第2話 「僕はまだ流れていますお母さん」(寺岡祐輔)

2-1

 列車がまるで深い海の底を泳ぐ魚のように地下ホームを離れ、徐々にスピードをあげていく。冬の斜めの濃い陽射しが窓から注いでくる。平日の午後の新幹線は6分程度の乗客しかいなかった。しかも、そのほとんどは出張のサラリーマンのようであった。窓側の席に座り、目を外に向けるが何も目に入ってこない。

 実家に住む3つ上の姉の咲子から会社に電話が入ったのは、午後1時を少し過ぎた頃だった。

「松永さん、太田さんという人から電話です」

「太田さん?」

 太田と言われ、3人の顔が浮かんだ。一人は取引先企業の担当者。もう一人は山登りの仲間。そして最後の一人が実家の姉。

「はい、松永です」

「敏樹?」

 その声ですぐにわかった。実家の次女の咲子だった。結婚して太田姓になっていた。

「そうだけど?」

 姉が会社に電話をかけてくること自体初めてだったので、嫌な予感がした。長期間入院している母方の祖母のことが頭に浮かんだ。

「敏樹、落ち着いて聞いてね」

 そう言う姉の声が落ち着きを失っていて、切迫感があった。

「わかった。で、なんかあった?」

「母さんが、母さんが突然倒れ、危篤になった」

 事務所にいるのに、黒い小さな鳥が目の前を飛び去ったような気がした。あまりの衝撃に敏樹は受話器を持ったまま言葉を失った。半年前の夏休みに帰った時、母は至極元気だった。それだけに、想像もしていなかった。

「敏樹、敏樹、聞いてる?」

 電話の向こうで懸命に自分の名を呼ぶ姉の声に我に返る。

「ああ。か、かあさんが…」

 急に胸が苦しくなった。自分は確かに立っているが、妙に頼りない。

「お医者さんが言うには、今夜が山だって。だから、帰ってきてほしいの。母さんが一番会いたがっているのは、あんただから」

「わかった。すぐに行く」

 母が救急車で運ばれた病院の名前と場所を控え、直属の上司である富永部長に事情を話したところ、早退を許された。とるものもとりあえず、敏樹は一番近い上野駅までタクシーを飛ばした。駅に着くと、一番早く出発する新青森行きの新幹線の乗車券と指定席券を買ってホームへ上がり、停車していた列車に乗った。

 走り出した列車の車窓から外に目を向けると、ちょうど陽が沈みかけているところだった。空は鮮やかな茜色に染まり、太陽が最後の力を振り絞り地球に注いでいる。光に照らされた田園は、この世のものとは思えぬ美しさだった。今日という日が自分にとっては特別な日だからそう感じられるのかもしれないが…。

 しばらくして、敏樹は座席のテーブルの上に乗車する前に買った駅弁を出して置いた。先方に着いたら食事をする機会などないはずだから、今このタイミングで済ませておかねばと思ったからだ。しかし、いざ紐をとき広げて見て、今の自分には食欲がまったくないことを知る。少しでも食べておかねばと箸を持ってみたものの、やはりダメだった。思いの外自分は参っている。もう少し時間が経てば食欲も出るかもしれないと、いったん弁当を鞄にしまう。

 携帯が鳴りメールが届いたことを報せた。姉からだった。

『何時頃着きそう』

 慌てて事務所を飛び出してきたから、姉に連絡を入れることを忘れていた。列車の到着時刻と、そこから病院までのタクシーの乗車時間などを計算して返信する。

『午後6時半くらいまでには着けると思う』

 本当は母の様子も訊きたかったが、訊くのが怖くて訊けなかった。ただ、姉のメールは少なくとも母はまだ息を引き取ってないことを示していたので、そのことにすがった。

 封印していた無残な思い出のいくつかが蘇えり、遠い日の影絵が動く。粘りつくような罪悪感に襲われ、喉の内側がはれ上がっているかのように息苦しい。

 敏樹は小さい頃おとなしくて引っ込み思案の子だったようだ。へんに大きな体を近所の子にからかわれ、姉に助けを求めることもしばしばだったという。もちろん、本人にその頃の記憶などないのだが。

 それが、成長するにつれ、問題児に変わってしまったのだ。二人の姉はともに地域でも知られた優等生だったから、それへの反抗心だったのかもしれない。また、同級生の中でも飛びぬけて体格が良かったことも、自分の『強さ』に自信を持つ裏付けになったのかもしれない。しかし、一番の問題は、誰に似たのか、性格がひどくひねくれていたことだ。両親も二人の姉も極めて常識人だったから、家庭内でも誰も理解してくれなかった。

 その片鱗が現れたのは、小学校に上がってからだ。

 クラスでいじめにあっている子がいると、いじめた側の子たちを自分の腕力で威圧してしまう。何せ体力には自信があったので、決して負けないのだ。とはいえ、暴力は暴力。

 そんな時は母とともに相手の家に謝りに行った。その場でも、突っ立ったまま、なかなか頭を下げない自分の横で、母は何度も何度も頭を下げていた。でも、当時の自分は悪いことをしたのは相手のほうであって、自分はまったく悪くないのにも関わらずひたすら頭を下げる母の姿がひどくみすぼらしく、情けないものに思えた。だから、ずっと母を軽蔑していた。

 こんなことが、一度ならずたびたびあった。自分の正義感に反する出来事が起こるたびに我慢できず、相手に手を出してしまうからだ。相手に手を出す正義感など正当化できるものではないと、今ならわかるけれど…。

 そのたびに母の謝る姿を見ることになり、母への軽蔑はさらに増幅していき、結果、さらに母を困らせることで母への仕返しをするという悪循環に陥ってしまったのだ。

 母への軽蔑というのは、自分のことをわかってくれないということへの歪んだ思いだったのだろう。しかし、今思い返すと、母は相手の母親にひたすら頭を下げた帰り道、私を責めたり、怒ったりしたことは一度もなかった。むしろ、何事もなかったかのように振舞った。

