第10話 回想。

 その夜のこと。

「ねえママ、きょうはおもしろかったねぇ!」

 お風呂に入って、洗いたてのパジャマに着替えたソラタが、いい匂いのするほっぺをピンクに染めて言った。

「なあに?公園のこと?」

 私はソラタを膝に乗せ、その小さくて柔らかい爪を切りながら、聞いた。

 この時間が一番好きだ。

「ちがうよ!ママとソラタ、いれかわったじゃん!おぼえてないの?」

「ああ」

 切り終わった爪をティッシュに取って、ゴミ箱に捨てる。

「覚えてるよ、もちろん」

「うふふ。なんでいれかわっちゃったんだろうねぇ?うふふふー!」

「ふふ、なんでだろうねぇ?ソラタが歩けないって言ったから、神様がー……」

「そうだ!かみさまが、ソラタがはしれるように、ママのからだにいれてくれたのかな!?」

 私の言葉を遮って、ソラタが、さも重大発見のように続きを話す。

「そうかもしれないねえ」

 あんたに走られたおかげで、私はすっごく気まずかったけどね。

「ママになったら、ソラタ、すっごくはやくはしれたんだよ!びゅうううーんって!すっごかったよ!」

 そう言うソラタは、不安なことなんかどこにもないように、目をキラキラとさせていた。

「そっか。良かったねぇ」

「ねぇ、ぼく、またママになって、はしりたいな!こうえんのながいどうろ、びゅうううーん!って!」

「ソラタが大きくなったら、きっともっと早く走れるようになるよ」

 私はソラタの頭を撫でて、言った。

「ママは、ソラタに抱っこされたのが、面白かったな!」

「あー!ママおもかったー!」

 ソラタはきゃっきゃっと笑った。

「さ、今日は何を読む?絵本を選んでベッドへ行こう」

 ソラタはうなずいた。その目はとろんとして、もう眠そうだ。


 そう、結局あの後、どうなったかというと。

 玄関を入った私を待っていたのは、のんきにアイスクリームを食べている私……と入れ替わった、ソラタだった。

「ソラタつかれちゃった。ねえママ、ママもアイスたべる?」

 私は玄関にへなへなと座り込んだ。

「もー……ソラタったら、いきなり走り出すんだもん、あのお兄ちゃん、びっくりしてたじゃない」

「ねえ、ソラタ、ママになったから、アイスもういっこたべていい?」

「は?」

「だから、おっきくなったから、アイスもいっこ」

「ダーメ!」

 そこまでは、覚えてる。

 いや、確か、なんとか椅子にのぼって、買ってきたものを冷蔵庫に入れるところまでは、やったんだったか。

 とにかく気付いたら、私とソラタは行き倒れるように、ソファで昼寝していた。

 目が覚めたらすっかり夕方で、身体は元に戻っていた。


「あら?ソラタ、寝ちゃったの?」

 ちょっと遅れて寝室に入ると、ソラタが絵本を抱えたまま、すやすやと寝息を立てていた。

 ふわんと丸いほっぺたをちょんとつついてみるが、ぴくりともしない。

「はあーあ、今日はつっかれたなー」

 冷蔵庫から缶ビールを出してきて、ぷしゅっと開ける。ベッドに腰掛けてひとくち飲むと、喉から胃にすーっと冷たく流れていく。

 スタンドの穏やかな明かりの中で、ソラタのすべすべのほっぺたがまあるく張りつめ、はちみつ色の光を集めている。ソラタの寝顔はいつまで見ていても飽きない。

「ソラタ、覚えてないのかな……」

 去年も、おととしも、私とソラタは入れ替わってるんだよ?

 それはいつも、ほんの一時間にも満たない時間。

「まぁ、覚えてないか」

 最初は夢かと思ったんだ。まさかね、って。

 でも二回目に、夢じゃないって確信した。だってあの時、元夫……ソラタのパパから電話があったから。あの後、何度か彼から着信があったけど、出ていない。出ないまま、やがて電話は来なくなった。

 私は考えた。

 なんで入れ替わったんだろう?ってね。誰も信じないような魔法。このことに何か、意味があるのだろうか。

 私はビールをもうひとくち飲んだ。お酒はたまにしか飲まないから、ゆっくりとしか飲めない。

 そして今日のことを思い出した。

 黒い学ランの、生真面目な顔をした少年。

「高校生、か……」

 まだ子どもなのに、大人の男の人と変わらない背丈で、力があって、私を軽々と抱き上げて走っていた。

 大人と変わらない身体のくせに、顔つきはまだ確かに少年で。

「今度見かけたら、ちゃんとお礼しなきゃなー……」

 あ、そうだ。なんで走り出したかの言い訳も、考えとかないと……って、そのこと考えるとちょっと落ち込むわ……。

 でもあの子、笑ってたな。

 頭、ポンポン、って撫でて。

「うふふっ」

 あの子、小さい子にはあんな顔するんだ。

 私には仏頂面だったくせに。

「かっこいいなー、高校生。ソラタもいつかあんなふうに、なるのかなー?」

 ソラタの寝顔を眺めながら、私はもうすっかりママに戻っていた。

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