第5話 「好きなもの母の鼻歌さくら草」(松岡房子)

5-1

 水気を含んで重くなった春の空気が部屋の中を支配していた。

5月4日月曜日の朝、吉永英二はテレビの情報番組を家族で見ながら食事をしていた。

「ねえ、あなた」

 隣に座る妻の杏奈に声をかけられる」

「ん? 何?」

 顔はそのままテレビ画面を見ながら答える。

「今年の夏のボーナスはどうなの?」

 まだ5月になったばかりだというのに、来月支給されるボーナスのことを訊いてきた。自分のほしい物がすでに頭にあるのだろう。

「さあ、どうだろうな。でも、今年は少し上がるかも」

「そうなの。それだったら、私、おねだりしたいものがあるんだけど」

 こういう時だけ甘えた口調になる。どうせブランド物のバッグか何かだろう。

「えー、ママずるいぃ。私には、前から話していたサーフボード買ってよね。お願いパパ」

 今度は中学2年生になった娘の那奈にねだられる。

「二人とも気が早いよ。ボーナスが出てからにしてくれよ」

『介護疲れのため、同居していた母親の首を絞めて殺害したものと思われます』

 テレビの画面から女性のレポーターの声が聞こえ、英二は何気なくそちらに目を遣る。

『相川千尋?』

 画面に表示された名前を見て、英二は思わず声を漏らしそうになり、慌てて口を噤んだ。

 カメラはフードのようなもので顔を覆った女が刑事に連行される様子を映し出している。表示された名前、年齢、そして母親の介護という状況から自分の知っている相川千尋に間違いなかった。奇妙な懐かしさに襲われる。『ああ、結婚していなかったんだ』と場面には相応しくない感想を持つ。しかし、かつての恋人の姿をこんな形で見ることになるとは思わなかった。

「あなた、どうしたの?」

 画面を見ながら固まっている英二に向かって妻が言った。

「パパ、顔が怖い」

 娘にまでそう言われ、慌てて表情を緩める。

「いや、こういうのってなんか切ないなあと思って…」

 語尾を曖昧に飲み込む。

「確かにね。最近こういうの多いわよね」

 妻はあくまで他人事のように言う。もちろん、他人事で間違いないのだが…。

「パパ、そんなことより、那奈のサーフボードのこと忘れないでよね」

「ああ、考えておく」

 英二の頭の中はまだ千尋のことでいっぱいだった。つい先ほどまでは冷静でいられたが、身体中の細胞が音を立てるように弾けている。逆流した時間の中で英二は、あの時もし自分が身を引かなければ結果は違ったものになっていたかもしれないと思いにとらわれ、ある種の苦い悲しみに似た感情が膨らんでいることに気づく。


5-2

「ママ、行ってきまーす」

 和室で寝ているママに声をかけて相川千尋は部屋を出た。母が返事をしたのかどうかはわからなかったが、いつものことなので気にならない。最近、ママの様子が以前より元気がなくなっていることが千尋には気になっている。

 千尋が小学2年生の時に両親は離婚していた。離婚の原因については話してくれないのでわからないけど、千尋の親権を巡ってパパはママに横暴な態度をとったと母方の親戚の人に聞かされて以来、千尋はパパのことが大嫌いになった。だから、パパのほうから何度も千尋に会いたいと言ってきたけど、今まで一度も会ったことがないし、今後も会うつもりはない。

 というわけで、わが家は、母一人、子一人の母子家庭だ。でも、千尋はそのことを寂しいと思ったこともないし、辛いとも悲しいとも思ったことがない。それどころか、大好きなママを独り占めできる喜びのほうが大きかった。それほどに、千尋はママのことが好きだったし、すべての面で最高のママだった。

 離婚して間もない頃のママはいっぱい傷ついていたと思う。それでも、生計を立てるために慣れない仕事に就いて日々精一杯働いていた。今思うに、ママは、精神的にも肉体的にもギリギリだったと思うけど、いつも穏やかで柔らかい笑みを千尋に向けてくれていた。

 たまに、お母さんのことが、どうしてそんなに好きなのって訊かれることもあるけど、そんなことに理由なんてない。強いていえば、きれいで、可愛くて、優しくて、ちょっと天然で、千尋をまるごと愛してくれるところだ。それに、一緒にいて、まるで友達のような感覚になれるのも好き。

 外に出ると、土の匂いが混じった風が顔に当たった。一日の始まりを自分のペースにしたい。幸い、降り注ぐ朝陽がしぼみかけていた千尋の心にパワーをくれた。『さあ、今日も頑張ろう』と自分に気合を入れる。

「千尋、おはよう」

 走って千尋の元までやって来たのは同じクラスの藤井寛。透き通るように色の白いガラス細工を思わせる男の子。影を背負ったような雰囲気を見せる時もあるけれど、実は明るく前向きな性格をしている。

「遅くない」

 千尋が腕時計を見て言う。

「ギリギリ間に合ったじゃないか」

「まあね」

「じゃあ、行こうか」

 千尋の通う小学校では地域ごとに登校班という制度があり、近所の生徒が1年生から6年生まで一つのグループとなって一緒に登校することになっている。千尋の近所には6年生がいなかったため、5年生の寛と千尋が最年長となる。そして、班のリーダーである班長をしているのが寛で、千尋は副班長だった。

 今日も一番近い2年生の前田沙智ちゃんの家から順に回っていく。

「あれっ、なんか今日元気なくない?」

 隣で並んで歩く寛が千尋をちらっと見て言った。寛は男の子にしては女の子のちょっとした変化にも気づく子だった。先日千尋が髪を切った時もすぐに気づいてくれた。気づいてくれるのは嬉しいのだけど、言われると恥ずかしい。

 今朝はママのことが頭にあって表情に出ていたのかもしれない。

「別に、そんなことないよ」

 大き目の声で答える。

「それならいいけどさ。最近、千尋、井上たちにからかわれているみたいだから…」

 寛は千尋がそのことで落ち込んでいると思ったようだ。でも、千尋のことを気にしていてくれるのは嬉しいし、優しいとも思う。

「ああ。井上君たちのことなら大丈夫。ちょっと度が過ぎる時があったからガツンと言ったやったら、もうしないって言ってたから。でも、ありがとね。心配してくれて」

「俺たち長い付き合いだからさ」

 寛とは幼馴染で、お互い小さい頃から一緒に遊んでいた。でも、『長い付き合い』というところは寛流の冗談だ。

「ふふ。そうだよね」

 そんなことを言っていたら、沙智の家に着いた。寛がインターホンを押す。

「はーい」

 沙智のママの声だ。

「藤井です」

「今行きますから」

 だが沙智はすぐには出て来なかった。沙智はあまり学校が好きではないらしく、時々ごねるという。案の定、ママと一緒に現れた沙智は不機嫌な顔をしていた。

「さっちゃん、おはよう」

 そんな沙智に寛が笑顔で声をかける。

「さっちゃん、今日も一緒に行こうね」 

 千尋も優しく声をかける。

「うん」

 初めて笑顔になった。かわいいと思う。5年生の千尋からすると、2年生の沙智は『子供』なのだ。

 毎朝のことなので、結構いろんなことが起こる。だが、班長の寛はとても面倒見が良かった。転んで泣いてしまった1年生をあやしたり、筆箱を忘れて泣きそうな子に自分の筆箱を貸してあげたり、途中具合の悪くなった子を家まで送ってあげたりと。だから、班長の寛はみんなに好かれていた。