「敏樹、お腹すいたろう。ラーメンでも食べて帰ろうか」

 そんな言葉を投げかけてくることがほとんどだった。しかし、母の態度に納得していなかった私は返事しないことで母への反抗心を示していた。

「ねえ敏樹、いつまでそんな顔しているんだい。ラーメンでも食べて機嫌直しなさい」

 二度目の提案でたいてい自分の抵抗も終わりをとげるのが恒例だった。なにせ食べ盛りの敏樹は食欲には勝てなかった

 小学校でも中学校でも目立つ存在になっていた敏樹は、上級生や他校の生徒たちの作る不良グループから目をつけられるようになっていた。何かといえば因縁をつけてくるし、校門を出たところに複数人で待ち伏せされたこともある。そうしたことには、できるだけ無視していたが、いつの間にかあるグループのリーダーに祭り上げられていた。そうなると、生来生真面目な敏樹は悪いことをしているとわかっていてもメンバーを守ろうとしてしまうのだった。結果、いくつかの傷害事件の関係者として警察のお世話になることになるのである。

 そんな時も母は子供の頃と同じように警察に現れ、担当の警察官にひたすら頭を下げた。そんな母に、自分の心が痛まなかったのかと言われれば痛んでいたが、悪ぶっていた自分はそんなことは素振りにも見せなかった。

「敏樹、ラーメンでも食べて帰るか」

 子供の頃と同じ台詞を繰り返す母が鬱陶しくて、自分一人で家まで帰った。家に帰って父親からはこっぴどく怒られたが、そんな時も母はいつでも自分を擁護してくれた。

 高校に入った頃にはいくらかましにはなっていたが、それでも決して『普通』の高校生ではなかった。付き合っていた仲間が悪かったのだろう。その後もいろいろなことで母には迷惑をかけ続けた。

 そんな母が今死の床にいる。母に対して自分は親孝行をするどころか心配と迷惑しかかけてこなかった。それなのに…、それなのに…。自分はこれまで一度たりとも母に謝ったこともなければ、感謝の意を表したこともなったのだ。


2-2

「次は仙台」

 車内アナウンスの声が響く。仙台駅で降りる乗客が立ち上がって棚の荷物を下ろしている。

 間もなく中間地点に着くことになる。窓の外はすっかり夜の静寂に包まれていた。列車は徐々にスピードを落とし駅へと滑り込んでいく。

『母はまだ大丈夫だろうか』

 不安な気持ちに襲われる。

 仙台駅で降りる客と入れ替わりに新たな客が乗り込んでくる。

「みんな、こっち、こっち」

 敏樹のすぐ後ろの席で若い女の子たちの声が聞こえる。

「ねえ、まやちゃん、駅弁持っててよ」

「はい、はい。ゆみこったら、いつも私の事、コキ使うんだから」

 4人組のスキーヤーらしき若い女の子のグループは、着席してからも他愛ない会話を交わしていて、笑い声が絶えない。もちろん、彼女たちには何の罪もないが、聞くつもりがなくとも聞こえてくるその、どうでもいい会話は敏樹の神経を尖らせてしまう。

 ゆっくりと走り出した列車が再びスピードをあげ、いくつかの駅を過ぎたあたりで彼女たちも話し疲れたのか眠りについたようだった。

 敏樹は再び回想の中に入る。

 大学はそこそこ名の知れた私大に入った。1年生の時はそれなりに授業にも出ていたが、次第に興味を失っていた。もともと何かやりたいことがあって入学したわけではない。もちろん、周りにもそうした学生は多くいたが、それでもそれなりに大学生活を楽しんでいるようだった。しかし、敏樹にはそんな器用な生き方はできなかった。目的のない大学生活は無意味であり、ひどく時間もお金も無駄遣いをしているように思えた。そんなこともあり、二年生になった頃からアルバイトに精を出すようになる。いろんな職種のアルバイトを経験したが、時給が比較的高かったことと、自分の性格に合っているという理由で水商売のバイトにどっぷり浸かることになる。

「敏樹、ちゃんと大学に行ってるの?」

 二年生の夏休みに自宅に帰った時、次女の咲子から言われた。髪をオールバックにして、学生にしては派手な服装をしていた敏樹に違和感を感じたのであろう。

「ああ。行ってるよ。うるさいなあ」

 今後どうするか、自分の中でも迷っていた時期だったからうるさく感じたのであろう。

「うるさいな、はないでしょう。お母さんが心配してたから私が代わりに言ったのよ。まさか止めるとかないでしょうね。あんたはうちで唯一の男の子だから、お母さん期待してるのよ。またお母さんを悲しめることだけはしないでよね」

「だから、わかってるって」

 母の気持ちも、その母を思いやる姉の気持ちもわかっていた。だから悩んでいたのだから。しかし、結局、敏樹は大学を中退してしまった。

 アルバイト先のクラブでホステスをしていた松宮茜を妊娠させた責任をとる形で結婚することにしたからだ。ここでも、ものの見事に母親の願いを砕いてしまった。

 父親は激怒し、勘当扱いをされることになる。あの時、母がどんな思いでいたかは聞いたことがないのでわからない。

 私たち夫婦は中野のはずれの古いアパートで新婚生活を始めた。貧しいけれど、いや貧しいからこそ懸命に生きていたように思う。そんな夫婦を、母は父に内緒で東京に出てきては世話をやいてくれた。生活費の足しになればとお金を置いていくこともあった。ただ、水商売で働いていた妻と田舎者の母が合うはずもなく、どことなくちぐはぐだったことは間違いない。


2-3

 事件が起きたのは結婚5年後だった。妻の茜が浮気をした。ちょっかいを出したのは、かつて敏樹と同じ店で敏樹の下で働いていたバーテンダーの沼田義則という男。

 益田という常連のお客様が、妻によく似た女が六本木のクラブで若い男と踊っていたのを見たと教えてくれた。益田は気を遣って『よく似た』と言っていたが、益田はもともと茜のファンでよく指名していたから見間違うはずないのだ。そう言われれば、最近妻の様子は少しおかしかった。妙にぼおっとしていたり、わけもなく子供に当たっていたり、なんとなくそわそわしていることがあった。敏樹は妻が子育てに悩んでいたり、ストレスを抱えているせいかと思い、時々やってくる母に育児のことを相談してみてはどうかと話したら、逆切れされた。

