二年生

第32話 コバルトの空。

 パァン!

 乾いた音と火薬の匂い。

 弾かれたように、一斉に駆け出す真っ白い体操着。

『赤組さん速い速い!白組さんがんばれ!』

 高学年児童によるアナウンスも白熱している。

「ソラタ!がんばれ!がんばれーっ!!」

 私も負けじと、声を限りに叫んでしまう。

 秋晴れのコバルトブルーの空の下、今日は小学校の運動会だ。

 ソラタは「僕あんまり速くないから、期待しないで」なんて言ってたけど、かけっこは堂々の1位。

「すごーい!」

 静かにしようとしても、ついつい笑顔になってしまう。結果、私は保護者席で一人、ニタニタしたり飛び跳ねたりと、かなり挙動不審。

 幼稚園の時に仲良しだったお友達は、みんな違う小学校に別れ別れになってしまった。けいたろうくんはパパの転勤で県外に引っ越してしまったし、夢ちゃんは私立の小学校に進んだ。

 小学校に知り合いがいないわけじゃないけど、ほとんどの親が夫婦で観戦している。中には、おじいちゃんおばあちゃんまで見に来ているおうちもある。自然と家族単位で集まっているので、一人観戦は少数派だった。

 と、背後でのんびりした声がした。

「すごいなあ、ソラタ」

「え……っ?」

 誰?

 今、ソラタって言った?

 振り向いた私は、危うく手にしていたカメラを落としそうになった。

 そこに立っていたのは。

「……カイト……っ!?」

 河合カイト。ソラタの父親。私の元・夫だった。


 カイトと結婚したのは22の時。ソラタの妊娠がわかって、籍を入れた。でも、その直後。

 カイトは、就職した会社を、半年で辞めてしまったのだ。

「どういうつもり?仕事もなくて、これからどうやって子どもを育てていくの?何考えてるの?」

 気が動転した私は、そのとき何を言ったのかあまり覚えていない。

 元々カイトは何を考えているのかわからない奴だった。自分のことはほとんど喋らない。それがムカつく。喋ったところでどうせお前には理解できないだろ、と思われているような気がした。妊娠期の不安定も手伝って、私はいつも以上にカイトに頭にきていた。

 気がついたら、カイトが上着を着ていた。

「ちょっと!どこ行くのよ!逃げる気?」

「うん」

 カイトはそれだけ言って、家を出ていった。家といっても、大学のときに借りたままの、1DKの狭いアパート。

 そして、消えた。日本から。

「冗談じゃない!なんて男だ!だいたい結婚するのが早すぎたんだ!!」

 怒り続ける父親の前で、私はひたすら下を向いて黙っていた。父親は、こうなると何を言っても無駄だった。こっちの言い分なんて一ミリも耳に入れようとしない。反論しても疲れるだけだ。

 母は泣いていた。無理もない。

 秀才だった兄は、就職して鬱病を発症し、引きこもりの末、家を出ていった。あれから五年経つが、一度も帰ってきていない。

 そして今度は私。

 できちゃった婚の末、男に逃げられて、この大騒ぎ。

 両親は、元々落ちこぼれだった私に、いなくなった兄の代わりに期待する、なんて無謀なことはさすがにしなかったけれど、それでも早すぎる妊娠も結婚も、彼らの望むところではなかった。

(早すぎる……のかな?)

 必死で勉強して入った大学は卒業した。就職もした。

(じゃあ、いつなら早くないの?)

 私はうつむいたまま考えた。

「そんな無責任な男の子どもなんて、さっさと堕ろせ!どうせ育てられんだろう!!」

 私は唇を噛んだ。うつむいた視線の先に、膨らみ始めたお腹があった。

(私が無責任な男と結婚したから?だからこの子は、生まれてくる権利がないの?)

 私は顔を上げた。

(どうせ育てられないなんて、誰が決めたの?)

 絶対に泣くまいと思った。

「お父さん。お母さん。今まで育ててくれてありがとうございます。でも、私はこの子を殺せません」

 自分でもびっくりするくらい、落ち着いた声が出た。

「家を出ます。ごめんなさい」

 そう言って深く下げた頭の上を、父親の怒号と母親の泣き声が通り過ぎていく。

 腹が据わる、というのはこういうことかと思った。まるでお腹の中に生まれた命が、私を励まし、肯定してくれているみたいだ。それは、家族の誰も耳を傾けてくれなかった私の話を、初めてちゃんと聞いてくれる存在のような気がした。

(いや、初めてじゃないな)

 私は荷物をまとめながら思った。

(カイトだけは、私に向き合ってくれたんだ)

 でも、彼はもういない。

 一人で生きていかないと。

 その日の午後、誰にも見送られず、私は家を出た。

「……ううん、二人で生きていくんだ」

 そう小さく呟いたら、なんだか元気が湧いてきて、私は「よし!」と笑顔を浮かべて、まだ見ぬ未来へと踏み出したんだ。

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