 寛を中心にグループのまとまりが強く、次第に登校の時だけでの関係にとどまらなくなった。夏休みにグループで花火をしたり、川遊びにも行った。もちろん、当番制で親も同伴したのだけど。そんな寛の傍には、当然のように千尋がいつもいた。幼馴染で、同じ登校班の班長と副班長だから…。そう思っていたけれど、実は千尋は自分が寛の傍にいたいからいるのだと気づき始めていたのだ。

 その日の1時間目、担任の大原から席替えが発表された。千尋のクラスでは半年に1回程度で席替えが行われる。今回の席替えは大原によって決められた。大原の指示に従って順に座っていったのだが、なんと千尋は寛と隣同士になった。

「ええー、千尋が隣」

 寛は周りに聞こえるように大きな声で言った。いかにも失望したように言われ、千尋は傷ついた。それでなくとも一緒に過ごす時間が多いから、寛が他の女の子と近づきたいという気持ちはわからなくなないけれど。

「悪かったわね。私が隣で」

「怒るなよ。冗談なんだからさあ」

「えっ?」

「本当は嬉しいに決まってるじゃん」

 みんなに聞こえないように小声で言って、寛は千尋の手の上に自分の手を軽く乗せた。まるで女扱いになれた中年のプレイボーイのような寛の行動に、千尋のすべての感覚は吸いあげられ、やすやすと心を奪われてしまった。人を好きになる瞬間というものがあるとしたら、こんな時のことを言うのだろうと思った。

 以前から気になっていた寛への思いが、恋ではないけど恋に近い何かになった。

「やめてよね」

 でも、あまりに照れくさくって、慌てて手をひっこめた。

 翌日から千尋は寛のことを強く意識するようになってしまった。意識するあまり、わざとらしく距離を取り続けた。千尋は寛の本心が気になった。自分は本気で好きになっちゃったけど、寛のほうは軽い冗談かもしれないのだ。そこで、クラスで一番仲の良い里見亜紀に相談してみた。

「う~ん、それって藤井の冗談じゃない」

「やっぱりそうかあ」

 悲しくて、でも少し安心もした。

 しかし、後に亜紀も寛のことが好きだったとわかった。亜紀とは波長があって何でも話し合える親友だと思っていたけど…。女は自分以外の女が幸せになるのが許せない生き物だと、自分も『女』になってわかった。

 亜紀に冗談だろうと言われても、千尋の思いが消えたわけではなかったけど、複雑な気持ちにはなっていた。

「なんか千尋怒ってる?」

 朝いつものように集合場所にやってきた寛に言われた。

「怒ってなんかないよ」

 亜紀に言われたことを再び思い出し、顔に出てしまった。

「そうか。でも、顔は怒っているけどな」

「だから、違うって」

「だったら笑えよ。俺、笑ってる千尋が好きなんだから」

 ずるい。そんなこと言われたら、『惚れてまうやろう』って。それに、急にここで笑えるはずがない。

「ふ~ん」

 こんな態度しかとれない自分が嫌になる。

 その後誤解が解けて二人は付き合うことになった。といっても、学校の隣にあった小さな公園でとりとめのない会話をしたり、ベンチに座って青空を見上げながらお互いの夢を話し合ったり、たまには映画を観に行くこともあった。けれど、登校班グループのメンバーたちと混じって遊ぶことのほうが多かった。それでも千尋は十分幸せだった。

 だが、別れは突然やってきた。

 寛の父親の仕事の関係で転校が決まったのだ。

「俺んち引っ越すから」

 抑揚のない声で寛からそう告げられた時、千尋は胸が縮むような痛みを感じた。でも、千尋にはそれを止めることはできない。ただ、寛自身も辛そうにしていることが、せめてもの救いだった。

「そうなんだ」

 軽く深呼吸をし、子供らしい快活さを装う。

「千尋には感謝してる」

「感謝?」

「うん。俺、千尋の笑顔や優しさに支えられてた」

「それは私も同じ」

「そう。ありがとう。でも、なんか寂しいな」

「うん。でも、寛、夢に向かって頑張ってよね」

 頭のいい寛には外交官になるという夢があった。

「ああ。俺、千尋のことが本当に好きだった。忘れないよ」

「ありがとう」

お互い、『別れ』を口にするのは嫌で敢えてしなかった。

 今考えると、まだ小学5年生なのに、お互いかなりませていたと思う。

 そして、当日。

 寛からだいたいの引っ越し終了時刻を聞いていたが、その時間は授業終わりギリギリだった。

 授業終了のチャイムを聞き、誰よりも早く教室を出て校門へ向かう。でも、みんなの目を意識して校門を出るまでは敢えてゆっくり歩いた。だが、出た瞬間には走り出していた。どうか間に合ってとほしい願いながら全速力で。見慣れた景色がどんどん後ろへ逃げていく。引っ越し業者の車とすれ違わないかと、目を左右に遣る。スカートがめくれ上がっている。何事かと通行人が振り返る。気持ちに身体が追いつかず、何度も足がもつれる。

『あと少し、あと少し』

 路地を曲がったところで車と衝突しそうになり、クラクションを鳴らされる。心の中でごめんなさいと言い、頭だけ下げて再び走り出す。目の前に寛の家が見えてきた。神様お願い、私を間に合わせて。ようやくの思いでたどり着いた寛の家は一見いつもと変わらぬ姿をしていたが、あきらかに人気はなく、見ただけで間に合わなかったとわかった。千尋は門に手を遣り、頽れそうになる身体をかろうじて支えた。限りなく淡い恋色をした恋に近い感情が西日の中に飲み込まれていった。 

 結局、あれほど言いたかったお別れの言葉を自分の口からは言えなかった。

 半年前のことである。

 

5-3

「行ってらっしゃい」

 隣の部屋に向かって返事をしたのだけど、千尋の耳に届いたのだろうか。最近自分の声が弱々しくなってしまっていることに気づいている。

 やがて、玄関のドアの閉まる音が聞こえ、千尋が学校に行ったことを知る。それでも莉乃は起き上がる気力がわかず、布団の中で惰眠を貪った。

 結婚して11年経った時のことだった。日曜日なのに珍しく自宅にいた夫の向井誠二は娘の千尋が叔母の家に出かけたのを見計らって「話したいことがある」と私に告げた。

「何?」

 宣伝課長という役職の夫はとにかく忙しく、出張も多かったし、日曜日も接待ゴルフで家で過ごすことは稀だった。もちろん、それらはすべて仕事だと疑ってもいなかったが、後々考えて見ると異常だったといえる。

