第3話 「愛された記憶がなくて愛せない」(平尾正人)

3-1

 カーテンのすき間から漏れてくるか細い月の光線。夜が一面に広がっている。都会の孤独が今日も始まる。出口を見失ったままの私は、今日も自分の言葉も持たないでぼんやり生きている。

 JR大久保駅から歩いて15分ほどのところにある古いマンションの一室が『寮』という名の現在のわが家であった。小坂美幸と小坂彩音の母子で暮らしている。

 ここにたどり着くまでにどれほど引っ越しを繰り返しただろうかと、彩音は考える。数えることすら鬱陶しい。母は何事もなかったかのように、それまで住んでいた街を捨て、次の地へ次の地へと彩音を連れ移り住むが、その度に彩音は辛い思いや悲しい思いや苦しい思いをいっぱいしてきた。けれど、母はそのことについて気づいているようにも思えないし、罪悪感を感じているようにも思えない。

 中でも、あの日のことは忘れられない。

 当時まだ3歳半だったにも関わらず記憶に残っているのは、それだけ自分にとってインパクトが強かったのだと思う。

 母は、いつもと同じように、私を寝かしつけて店に出勤した。私は一度眠りにつくと途中で起きることはなく母が帰ってくるまでぐっすりと寝る子だったらしい。だが、その日の私はなぜか途中で目を覚ましてしまった。起きた私は母がいないことに気づき、部屋中を探し回ったが、母はどこにもいなかった。とたんに不安でいっぱいになった私は、玄関のドアを開けて外に出た。パジャマのままだったが、当時の自分にそれが異常だという認識などあろうはずもない。今となっては、それは違和感のある姿だったと気づかされるけれど。

 誰もいない外廊下を歩きながら母を探すが見当たらない。マンションを取り巻いているのは暗闇だけ。部屋は3階にあったので、その高さから見る暗闇の景色は不安を増殖させたことと思う。でも、その時の自分は母を探すことしか考えていなかったので、外階段で1階まで降りてしまったのだ。マンションの前には暗い穴のような道路がある。左右を見渡すが、そこにも母の姿はなかった。でも、さすがにその暗い道の中に入っていく勇気もなかった。

 私はパジャマ姿のまま、階段の一番下の部分に座って母を待つことにした。何気なく見上げた空には、無数の星たちがキラキラと輝いていた。しかし、春とはいえ、夜になるとまだまだ冷え込んだ。まずは座っていたお尻が冷たくなり、次に身体全体が寒くなる。しかし、部屋に戻って何かを羽織るなどという発想もない。というか、羽織るものがどこにしまってあるかを自分は知らない。

 待っても待っても母は現れなかった。母は自分を置いてどこかへ行ってしまったのだろうか。このまま自分は二度と母に会えなくなってしまうのではないかといった不安と恐怖でいっぱいになり、自然に涙が零れ落ちた。

「どうしたの?」

 見知らぬ男の人がしゃがみこみ、自分と目線を合わせて訊いてきた。若い優しそうな男の人だったけど…。でも、…。

『知らない人に声をかけられても絶対話さないこと、絶対ついていかないこと』

 母から何度も何度も聞かされていたことを思い出す。だから、私は無視した。そんな自分を見て、その人は困っているようだった。

「このマンションの子だよね?」

「うん」

 思わず答えてしまった。今度はそのことが不安になり、彩音は身体を固くした。

「そうかあ。わかった。ちょっと待っててね」

 そう言うと、その人は立ち上がり、携帯でどこかに電話していた。

「もう大丈夫だから」

 電話を終えたその人はそう言った後、ずっと彩音の傍で無言で立っていた。しばらくして、1台のパトカーがやってきて彩音の前で止まった。中から二人の男のおまわりさんと、一人の女のおまわりさんが降りてきて、まずは男の人に話しかけた。

「さっきお電話いただいた方ですよね」

「はい、そうです」

「この子ですね」

「ええ」

「念のため、状況をもう一度お聞かせいただけますか」

 男のおまわりさんに男の人が話している。

「お名前は? 言える?」

 女のおまわりさんが彩音の前にきてしゃがんで言った。かわいらしい人だった。彩音にもおまわりさんは自分の味方だと知っていた。

「うん。あやね」

「あやねちゃんって言うんだ。で、何あやねって言うの?」

「こさかあやね」

「そう。ありがとう。えらいね。で、おうちは?」

 彩音はマンションの上のほうを指す。

「上にあるのね。じゃあ、お姉さんを連れてってくれる?」

「いいよ」

「うん」

 女のおまわりさんは、彩音の手を握りながら男のおまわりさんに言った。

「藤尾さん、上らしいです」

「わかった。じゃあ一緒に行こう」

 女のおまわりさんに手を繋がれて階段を昇っていく。その後ろに、二人の男のおまわりさんが続く。二階にあがったところで、「ここ」と訊かれたので「ううん」と答える。

「もっと上みたいです」

 女のおまわりさんが後ろを振り返って言う。

「了解」

 そして、3階まで上がる。

「ここかな」

 もう一度訊かれ、

「うん」

 と答える。

「そうかあ。じゃあ、お部屋まで連れて行って」

「ここ」

 自分の部屋の前で指さす。女のおまわりさんがドアノブに手をかけ開ける。

「開いてます」

 部屋に入ると、みんなが中を歩き回っている。きっと、お母さんの連絡先を探しているのだ。

「ママのお名前わかる?」

 女のおまわりさんに訊かれた。

「みゆき」

「そう。ありがとう」

 それからしばらくの間、男のおまわりさんたちがあちこち電話していた。その間、女のおまわりさんはずっと彩音の傍にいて、彩音の手を握ってくれていた。

「わかったぞ」

 男のおまわりさんの一人が女のおまわりさんに言った。

「そうですか。良かったです。あやねちゃん、これからママに連絡するからね」

「うん」

 男のおまわりさんがどこかへ電話して誰かと話をしている。

「すぐに戻ってくるそうだ」

「あやねちゃん、もうすぐにママが帰ってくるからね」

「うん」

 母が帰って来る? 母は自分を置いてどこか遠くへ行ってしまったのではないということがわかって安心する。

 それから30分ほどで母が帰って来た。母は部屋へ入り、私の顔を見るなり泣き出していた。そして私の元へ走り寄り、私を抱きしめて「ごめんね、ごめんね」と繰り返し言った。その時の彩音は単純に嬉しかったと思う。しかし、大きくなって、あの時の母の涙は演技だったのではないかと疑うようになっていた。でなければ、その後の行動の意味がわからない。

