第9話 疾走。

「えっと……ソラタ、重くない?」

 というかソラタはこの状況、わかってるのかな?

 私は恐る恐る、目の前の「私の顔」を覗き込む。

 私の顔のソラタは、一瞬、きょとーん、とした顔をして。

「おもい!ソラタおもい!」

 そう叫ぶなり、ぱっと手を離した。

「わあっ!……っととと!」

 私はとっさに身構えて、奇跡的に、無事、着地する。

 数メートル先には、くだんの高校生。

(見られて……なかったよね?)

 こんなシーン、うっかりすると、虐待かと思われちゃうよ。あっぶねー。

 そして、家まであと百メートルくらいなんだけど、この状況、彼に不審に思われずに乗り切れるんだろうか……。

 そんな私の懸念は、一瞬にして現実になった。

 なんと、ソラタはいきなり、脱兎のごとく走り出したのだ。

「ちょ……待って!待ってってば!」

 叫ぶ私の声なんて、きっと耳に入ってない。

 幸い、向かっているのは家の方向。だからたぶん家に帰るんだろう、とは思うけど。

 ソラタはちっともスピードを緩めることなく走っていく。

 ソラタ、あんなに足、速かったっけ……?

「ソラタ……っ、はぁ、はぁ、待って……待ってよ……」

 一方、ソラタの身体に入った私は、例のごとくちっとも思い通りに走れない。

 しかも、めいっぱい公園で遊んだ後。

 両脚にたまった疲労物質が、おもりのように脚をもつれさせる。

「ふぎゃっ」

 とうとう、変な声を出して、私はこけた。

「おい、大丈夫か?」

 ひょいっと、身体が宙に浮いた。

 あれっ?

 何が起きたの?

 とにかく、私の目の前には今、凛々しくてぴちぴちの男子高校生のお顔が、燦然と輝いている。

(ひ……ひえぇぇぇ〜!)

 やだやだ、ちょっと!近い近い近い!

 そして私―というかソラタ―を片腕に抱えて、もう一方の手でさっきの重量級の買い物袋を軽々と持ち、彼は走った。

 うわぁ!

 揺れる!

 しかし、どこかにつかまろうにも、私が抱かれているのは男子高校生!

 しがみつくのが、ものすごく、ものすごく、はばかられる……!

 なんていうか、その。

 さっきまで、すっかり親目線というか、ソラタの将来に重ねて見ていたのに。

 ここまで間近で拝見してしまうと、ですね。

 あの、その。

 ……若い、男の子なんだなぁ、と。

 って、うわー!今のナシナシ!若い…ホニャララ…とか、発想自体が恥でしかない!!カァーーーーット!!!

(この子、自分が抱いてるのが幼児じゃなくて、アラサーのオバちゃんだって知ったら、どんな顔するんだろう……)

 そんなことを考えて、私はぶんぶんと頭を振った。

 今はとにかく、この状況をなんとかしないと。

 そうこうしているうちに、あっという間に家の前まで着いてしまった。「私」(ソラタ)が家に駆け込むのが見えた。

 私を抱えた少年も立ち止まる。

「おうち、ここ?」

「あ、ハイ……」

 消え入りそうな声で、私は答えた。

 いきなり子どもを置いて母親が駆け出したりして、この子、相当びっくりしただろうな……ああもう、恥ずかしすぎる……私じゃないけど!あれ、私じゃないけども!!

 ドアの前で、彼は私をそっと下におろし、買い物袋をドアの前に置く。

「ママ、どうしたんだろうねー?トイレでも我慢してたのかな?」

 そう言って、膝を曲げて私の目線に合わせると、にっこりと、微笑んだ。

「あの、ありがとう……」

「うん、どういたしまして。あ、カギ、あいてる?」

 私はドアをちょっと押してみてから、こくんとうなずいた。

「それじゃあ、またね」

 彼は優しく言って、よしよし、と私の頭を撫でた。

(何年ぶりだろう……こんなふうに、他人に触れられるのは……)

 その時なぜか、ちょっとだけ泣きたくなった。

 若い頃のドキドキとは違う、なんだかこう、無条件の優しさに包まれる安心感。

 私は、ちょっとだけ思い切って、言ってみた。

「またね、おにいちゃん」

 彼はまたにっこり笑って、手を振って去っていった。

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