 そんな夫が久しぶりに朝からに家にいて、千尋と楽しそうに遊んでいるのを見て、私は心底喜んでいた。

「まあ、そこに座ってよ」

 リビングのソファーを指さす。夫の顔には笑顔が張り付いていたが、ひどくぎごちなかった。そんな夫を見て、私は何となく嫌な予感がした。夫の前におずおずと座った私に、夫は何の躊躇もなく言い放った。

「俺と別れてくれないか」

「えっ、今何て言ったの?」

 聞こえているのに、聞きたくないという気持ちが拒絶反応を起こしていた。

「聞こえているだろう。俺も何度も言うのは嫌なんだ」

 私は夫の言葉を頭の中で何度も反芻していた。

「私と別れたい?」

「そうだ」

「何よ、突然」

「今急に思いついたわけじゃない。俺たち、ずっと前からうまくいってなかったよな。お前だって気づいていただろう」

 お互いの気持ちや考え方にズレが生じ始めたのはいつ頃からだっただろうか。莉乃は考えて見るが思い出せない。気がついた時には夫はもう自分を見ていなかった。それでも莉乃は夫婦であり続ける道を選択していた。それは、夫が千尋にとっては大切な父親であるということと、もうひとつは自分の中では夫に対する気持ちがまだ残っていたからだ。

「確かにそういうところもあったけど、夫婦で努力して乗り越えるように頑張ればいいんじゃない。それでこそ夫婦なんじゃない?」

 自分で言いながら、実際のところ自分たちは何の努力もしてこなかったと思う。

「本気でそう思っているのか」

「もちろん、本気よ」

「無理だな。もうとっくにそんな時期は過ぎた」

「なぜそんなこと決めつけるのよ。私たち一回もちゃんと話し合ったことないじゃない。それなのに、突然一方的に別れてくれなんて。そんなの受け入れられるわけないでしょう」

「なあ、莉乃。お互いのためだ」

「おかしいわよ、あなた。女ができたんじゃないの」

 何の確信もなかったけど思わず言った。しかし、図星だったようで、夫は一瞬言葉に詰まった。しかし、すぐに反撃に出た。

「何を証拠にそんなことを言うんだ」

 自分が何も知らないと思って高を括っているのが癪に障った。

「証拠? もちろん、あるわよ。でもそれはいざという時にしか出さない」

 今はないけど、調べれば出てくると思っていた。

「そんなの…、あるわけないだろう」

 夫の言葉に力がない。これで、夫に女がいることが確実になった。そうとなれば、こちらにも覚悟が必要だ。

「いずれにしても、私は別れるつもりはないから」

 そんなに簡単に別れられると思わせてはいけない。すると、夫は違う方向から攻めてきた。

「離婚してもちゃんと生活は面倒見るから。そんな意固地にならず、冷静に考えてくれよ」

 それだけ言うと夫は家を出て行った。女の元へでも行ったのだろうか。そう思うと悔しさで涙が出た。

 夫との力関係が逆転したのは、莉乃の父親の会社が倒産してからだ。もともと資産家の家に生まれた父は甘やかされて育てられたらしい。代々産業機械卸を経営していた会社を継ぐのは長男で父の兄である正隆と決まっていた。しかし、その兄が海外旅行中に不慮の事故で亡くなってしまったことで事態は変わった。代々続いていた会社の跡継ぎについて身内に拘っていた先代は、次男である父の経営能力に不安を感じながらも父を跡継ぎとして指名した。

 結局、このことが会社にとっても、父親にとっても不幸な結果を引き起こした。とはいえ、父が会社を引き継いだ当初は、それまでの会社の実績とブランド力で経営はうまくいっていた。

 ちょうどその頃、私と向井誠二は出会った。大学在学中に父親の会社でアルバイトをしていた私に、取引業者の社員として誠二がアプローチしてきた。最初は誠二のやや強引な誘いや口説きに辟易していたが、次第に私の気持ちも誠二に傾き、いつしか二人は付き合うようになっていた。お嬢様として育てられた私は、恋の経験も少なく臆病だったから強引くらいのほうが恋に入っていきやすく良かったと誠二との出会いに感謝もしていた。でも、今になって考えれば、ずっと女にモテていた誠二からすれば、私のような女を落とすのは簡単なことだったに違いない。しかも、誠二は女だけでなく、いわゆる『人たらし』で、父親の懐にも簡単に入り込んだ。

 結婚してまだ父親に力がある頃に誠二は会社を辞め独立して事業を興した。その開業資金のほとんどを父親から出させた。経営の才のあった誠二はみるみる間に自分の会社を大きくした。そのことは私にとっても幸せなことのはずだったが…。

 誠二の会社が発展するのに比して、父親の会社の業績はどんどん悪化していった。いったん悪くなると、もともと人がいいだけで経営センスのなかった父親の打つ手はことごとく失敗に終わり、優秀な社員はどんどん辞めていき、結果業績がさらに落ちるという典型的な悪循環に陥り、あっという間に倒産した。莉乃が誠二と結婚して4年後のことだった。

 父親の会社の倒産までの過程で、莉乃は誠二に何とか父親に手を貸してあげてくれないかと頼んだが、誠二はまるで他人事のように無関心で冷たく見放していた。

 こうして、私が有名老舗企業の社長令嬢という立場から、多額の債務を抱えて倒産した会社の娘に落ちると、夫は家庭内での態度を大きく変えた。自分を、対等の妻としてではなく、家事をするためだけのお手伝いさんのように扱い始めた。挙句の果てに女を作って離婚してくれだと。そんな一方的で自分勝手な申し出など飲めるはずもない。それに、万が一離婚した場合、実家の経済力を頼れなくなった自分に、子供を抱えて自活していける自信はなかった。折も折、莉乃の最愛のママが癌にかかり、あっという間に亡くなってしまい、莉乃の精神状態は極限に陥っていた。

 別れないと伝えたのに、夫のほうは別れを宣告したことで安心したのか、それからは堂々と女の元へ出かけて行くようになった。このことは莉乃にさらなるダメージを与えた。そんなことをすれば、いざとなった時に自分には不利になるとわかっているはずなのに、やめる気配はなかった。すべては誠二の計算づくの行動だったのだ。

 そうした生活が半年ほど続き、私の精神は限界に近づいていた。親戚の勧めもあって、私は弁護士に相談することにした。すると、夫も弁護士を立て、以降、弁護士同士の話し合いに移り離婚が成立した。離婚に当たっては。慰謝料の支払いと毎月の養育費の支払いが義務付けられた。