「冗談やめてよ。お義母さんになんか相談したくもない。だいたい、来なくてもいいのに、しょっちゅうやってきて、すごく迷惑なんだから。田舎の古い考え方なんか今じゃ通用しないんだから勘弁してよね」

 一気にまくしたてた。妻の虫の居所が悪く、思わず言ってしまった言葉だったかもしれないが、これが本音なのだろう。水商売で働いていた妻にとって、田舎者の母は鬱陶しいだけだったのだ。母は決して頭が悪くなかったから、妻が自分のことを嫌いなのはわかっていたはずだ。それでも、かいがいしくやってくる母を責めることなど敏樹にはできなかった。

 妻も大人なのだから、それなりに受け入れていると思っていたが、考えが甘かった。妻の気持ちももっと前から汲んでやるべきだったのかもしれないと後に反省したが、その時は母を田舎者とバカにされたような気がして、敏樹は妻の頬をはたいた。

「何するのよ」

 傷ついた野獣のような叫び声だった。

 手加減したつもりだったが、体格で数段上回る敏樹の平手打ちは妻の頬を一瞬にして赤く染めた。拭った唇には少しだが血が見えた。

 母が田舎者であることは確かだったが、ほかでもない妻から面と向かってそう言われると、母だけでなく自分の家族すべてに対して言われたように思え、耐えられなかったのだ。

「すまん」

 手をあげてしまったことに対して謝ったが、それは自分でも他人事のように冷めた声だと気づく。

「最低」

 薄い唇がわななくように震えていた。その日から妻の口数は極端に減った。

 妻がどの段階で浮気を始めたかはわからないが、その原因や責任の一端は自分にもあると理解している。だからといって、浮気は許せなかった。

 しかし、妻を問い詰めるにしても証拠が必要だった。できることなら自分の手で証拠をつかみたかったが、自分が仕事に出ている間にしているわけで自分ではどうしようもなかった。そこで、探偵事務所を使うことにした。30万円という調査費用は敏樹にとっても痛かったが依頼することにした。結果は黒。しかも、真っ黒だった。浮気相手が沼田と知らされた時、敏樹は大きなショックを受けた。沼田が一人前のバーテンダーになるまで敏樹が面倒見た、可愛い後輩だったのだから。怒りの矛先は、妻を越えて沼田に向かってしまったのはこのせいだろう。

 探偵事務所から調査報告書を受け取ってから初めての休日を迎えたのが3日後。朝から敏樹は落ち着かなかった。この日に妻に浮気の事実を突きつけるつもりにしていたからだ。それとなしに妻の様子を見ると、妻のほうもそわそわしているように見えた。今日も何か理由をつけて沼田と会うつもりなのか。

「今日どこかへ出かける予定でもあるのか?」

 何気なさを装って言う。

「何で?」

 妻のほうは何かを察したのか、攻撃的な声だった。

「さっきからそわそわしてるからさ」

 言い当てられ、バツが悪いのか、妻は慌てて否定した。

「そんなことないから」

「あっ、そう。ならちょうどいい。お前に話したいことがあるから、午後は時間を空けといてくれ」

 敏樹の言葉に妻は不安そうな表情を浮かべる。

「話って、何よ?」

「だから、それはその時に話す」

「ふ~ん。なんか感じ悪い」

 妻は明らかに動揺していたが、その動揺を悟られないように必死に耐えている感じだった。

「私、お昼ごはんの材料を買いに行ってくるから美香ちゃんを見ていて」

 居ても立っても居られない様子の妻は、娘の美香を敏樹に預け、さっさと家を出て行った。恐らく、沼田に電話をするためだろう。

 昼食を終え、美香を寝かしつけた妻が敏樹が待っているダイニングテーブルにやってきた。当時住んでいたアパートの部屋にはリビングなどなかったから、何か話がある時はいつもダイニングテーブルに向かい合ってしていた。

 妻の顔は心なしか青白く強張っていた。

「話って、何?」

 不安を打ち消したいのであろう、敏樹に対して挑戦的な目を向ける。

「お前、俺に何か隠していることないか?」

 妻は敏樹の顔をじっと見た。恐らく、本人の中でも今葛藤しているのであろう。

「ないよ」

 力強く言い切った。一瞬信じたいと思った。

「ほんとうか?」

「ほんとうだよ」

 あくまで白を切るつもりらしい。敏樹が証拠を握っているとは思っていないのだろう。

「そうか…。俺はできればお前の口から話してほしかったけど、しょうがないな。そこでちょっと待っててくれ」

 敏樹は自分の鞄の中に入っている調査報告書を取りに行くために、隣室に向かう。その際に妻の背中が見えた。その背中はなんだか妙に寂しげに見えた。自分が妻にひどい仕打ちをしようとしているような錯覚に陥るが、慌てて否定する。

「ここにすべてが書かれている」

 調査報告書を妻の前に置く。

「探偵事務所…」

 妻は表紙を眺めたまま固まっている。

「中を見ろよ」

「あなた、探偵事務所なんか使って私のことを調べたの。ひどい」

「ひどい? ひどいことをしたのはそっちのほうだろう」

 自分のことを棚に上げ、敏樹が探偵事務所を使ったことをひどいと言った妻の感覚に純粋に驚き呆れた。

「私に直接訊けばいいじゃない。そうして私を問い詰めれば良かったのよ」

 あたかもそうしてほしかったかのように言う妻の言葉に戸惑う。妻のこの言葉を信じるならば、妻は浮気している最中もずっと罪悪感にさいなまれていて、夫である敏樹に止めてほしかったと? 止めなかった自分が悪いとでもいうのか。詭弁だし、女のズルさである。ただ、敏樹はもともと女心をよく理解できるような男ではなかったから、何が正しいのか判断なのかはつきかねたが。