 母の様子をしばらくじっと見つめていたおまわりさんたちが、事の経緯を母に説明していた。そして、最後に女のおまわりさんが、母に向かって言った。

「今回はたまたまいい人に発見してもらえたから良かったですけど、もし悪い人だったら大変なことになっていたかもしれないんですよ」

「本当にすみませんでした」

 母は涙を流しながら何度も何度も頭を下げている。

「お母さん、私たちに謝る必要はないです。謝るのはあやねちゃんに対してです。それに、、あやねちゃんがどれだけ不安な気持ちでいたかを考えてあげてください」

「はい」

「今後二度と同じようなことが起きないよう、対策を考えてください。相談できる機関もいろいろあります。必要があればいつでも紹介しますから私のところに電話ください」

 そう言って、女のおまわりさんは自分の名刺を母に渡していた。

「ありがとうございます」

 その時の母は本当に反省しているように見えた。

 しかし、おまわりさんたちが帰ったとたん、母の顔がさっと変わった。ついさっきまでおまわりさんの前で涙を流しながら優しく抱きしめてくれたのに。

 母は無言で私の手を引っ張るようにしながら寝室に連れて行った。着いたと思ったら、いきなり平手が飛んできた。

「彩音、なんでおとなしく寝てなかったんだよ」

 母が怒ったのは、店がはねた後、客の男と飲んでいた時におまわりさんに呼び戻されたことが気に入らなかったのだと、後に知った。

 当時の私にそんなことは理解できるはずもなく、私は母に平手を打たれたことに泣き叫んだ。しかし、泣いたことに母はさらに腹を立てた。すでに顔は鬼の形相になっていた。

「このクソガキ。お前のせいで私が恥かいたじゃないか」

 今度はお尻を何度も何度も叩かれた。

「ママ、ごめんなさい」

 私はどんどん痛さが増してくる自分のお尻に手を回しながら叫ぶ。しかし、一度スイッチの入った母の暴力は終わるはずはなかった。身体中を叩かれる。私は次第に痛さより恐怖心でひきつけを起こした。それを見た母が一瞬だけ手を止めた。でも、それを合図のように、私は再び火がついたように悲鳴に近い泣き声をあげた。すると母は無言で私の口を塞いだ。息のできなくなった私は手足をバタつかせて耐える。その極限で母は手を離す。私はハアハアと息を整える。そんな私を母は上から見下ろしながら言った。

「うるさいんだよ、バカ」

 息が落ち着いた私がもう一度泣き叫ぶと、母は足で私を蹴った。

「そうやっていつまでも泣いてりゃいいだろう」

 そう言って私を部屋に置き去りにして出て行った。

 どんなにひどい母親でも、自分が生きていくためには母親が必要だということを、哀しいかな子供は子供の知恵でわかっている。

 母親の暴力がいつ頃から始まったのか、彩音にははっきりとした記憶はない。気がついた時には日常的になっていた。もちろん、母にも機嫌がいい時はある。これも自分が大きくなって気づいたことだが、母の機嫌がいい時というのは付き合っている男との関係がうまくいっている時だった。そんな時には妙に優しい。なんでも買ってくれる。というか、物を買い与えるのが優しさだと勘違いしていた。しかも、そんな時のほうが珍しい。

 夜の店で働いていれば、男との問題に限らず揉め事がしょうちゅう起きるようで、その都度彩音は犠牲になった。自分より弱い者にしか当たれない、心の弱さが母にはあるのだろう。

 日常的に親から虐待を受け続ける子供にできることは、親の顔色を伺うことだけだ。子供ながらに、できるだけ母を刺激しないようにしていたつもりだったけど、何が原因で怒り出すのか彩音にはわかりようもなく、ただひたすら恐怖に怯える毎日だった。

 恐らく母の虐待は近所では知られていたと思う。でも、当時はまだ他人が児相に通報するということはめったにないことだった。

 彩音が親から虐待を受けていることに最初に気づいたのは保育士だった。ちょうど母の虐待がひどくなってきた頃だったため、叩かれた跡が生々しく残っていたのだ。すぐに保育園から児相に連絡が行き、母は呼出しを受けた。もちろん、母は否定したが、プロの目はごまかせなかった。結局、一時預かりという措置がとられた。

 母は彩音を取り戻すべく、反省の意思と二度と同じことは繰り返さないという念書を提出した。

 そういう効果もあってか、しばらく経って彩音は自宅に戻された。彩音は不安だったが、数日は母も優しかった。そんな中で母は彩音の児相での生活が気になるようで盛んに訊いてきた。彩音は訊かれるままに答えていたが、彩音が楽しそうに話すのが気に入らなかったのか、ついに再び爆発した。翌日から母は保育園を休ませ、引っ越しの準備を始めた。

 この時を境に、母にとって嫌なことがあったり、面倒なことが起きる度に、すぐに引っ越すようになり、現在に至っている。

 

3-2

 子供に親は選べない。その理不尽さを彩音は痛切に感じて生きてきた。

 銀座でホステスをしていた母が、客の『誰か』と恋をして生まれたのが私。といっても、恋多き母にとって、子供の父親が誰であったか本当にわかっていたかも疑問である。

 そんな状況にも関わらず、母は私を産んだ。子供を身ごもりながら夜の世界でも働くということは大変だったようだ。しかし、自分に対する母の態度から考えても、母が子供を好きだとはとうてい思えない。だから、それほどまでしても母が子供を産みたかった理由がわからない。未だに…。

 すでに母の両親は他界していたし、頼れる親戚もいない中、母は一人で子育てを始めた。しかし、それまでホステスしかしてこなかった母にできる仕事は、やはりホステスしかなかった。場所を銀座から新宿に移して再びホステスをしながら、私は育てられた。新宿を選んだのは、夜中にホステスの子供を預かってくれる施設が多かったからに過ぎない。

 だが、まだ若かった母の生活はそう簡単には変わらなかった。仕事とはいえ、酒を飲み過ぎたり、客との同伴で迎えの時間を過ぎることもしばしばで、施設の人に怒られることも多かったらしい。

 さらに、生来、男が好きな母は次々と男との関係を持っていた。妹や弟ができなかったのが不思議なくらいだ。そんな態度の母は、新宿の店からも追われ、地方に移らざるを得なくなり、選んだのが静岡だった。彩音が夜中に起き出して警察が来るという騒ぎを起こしたのが、その静岡だ。

 その時の母は27歳だったが、銀座、新宿での経験を買われチーママになっていた。彩音の事件はあったものの、静岡では店の待遇もよくかなり裕福な暮らしができていたこともあり、それまでで一番長く住んだ。ずっと続いていた母の虐待も、彩音が小学校にあがり体格が良くなった頃から起きなくなっていた。やっと、それなりの幸せな生活が続くかと思いきや、その静岡でも彩音の事件や男と揉め事を起こして、今の新大久保に引っ越してきたのである。