 離婚が成立したことで、精神的にはすっきりし、体調も徐々に戻っていった。

 娘と二人の生活を支えるためには働きに出なければならなかったが、当初は慰謝料と毎月の養育費で十分暮らしていけたので、仕事はじっくり探すことにした。しかし、いざ就職活動を始めてみると、企業が求めているのは、即戦力となり得る経験や技能、技術を持っている人で、自分のようにそのどちらもない人間は必要とされていないことがわかってしまった。そんなことは、多くの人が知っていると、近くに住む娘の友達の母親の里見洋子に聞かされ、自分がいかに世間知らずなのか気づかされた。

 結局、洋子のつてで洋子の働いている洋菓子店でパートとして採用してもらった。慣れない仕事にしばらくは苦労したものの、半年後には戦力として認められるようになっていた。その頃には生活も安定していた。

 パートで得られる収入はまだそんなに多くないものの、養育費と合わせれば普通の暮らしができた。これからは、自分もママのように自分しかできない能力を身につけたい。ママは料理評論家として知られていた。

 そんな夢に向かって進もうとしていたタイミングで、元夫の誠二から送金されるはずの養育費が突然ストップした。いつものように月末に銀行に下しに行ったが入金されていなかった。何かの間違いかと何度もやり直してみるが、間違いであるはずはなかった。目の前が真っ暗になった。すぐに元夫に電話してみたが留守電状態になっていて繋がらない。想定していなかったことが起きて莉乃はパニックになった。もし養育費がこのまま入らなくなれば、自分たち家族の生活は早晩立ちいかなくなる。慰謝料はまだ半分ほど残っていたが、それは娘の将来のためにできれば残しておきたい。

 とにかく一度家に戻り、家事の合間合間に元夫に電話を入れてみるが、相変わらず繋がらない。もちろん、留守電にメッセージも入れたし、メールも送った。それなのに、元夫からはうんともすんとも言ってこない。イライラだけが募る。

 その状態は何日も続き、しまいには電話そのものが繋がらなくなった。やむを得ず弁護士に相談した。弁護士から連絡をとってもらったが、やはり繋がらないという。ただ、弁護士によれば一定の手続きをすれば元夫の収入を差し押さえすることはできると聞かされたのでお願いすることにした。ところが、元夫の銀行口座はすべて空になっていて、会社も他人の手に渡っていた。さらには、当時の住まいも引っ越していて、その後の消息は不明だという。

 つまり、逃げられたのである。弁護士の見解では、最初から計画していたことに間違いないと言われた。もちろん、調査会社を使うなりして探し出すことも可能だろうが、莉乃は諦めた。もう、あんな男にこれ以上振り回されることのほうがストレスがたまる。経済的な面は自分でなんとかするしかなかった。体力的にはきつかったし、娘の心配もあったが、昼のパートの仕事の後にもう一つ違うパートの仕事を見つけた。幸い、娘のことは洋子が面倒を見てくれることになった。

 頑張った。頑張ったけれども、結局はパンクした。身体がついていけなかったのだ。病院で検査して過労と判明した。以来、ずっと不調が続いたのを機に区役所の福祉課に相談して生活保護を受けることとなった。


5-4

 毎月原則3日に生活保護費が振り込まれる。なので、この日は母の機嫌もいい。

「千尋ちゃん、今日の夜何食べたい?」

 何も朝食を食べている今言わなくてもいいと思うけど、ママの幸せそうな顔を見ていると応えてあげたくなる。

「う~ん、ハンバーグ」

「えっ、ハンバーグ? お寿司とかじゃなくてもいいの?」

 お寿司も好きではあるけど…。わが家の家計状態を考えれば少しの贅沢も禁物。それに、最近ママは自分の体調のこともあるのか、スーパーの総菜で済ますことが多い。料理をすることで、少しは気分転換になってくれればという思いもあった。

「私はねえ、ママの作るハンバーグのほうが好きなの知っているでしょう」

「そう…。それは嬉しいけど…」

 ママはママで少しは贅沢させたいという思いがあるのだろう。ママは何かにつけて千尋には不憫な思いをさせたくないと思っているのだ。でも、千尋は自分のことを不憫だなんて思ったことは一度もない。そのことをこれまでに何度もママに言っているのに、理解してもらえない。ママは千尋が自分に気を遣ってそう言ってるだけだと思っているのだ。

「だから、ハンバーグをお願いします」

 軽く頭を下げる真似をする千尋。

「わかったわ。じゃあ、今夜は腕によりをかけて美味しいハンバーグを作るから楽しみにしてて」

「はい、はい」

 別にママをからかうつもりはなかったけど、上から目線で言ってしまった。

「もうー」

 ママがマジで怒った時みたいに口を尖らせたけど、すぐに笑い出した。そんなママがかわいい。なんかすごく楽しい。いつもこんな風だったらいいのに。

 相川家が生活保護を受けるようになったのは、ママの体調がすぐれず働くことがままならなくなってからである。しかし、生活保護費だけで日々の生活をするのはギリギリだった。水道料金はタダだけど、家賃を支払い、電気代とガス代を払うと残りはそれほど多くなかった。その少ないお金で、必要最低限の生活を送ることになる。だからもちろん、贅沢は何もできないし、洋服なども、少しずつ貯めたお金で1年に1回買える程度だった。それでも千尋は何も不満はなかったし、自分のことを惨めと思ったこともない。子供は子供なりの楽しみ方を見つけられるものである。

 ただ、ママは自分のせいで娘にそういう生活をさせてしまっていると思うのか、何かにつけて『ごめんね』と言って千尋に謝る。それに生活保護を受けていることで、千尋が学校でいじめられていないか気にしている。

 確かに一部の男の子たちが、千尋の家が生活保護を受けていることをからかってくるが、千尋は気にしていない。別に隠すことでもないし、また卑下することもないと思っていて、堂々としている。

 その日、千尋が学校から帰りベランダに出て見ると、鉢植えのさくら草が花を咲かせていた。ママが近所のスーパーの1階にある植木屋さんから買ってきたもので、ママは花を咲かせるのを心待ちしていた。