「はっきりした証拠もないのに問い詰めることなどできないじゃないか」

「そうね。あなたって、そういう人よね」

『あなたって、そういう人よね』

 女性が時々使うこの言葉が、敏樹は嫌いだった。一言で何もかもを決めつけてしまうからだ。

「そんなことより、その報告書を見たらいいだろう。見るのが怖いのか」

「別に…」

 そう言いつつ、妻はパラパラと報告書を捲っている。中には二人が腕を組んでラブホテルに入る時と出た時を映した写真もある。本当は妻は至極動揺しているに違いない。だから、ちゃんとは見られない。パラパラと見ているふりをしているのだ。

「子供を預けてお前はこんなことをしていたんだな」

 妻は報告書に目を落としたまま何も言わない。

「俺は許さないぞ」

 敏樹の言葉に妻は身体を小さく震わせた。

「離婚してください」

 すべてを知られた敏樹に対抗する手段はこれしかないとでも思ったのか、妻ははっきりとした声で言った。離婚という最終的な言葉の重さを理解した上で、敢えてこの言葉を使い敏樹の気勢を削げるとでも思ったのか。この女にはそうした暴力的なしたたかさがあるのかもしれないと思う。それとも、もし浮気がバレた時には離婚を切り出そうと沼田と打ち合わせをしていたのか。

「離婚? その前に決着をつけておかなけらばならないことがある」

「決着って、どういうことよ」

 本来ならば、妻は夫である自分に、まずは謝らなければならないはずだ。だが、離婚を口に出したことでもはや妻は完全に開き直った。

「沼田をここへ連れて来い」

「そんなことできるわけないじゃない」

「俺には会う権利がある」

「そんなの知らないわよ。それに急に言ったって、どこにいるかわからないし」

「嘘をつけ。本当は今日だって会うつもりだったんだろう。さっき買い物に行った時、電話でもしたんじゃないか」

 図星だったみたいで黙ってしまった。妻は単純でわかりやすい。付き合って間もない頃は、それを純粋と勘違いしていた。

「あの男の電話番号は俺も知っていることはわかっているだろう。お前が連絡とるのを拒否するんだったら、俺が直接電話してもいいんだぞ」

「それだけはやめて。わかった。私から電話する」

「理由は言わずに、ただ俺が会いたいとだけ伝えてくれ」

 それだけで沼田は用件を理解するかもしれないが。妻が頷き立ち上がった。外で電話するつもりだ。

「俺の目の前で電話してくれ」

「何でよ」

 自分に都合悪いことはすべて受け入れないつもりだ。

「外で電話すれば、良からぬ打ち合わせをするだろうからな」

「信用ないのね」

 この期に及んでこう言える妻はある意味すごい。

「悪いけど、今のお前は信用できない」

「わかったわ」

 妻はしぶしぶ携帯で沼田に電話している。電話の向こうで沼田が「どんな理由なんだ」と言っているのがわかったが、妻は自分に言われた通りに「とにかく来て」とだけ言っていた。

 沼田がやってきたのはそれから1時間後だった。沼田は不貞腐れた顔をして現れたが、さすがに敏樹に対しては軽く頭を下げた。しかし、当然のように妻の横に座ったことが敏樹の怒りに火をつけた。妻がテーブルの上にあった調査報告書を沼田の前に移動させた。もちろん、中を見なくても、それが何を意味するかわかったに違いない。

「沼田、どういうことだ?」

 すでに沼田は観念していた。

「俺が悪いんです。奥さんからいろいろ相談を受けているうちに、その…、そういう関係になってしまって」

 妻は余計なことを言わないほうがいいと思ったのか、空を見つめ黙っている。

「つまり、お前のほうが関係を迫ったというわけだな」

 沼田の言っていることは本当か。怪しいものだと思う。妻を庇っている可能性がある。それに、今更どちらが仕掛けたなんて敏樹にとってはどうでもいいことだ。

「そうです」

「本当にそうか?」

 どうでもいいことだったが、敢えて妻に問いかける。しかし、妻は答えない。答えるつもりもないのだろう。いざとなると、男より女のほうが強い。

「なあ、沼田。人の妻に手を出して、どうしてくれるんだ」

 言いながら、自分でもまるでヤクザの台詞のようだと思う。すると、沼田が突然土下座をしながら言った。

「本当にすみませんでした。お世話になった松永さんを、こんな形で裏切ってしまって、お詫びのしようもありません。でも、俺は茜さんのことを真剣に愛してしまいました。だから、俺はどんな仕打ちでも受けますし、何をされても構いません。その代わり、茜さんは許してあげてください」

 安っぽいドラマを見せられているようで無性に腹が立った。

「何をされても構わないんだな」

「はい」

「よし。立て」

 もう沼田や妻のことはどうでもよかった。自分自身の気持ちを断つために、沼田の頬を思いっきり叩き、ボディーにグーパンチをお見舞いした。その拍子に沼田はテーブルの角に頭をぶつけ出血していた。

「よしちゃん、よしちゃん」

 沼田が妻に『よしちゃん』と呼ばれていたことを初めて知った。妻は沼田を抱きしめ、涙を流しながら、敏樹を睨めつけていた。

「救急車を呼んでやれ」

 そう言いおき、敏樹は一人で外に出た。

 木々や家々の輪郭が傾いた陽を浴びて金色に輝いている。

 人を叩くという行為は自分を叩く行為に等しい。

 サラサラと力を抜いて景色の向こうを見る。遠くを見れば近くが見えるかもしれない、などと思いながら。


2-4

 結局二人は離婚した。子供は妻が引き取ることになった。親としての自覚の足りない妻に、ちゃんと子育てができるのかという不安があったが、現実問題として、自分が男手一つで子育てできるわけもなかったので、妻の引き取りを認めた。

