2歳

第4話 イヤイヤとイライラ。

「さーあ、今日はソラタの大好きなシャケごはんだよ〜!」

「やーあの」

 かわいらしい声で返事をしつつ、まったくミニカーを転がす手を止めようとしないのは、二歳になる息子のソラタ。

「どうしてー?ゴハンいらないのー?」

「なーいの」

 まったくもう、優しく言っていれば調子に乗りやがって。でも……

 かわいいんだなー、この声。

 だがどんなにかわいくっても、今食べていただかないと困るのだ。こちらにも後の予定というものがあるのよ。

「そっかあ……じゃ、ママ食べちゃおっかな……」

「やあーーーあのっ!!」

 お、いい感じ。そうそう、ほんとは食べたいんだよねえ。ママ知ってるわよ〜、ソラタのことはなーんでも♡

「え、じゃ、いっしょに食べよ!ね?おーいしい、シャケ……」

 言いながら、ひょいっとソラタを持ち上げて椅子に座らせた。大好きなシャケごはんを目の前にしたら、絶対ソラタも食べる気に……

「やーあの!なーいの!!やーーーーあのっ!!!!!」

 ガッシャーン!

「……っ!」

 あー……やった……。

 甘かった……。

 床に転がった茶碗と、無残に散らばった米とシャケ。

「まじか……」

 さすが、魔の二歳。

 噂に名高い、イヤイヤ期。

 思わず漏れるため息も独り言も、聞いているのはソラタだけ。嘆くだけ、虚しい。

 時計を見ると7時半を回ってる。6時起きで掃除して料理して、8時までに食べさせて出かけようと思ってたのに……。

 朝食はごらんの通り、床の上。そしてイヤイヤ言いながらも、おなかは空いているソラタは、絶対すぐ機嫌が悪くなる。

 床に散らばったシャケとごはんを、泣きたい気持ちで拾い集める。あーあ、これ、一番脂の乗ったおいしそうなとこ、ソラタに食べてほしかったのになぁ……。ティッシュにおさまりきらず、指先にべとべととくっついて、拭いたはずの床にまたくっついて、延々と拭き終わらない。

 イライラ、イライラ。

 自分の分にと取っておいたシャケを、新しく盛ったごはんに乗っけて、乱暴にソラタの前に置く。

 さすがのソラタもちょっとバツの悪そうな顔をしていたが、

「ほらっ。食べな!」

 私の不機嫌な声が、彼の意地っぱりモードを再燃させてしまったらしい。

「やーあのったら、やーあの!シャケきやい!」

 むかっ。

「あっそう。じゃいいもん、ママ食べちゃうもん。しーらないっ!」

 怒りにまかせて、ぱくぱくぱくっとシャケとごはんを平らげ、味噌汁をすする。すると、横で見ていたソラタがしゃくりあげはじめた。

「あっ、うっ、えっ」

 あ、やばい。

「うわああーーーん!ぎゃおああーーーん!!」

 うわー、うるさーい。だめだこりゃ。こうなったらもう手がつけられないんだった。

 でもさ、じゃあどうすればいいのよ?

 食べたいくせに食べないって頑張る、このいわゆるひとつのイヤイヤ期の息子さんに!

 私は!

 朝もはよから焼いた魚を放り投げられた私は!

 どうすれば!?

 時計はもう8時。やばい、着替えしないと。

 泣き叫ぶソラタを放置して、私はクローゼットを開け、スーツを出す。

 今日は9時にソラタを近所の保育園の一時保育に放り込んで、面接に行かなければならない。

 そう。私は三年前に離婚して、ソラタを産んで、希望していた保育園に入れなくて、育休も延長できず、仕方なく仕事をやめた。

 育児中は失業保険が延長できるけど、それだけじゃ心許ない……周りには少しずつ習い事をさせるおうちも増えてきたし、母子家庭で働いていないと心なしか世間様の目も気になる。……私がもらってるのは失業保険であって、それって私の給料から天引きされてたお金であって、生活保護じゃないんだけどね。よく知らない人って、よく知らないまま、好きなこと言うよね……。

 まあそんなわけで、肩身の狭さに耐えかねて就活始めたってわけ。

 今日の面接は10時から。保育園で引き渡しに15分くらいかかるとして、移動に30分。結構ギリギリだ。

 なのに、ソラタはまだ一口も食べずに泣きわめいている。あれはもう、泣いてるなんてもんじゃない。涙を流しながら怒っているのだ。思い通りにならないのが、どうしようもなく嫌なのだ。

 わかるわ。私だってそうよ。泣きわめきたいのはこっちだっつの!

 ……という心の叫びは胸の中にしまっておいて、淡々と着替えを済ませ、泣きわめくソラタの服を無言でひっぺがし、洋服を着せる。トイレトレーニングはしているものの、まだ完璧じゃないし、今日は預かってもらうので、おむつもはかせる。

 時計はすでに8時40分。こういうときのかぼちゃパン!とソラタの口に突っ込むと、そのままソラタを小脇に抱えて家を出た。


 暴れるソラタを地面に下ろし、その瞬間に逆方向に駆け出すのをとっ捕まえて、また抱え込み、徒歩10分の保育園に、15分かけて到着した。ぜえはあ。

 ああもう、スーツをビシッと決めて面接!なんて気分じゃないわ、こりゃ。

 めげそうになりながらインターホンを押す。

 ……押す……あれ?

 こんなに高い場所にあるの?インターホン。

 頭上はるか上にあるボタンめがけて、えいっ!とジャンプする。

「あれ……」

 この手は。

 人差し指を立てた、小さな手。

 の、向こうにいたのは。

 スーツ姿の。

「マーマ?」

 スーツ姿の私……が言った。

「マーマ!」

「げ」

 うそうそ、まさか。

 うそでしょ?


 そう、私たち親子は、ここにきて、また。

 よりによって、このタイミングで。

 入れ替わってしまった、らしい……。

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