「ねえ、ママ。さくら草咲いたの知ってる?」

 ママの部屋に声をかける。

「えー、ほんと? 知らなかった。今見に行く」 

 ママの弾んだ声が返ってくる。ママの手を引っ張って再びベランダへ行く。

「ほら」

「あら、ほんと。かわいい」

 鮮やかなピンクの花は品よく、かわいらしい。

「さくら草って、ママみたいだね」

「そう? でも、そう言われるとなんか嬉しい。ママのママも大好きだったのよ」

 ママはいつも祖母のことをなぜかいつも『ママのママ』と言う。

「へえー、おばあちゃんも」

 祖母は千尋が3歳の時に亡くなっているので実際に会ったことはない。

「千尋ちゃん。さくら草の花言葉知ってる?」

「ううん。知らない。教えて」

「初恋とか純潔とか無邪気」

「ふ~ん」

 初恋はともかく、純潔とか無邪気はママそのものだ。さくら草の花を見た時にママみたいだと思ったのは正解だったのだ。

「千尋ちゃんはもう初恋したの?」

 そう言われ、千尋は寛のことを想い浮かべた。寛に対する自分の思いが果たして『初恋』と呼べるものなのか、自分でもわからない。

「う~ん。それに近いものはしたかもしれない」

「何、それ」

「だって、まだ恋なんてよくわからないもん」

「単純にお互いが好きだったら、そうよ」

「そうかあ」

 そう言われれば、そうかもしれない。

「思い当たる子がいるんでしょう」

「さあ」

「あら、とぼけちゃって」

「ママの初恋は?」

「ママの初恋ねえ」

 遠くを見遣るママ。

「今度はママがとぼけてる」

「とぼけてるわけじゃないけど、なにせだいぶ昔のことだから。ママって、案外奥手だったから、中学に入ってからよ」

「それは同じクラスの男の子?」

「ううん。一学年上の人」

「へえー、なんか本格的な感じ」

「まあそうね。結構真剣だったから」

「それで?」

「続きはまたの機会にということで。そろそろ買い物に行かなくちゃ」

「ズルイ。でもしょうがないか。時間が時間だし」

 夕飯のための買い物に二人で出かけた。今日はハンバーグがメインと決まっていたので、その食材を中心に買い物を進める。

 帰り道を歩きながら、千尋は前からママに訊いてみたいと思っていた質問をしてみる。

「おばあちゃんって、どんな人だったの?」

「ママのママはねえ、理想的なママだったわ。きれいで、適度におしゃれで、笑顔を絶やさない、優しい人だった。そして、子供がやりたいということは一生懸命に応援してくれたの。ママの最大の理解者で、困った時はいつも助けてくれた。ママがいじめにあった時もね」

 ママにいじめられた経験があったことは初めて知った。

「だからといって子供を甘やかし過ぎることはなくて、間違ったことをした時はちゃんと叱ってくれた。その時も私の目を見て、叱る理由を論理的に話してくれたから、私もちゃんと納得できた。一度もヒステリックになったことはなかったわね。それに、家族や子供のことをきちんと考えつつ、自分のことも大切にしていた。ちゃんと自立していたのね」

 まさに完璧とも言えるような理想的な母親だったということがわかる。でも、本当にそうだったのだろうか? そんな完璧な人がいるだろうか? ママの頭の中で作り上げられたものではないかと、ちょっと疑ってみた。

「すごいね」

「そうでしょう。だから、ママもママのママのようになりたいと思ったの」

 生真面目なママだったらあり得る話だった。

「難しいよね」

 子供の自分の頭で考えても無理だと思う。

「千尋の言う通りよね。理想に近づこうとすればするほど、現実のママは理想から離れてしまったの。それでも理想を追求し過ぎて、それを果たせない自分にボロボロになってしまったの。そのことでパパとの関係も悪化してしまったのよね」

「パパとのことは、ほとんどがパパが悪いって千尋は思ってる」

 叔父さんや叔母さんからもそう聞いている。

「千尋ちゃんはママと暮らしているからママの味方をしてくれるのね。ありがとう」

「そういうことじゃないよ」

 ママは誤解している。でも、うまく説明できない。

「いいのよ。でもね、離婚して働きながら自分一人で千尋を育て始めてわかったの。ママにはもともと理想的なママは無理だって。そう思ったら急に楽になった、自然体で行こうって決めたの」

「ふ~ん」

 よくはわからないけれど、なんとなくわかる。

「ああ、着いたあ」

 ママが大きな声を出した。帰り道、ずっと話をしていたら、あっという間にわが家に着いていた。

 部屋に入ると、ママは早速キッチンに行き、夕飯の準備に入った。

 千尋は小さなダイニングテーブルの上で宿題を広げてやり始めた。しばらくすると、キッチンで作業をしているママの後ろ姿から鼻歌が聞こえてきた。ママは機嫌がいい時に限って鼻歌を歌う。しかも、いつも同じメロディー。一度『何の歌』ってママに訊いたら、『ママが子供の頃に流行った歌よ』と言っていた。きっと、ママのママから教わった歌なのだ。私がママを大好きなように、ママはママのママが大好きだから。


5-5

「そろそろ考えないか」

 吉永英二とのデートの帰り道。駅まで続く歩道を歩きながら、何気なさを装って英二が訊いてきた。もちろん、英二が何を考えないかと言ったのかは千尋もわかっている。二人の結婚のことだ。

 英二と付き合い始めて間もなく3年になる。英二が今年31歳で、千尋が27歳だから、お互いまさに結婚適齢期にいる。英二は男としての責任を果たそうと思っているのだ。千尋は英二のことが好きだったし、本来は喜ぶべきところだ。だが、千尋には常に母親のことが頭にあって最後の一歩が踏み出せない。

「う~ん、そうねえ…」

 言葉を濁した。このまま先延ばしにすれば英二は千尋に他に好きな男がいるのではないかとか、へんな誤解をして自分の元を離れていくとわかっているのに…。

 考えて見れば、千尋の煮え切らない態度に今までも何人かの彼氏が自分の元を去って行った。それでも、これまで付き合ってきた人には母の精神疾患のことは話せなかった。話せば理解してくれた人もいたかもしれなかったのだけど、千尋本人が自制してしまった。なぜだろう。自分では母を守るためだと思ってきたけれど、本当のところは自分を守るためだったのかもしれない。

「そうねえって。最近、この話になるといつもそうやってはぐらかそうとするよね。なぜ? ひょっとして僕のことが嫌いになった?」

「ううん。そんなことない。英二のことはずっと好きだし、もちろん、今この瞬間も好きよ」

「だったら、なぜ?」

 英二がそう思うのも無理はなかった。

「母のことが…」

 千尋は話す覚悟を決めた。母のことを話したことで別れが訪れたとしても、話さないで別れることになるほうが後悔が大きいと思えたのだ。英二はそれほどに千尋にとって大事な存在になっていた。

「お母さんのこと?」

「うん」

「体調が良くないとは聞いているけど?」

「うん。今まではそうとしか話してこなかったからね。でも、今日は全部話すことにした。それで英二が私の元を離れていったとしても、英二のことを恨まないから安心して」

「何、何、何? まだ何も聞いていないのにそんなことまで言われても…」

「そうよね。ごめんなさい。今までなかなか言えなかったんだけど…、実は母は精神疾患にかかっているの。わりと激しいうつ病」

「そう…」

 英二は悲しそうな顔をした。やはり聞きたくないことだったのか…。

「ということだから…」

 別れるつもりで、そう言った。

「ん? 誤解した? 僕は千尋がこれまで話してくれなかったことが少し寂しかっただけ。僕が千尋を愛するということは、その千尋を愛するお母さんも愛するということ。だから、隠す必要なんかなかったんだよ。お母さんのこと、これからは千尋と僕の二人でサポートしていこう」