 母に離婚を伝えた時、母は「そう…。わかったよ」とだけ言った。軽く言われたからこそ、母の言葉は胸に重く残った。

 母からすれば美香は内孫にあたることもあってか、ものすごく可愛がっていた。そのことだけは悔やまれる。

 離婚と同時に水商売から足を洗った。それまでの自分をすべて捨てたかったからだ。早速、就職情報誌を買ってみたが、大学中退の26歳で、しかも一般企業での就業経験のない男には厳しい現実が待っていた。中には未経験者歓迎という企業もあるのだが、そういう企業はたいていもっと若い人を求めていた。しかし、ここでまた安易に水商売に戻ってしまったら、二度と『まっとう』な人生を歩めないような気がして、辛抱強く求職活動をすることにした。就職情報誌以外にも職安にも通った。そうした中、ようやく採用してもらったのが、今の会社だった。

 金型を製造をする中小企業だったが、面接の時、社長の高橋源治は履歴書を見ることもせず、『雑談』をするだけだった。後に高橋から聞いたのは、わが社にとって大事なのは、学歴でも職歴でもなく、ひとえに人間性なので、『雑談』をすることでこそ、それがわかるということだった。偶然とはいえ、自分はいい企業の門を叩いた。そんな社長に恩義を感じた敏樹は、経験がない分、努力と熱意で懸命に働いた。会社の役に立ちたいという思いと同時に、自分を認めてもらいたいという思いも強かった。ただ、仕事に全精力を傾けることで、実家との距離は遠くなってしまっていた。

 列車は黙々と走り続けている。

 自分の降りる新青森駅までもう少しだ。胸が詰まってくる。結局弁当は食べずじまいだった。知らず知らずのうちに緊張していたのか、喉が渇いている。弁当と一緒に買ったウーロン茶を取り出して口に流し込む。

 いつの間にか車内は混雑していて、人々が交わす会話で満ちていた。

 敏樹が再婚したのは4年前のこと。同じ会社の経理部で働いていた弘中ミエと付き合うようになり、結婚した。妻のミエは初婚だった。

 ミエは前妻の茜とは正反対の地味で目立たない女性だったが、自分の今後の人生には、そうした女性こそがふさわしいと思えたのである。

 実際に結婚してみて、自分の思いが正しかったことを確認した。ミエは精神的に大人で、聡明な女性だった。時に、敏樹が生来の子供じみた発想で突っ走ろうとしても、ミエがうまくコントロールしてくれた。敏樹は完全にミエの手の平で、小気味よいほどに転がされていた。

 母にミエを紹介した時のことは今でも鮮明に覚えている。今回と同じように、列車で実家に挨拶に向かう車内で、ミエは緊張して言葉数が少なくなっていた。敏樹の性格を知っているミエは、敏樹の両親も厳しくきつめの人なのかと思っていたのかもしれない。

「大丈夫だよ。父も母も田舎者で素のままの人間だから、ミエのことを優しく迎え入れてくれるさ」

「そうだといいんだけど…。私、自分に自信ないのよね」

 ミエが初めて敏樹に見せた弱音だった。職場でもプライベートでもミエは、いつでも自信に満ち溢れているように見えたから。

 だが、実際に両親とミエが対面した瞬間に、双方の思いが通じていた。それは、ミエを見た母が泣いていたからだ。ミエの何が母の心の襞に触れたのかはわからなかったが、母は直感でミエの人間性を見抜いていたのだ。それはミエも同様だったようで、ミエは何も言わず母の両手を包み込むように握っていた。この時、初めて母が自分のことを認めてくれたように思えた。

 結婚生活は幸せだった。それは妻の敏樹に対する愛情が安定していたからだろう。ただ一つだけ心残りなことができてしまった。それは、授かった第一子を流産した後、ミエが子供を産めない身体になってしまったことだ。今度こそ、母に内孫をずっと抱かせてあげたいと思ったが、それも叶わなかった。

 でも、母はそんなことはおくびにも出さず、誰よりも辛い思いをしているのはミエさんだからと、女の気持ちを深く理解できない敏樹に代わってミエの心の支えになってくれていた。おかげでミエも立ち直り、子供のいない夫婦生活をへんな僻みもなく精一杯送れている。今日列車に乗る前にミエに電話したことが、はるか遠い出来事のように蘇る。

「もしもし、俺だ」

「はい。こんな時間にどうしたの?」

 昼食時間の過ぎた午後に妻に電話したことなどなかったから、ミエも違和感を持ったのだろう。

「いいか、ミエ。落ち着いて聞いてくれ」

 そうは言ったものの、落ち着いていないのは敏樹のほうだった。自分でも声が上ずっているのがわかる。その声に、ミエも何かを感じた。

「何かあったの?」

「母親が突然倒れ、危篤状態になった」

「……」

「ミエ、聞こえているのか?」

「嫌、嫌、嫌よ。そんなこと、嫌」

 ミエは、かぼそい悲鳴のような声で叫んだ。事実を告げた敏樹を非難することで、事実が消えると思っているかのように。それほどに、ミエにとっては受け入れがたい出来事だったのだ。そんなミエの思いがわかるだけに、電話をしている敏樹の胸も締め付けられた。

「ミエ、受け入れがたいのは俺も同じだ。しかし、残念ながら事実だ。俺はこれから病院に向かう。ミエにも病院名と住所を伝えるから控えてほしい」

「はい。私も支度をして出ます」

 ミエも少し冷静になっていてホッとする。

「わかった。じゃあ、俺は先に行ってるから」

 電話を切ろうとした時、ミエの声が聞こえた。

「あなた」

「何だ?」

「お母さんに、ありがとうございますと伝えて」

 ミエも、ひょっとしたら間に合わないと思ったのであろう。

「わかった」

 そのミエから先ほどメールがあり、敏樹より2時間遅れの新幹線に乗っていることがわかった。


2-5

 新青森から奥羽本線で青森駅まで行き、そこから津軽線に乗り換えた。

 列車に飛び乗った時からずっと緊張していた神経も、車内の暖房のせいで知らず知らずのうちに緩められ、うとうとし始めた時、胸ポケットの携帯が震えた。慌てて取り出し画面を見ると、姉からのメールだった。