 自分が他の子とは違い、特殊な環境で生まれた子供であると気づいたのは、静岡に来て小学校にあがってからだ。新宿にいた時はまだ幼かったし、周りも同じような環境にいる子供ばかりだったので何もわからなかった。

 当然今度はいじめの対象となった。やっと母からの虐待から解放されたと思ったら、今度は同級生からのいじめだった。どうしてこうも、人は『違う』ということを認めようとしないのだろうか。いい加減うんざりしたが、すべての原因は母親にあるとしか思えず、母を恨んだ。

 しかし、再び新大久保に住み始めると、クラスの3分の1程度は同じ環境の子がいて、いじめを受けることもなくなった。人間って、なんてくだらない生き物なのかと思う。

 いつしか、彩音も中学生になっていた。

「これ、お母さんに渡してね」

 担任の榊原次郎から渡されたのは茶封筒だった。テープが貼ってあったので中はわからなかったが、きっと手紙だ。

 榊原は教頭や校長からの評価はともかく、生徒の間では評判の良い教師だった。それは、一切のえこひいきがなかったし、ダメなものはダメとはっきり言うからだった。妙に大人びた憎まれ口をきく彩音には、『大人』の対応をしてくれた。

 持ち帰った封筒をいったん自分の机の上に置いて、冷蔵庫から昨夜母がコンビニで買ってきたデザートを取り出す。これが彩音のおやつ。

 隣室で寝ている母の、いびきのような音が聞こえてくる。母が起きてくるのは、夕方だから、この時間は彩音が一人で静かに過ごせる貴重な時間だった。

 すぐに勉強する気にはなれず、おやつを食べながらぼおっとしていた。何も考えたくないのだけど、勝手に脳が働いて学校のこと、友達のこと、自分の行く末などいろんなことが頭を過っていく。

「あらっ、帰ってたのね」

 後ろから声をかけられ、振り向くと、いかにも今起きましたという顔の母が立っていた。いつもより起きるのが早い。これで、せっかくの自分の時間が潰される。

「さっきね。それより、起きるの早いんじゃない、今日」

「早く起きちゃ、悪い?」

「そういうこと言ってないし」

「あらそう。お腹すいちゃったな。何かあったっけ」

 自分で自分に言いながら冷蔵庫を開けて、何かを物色している。

「あのさあ。担任からママに渡してくれって、封筒渡されたんだけど」

「何?」

 振り向いた母は手に作り置きのポテトサラダの入っているタッパーを持っていた。

「担任がママに、その封筒を渡してくれって言ってた」

 先ほど机の上に置いた封筒を指す。

「ふ~ん、何かしらね」

 彩音はその内容に、だいたいの察しがついていたけど黙っていた。

 封筒を開け、中の便箋に目を通した母は、まるで汚い物に触れてしまったかのような不快な顔をして、その便箋をダイニングテーブルに放り投げた。

「何て書いてあったの?」

「給食費が2か月分未払いだから、至急払ってくださいだとさ」

 彩音の予想通りだった。給食費をためたのは今回が初めてではない。これまでにも何回かあって、その都度彩音は嫌な思いをしている。

「それで、いつ払えるの?」

「今月は出費が多かったから無理だけど、来月お給料が入ったら、利子をつけてまとめて払ってやるって先生に言ってやりな」

「そんなこと、私が言えるわけないじゃん。ママが直接先生に言ってよ」

「何よ、意気地なし」

 母はすごく気の強い部分もあるけれど、妙なところは小心者なのだ。

「やめてよ。それって、ママの役目でしょ」

「ママの役目? そう言われればそうかもね。わかった。ママが先生にお手紙書くから、それを渡して」

 当初からそう言えば良かったのにと思う。母はダイニングテーブルで返事を書いて、新しい封筒にそれを入れた。

「先生のお返事ここに入れたから、明日渡してね」

 お金を渡すのならいいけど、中は手紙だけ。これを受け取った先生の顔が想像できるだけにうんざりする。

 自分の家が今は金銭的に恵まれているわけではないということは彩音もわかっている。かといって、貧乏だとも思えない。母が着ているものは、いわゆる有名ブランドの物だし、家具も高いものばかりみたいなのだから。それなのに、なぜ給食費が払えない時があるのか、彩音には理解できなかった。

「じゃあ、私、シャワー浴びてくるから」

 母が浴室に消えたのを確認して、バッグから携帯を取り出し、ラインを見る。

『明日大丈夫だよね』

 隣のクラスの飯倉賢人から明日の土曜日にデートに誘われている。

 賢人と付き合い始めたのは、半年ほど前のこと。それまでも廊下どで何度か話をしたことがあるけれど、とりたてて仲がいいということでもなかった。そんな賢人が、彩音がバレー部をやめたという噂を誰かから聞きつけて、校門から出ようとした彩音の前に現れた。

「バレー部やめたんだって?」

「うん。そうだけど。誰から聞いたの?」

「吉川から」

 吉川尚子は賢人と同じクラスで、彩音と同じバレー部に所属する。しかし、吉川はレギュラーであったが、彩音はいつも補欠だった。

「ああ」

 尚子と賢人は付き合っているという噂がある。

「部活やめたら時間空くんじゃね」

「まあ、そうだけど…」

 賢人が何を言おうとしているのかがわからなかった。

「だったら、俺と付き合わない?」

「何言ってるの?」

「俺のこと嫌い?」

「好きでも嫌いでもない」

「えー、ショックだな。好きでも嫌いでもないということは、俺に何の感情も湧かないということだから。少なくとも、俺は君のこと好きなんだけどね」

 へんな告白のされ方をして、彩音は戸惑う。

「急にそんなこと言われたって無理だよ。それに、飯倉君って、尚子と付き合ってるんじゃないの?」

「それは全くの誤解。吉川とは幼馴染だから気心は知れてて、よくしゃべるっていうだけ」

「ふ~ん」

「というわけだから、まずは友達としてでいいから付き合ってくれない?」

 賢人は男の子の間でも人気があって、悪い印象はなかったので、友達の一人として付き合うのならいいかと思ってOKした。付き合っているうちに、いつしか彩音のほうが好きになってしまった。ただ、そういう素振りは極力見せないようにしていた。男は自分が惚れられているとわかると、すぐに調子に乗る生き物だと知っているので。