「英二、ありがとう」

 そこまで言ってくれた英二に心から感謝した。

「当たり前のことだよ。それより、千尋が今まで僕に話せずずっと一人で抱えていたことに気づいてあげられなくて、ごめんね」

 なんと優しい人なのだろう。英二という人間を信じ切ることができなかった千尋に非があるのに、英二は自分を責めている。この人と結婚したい。

「ううん。私、あなたに出会えて幸せ。でも、結婚のことはもう少しだけ考えさせて」

「そうか。わかった。待ってるよ」

「ごめんね」

「謝る必要はないさ。大事なことだから、ちゃんと考えて結論を出してくれればいいよ」

「ありがとう」

 母のことがネックではあったものの、千尋はいずれ近いうちに英二と結婚することになるだろうと思っていた。


5-6

「千尋、ママ今日病院へ行かなくちゃね」

 ママからこの言葉を聞いた時、千尋は激しく動揺した。

「何言ってるの、ママ。昨日行ったじゃない」

 ママに自分の動揺を悟られないように不自然に明るく言ったけれど、頭の中ではもしや認知症ではないかという思いにとらわれた。

 千尋がママの様子に異変を感じたのは、この時が初めてだった。後になって思えば、もっと前から兆候があったように思う。でも、その時は年齢のせいでちょっとボケたくらいにしか思えなかったのだ。

 ママのことが好きで、ママのすべてを理解しているつもりでいたのに気づけなかった自分を責めた。もしかしたら、少々早く気づいていたとしても事態はそう変わらなかったかもしれないけれど、やはり後悔が残った。

 もちろん、現段階ではあくまでも疑いのレベルではある。まずは病院で診察を受ける必要があったが、その前に今母が通っている病院の医師に相談してみることにする。事前に予約をとり、ママに内緒で一人で病院に行く。いつもママと来ている病院ではあったが、一人で来るとなるとなぜか心細い。

「母のことなんですけど」

 いつもママがお世話になっている影山先生にそう切り出した千尋であったが、すでに自分が涙ぐんでしまっていることに気づく。

「どうされましたか?」

「すみません」

 目頭を拭って続ける。

「母が認知症になってしまったみたいなんです」

 気が動転していたせいか決めつけた言い方になっていた。

「う~ん。どんなことがあったのか話してもらわないとね」

 ちょっと呆れたように言われ、心を落ち着かせねばと思う。

「すみません。動揺してしまったものですから」

「気持ちはわかります。まずは詳しく話してください」

 そう言われて、先日の出来事を話す。

「それだけでは何とも言えないですが、疑いはあるかもしれませんね。心配なら一度専門医に診てもらったらどうでしょう」

「専門医ですか」

「うちの脳外科にもいますよ」

「そうですか」

「もしご希望でしたら、私のほうから話をしておきますが、どうします?」

「ぜひお願いします」

 同じ病院で診てもらえるのはありがたかった。影山先生がすぐに専門医にコンタクトをとってくれて、来月の定例診察時に同席してくれることになった。

 当日、通常の診察が終わったところで影山先生からママに話をしてくれた。

「相川さん、私の診察はこれで終わりなんですけど、今日はちょっと検査をしますね。脳の老化が始まる年齢でもありますし、万が一脳の病気があってもいけないので」

 そう言われたママは急に不安げな顔になって、自分のほうを見る。

「ママ、大丈夫だから」

 首だけで頷くママ。

「じゃあ、いいですか」

「はい。お願いします」

 ママの代わりに千尋が答える。

「わかりました。で、検査は私ではなく専門の先生がやりますので代わりますね。田中先生お願いします」

 影山医師が奥に声をかけると、交代で現れたのは50代前半と思われる柔和な顔をした背の高い医師だった。

「どうも、田中です」

 にこやかに挨拶されたが、ママは硬い顔をしたまま軽く頭を下げただけだった。

「お願いします。私、娘の千尋といいます」

「わかりました。ご苦労様です。それでは、お母さんにはこれからいろんな検査を受けていただきますので、娘さんはいったん外でお待ちいただけますか。終わりましたら声をかけますので」

「はい」

 千尋が田中医師に言われた通り診察室の外の待合室で待っていると、ママは看護師に連れられて何度か診察室を出入りしていた。どうやら、別フロアーでの検査も受けているようである。

 そして、およそ2時間後に再び診察室に呼ばれた。中に入ると、疲れた顔をしたママが千尋を見上げた。

「検査は終わりましたよ。じゃあ、今度はお母さんに外で待ってもらいましょうか。水田さん頼む」

 斜め後ろに立つ看護師に声をかける。ママはその看護師に連れられて外に出た。

「先生、どうだったんでしょうか?」

「若年性アルツハイマー型認知症ですね。まだ軽度ではありますが、恐らく発症からすでに2年程度経っているかと思います」

「2年もですか」

 再び後悔の念にさらされる。すでに2年も経っていたなんて…。

「先生、この先母はどうなってしまうんでしょうか?」

 すがる思いで訊く。

「相川さん、落ち着きましょう。誰よりも不安なのはご本人です。ですから、ご家族はご本人を支えることを第一に考えてください」

「はい。わかりました」

 先生に言われて初めて気づく。誰よりもママ自身がが不安なのだ。しっかりしなければ。

「最初にお話ししておきますと、アルツハイマー型認知症というのは、わかりやすく言えば脳の細胞が次第に破壊されていくものですから完治はできないことを知ってください」

「はい」

 自分なりに調べてわかっていたことだったが、改めて言われると辛い。

「症状の現われ方や悪化の速度は人によってそれぞれですが、8年から10年くらいかけて徐々に進行していくケースが多いです.。ただ、10年以上に亘る場合もありますので、予め頭には入れておいてください」

 その間、本人も家族も苦しむだけなのか。

「そうですか…。すると、治療というのはどうなるのでしょう?」

「まずは進行を抑えたり、症状を軽減するための薬物療法、つまり薬の処方があります。お母さんの場合、すでに精神薬を飲んでおられるので、それと併用になります。薬物療法以外でも脳に刺激を与える認知機能のリハビリテーションや家事などの生活リハビリテーション、さらには音楽療法などもあります」

 医学の進歩によってさまざまな治療法が生み出されているみたいだけど、それでもただ進行を遅らせることしかできないと思うと辛い。

「わかりました。先生、私はどうすればいいのでしょうか」

「先ほども言いましたが、まずは一番不安なのはご本人だということをしっかり認識してください。その上で、ご本人の行動をよく観察することです。自分の口ではうまく伝えられないことも出てきますので、なんとなく気分が上の空だなと思ったら、外出したいのか、トイレに行きたいのか、ごはんを食べたいのかと、小さな変化を見逃さないようにすることです。末期になると別なのですが、認知症になっても中期くらいまでは、できることはあります。ですので、何もできないと叱ったり、決めつけたりしないで、ご本人の意思をくみ取るようにしてください。とはいえ、進行状況に応じていろいろ出てくると思いますので、その都度ご相談ください」

