第3話 泣きたいのはこっちよ!

 鏡の前で必死で現実を受け入れながらも、私は途方に暮れた。

 いつまで続くんだろう、この夢。いや、夢なら良いけど夢じゃなかったら?

 満足に歩くことも話すこともできない私と、姿こそ大人だが中身は赤ん坊そのまんまのソラタ。そんな二人が生活していくなんて、不可能に近い。

 そしてその懸念は、あっという間に現実になった。

「うー、ふう〜、うっ、うっ、うっ」

 そう、再び「私」―ソラタの機嫌が急降下したのだ。

 私は時計に目を走らせる。ああ、この床に近い位置から見る壁掛け時計の遠いこと見づらいこと。それでもしっかり10時を指しているのをこの目で捉えた。

 ソラタも私も朝食を食べていない。そう、ソラタのこの唸り声は空腹を訴えているのだ。

 この時、私は確かに、耳の奥で血の気が引く音を聞いた。

 ああ、どうしよう。早くなにか食べさせないと、ソラタは手がつけられないほど泣き出してしまう。そして、泣いているソラタは物を食べるどころではなくなるのだ。そりゃそうだ、しゃくりあげながら嚥下するなんて芸当、私だってできん。そして空腹はおさまらないから、泣く。泣き続ける。泣いている限り食べられない。地獄のパラドックスである。

 今日の朝食は、しらすごはんとお味噌汁、ほうれん草のおひたしと卵焼き……の予定だったのだけれど、この状況じゃ料理なんて絶対無理。

 私は脳をフル回転させる。そうだ、おやつ用に買っておいた、かぼちゃパンがあったはず。とりあえずアレで飢えを凌いでもらおう。私はもたもたとキッチンに這っていき、戸棚を渾身の力で開けて、パンの詰まった袋を引っ張り出した。と、その勢いでカップ麺やら買い置きの缶詰やら調味料やらが転がり出てくる。ああもう、なんでこうなるの?

 でも片付けている暇はない。パンの袋を引きずって、爆発寸前の様相のソラタのところへ必死で向かう。

 果たしてソラタは、大好物のかぼちゃパンの袋に、もう喜色満面。早速袋からパンを出してぱくつきだした。

 私はほっと胸をなでおろす。

 ああ良かった。栄養は激しく偏っている気がするけど、今は考えないことにしよう。そう思ったら、深いため息とともに身体から力が抜けていった。

 そしてうっかり、やってしまった。そう、安心のあまり、椅子の脚につかまっていた手を離してしまったのだ。

 ソラタの身体は、何にもつかまらないで歩くことはできないってことを忘れて。

 世界がぐるりと回る。

 ごっちん。

 いってえ!と思わず叫んだが、勿論それは言葉にならず。

「うぎゃあーーん!」

 今度は私が泣く番である。

 しかしそこは、見た目は赤ん坊、とはいえ中身は大人である。なんのこれしき、大したことはない。すぐに泣き止む。

 そう、泣き止めるはずなのに。

「うええーん、うああーん、うええーーーん」

 あれ?

「ああーん、うあーん、うええーーーん……」

 私は、泣き止めなかった。



 そうだ。

 だってずっと気が張っていた。かわいいソラタに、暗い顔を見せちゃいけない。明るいママでいようって思って、ずっとずっと、我慢していたんだ。

 私、ほんとは泣きたかったんだ。

 だってほら、こんなに、涙が出てくるの。あとからあとから、とめどなく。

 疲れたよ。毎日毎日、眠る暇も、ごはん食べる暇もなくて。

 授乳服以来、洋服も買ってないし、美容院だって行ってない。

 ちょっとでも目を離すと、ソラタがどこかにぶつかって泣いてたりするから、料理にも集中できない。トイレだって気が気じゃない。

 夜中に熱を出した日には、この子このまま死ぬんじゃないかとか、最悪のことを想像しちゃう。

 小さな小さな、大事な命を、自分ひとりでちゃんと生かしていかなきゃいけないなんて、荷が重すぎるよ。

 ねえ、なんで行っちゃったの?

 ねぇカイト。

 私の何がいけなかったの?

 分かってるよ、もう遅いって。もう私のこと、好きじゃないって。でもね。

 もう戻れないって、分かってるけど。

 悲しいんだ……。


 バタバタの毎日の裏に閉じ込めていた感情が、次々と溢れ出してくる。

 悲しい悲しい。ひとりぼっちで、自分を好きでいてくれる人がどこにもいないって、心底、寂しい。

 寂しいよー。

「うええーーーん、うええーーーーん………」


 涙って、どれくらいで涸れるんだろう。なんて思いながら、私は、泣き続けたんだ。


 ふわり、と頭が、温かいもので包まれた。

「じゅー、あ、まー」

 頭上から優しく降ってくる「私」の声。見上げると、ソラタが私の頭をたどたどしく撫でていた。

「よーあ、よー、おーちー」

 あやしているつもりだろうか。言葉にならない音を、一生懸命しゃべっている。

 小さな私の頭を懸命に撫でながら。

 ああ、気持ちいい……。

 あったかくって。どこまでも柔らかくて。

 ママって、こんなに気持ちいいんだ……。

 私はふかふかの安心感に包まれて、目を閉じた。



 ほと、と、小さな温度が頭に触れる。

「あーま、まーま」

 ソラタの声だ。なんてかわいい声なんだろう。

 私は目を開けた。

「まーま」

「ソラタ……?」

 ソラタだ。いつもの、私のソラタ。小さな小さなソラタ。

「ソラタ、今、しゃべった?」

「まーま、よーちよーち、よーちよーち」

 ほと、ほと、と小さな手が、いつまでもいつまでも、私の頭を行ったり来たりしている。

「ありがとね、ソラタ」

 私はソラタをきゅうっと抱きしめた。ああ、こんなにも小さいんだ、この子は。

「……そっか……」

 ソラタはママが大好きなのね。

 この気持ちのいい腕の中が、一番好きなのね。

 ママ、ようやくわかったよ。

 ソラタが、泣いてたママを抱きしめてくれたから。

「ママ」の腕の中は、最っ高に気持ちよくて。

 そして安心して泣ける場所だったんだって。

 ここで思う存っ分泣いて、そしたらまた元気に笑えるんだね。

「大好き、ソラタ」

「まーま」

 ソラタはいつものように、きゃっきゃっと笑った。

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