 何回かデートを重ねる中で、軽いキスは交わしたが、それ以上には進まないように自制していた。でも、最近の賢人の様子を見ていると、そのことに苛立っているのがわかる。自分でも、いつか一線を越えてしまいそうで怖い。万が一、一線を越えてしまったら、自分は母のような男にだらしのない女になってしまうのではないかという不安がある。絶対に母のようにだけはなりたくないという思いが強く、逆にへんに意識してしまうことがある。

『大丈夫だけど、6時には家に戻らなくちゃならないの』

『ええー、何それ。聞いてないよ、フルで空けとくって言ってたじゃない』

 そうなのだ。大人になる覚悟でフルで空けておいたのだが、やっぱり無理だった。

『ごめんね』

『もおー、いつか埋め合わせしてよ』

『はい、はい』

 賢人がどんな埋め合わせを考えているのかわからないけど、とりあえずここは合わせておく。

「勉強しなくていいの?」

 いつの間にか風呂場から出てきた母が咎めるように言う。自分は勉強嫌いだったくせにと思うが、自分がバカで苦労したから娘にはそんな思いをしてほしくないという親心なのかもしれないけど、説得力に乏しい。

「これからやるところ」

「ふ~ん。それならいいけどさあ」

「心配しないで。こうみえて私頭のいいこと知ってるでしょう」

 彩音はそれほど根詰めて勉強しているつもりはないけれど、常に学年で3位以内に入っている。誰だか知らぬ父親に似たのか、母が勉強が嫌いだっただけで頭そのものは悪くなかったか。

「まあ、そうだけどさ。さてと、出かける準備をするかな」

「早いんじゃない?」

「大村さんの同伴があるのよ」

 そう言った瞬間、母は母親の顔から女の顔になった。そう、母はまるごとごろんと生々しい女なのだ。一番見たくない母の女の顔でもある。『大村』という名前は、最近母からよく聞かされる名前だ。一度だけ母を送ってきた大村をちらっと見たことがある。40代後半のおしゃれな紳士という感じの男で、まさに母の好みの男だ。惚れやすい母が仕事を忘れて本気になりかけているのがわかった。

 母はいつか堅気の人と再婚して普通の暮らしをするというのが夢で、その夢のせいで、これまで何人もの男に騙されている。彩音が母から学んだのは、人はこと恋愛に関しては学習しないものらしいということだった。

「あっ、そう」

「何よ。その母親をバカにしたような言い方やめなさいよ」

「別にバカになんかしてないよ」

「ふん。どうだか。いったい誰に似たんだろうね、あんた」

「そういうこと言うんだ」

 親が子供に言ってはならない言葉だとわかっていないのだろうか。情けなくて涙が出そうになるが、下唇を噛んで我慢する。

「生意気な口をきくんじゃないよ」

「わかった。もういいよ」

 そう言った後、口をつぐんだ。どうしようもない虚しさに襲われる。母親にはどんな口答えをしても無駄だとわかってはいたが。今回も二度と口をきくものかと思う。母が外出するまで机に座り教科書を開いて勉強をしているふりをする。

「じゃあ、行ってくるからね」

 背中に投げかけられた母の言葉をいったん無視したが、そんなことをすれば何倍にもなって帰ってくるので一応返事だけはしておく。

「行ってらっしゃい」


3ー3

「私、中学卒業したら就職するつもりです」

 担任の榊原との個人面談の席で彩音は断固としてそう告げた。

「えっ、どうして?」

 彩音は学年で常に3位以内の成績を収めていたので、まさか就職を口にするとは思わなかったのだろう。

「先生には、うちの家庭事情話しましたよね」

「それは聞いてるよ。だけど、費用の問題だったらいろんな制度もあるから心配するな」

「先生は誤解しています。お金の問題じゃないんです」

「他に何がある?」

「前にも一度相談したことがあると思いますけど、母親のことです」

「ああ。そういえば、そんなことがあったな。それはわかるけど、小坂なら間違いなくハイレベルの都立高校に入れるんだからもったいないと思うし、それに、せめて高校くらい出たほうがいい」

「私もできるものならそうしたいんですけど、もうこれ以上あの人と関わりたくないんです」

「あの人ってって、小坂」

「私にとっては、あの人なんです。ですから、とりあえず就職して、高校は定時制に通いたいんです」

「そうか。わかった。小坂のことだからちゃんと考えて出した結論だろうから、もう止めないよ。俺のほうでもできる限りのサポートをするよ」

「ありがとうございます。サポートお願いします」

 榊原は言葉通りに彩音のために動いてくれた。就職先についても、彩音が家を出て独り立ちできるように、住み込みで働ける会社や、寮完備の会社をリストアップしてくれた。しかも、まだ会社というものを知らない彩音のために、どんな点に注意して会社選びをしたらいいかについてもアドバイスをしてくれた。さらには、定時制高校のパンフや入学に当たっての注意、授業料等々についての情報も準備してくれたのだ。クラスの中で就職する生徒は彩音だけで、他の生徒は全員進学する。そういう意味で、榊原にとっても彩音は気になる生徒だったのかもしれない。

「小坂、先生はこの会社がいいと思うんだけど、どうだ?」

 多くの会社資料の中から、榊原が一社を選んでくれた。給料や寮のきれいさといった条件だけを考えると、確かに榊原の言うとおりだった。だけど、いかにも今の住まいに近い。

「とってもいい会社だと思うんですけど、今住んでいるところに近すぎるのがネックなんです」

「そうかあ。小坂はそこが一番大事だったんだよなあ」

「せっかく先生に選んでいただいたのにすみません」

「いや。先生のことは気にしなくていい。俺が小坂の気持ちをもっと考えるべきだった。じゃあ、ここかここはどうだ?」

 次に榊原が勧めてくれたのは、茨城県の丸田食品という会社と、愛知県の東方工業という縫製工場だった。丸田食品は住み込みが可能で、東方工業は寮完備だった。彩音は、愛知県の東方工業を選んだ。住み込みよりも寮のほうを希望していたことと、縫製工場のほうが技術が身につくと思ったからだ。

 人生で初めての透き通った希望と夢の感触に心躍っていた。

 結局、賢人とは別れた。

 進学する賢人とは全く別の道を歩んでいくことを決意したことで、彩音はきっぱりと別れることを決めた。人生をやり直すためにはすべてを捨てる覚悟が必要だと思っていたから。それに、中学生同士の恋もどきの恋なんて、どうせすぐに終わるものだからと、自分に言い聞かせて。