「ありがとうございます」

「それから、あなたがお一人で抱えるのではなく、早い段階から周囲の理解を得たり、ご本人に合わせた介護サービスを積極的に利用することです。さらに言えば、末期になると施設への入所も考えられます。今のうちから、そうした際の心の準備や情報集めもしておくことです。ご理解いただけましたか?」

「はい、よく理解できました」

「今私がお話したような注意点をまとめた冊子を、お帰りの際に看護師のほうからお渡ししますから、必要に応じてご覧ください」

「ご親切にありがとうございます。それで先生、今日の診断結果はどう本人に告げたらいいんでしょう」

 とても自分の口からは話せないと思った。

「ああ。それはこの後、私からご本人に直接お話しします」

「ありがとございます」

 外で待っていたママが看護師に呼ばれて診察室に戻ってきた。千尋は入れ違いに再び外に出る。

 約30分後に看護師が千尋を呼びに来た。診察室に入るとママがこちらを見た。その顔は『助けて』と叫んでいるように見え、千尋は胸が苦しくなった。ママに近づき、そっとママの手を握る。

「今、お母さんにお話ししました」

「そうですか…。ママ、私がずっと傍にいるからね」

 ママは小さく頷いた。

「今お母さんにもお話したのですが、認知症と言われると不安になるかと思いますが、あまり深刻になり過ぎるのもよくないです。お薬やいろんな治療法もありますので、これからはそれを受けていただくことになります。では、頑張りましょう。いいですか、お母さん」

 ママの不安を軽くしようと努めて明るい口調で話してくれた。

「はい」

 強張ったままのママが小声で返事をした。

病院を出ると、太陽が眩しかった。辺りには新緑の清々しい空気が満ちていた。けれど、二人にとっては、それさえも感じとれなかった。

「ねえ、ママ。餃子でも食べて行く?」

 帰り道の途中にある餃子の有名店で、いつも病院帰りに寄る店だ。

「ううん。帰りたい」

 少しでも気分が晴れればと思ったが、やはり無理だった。

「そうか。そうだね」

 その後、会話がないまま電車に乗り、最寄り駅を降り、家までただ歩いた。何か言葉をかければよかったのかもしれなかったが、なんといっていいかわからなかった。

「千尋、ママ、怖い」

 家に帰ったママの第一声である。焦点の合わぬ目の奥に絶望が読み取れた。離婚した後、ママは辛く苦しい思いしかしてこなかった。それなのに、この先にママに待っている暗闇を想うと、暗澹たる気持ちになる。

 自分の記憶が次第に失われていくというということは、毎日少しずつ死んでいくことに等しい。全てのものから存在の理由をはぎとる、そんな残酷さに私たち親子は足元を掬われることになるのだ。

「ママ、私がついているから」

 自分が本当に言いたいこととは別のことを言っていた。

 ママの感じているであろう恐怖と不安は自分のものでもあった。

 迷子になった子供のように心細くなった。

 「うん」

 千尋の何の意味もない言葉に、ママはそう答えたけれど、ママの目は暗闇の先のもう一つの暗闇を見つめていた。

「何か飲む?」

 無駄な言葉にすがろうとした。

「一人にして」

 くぐもった声で言って自分の部屋に入ってしまったママ。

 一人残された千尋を空疎な静けさが取り囲む。脳味噌の中を走っている無数のか細い神経が一斉に痙攣を引き起こす。泣きたいけど、泣くことすら許されない、この先の二人の人生を想うと、誰かの悪意を一身に受けているのではと考えたくもなる。

 翌日になり、やや落ち着いた頭で、千尋は恐らく長い闘いになるであろうママの認知症のことを考えた。田中医師のアドバイスがあったように、いずれ頼むことになる介護サービスや、さらにその先の介護施設のことなどについても今のうちから調べておかなければいけないと改めて思う。

 そういうさまざまなことを考える中で、千尋は英二との結婚を諦めることにした。恐らく、英二に言えば今回も一緒に頑張ろうと言ってくれると思う。でも、いやだからこそ英二には私とではなく、もっと平凡な人とありふれた幸せをつかんでほしい。英二を巻き込みたくない。ママとともに最後まで闘うのは自分一人でいい。そう思ったのだ。


5-7

 ママと二人で最後まで闘うという強い覚悟を持って始めた介護だったけれど、その覚悟をもってしても認知症を患った家族を介護するという現実の厳しさは想像をはるかに超えるものだと知ることになった。

 当初は計算がしずらくなるとか、お金の管理が難しくなるといったことはあるものの、千尋が仕事をしている間一人で過ごし食事の支度もできていた。なので、千尋の仕事にも影響はなかったが、次第に家に帰っても支度は中途でできていなく、本人も食事をしていない感じが出てきた。症状は徐々に徐々に進行して行った。田中先生からは、一人ひとり症状や進行度合いは異なると聞かされていたが、ママの場合、軽度から中等度までの進行は割とゆっくりだったといえる。

 だが、次第に料理、洗濯などの家事全般ができなくなり、自分の名前は憶えていても生い立ちは思い出せなくなった。さらに、表情がなくなり、何を考えているのか、何も考えていないのか、それとも何も考えられないのかがわからなくなった。

 じっとしていられず常に歩き回るなどの症状が出始め、千尋は自分一人の介護に限界を感じるに至り、介護サービスを利用することにした。同時に会社を辞め、自宅でできる仕事に切り替えた。収入は半減したがやむを得なかった。もう一度生活保護を受けることも考えたが、当時少なからず感じていた負い目のようなものを再び味わいたくなかったので、申請を諦めた。

 千尋が一日家にいるようになったことで、家事全般は自分がやるので心配はなくなった。しかし、一方で顔を合わせる機会が増えたことでママと衝突することが多くなってしまった。認知症の進行に伴い、ママの性格が大きく変わってしまったことが原因だった。元々のママはおおらかで穏やかな人だったが、今は短気で、一度言い出したら人の話を聞かないワガママな子供のようになっていた。なので、ちょっとしたことで怒り出し、手がつけられなくなる。病気なのだからと自分に言い聞かせて、できるだけ刺激を与えないようにしているが、それにも限界があった。

 田中先生や介護ヘルパーさんのアドバイスを受けながらなんとかやっていたが、ママの症状はさらに悪化していった。

「出て行け」

 これまで聞いたことがないような大きな声で自室の外に向けて怒鳴る。今日介護ヘルパーさんに来てもらうことは昨夜ママに話してあったのだけど、その記憶が消えていたのだろう。その場で改めて中にいるママに説明する。

