第16話 4歳 そのろく。

 こんなに他人を怖いと思ったことがあっただろうか。

 ソラタの身体は、重くなったとはいえ、大人の男性にしてみれば軽々と持ち上げられる体重しかない。

 足がすくむ。

 自分の軽さや、力の無さを思い知る。

 そして自分を守ってくれるはずの大人が、今ここにいないことを。

 怖い。

(でも、身体が元に戻る前に、ソラタと合流しないと……!)

 私は覚悟を決めた。

(3、2、1、GO!)

 心の中でカウントし、一気に駆け出す。

「あっ」

「ちょっと!」

「きゃあ!」

 他の客たちの脚の間をすりぬけ、フードの男の横をかすめて走った。

「この階段を、上りきれば……!」

 息が上がる。ソラタが幼稚園に入ってから、運動不足だなぁ。

 って、そんなことを考えてる場合じゃなーい!

 振り返ると、フードの男も追ってくる。

「げっ!」

 ウソ。思い違いじゃなかったの!?

 やっぱりあいつ、ソラタのこと狙ってたんだ!

 でももう体力の限界。やばい。追いつかれる。

 ……と、思ったら。

「あれっ?」

 身体が軽い。

 階段を上りきって、ひと息つく間もなく、そのまま通路を走る。

 足がどんどん前に出る。

 スピードは落ちるどころか、ぐんぐん上がっていく。

「すごい……っ!」

 そして、私はたどり着いた。

 屋外に出て、目の前がひらける。

 半円状の大きな客席にかかった、大きな屋根の向こうに、青空と海が見える。

 そして目の前には、大きなプール。

「……間もなく3時40分より、イルカショーが始まります。皆様どうぞお早めに、席におつきください……」

 アナウンスが流れ、観客が続々と集まってくる。

 そして、私は見つけた。

 ものすごく簡単に、見つかった。

 だって最前列のど真ん中に、一人だけ、大人が座ってるんだもん。

「ソラタっ!」

 私は夢中で階段を駆け下りて、ソラタに抱きついたんだ。


「ねぇねぇママ!すっごいの!シロクマさんのごはん、こーんなに大きいお肉をね、食べるんだよ!それにペンギンさんたちもすごくかわいいのー!ぼく、あかちゃんペンギンに手を振っちゃった!」

 イルカショーを観ながら、元に戻ったソラタが、一人で見てきたものを興奮気味に説明する。

「エサやり見れたの!?いいなぁ……あたしゃそれどころじゃなかったわよ……ペンギンだって、全然見てないわよ……っていうかソラタ、迷子だってのに楽しみすぎじゃない!?」

「えー、だって、ママが勝手にいなくなったんじゃん。僕、ママのこと、すっごい探したんだよー?」

「私じゃなくて、ソラタを探すの!」

「あっ、そうかー!」

と、無邪気に納得するソラタ。

「そして私の身体で勝手なことしすぎ!いい大人のカッコで、まさか最前列でペンギンに手を振ったり……」

「え、ダメぇ?」

 あああ。ペンギンの水槽にかぶりつきで見ているアラサー女が脳裏に浮かぶ。知り合いに見られていないことを祈ろう……。

 一人へこむ私をよそに、ソラタが小声で嬉しそうに言う。

「ねぇねぇ、僕さ、次入れ替わるときは遊園地がいいな。そしたら大人用のジェットコースターに、のれちゃうもんね?」

 私は深ーいため息をつくしかなかった。

 ダメだコイツ、全然こりてねぇ……。


 イルカショーが終わった。

「えーっと、けいたろうくんたちと合流しないとねぇ」

 私は立ち上がって、さっきはぐれたままの日奈子さんたちの姿を探す。

「あ!おにいちゃん!」

 ソラタが叫んだ。

「……え?」

 振り向くと、若者が立っている。

「あ、どうも……」

 若者が会釈をする。

「え?」

 あれ、この人、どこで会ったんだっけ……。

 脳内のメモリーがくるくると高速回転する。

「ママ、ほら、前会ったおにいちゃん!」

「ええ?」

「あの、おうちの前で、お買い物されてて」

 若者が説明する。

「あー!」

 そうだ。前に入れ替わった時に、助けてくれた少年だ!

 ……ん?ちょっと待て、少年??なんかすごく、大人っぽいけど。少年っていうより、青年だけど。

「あのときは……ありがとうございます!あれから探してもお会いできなくって」

「僕、高校卒業したんで……今日は偶然ですね。さっき中でぼうや見かけて、なんか迷子みたいだったんで、ちょっと心配で。でもお母さんと待ち合わせだったんですね。良かった」

 そうか、私は高校の制服を目印に探していたから分からなかったのか。

 うわー、こんなに早く成長しちゃうの?一年……くらいで?うわー……。

 ……って、あれれ?ぼうや?迷子??

 もしかして……今はかぶっていないそのパーカーのフードをかぶると……まさか。

 さっきの変質者!

 ……と、叫びそうなのをぐっとこらえた。私えらい。いや偉くない。

「ああー……ええ、まぁ迷子っちゃ迷子だったというか、なんというか……すみませんご心配かけて」

 言いながら顔が赤くなっていくのを感じる。よりによってあの親切な少年を、変質者と勘違いしていたなんて……。

「それじゃ僕、あっちに連れがいるんで、これで」

 再び爽やかに会釈して、彼は立ち去っていく。

 遠くに、若い女の子が彼に手を振っているのが、ちらりと見えた。

(あら、デートだったのかしら?)

 って、いけないいけない、発想がオバちゃんだわ。


「もう、いきなり走り出すんだもん、ソラタくん。びっくりしちゃったよー!ヒカルさんのケータイは全然つながんないし!」

「でも無事に一緒にイルカショー観られて、良かったねー。楽しみにしてたもんねぇ」

「ほんっとごめんなさい!そしてありがとう〜!」

 私は合流した日奈子さんと夕子さんに平謝りする。

 その足元で、

「夢、ソラタくんと手つないで帰るー」

と、夢ちゃんが甘い声を出している。

「なんでだよ?」

とけいたろう。

「ソラタくん、夢のこと、かわいいって言ってたし!」

「え、いつ?」

とソラタ。

「もう!言ったよ!絶対言った!」

 そして横では日奈子さんが、首をかしげている。

「そういえばさっき、変なアナウンス流れてたよねー。ソラタくんとヒカルさんの名前、間違えて流したみたいな」

「あー、そうだったっけ?あははー……」

 ああ、カオス。

 どうやら今回は、取り繕えないミスをあちこちで犯していたらしい。私はすらっとぼけて苦笑いするしかなかった。


 海に沈む、見事な夕焼けを背にして、みんな心地よく疲れた顔で駅へと向かった。

 電車の座席に座ると、子どもたちの目はもうとろんとして、今にも眠ってしまいそう。

「今夜はみんな、ぐっすりだね」

 そう言う日奈子さんも、まぶたが重そうだ。

 ああ、子どもたちの、めいっぱい遊んだ後の寝顔って、ほんとイイ。

 眺めていると、こっちまで達成感に満たされるんだ。

 よしよし、今日はいっぱい遊んだなー!ってね。

「ねぇねぇ、そういえばね、さっきねぇ、ソラタくんがね、ヒカルさんみたいに見えたのよー。あの子を守るんだ!って。気のせいかしらねぇ」

 夕子さんが、おっとりと笑った。

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