 だが、彩音が別れを告げた時、賢人は納得しなかった。

「何でだよ」

 空洞のような無表情で言った。

 無理もない。二人はうまくいっていたのだから…。

 切れ長で粗野だけど澄んだ瞳に見つめられると、決心が揺らぎかける。

「あたし、嫌いになったんだよ」

 自分の行き場のない思いを悟られぬように、不遜ともいえる一番単純でわかりやすい言葉を選んだ。

「何でだよ」

 まるで分解写真の一コマのように同じ言葉を繰り返す賢人。よく見ると、両のこぶしを握ってじっと耐えているのがわかった。

「それ以上の理由なんてないでしょう」

 校庭に立つ賢人の後ろに炎天が広がっている。彩音はそんな賢人のまっすぐな目を見ながら、本当は言いたいたくさんの言葉を空気とともに飲み込む。

「ごめんね。もう行くから」

 まだ呆然としている賢人を残して、彩音はその場を去った。背中に賢人の強い視線を感じながら。

 その日の夜、彩音は背をまるめ顔を両手で覆って泣いた。割り切ったつもりだったけど、案外心は痛んでいた。

 でも、もうこれで何も後悔はなかった。後は母に告げるだけでいい。

「私、愛知に行くから」

 会社は愛知県の清須市にあったが、もちろんそれは伝えない。突然家を出ることを伝えられ母は激怒した。

「何、勝手に決めてんだよ。普通、親に相談するもんだろう」

 猫のような目をして怒っている。

 相談したところで、会社のことなど何もわからない母親からいい答えなど得られるはずもない。だいいち、母親から離れるための就職だということを理解できていない無神経さに呆れる。

「とにかく決めたことだから」

「親をバカにするんじゃないよ」

 母親の前に置いてあったティッシュボックスが、彩音の顔に向かって飛んできた。それを手で払いのけ自室に戻る。そもそも、彩音には母親と話し合うつもりなどハナからなく、ただ事実を告げるだけで良かったのだ。

 案の定、翌日から母は口をきかなくなったが、別に驚くことも困ることもなかった。むしろ歓迎したくらいだ。すでに自分のことは自分でできるようになっていたので、接触しないで済むことはありがたかった。せっせと愛知へ行く準備に明け暮れた。家を出る当日の早朝、まだ隣の部屋にいる母親に一声だけかける。

「じゃあ行くから」

「……」

 起きているのかまだ寝ているのか。聞いているのかいないのか。いずれかわからなかったが、結局、最後まで言葉を交わすことはなかった。予想はされたが、胸奥にちりちりとした痛みが走る。


3-4

 愛知の会社に就職して4年が過ぎた。給料も徐々にではあるが上がってきている。おかげで寮住いの彩音は、無駄遣いさえしなければ毎月多少なりともが貯金ができるまでになっている。将来に備えて、できるだけ多くのお金をためておきたい。

 この間、母親からの連絡はない。家を出る時、詳細は一切伝えていなかったし、自分の携帯番号も変えてしまったのだから、当然である。おかげで、彩音は自分のことだけを考えればよく、空っぽの冷蔵庫のような自由さを満喫していた。

 ところが、昨夜突然その母親から電話がかかってきた。知らない番号だったので、出るのを躊躇ったのだが、定時制高校の誰かからかかってきたかもしれないと思い、出てしまった。敵もさるもの引っ搔くもの。母親のほうも携帯番号を変えていたのだ。

「はい」

 一応、こちらの名前は言わなかった。

「その声は彩音だよね」

 間違いなく母親の声だった。その声を聞いた瞬間、彩音はゾッとした。何も話さず切ってしまいたかったが、番号を知られてしまった以上、そんなことをしても無駄だと諦めた。

「いったい誰から聞いたわけ」

 彩音からすれば、その点だけを聞きたかった。

「なんだい、いきなり。まずは、ご無沙汰していますとか言うんじゃないの。こっちは親なんだから」

「お言葉ですけど、今の今まで親だなんて思ったことないです。そんなことより、誰から聞いたのよ」

「ふん。よっぽどそのことが気になるらしいね。教えてあげようか。もちろん、榊原先生に決まってるじゃない」

「ああ」

 やっぱりそうか。他にはいないと思ったが…。

「彩音が一番お世話になってた叔父に不幸があって、どうしても報せなければならないんですって言ったら、ペロっと白状したよ。あの先生ちょろいね」

 百戦錬磨の母親にかかれば榊原を騙すことなんて造作ないことだろう。

-あのお人好しが-

 榊原は元来生真面目だから、母親の言ったことをまるまる信じてしまったのだろう。それにしても、榊原はどこまで話してしまったのだろうか。携帯番号だけならいいが…。後で榊原に確認しなければならない。

「しかし、元気そうで良かったよ。お前がどう思っているか知らないけど、これでもずいぶん心配してたんだから」

 急に口調を変え、いかにも心配していた風に話しているが、まるで心はこもっていなかった。

「そうですか。それはありがとうございます」

 こちらも、何の感情をこめずに答える。

「ところで、相談なんだけどさあ」

 ついに来た。榊原を騙してまで電話をかけて寄越したのだ。良からぬ理由があるに決まっている。

「何でしょうか?」

 だいたいわかっていたが、敢えてとぼける。

「悪いんだけどさあ、あんた私に30万貸してくれない? 来月末には返せるから」

 心の闇の底で歯ぎしりをする。

「無理です。そんな大金、私にあるわけないでしょう。毎月、ギリギリで生活してるんだから」

 実際にはそのくらいの預金はあったが、それは自分の将来のために蓄えているものだ。びた一文、母親なんかに貸すつもりはない。

「そんなこと言わないでさあ。親が困っているんだから何とかしてくれてもいいだろう」

「何度言われても無理なものは無理です」

「実はさあ、男に金を持ち逃げされたんだよ」

 母親ならあり得る話ではあったが、それだからこそ嘘くさい。

「そんなの、私に関係ないことですから、そっちで何とかしてください」

「あっ、そう。わかったよ。もういいよ。この薄情もの」

 『薄情もの』という言葉が、私の感覚をピンと弾く。誰が誰に対して言っているのだ。とたんに負の感情が持ち上がる。

「何と言われようとかまいませんけど、私でお役に立てることなど何一つありませんから、もう二度と電話してこないでください」

 最後はわざとて丁寧に抑えた口調で言った。

「バーカ」

 最後にそう悪態をついて、母は電話を切った。母親の唇の端を歪めるように吊り上げる癖を思い出す。怒りと、果てしのない徒労感に襲われる。だが、のんびりしてはいれれなかった。早急に手を打たないと、また何か月か後に、しらっと電話をかけてくるかもしれない。それに、もし榊原がここの住所まで教えていたとしたら、押しかけてくるかもしれないのだ。