「そんなの聞いてない。嘘つき」

 再び怒鳴る。ヘルパーさんはこうした状況に慣れていると見えて、とりあえず帰りますと言って出て行った。

 最近では被害妄想が激しくなり千尋に対しても暴言や暴力が増えていた。感情がコントロールできなくなり、本人の意思や元々の性格に関係なく恐怖や怒りで興奮してしまうものらしい。こんな時は押さえつけたり、叱ったりするのではなく、可能な限り距離を取るように言われている。 

 千尋自身も次第に介護疲れに伴う精神的に不安定な症状が現れ始めた。常にイライラしていたり、急に不安に襲われたりといったことが起こり出した。田中先生に相談したところ、そういう状態で介護するとママにも影響が出るからと今では薬をもらって飲んでいる始末である。

 田中先生から認知症家族会という団体があるから尋ねてみるといいと言われ行ってみた。そこで行われている『つどい』では、認知症の家族の介護をしている人たちが集まり、日ごろの悩みや情報交換なども行っている。千尋も参加してみて、悩んだり苦しんでいるのは自分だけじゃないとわかって、少し気持ちが楽になった。でも残念ながら、その効果は一時的なもので、自宅に戻ると厳しい現実が待っていた。本当は常に傍に頼れる人がいてくれたらいいのだけど…。

 一瞬千尋の頭に英二の顔が浮かんだ。しかし、自分の意思で別れたはずではないか。あの時…

「今度は何? てっきり結婚OKの返事を聞かせてくれるのかと思ったらさあ」

 千尋が別れを切り出したのが意外だったようで、英二は納得できる理由を知りたがった。本当は理由を告げずに別れるつもりだったが、そうもいかなくなっていた。

「本当にごめんさい。ママが認知症とわかったの」

「認知症?」

「そう。しかも、すでに結構進行していたの」

「だから?」

 案の定、英二は認知症と聞いても驚かなかった。

「英二にはわからないと思うけど認知症の介護は並大抵のことではないの」

「うん。それで?」

「だから、私は介護に専念したいし、そんな介護に英二を巻き込みたくない」

「前にも言ったと思うけど、僕はどんな状態でも受け止めるつもりだよ」

「駄目よ。きっとママだけでなく私もおかしくなると思う。大好きなあなたにも何もしてあげられなくなるくらいなら、別れたいの。許して、お願い」

 千尋の言葉を聞いて、英二は静かに考え込んでいた。

「わかった。とにかく一度別れよう。ただ、一人の友人として僕に何かできることがあったら、その時は連絡して」

 英二は千尋のほうからまた自分を必要としてくると思っていたのだろう。最後まで優しい英二だった。

「ありがとう」 

 もちろん、その日を境に千尋は英二とは一切の連絡を断った。

 小学校5年生の時の初恋の相手の寛との切ない別れが思い出された。英二は寛によく似ていた。もし寛が大人になったら、きっとこんな感じになったのではないかと想像した。だから、英二を好きになった。だから、英二は千尋にとって特別な存在だった。

 あれからすでに13年近く経つ。英二と過ごした時間は、もはや夢の中の出来事のように遠くなってしまったけれど、本当は今こそ英二のような人に傍にいてほしい。

 しかし、現実は冷酷だった。ついに恐れていたことが起きてしまったのだ。

 朝起きたママの洗顔の介助のために洗面所まで一緒に行った時だ。ママは鏡に映った自分の姿を見て『この人誰』と言ったのだ。千尋の体に戦慄が走った。

「ママ…」

 その後、なんと言葉を続けたらよいかわからなかった。

「ママって誰?」

 最初どういう意味なのかわからなかった。だが、すぐに気づく。

「ねえ、ママ。わからないの。あなたは私の大事なママよ」

「ふ~ん。で、お前は誰なんだい」

 世界がぐるりと反転したように思えた。その場に立っていられないほどの衝撃が走る。 

 それでも、千尋は願いを込めて言った。

「今までずっと一緒にいたでしょう。私はあなたの娘よ」

「ふ~ん」

 反応らしい反応ではなかった。恐らくわかっていない。泣きたくなかったけれど、涙が出ていた。

「何泣いてるのよ」 

 鬱陶しそうに言われる。何とか洗顔を済ませ、ママを部屋まで連れて行った後、千尋はその場を逃げるように自室に戻った。部屋に入ったとたん、じんわりと悲しみがせりあがってきて、その場に崩れ落ちて号泣した。

 いつかこんな日が来ると覚悟はしていたけれど、実際にその場面に遭遇すると、ただただ打ちのめされるだけだった。その時の自分には答えを見つける力がなかった。

 壁時計の秒針が時を刻む音だけがやけに大きく響いている。視界から色が消えていくのを感じる。心が寒くなる。目をきつく閉じ、確かに存在していた記憶の中で優しくて、可愛らしいママを再現していたら、時間の感覚が曖昧になり心が鎮まっていくのがわかった。  

 ママが私のことを忘れても、私はママのことを一生忘れないと心に言い聞かせる。

 どれほどの時間そうしていたかはわからなかったが、介護に休みはないと気づく。何とか気持ちを切り替えてその日は乗り切った。

 しかし、ママに自分のことを忘れられた悲しさ、寂しさ、悔しさは千尋の心も身体も蝕んでいた。ママの姿かたちはしているけれどママではないママの介護を、何の感情も入れずに機械的に行うことで、かろうじてやり遂げていたが、暴言も暴力も激しさを増してきていた。それはまるで、私にだけ気を許す野獣みたいだった。千尋はすでに限界に達していた。

「お前なんかいなくなれ」

 何が気に入らなかったのか、そう言ってママの姿をした女が千尋を突き飛ばした。反動で倒れ込んだ千尋は、無言で立ち上がり、女に近づき、すばやく首に手を回して思い切り締め上げた。骨がきしむ音が聞こえたような気がする。濁った暗い沼のような瞳の女は一瞬怯み、細く筋張った指を千尋の手に絡めて少しばかり抵抗したが、すぐに受け入れた。その瞬間心がふっと軽くなった。二人とも最後の静けさを望んでいた。

「介護疲れだったんだな」

 刑事にそう言われ、千尋は無言で頷いた。何ひとつ反論するつもりはなかった。わかってもらえるはずもなかったから。

 刑事はさらに話しかけてくる。千尋は適当に相槌をうちながら、自宅のベランダで今頃咲いているであろうさくら草のことをぼんやりと考えていた。ママはママでなくなってから、さくら草にはまったく興味を示さなくなったが、千尋は忘れていなかった。

「ちゃんと聞いているのか」

 刑事の言葉に我に返る。

「はい。すいません」

 千尋は自分が殺したのはママではないと思っている、ママの姿をした、ママに乗り移ったあの女を殺すことで、ママを取り戻したかっただけだ。事実、断末魔のあの女が息絶える瞬間に、ママの顔に戻り、口の形で『ありがとう』と言って、一滴の雫が落ちた。未来に向かって手を差し出すことすら許されなかった私の人生も、あの時に終わっていた。

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