ー間に合わなかったかー

 一瞬、そんな不吉なことが頭を過ったが、確認すると違った。

『今、どのあたり?』

『奥内を過ぎたあたり』

『わかった。後潟駅に横倉さんが車で待っているから、降りたらすぐにそれに乗って』

『了解。で、母さんは?』

 先ほど訊きそびれた肝心のことを勇気をふり絞って訊いた。

『まだ頑張ってくれているけど、いつどうなるかわからない。だから、とにかく待っている』

『わかった』

 横を向くと、鏡になった真っ暗な窓に42歳になった自分の疲れた顔が映っていた。夏に実家に戻った時、年老いて丸まった母の背中を見てしまって、思わず目を逸らしたことを思い出す。母は、中年になるまで定まった生き方のできなかった敏樹の姿をどんな思いで見ていたのだろうか。

 すると、今度は妻のミエからメールが届く。

『あなたは今どのへん』

『奥内あたり。もう少しで着く』

『お母さんは』

 一番訊きたいことだろう。

『まだ大丈夫。だけど、間に合うかわからない』

『私もお母さんに会いたい』

 ミエの気持ちは痛いほどわかったが、自分にもどうしようもない。でも、そんなミエの思いが悲しくて嬉しかった。

『祈ってくれないか』

 今、自分とミエにできることはそれしかない。

『わかりました』

 画面には妻の打った文字しか見えないが、お互いの思いは通じ合っている。思わず目頭が熱くなる。胸の中に溜まった息を吐き出す。どうして人間には別れがつきまとうのだろうか、などど詮方ないことが頭を占める。

「間もなく後潟、後潟です」

 列車はようやく実家のある後潟に着いた。

 列車を降りた敏樹は、速足で改札口に向かう。改札口の外に立っていた横倉靖之が敏樹の姿を見つけて軽く頭を下げた。その横倉に手をあげ、改札口を抜ける。

「どうも、ご無沙汰しております」

 横倉が敏樹の顔を見ながら丁寧に言う。横倉は確か敏樹より7歳ぐらい年下のはずだった。

「こちらこそ」

 敏樹はなぜ横倉が迎えに来ているのか、この時点ではわからなかった。横倉は親戚ではなく、教師をしていた自分の父親の教え子の一人で、結婚をする時敏樹の両親が仲人をしていたことは知っていた。しかし、そういう生徒は他にも結構多くいた。

「じゃあ参りましょうか」

「そうだね」

 ゆっくり立ち話をしている余裕などなかった。横倉の後について駅前に停めてあった車に乗り込む。

「悪いですねえ」

「いえ」

 車が走り出したところで訊いてみる。

「ここからどれくらいかかりますか?」

「30分ほどです」

 案外遠いのだなあと思う。迎えに来てもらったことには感謝しなければならないと思うが、タクシーだったらへんな気を遣わなくて済むのにと、横倉に頼んだ姉を恨む。

 ただ過ぎ行く景色の中に身を置きながら母のことを考えたかったのだ。わずかに知っているだけの人物と、このタイミングで同じ空間にいることが敏樹には苦痛だった。

「そうですか…」

 こんな時、何を話したらいいかわからない。それは横倉も同じなのだろう。運転をしながら横倉も言葉を探しているようだった。

「奥さんは元気ですか?」

 横倉の妻は地元のミスコンの優勝者であったこともあり、敏樹も知っていた。沈黙が嫌で差し障りのない話をした。

「ええ、お陰様で」

 しかし、会話は広がらなかった。というより、横倉の方が広げたくないように感じた。再び沈黙が車内を支配する。止む無く敏樹は視線を窓外に移す。

「実は、僕の妻は先生の奥様の光代さんに命を救っていただいたんです」

 光代というのが母の名だ。横倉はまっすぐ前を向き、ハンドルに手をやったままボソッと言った。

「えっ?」

 もちろん、言葉は聞こえていたが意味がわからず、思わず漏れた声だった。

「僕たち夫婦は松永先生に仲人になってもらって結婚したんですけど」

「もちろん、それは知っています」

「妻はその当初から光代さんに憧れていました」

「憧れていた? 普通の田舎のおばさんですけど」

「そんなことはありません。敏樹さんにとってはそう思えるのかもしれませんけど、光代さんは人間的に深い魅力のある方です」

 今の自分は母親のその魅力は理解できる。しかし、自分より早く母の人間性に気づいてくれていたことに感謝すると同時に、自分の心の貧しさに悲しい思いがする。

「そう言ってもらえると母も喜ぶでしょう」

「私たち夫婦にもいろいろなことがありまして…」

 自分がそうであるように、どんな『平凡』に見える人生にも、山や谷は必ずある。横倉は言葉を続けようとして戸惑っている。他人に自分の暗い部分を話すのは辛いことだ。

「そうですか…」

 敏樹が先を話しやすいように軽く相槌を打つ。

「僕が妻にDVをするようになってしまったのです」

「えっ」

 驚きだった。自分と違って横倉は、物腰が柔らかく穏やかな人格で、しかも社交的な、誰にでも好かれるそうな人物にしか見えない。いわゆる外面のいい人ほどDVに陥りやすいという話は聞いたことがあるような気はするけれど…。

「最初は些細なことだったと思うんです。でもそれがどんどんひどくなりました」

「そうですか…」

 このままこの男のDVの話を聞かなければならないのだろうかと思うと憂鬱になった。

「一度その罠にはまってしまうと、そこから抜け出す手段がわかなくなってしまうんですね。心が弱かったんですね。会社で自分の身に起きた嫌なことや辛いことを妻へDVすることでしか発散できなくなっていました。妻のほうも抜け出そうと思えば抜け出すことができたのでしょうけど、負の渦に巻き込まれると、その力は想像以上に大きくて気力を奪ってしまうんです。ということで、夫婦で地獄に落ちていました。もちろん、妻のほうが辛かったと思いますけど。当時妻は日々自ら命を絶つことを考えていたそうです」