 早速、榊原に電話する。

「はい」

 出ないかと思ったが、予想に反して榊原はすぐに出た。

「榊原先生ですよね」

「その声は小坂だな」

「そうです」

「元気そうだな」

 かつての教え子からの久しぶりの電話に、榊原は嬉しそうだった。

「元気じゃないです」

「どうかしたか?」

「先生、母親に私の携帯番号教えましたよね」

「ん? ああ、そういうことがあったかも」

 教えたことすらはっきり覚えていないのか。

「確か、親戚に不幸があったとかで、どうしても連絡したいと言われて…」

 悪気はないのだろう。善意というのが、時には人を傷つけるということがわかっていないのだろうか。

「それ、嘘です」

「ええー」

「うちの母はそういう人です」

「……」

 電話の向こうで榊原が言葉を失っているのがわかった。

「先生、先生。どこまで母に話しましたか? まさか、会社の住所やこの寮の住所、電話番号まで話してないでしょうね」

「ああ、そこまでは話してない。携帯番号で足りると思ったから」

 ぎりぎりセーフだった。携帯番号だけなら対応は可能だった。

「良かった。携帯番号だけだったら、また番号を変えれば済むことですから。それで、先生にお願いがあります」

「なんだ?」

「私、明日にも携帯番号を変えます。その番号を先生にはお報せしますけど、もしまた母親から連絡があっても、新しい携帯番号は教えないでくださいね。私は、何があっても、もう母親とは一切の関係を断つつもりですから」

「わかった」

「ちなみに、母は親戚から縁を切られていますので親戚から母に連絡が入ることはあり得ません」

「そうか…」

「ということですからお願いします」

「わかったよ」

 翌日、午前中に休みをもらい携帯ショップへ行き、番号を変更した。これでもう二度と母から連絡があることはないだろう。


3-5

 定時制高校に通うのは想像以上にきつかったが、なんとか卒業できた。これで、中卒ではなく高卒となった。もともと勉強は嫌いではなかったので、チャンスがあればこの後も大学の二部か通信制の大学も目指したいと思っている。

 男に振り回されている母親の姿をずっと見てきたから、自分は男に頼らずに生きていけるようになりたいと思っている。そのためには、手に職を持つか、高度の専門能力を身につける必要がある。この会社に入ったのも、そもそもは縫製の技術を身につけるためだった。ところが、いざ入社すると自分の意に反して総務部の配属となった。今の仕事が嫌いなわけではない。最近はやりがいすら感じている。でも、将来のことを考えるとやはり今のままでは不安がある。だいいち、入社時の約束が守られていないことに納得がいってない。いつか社長に直訴しようと思っていたが、いつも忙しそうにしている社長の姿を見てしまうと、なかなか言い出せず悶々としていた。

「小坂さん、最近元気ないみたいだけど、何かあった?」

 営業から戻って来た桜井誠に声をかけられた。折しも、みんな外出していて会社には彩音しかいなかった。誠は彩音より確か9歳ぐらい年上だ。

「そんな風に見えました?」

 いろいろあっても、極力態度には出さないようにしていたが、誠には見透かされていたのだろうか。

「うん。というか、ずっと何かに対して怒っているような顔をしてるよね」

 営業部は隣の部なので、当然ながらお互いのことは知っている。会話を交わしたこともある。とはいえ、それ以上でも、それ以下でもなかった。

「そんな顔してますかね?」

「してるよ。自分では気づかないのかもしれないけど。いったい何に怒ってるわけ」

「内緒です」

 適当にごまかすことにする。

「内緒かあ。小坂さんって、おもしろいよね」

「別におもしろくなんかないと思いますけど」

「いや、前からおもしろい子だと思ってた。ところで、突然なんだけど、今度一緒に飲みにいかない」

 誰もいないのに、急に声を潜めて言った。これは、いわゆるデートの誘いなのか? ちょつと警戒心が働いたけれど、仕事のできる誠の話は聞いてみたいと思った。

「ほんとに突然ですね。食事だけならいいですけど」

「もちろん、それでいいよ」

 誠から誘われたことを同僚の松井理子に話すと、「気を付けたほうがいいわよ」と言われた。

「どうして?」

「プレイボーイらしいから」

「プレイボーイ?」

「うん。よく言えばプレイボーイだけど、要するに女癖が悪いってこと。今も事業部の子とか工場の子とか複数の子と付き合ってるみたいだし」

 眉間に皺寄せながら言う。

「えっ、そうなの?」

「まあ、噂だけどね」

「そう…」

 理子の話を聞いて、彩音は少し不安になった。しかし、OKしてしまったものを断るのは躊躇われた。なので、とりあえず今回は行って見ることにした。

 誠の行きつけという居酒屋に連れて行かれた。食事だけと言ったはずなのに忘れてしまったのだろうか…。狭い店内の一番奥のテーブル席に向かい合って座る。

「今日は嬉しいな」

 誠が瞳をくるりときらめかせ彩音の顔を見ながら言う。まるく優しい声だった。

「何がですか?」

「小坂さんみたいなきれいな人とこうして二人きりで食事できることがさあ」

 いきなりこんなことを平気で言うということは、やっぱり理子が言っていた通り、この人はプレイボーイなのか。

「いきなりそんなことを言うのって、どうなんですかね」

「えっ、僕は正直な気持ちを言っただけなんだけど、いけなかった?」

「いやあ、噂通りのプレイボーイなんだなあと思って」

「そんな噂があるんだあ。でも、それはまったくの誤解」

「そうですか。でも、普通はいきなりさっきみたいなこと言わないと思うんですけど」

「ああ、確かにそうかもしれないね。僕、そういうところあるんですよ。それがきっと誤解を生んじゃうのかもね」

「そうですよ。それに、女性は誰だってきれいなんて言われたらその気になっちゃいますから、ズルイですよ」

「う~ん、ズルイかあ。困ったなあ。ただ、これだけは言っておくけど、僕、誰にでもきれいだなんて言わないよ。それだけは信じて」

 心底困ったという顔を見せて言った。その困った顔がちょっとかわいくて、さらに追及してみる。

「信じたい気はしますけど、桜井さんって今も事業部の子とか工場の子とか、複数の子と付き合っているって聞きましたけど…」

「ええー、いったい誰がそんなこと言ってるんだろう。驚いたなあ。でも、そんな事実ないから」

 心外だと言うように、顔の前で手を左右に強く振った。

 彩音の母親はまったく男を見る目がなかった。そんな母親を見てきたから、自分は男を厳しい目で見るようにしてきた。だから、自分の男を見る目は確かだと思っている。しかし、その一方で、心のどこかでは、知らず知らずのうちに母親と同じようにダメ男を選んでしまうのではないかという不安も抱えている。ここにも母親の影が見え隠れしている。

