない。

 むしろおぶってもらうこっちが怖いわ!

 ええい、こうなったら仕方ない!

「……っ、カイト!お願い!」

 私をゴールに連れてって!とばかりに、メモを押し付けた。

「おう!任せろ!」

 カイトは応援席に張られたロープをまたいで、私をひょいっと肩に乗せた。

「ひゃあ……っ!」

 高い。

 青い空が、近い。

 周りがみんな、下の方に小さく見えて。

「すご……っ……!」

 風が、輝いて見えた。

「行くぜぇっ!しっかり捕まってろよ!」

 カイトが走り出す。

 軽やかに。

 輝く風をまとって。

「……って、いやいや肩車じゃない!おんぶおんぶ!!」

「あ、そっか」

 カイトはしゅるりと私を肩から下ろし、背中におぶって再び駆け出した。

「夢だったんだよ、息子を肩車するの。許せよな」

 カイトがぼそりと言った。

「……じゃあなんで……」

「ん?」

「じゃあなんで、今までほっといたの……?」

 この8年が、走馬灯のように浮かんでは消える。あの瞬間もこの瞬間も、あなたがいてくれていたら。

 二人きりで過ごす夜の、どうしようもない寂しさを、私もソラタも、何度飲み込んできたことだろう。

「今更来たって、遅いよ……勝手だよ……!」

「じゃ、来なきゃよかったか?」

 カイトが言った。

「終わったことを言っても、過去は変えられないからなあ」

 そういう意味じゃない。わかってるくせに、なんでこういうこと言うんだろう。私は泣きたくなった。

(そうだ。私はカイトのこういうところがダメだったんだ)

 カイトは正しい。カイトはなんだってできて、いつだって合理的。変えられない過去を後悔したりしない。

 カイトともう一度やり直すことなんて、できない。

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