 敏樹のような性格の男には考えられないことであった。元妻の浮気相手の男を殴ったことはあったし、妻を一度だけ平手打ちしたことはあるけれど、あれはDVではないと思っている。なので、聞いているだけで気分が悪くなる。

「追い詰められた妻が頼ったのが光代さんだったのです」

「母にねえ」

 母もきっと重荷だっただろうと想像する。

「妻なりにいろいろ考えたそうです。地方にもシェルターはあるのでそこへ逃げ込むという選択肢もありました。でも、そんなことをすると私の気持ちが余計に高ぶってかえってよくないと考えたそうです。私たち夫婦のことを知っていて、なおかつ夫である私の心の中にあるドロドロしたものを鎮めてくれるのは、きっと光代さんしかいないという結論に至ったそうです」

 横倉の妻の言ったことはわからないではなかった。母には人の気持ちを優しくする天性の人柄があった。

「私たち夫婦は先生の家に呼ばれました。私がDVをするに至った経緯からその後の状況までを隠すことなく話すのを先生は目を瞑り、腕組みをしながら黙って聞いていました。先生の横で光代さんは、ずっと妻のことを慈愛に満ちた目で見てくれていましたが、私の話が終わると目に涙をいっぱいに浮かべて妻に一言『辛かったわね』とおっしゃっていただき、それを聞いた妻は泣き崩れました。その後、私は先生と奥様からこんこんと説教されました」

「それでお二人は元に戻ったのですか?」

「もちろん、すんなりとはいきませんでしたけど、折に触れ光代さんが力になってくれたおかげで今は以前のようになりました。そういうことで、私たち二人にとって光代さんは恩人なんです」

「母が力になれてよかったです」

 横倉に話を終わらせてほしいというメッセージを込めた。

 横倉夫婦と母のエピソードには心を打たれたし、改めて母の人間性の大きさを知ったような気もするが、それより今は母の状態のほうが気になる。

「すみません。長々と僕たち夫婦の話をしてしまいまして」

 どうやら敏樹のメッセージは伝わったようだ。

「いえいえ。ところで、横倉さんが病院に駆けつけていただいた時はまだ母は意識がはっきりしていたのでしょうか?」

「すでに昏睡状態にはありましたが、大きな声で呼びかけたら頷いていただいたようでした。でも、私たち夫婦はまだ何も恩返しできていなくて…」

 横倉の声が湿り気を帯びていた。しかし、そういう意味では自分も同じだと思う。

「恩返しって何でしょうね。横倉さんご夫婦の場合、元々の円満な姿を見せることで母は十分喜びを感じていたと思いますけど」

「そうでしょうか。あっ、着きました」

 病院の入口に車をつけると、横倉は後ろを振り向いた。

「どうぞ、先に病室に入ってください。503号室です。私は車を駐車場に入れてから行きますので」

「わかりました。ここまで送っていただいてありがとうございます」

 そう言い残し、急いで病室を目指す。逸る気持ちがあったが、病院内を走るわけにはいかず早足になる。エレベーターを待つのももどかしく、階段で5階まで昇る。広い廊下の先に部屋の前に立つ次女の咲子の姿が見えた。

 こちらを見る咲子の目と自分の目が合った。姉はその目で自分に何かを訴えているようだったが、距離的に遠く意味を読めなかった。私は覚悟を決めて、敢えてゆっくりと姉の元へ歩み寄った。

「敏樹…」

 姉は私の名前を呼ぶのが精一杯だった。

「間に合わなかった?」

「うん。30分前に…」

 わずか30分前と聞かされて、また一つ後悔することが増えたと思う。

「そうか…。俺って、なんて親不孝なんだろう」

 自然と涙が出た。ここまでずっと堪えてきたものが決壊してしまったのだ。

「そんなことないわよ。母さんはいつだって敏樹の話をする時は嬉しそうだった」

 いつだって自分は母に心配をかけることしかしてこなかったというのに…。

「そんな…」

「さあ、母さんに顔を見せてあげて。最後の最後まであなたの名前を呼んでたんだから」

「わかった」

 ハンカチで涙をぬぐい、姉と共に室内に入る。ベッド横のパイプ椅子に父親と長女の雅子が座りながら母のほうを見ていた。私は入り口のところで突っ立っていた。母に近づくのが怖くて足が前に進まない。そんな私に気づいた雅子がこちらを振り向く。泣きはらした顔は痛々しくさえあった。敏樹の横に立つ咲子に押されるようにして母の元へ進む。すでに処置の終わった母の顔には死化粧が施され、ただ静かに眠っているように見えた。長患いをしたわけではなく、急死に近い母だったのでやつれたところはなく、半年前に帰った時と何ら変わりなかった。あまりにきれいで、端正な顔立ちをした人形のようだった。

「母さん…」

 母に会ったら言おうと思っていたこと、伝えなければならないことがいっぱいあったのに、それだけ言うのがやっとだった。後は言葉にならない。そこには取返しのつかない空白だけが残されていた。母と紡いだ時間が四方から静かに押し寄せて私を囲んだ。

 父と姉たちはずっと目頭を押さえている。私はそっと母の手に触れた。自分がまだ小さい子供だったらなりふり構わずに母に抱きついていたと思うが、いい年になった自分は自制心が働く。母の手はまだ冷たくなかった。そのことが余計に切なかった。私は両手で母の手を包み、母の顔を見ながらこれまでずっと言えなかった思いを伝えることにした。

「母さん、俺はいつも母さんに迷惑ばかりかけていた。それなのに俺は母さんに一度も謝っていなかった。ほんとうにごめんなさい。そんなダメな俺に母さんはずっと優しかったよな。なぜだよ」