「まあ、今日はこのくらいにしておきますけど」

「もう勘弁してくださいよ。ちゃんと信じてもらえようにするから」

 誠は過不足のない微笑みを見せた。プレイボーイではないとしても、この人は自分の魅力を知っていると思った。

「ふふ。なんか楽しい」

 心が凪いでいくのを感じた。

「楽しくなんかないよ。小坂さんって妙に僕のことを警戒していると思ってたけど、そんなことがあったとは思わなかったなあ。いやあ、参った」

 頭を抱え込む仕草をする。そういう姿を見ていると、桜井誠に関する噂は事実ではないのかもしれないと思えてきた。

「ひょっとして、桜井さんって案外真面目なのかもね」

「案外じゃないですよ。なんだかすっかり小坂さんのペースになってるなあ」

 言われればそうかもしれない。でも、このやりとりのおかげで二人の距離はかなり縮まっていた。

 その後、社内の出来事を肴に、お酒を飲みながら食事をしていたらすっかり打ち解けていた。誠が話し上手なのもあったが、二人の感覚が似ていたことで親近感が深まり、当初桜井に対して持っていたイメージもだいぶ変わってきていた。ただ、だからといって、完全に気を許したわけではない。男性に対する彩音の警戒心はまだまだ強かった。

 翌日、理子に誠の感想を訊かれた彩音は、『仕事の話しかしなかったので、よくわかんなかった』と、どちらともつかない返事をしておいた。噂を否定するのも肯定するのも違うような気がしたからだ。

 しかし、以来、誠から何度も誘われ、数回に1回は食事というか飲みに付き合った。それは、社長の信頼の厚い誠に相談したいことがあったからでもある。何回目かの食事の席でそのチャンスは訪れた。

「そう言えば、この間社長から聞いたんだけど、小坂さんって手に職を持ちたくてうちを選んだんだって?」

「えっ、社長がそう言ってたんですか?」

「うん」

「社長覚えてくれてたんだ」

「うちの社長はそういうこと忘れない人だよ」

「そうですか。でも、それで私は工場勤務を希望したんですけど…」

「総務部配属になっちゃったと」

「そうなんです。実はそれで悩んでて」

「そうかあ。でも、社長は十分小坂さんのことを考えていたよ。それで、近いうちに彼女と面談するつもりだとも言っていた」

「ええー、そうなんですか。なんか嬉しい。いいお話を聞かせていただいてありがとうございます」

「いやいや、僕は何もしてないから」

「そうなんですけど、やっぱり桜井さんに感謝です」

それから3週間後、誠の言うとり、社長から呼出しがあった。

「まあ、そこに座って」

「はい」

「早速だけど、君が手に職をつけたいという希望を持っていることはもちろんわかっていた。でも、その理由を榊原先生から聞いた時、現時点で特定の技術や技能に限定してしまうのは君のためにならないと思ったんだ。小坂君の頭の良さは榊原先生からも聞いていたから、きっと君はもっといろんな可能性を持っていると思った。だから、とりあえず定時制高校に通いやすい総務に配属した。そして、その間の君の働きぶりを部長から報告を受けていた。予想通り君の仕事に対する意欲やスタンスや、その能力は目を見張るものがあると部長も感心していた。しかも、仕事の後、定時制高校に通っていたわけだから、根性もすごいと」

「ただ一生懸命やっただけですから…」

「いや、なかなかできることじゃない。それで、先月その定時制高校も卒業したわけだよね」

「はい、そうです」

「実はそれを待っていたんだ。今後は小坂君が一番能力を発揮できる分野の仕事についてもらいたいと思っている。そして、それが君が望んでいた一生食べて行ける専門能力が身に着くものになると思う。小坂君もこの4年間働いてみて興味、関心を持った仕事もあるだろうし、自分には何が向いているかということも考えていると思う。それを今一度じっくり考えて見て、結論が出たら私のところに来てくれないか。一応、私は私で考えておくから、それをすり合わせて決めよう。いいね?」

 ここまで深く考えてくれていたなんて…。

「中卒の私のために、そこまで考えていただいて本当にありがたいです」

「学歴なんて飾り程度のものだと私は思っているんだ。それに君はもう高卒だ。私は小坂君に限らず、社員は宝だと思っている。だから、すべての社員が大切なんだよ」 

 なんてすばらしい社長なんだろう。この会社を紹介してくれた榊原にも感謝だ。


3-6

 社長夫婦の仲人で、誠と彩音は結婚した。

 母のこともあって、自分はちゃんとした恋愛ができるか、そして、その先にある結婚にまでたどり着けるか不安だったけど、誠は社長が信頼しているだけあって、いい夫だった。理子が彩音に話した誠の噂はすべて嘘だった。もともと誠のことが好きだった理子が自分ではなく彩音を誘ったことに嫉妬して発せられたものだった。

 結婚後も共稼ぎをしている。夫は今まで通り営業部だが、彩音は社長との話し合いで事業部に配転となった。会社が進めている新規事業部で働きたいと思ったからだ。そのため、彩音は社長の勧めもあって、通信制の大学で経営学を学び始めた。夫の誠もそのことは賛成してくれたのだけど、一方で、できるだけ早く子供がほしいとも言われていた。

 誠が子供好きであることは知っていたので、希望に沿いたいという思いもあるけれど、本当のところ彩音は子供が好きではない。というか、自分の子供の存在というものを受け止めることができない。夫にはなんでも話しているけれど、唯一この思いだけは話してない。だから、彩音は夫に大学卒業まで待ってほしいとお願いした。子供ができたら勉強を続けることは難しいからと。

 時間が経てば、自分の考え方も変わるかもしれないという思いもあった。しかし、ちゃんと避妊していたにも拘わらず、2年後に子供を授かることになった。これで計画が変わってしまった。

 病院から帰って夫に伝えると、夫は素直に喜んだ。

「おめでとう。というか、やったね」

「でも、予定外だった」

 夫への抗議の意味を込めた。

「まあ、そうかもしれないけど、おめでたいことだし、良かったじゃないか」

 手放しで喜ぶ夫を見ると苛ついてしまう自分はおかしいのだろうか。本当なら堕胎したかった。だがそれを夫に言うことはできなかった。

 産まれた子供は女の子だった。名前は彩美と名付けた。初めて赤ん坊を看護師から受け取った時は、ただ不思議な感覚だった。もちろん、喜びがなかったわけじゃない。自分と夫の血を受け継いだ子を授かったことに幸せを感じもした。