「敏樹」

 父親がたまりかねたのか敏樹の肩に手をやった。それだけで父親の気持ちが十分わかった。でも、敏樹には最後にもう一つ母に言わなければならない言葉があった。

「母さん、母さん、俺は、俺は母さんが大好きだった。愛してるよ、母ちゃん」

 五感の中で最後の最後まで意識を失ってからも残っているのは聴覚だという。きっと今ならまだ届く。そう思って、敏樹は母の耳元に向かって言った。本当はずっと、ずっと前に言うべきだった言葉を。神様のようにベッドの上で純白の着物を纏い横たわる母が静かに頷いたように敏樹には見えた。すると、小柄でか細い母の姿が敏樹の目を貫き光となった。


2-6

 結局、妻のミエは葬儀のために実家に戻った母と対面することとなった。妻は棺に入った母親を見て泣き崩れた。もはや流す涙もないはずの父と二人の姉が、その姿に再び涙しているのを見て、母の愛情の深さに気づかされる。

 葬儀から納骨まではあっという間に終わり、私と妻は帰京の途に就いた。

 列車が走り過ぎる風景は5日前と変わらぬはずだが、妙によそよそしく感じられたのは気のせいだろうか。心のありようで、世界は違って見えるらしい。まだ頭の中心が痺れているような感覚がある。

 ふと、窓の外を見ると、夕景になる直前の西日が美しい。

「あなた、お疲れ様」

 妻のミエが窓外に向けていた私の横顔に言葉をかけた。気のせいか、声が少しくぐもって聞こえた。振り向くと、妻の目は潤んでいた。

「いや、ミエこそ大変だったろう」

 葬儀の最中、自分は駆けつけてくれた親戚や母がお世話になった人々と会話をするだけだったが、妻は二人の姉と一緒に食事の準備や様々な仕事をしていたのだから、気苦労や心労は自分の比ではないはずだ。

「ううん。そんなことないわ。お姉さんたちに私の知らないお母さんのお話をたくさん聞けて嬉しかった」

 潤んだ目を今度は輝かせながら言う妻の母親に対する澄んだ愛情に、思わず微笑む。

「そうか…」

 自分が知らないだけで、母に対する思いやエピソードは二人の姉それぞれに特別なものがあるに違いない。そこにはきっと自分は知らない母の姿もあるのだろう。

「お母さん、幸せだったわよね?」

 後悔のない人生などないというから、本当のところはわからない。母だって、もう少し長生きしたかっただろうし…。

「そう思うし、そう思いたい」

「そうよね…」

 妻が何をいいたいのかわからなかった。妻は妻で、母の死を通して、いつか訪れる自分の死を考えているのかもしれないと思う。私たち夫婦には子供がいない。従って、妻には『お母さん』と言ってくれる子供がいないことになる。そのことがひどく残酷なことのように思える。

「あなたにとってお母さんはどんな存在だったの?」

 母を失って改めてそのことを考えているところだった。

「う~ん。本当のところ、まだ答えが出ていないなあ。この先もずっと出ないかもしれない。いや、死ぬまでわからないかもしれない。ただ、今の時点で言えることは、母は自分のすべてを包み込んでくれる、とてつもなく大きな存在だったということかなあ」

「あなたらしいわね」

「そうか…。ミエにとってのお母さんは?」

 妻は高校生の時に母親を事故で亡くしている。

「私の場合、高校生の時に母を亡くしているから、私にとっての母は、毎日家族のためだけに生きている人としてしか見えていなかった。年齢的に、私も弟もまだ母にわがままばかり言っている頃だったし、甘えているだけだった。ただ言えるのは、どんな辛いことがあったとしてもドンと構えていて、母さえいればわが家は大丈夫みたいな頼れる存在だったわね。そんな母が突然亡くなってしまった時、私は自分の身体の一部をもぎ取られたような痛みを覚えたの。いろんなことをたくさん話して、母のことをもっともっと知りたかった」

「そうか…」

 愛する人を喪った場合、どんな状況であろうと、きっと後悔はあるのだろう。でも、悲しみを知っている人のほうが美しく輝けると、妻の顔を見て思った。

「私…」

 ミエが何かを言おうとして躊躇った。

「ん? どうした?」

「前々から考えていたんだけど、私、養子を受けたいなって…」

 思い詰めたような表情に敏樹は一瞬怯んだ。

「養子?」

 敏樹からすれば突然の申し出のように思えたが、妻は前から考えていたのだろう。話すタイミングを計っていたに違いない。

「うん」

 突然言われ、敏樹もどう考えたらいいかわからない。

「ダメじゃないけど、簡単なことじゃないぞ」

 常識的な答えになってしまったことに後悔する。

「もちろん、わかっています」

 言葉に重みがあった。妻がそう言うからには、すでに妻なりにいろいろなことを調べているのであろう。

「そうか…」

 二人とも黙り込んでしまった

 敏樹はミエが病院から帰ってきて、医者からもう子供は産めない身体になったと宣告されたと自分に話している時のミエの表情が頭に浮かんだ。絶望を抑え込み、自分自身を突き放そうとするような冷静さに、敏樹はミエの悲しみの結晶を見た気がした。

 だから、ミエが先ほど躊躇いながらも『養子』という言葉を使った時、ミエの覚悟を見た。敏樹もミエと同様、元来子供が大好きだ。だから、子供を迎えられることは喜ばしい。しかし、養子となるとなかなか難しいのも事実だ…。それに、この先も自分は生きることに不感性であり続け、流れていくだろううから…。

 今、隣に座る妻はどんなことを考えているのであろうか。長年連れ添った妻ではあるけれど、ふとした瞬間に彼女のことがわからなくなる。恐らく、妻もそう思う時があると思う。今がそんな時かもしれない。

「あなた」

「ん?」

「私、あなたと結婚できて、本当に幸せでした」

「えっ?」

 過去形で言われたことにギョっとする。妻が離婚を切り出すのではないかと身構える。

「でも、私やっぱり『お母さん』と呼ばれたいの。あなたのお母さんのように」

 世の『お母さん』は、いつしか名前で呼ばれなくなることで、自分の人生を否定されたように感じ、『お母さん』呼ばれることに抵抗感を抱くというのに、ミエは逆だった。

「わかった。東京に帰ったら養子のこと真剣に考えて見よう」

「ありがとう」

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