 だが、子育ては苦痛以外の何物でもなかった。子供特有の匂いが彩音を息苦しくさせる。そんな時は窓を開け、空気の匂いを嗅ぐことで堪えた。しかし、育児ノイローゼになったわけではない。冷静だった。わが子というリアルな存在が次第に薄気味悪くなってきたのだ。自分の心の奥に潜む邪悪な影が次第にせりあがってきていた。

「彩音、何してるんだ」

 いつの間にか帰宅していた誠が後ろに立っていた。自分はいましがた泣き止まない娘の彩美の顔を平手打ちしたところだった。

「何って、この子が泣き止まないからでしょう」

 誠は彩音の元へ走り寄り、狂ったように見えた妻から大事な娘を取り上げた。

「お前、いつもこんなことしてたのか?」

「こんなこと?」

 自分が子供の頃、母親から毎日当然のようにされていたことだ。ただ、無意識にこれまで夫の前ではしてこなかっただけ。私の中では母親と過ごした暗く長い時間がいつまでも堆積していて消えない。

「どうかしちゃったのか」

 そう言う誠の顔には怯えのようなものが張り付いていた。誠には今の自分の顔がどのように見えているだろうと彩音は冷静に考えていた。

「別に…」

「おかしいだろう」

 誠はきっと自分のことを育児ノイローゼになっていると判断したのだろう。

「私、おかしい?」

「ああ、おかしい。育児疲れだと思うけど、一度病院に診てもらおう。俺も一緒に行くから」

 育児ノイローゼという言葉はきついと思ったのだろう、育児疲れと言ったところは夫らしい。私を精神科に連れて行こうとしている。夫は何もわかっていない。わかろうとしてくれない。夫が突然遠い存在になった。

「やあよ、病院なんて」

「そう言わずに行こう。彩音のためにも、彩美のためにも」

「やだって言ってるでしょう」

 天井に一直線で届くような声を張り上げた彩音を、夫は悲しそうな目で見た。

「わかった。落ち着こう」

「私は落ち着いているけど」

 夫に粘つくような視線を向けて言った。

 やりきれない哀しさに心が縮む。

「そうか…。病院の件は改めて考えよう。ただ、僕が思うに、彩音は知らず知らずのうちにストレスをため込んでしまったんだよ。それに気づいてあげられなかった僕の責任でもあると思う」

 今は夫のくそ真面目な優しさが鬱陶しい。

「あなたは関係ないのよ」

 きっと意味はわかってもらえないと思いながら言った。私が自分だけの闇の中をさ迷っていることなんてわかりっこないのだ。

「そんなことないよ。子育ては二人でやるものだから」

 その時、夫の腕の中にいた彩美が再びぐずり始めた。彩音は彩美を夫の腕から引きはがし抱きかかえた。

「もう大丈夫だから」

 そう言って立ち上がり、彩美を抱えて隣室のベッドまで行き寝かしつける。指の透き間から幸せが逃げていくようだ。

 翌日改めて病院受診を進める夫の言葉を無視することはできなかった。夫が純粋に彩音のことを心配してのことだとわかっていたので、それに応えたいという思いもあった。病院の診断は軽い育児ノイローゼということで薬を飲んで様子をみましょうということになった。医師の診断が間違っているとは思わないけれど、この時医師に母親との確執は伝えていないので正確な診断とも言えなかった。


3-7

 自分の子供とどう向き合えばいいか、未だにわからないまま時間だけは過ぎて行った。もちろん、自分の子供だからかわいいと思う瞬間はあるし、愛おしいといいう感情が湧くこともある。けれど、それは一時的なもので、自分を愛するようには愛せない。急に泣き出す子供を見ると、今でも得体の知れない異生物のように思えてしまい、胸の中を黒く染め上げてしまう。気がつくと母が私にしていたような冷たい仕打ちをしてしまうことがある。自分の子供に、自分と同じ思いをさせてはいけないと強く意識することで、その回数は少しずつ減ってはきている。だからと言って、『愛し方』がわかったわけではない。この先、子供と一緒に生きていく中で『愛し方』がわかってくるのだろうか。

「ママ、行ってきます」

 小学4年生になった彩美が屈託ない笑顔を私に向けて言った。

「車に気をつけてね」

 もちろん、私も笑顔で返す。だが、彩美が家を出て行ったことで正直ほっとしている自分がいる。

 自分の子供に対する思いが歪んでいるのは、自分が育った環境にあると、正直に夫に伝えたのは最近のことである。自分は母親に愛された記憶がない。だから、愛し方がわからないのだと。でも、そんな私に夫はまたしても一般論という正論で反応した。生きることに痛みを伴わない世界で生きてきた夫らしい意見ではあった。

「そんなことないんじゃないか。お母さんは愛情表現が下手だっただけで、きっと彩音のことを愛していたと思うよ。どんな親でもわが子がかわいくない親なんていないはずだし、多少歪んでいたとしても愛情を持っていたと思う」

 返す言葉もなかった。もはや反論するする気にもなれなかった。両親の愛情をたっぷり受けて育った夫に私のことは理解できないのだろう。夫婦といっても所詮は他人なのだから、考え方が違うのは当たり前と思って割り切ればいいのかもしれないけれど、この意識のズレのまま、この先もずっと夫と生活していくことに自分が耐えられるか自信がない。

 誰かに相談したいと思うけれど、もともと友達が少なく、かつ深い付き合いをしたことがないので、彩音には相談相手がいなかった。強いて言えば、二人の事をよく知っている社長がいるが、こうした夫婦間の心の問題を社長に相談するのは躊躇われた。

 そこまで考えたところで、一人の顔が頭に浮かんだ。榊原だ。榊原が相談相手なら自分の心を晒すこともできると思う。もし、この先さらに追い詰められたら、その時は相談しよう。そう思うと、いくらか気持ちが軽くなった。

 それから数日後、その榊原のほうから電話があった。携帯のディスプレイに榊原の番号が表示された時、自分の思いが通じたのかとびっくりした。

「はい」

「小坂か」

 榊原の声がいつになく硬く、暗い。

「そうです」

「お母さんが危篤だ」

「あの人が?」

 自分が知っている限り、母は病気などしたことがなく元気だったはずだ。

「あに人じゃない、お母さんだ。昨日救急車で運ばれたらしいが、容態が急変したと連絡がきた」

「私には関係ないです」

「バカなことを言うな。何があっても、お前のお母さんだぞ」

「だからなんだっていうのですか」

「それでいいのか? 後悔しないのか?」

「いいんです」

「そうか。わかった。一応病院名だけは知らせておく。佐藤病院だ。お前も知っているだろう。以上だ」

 それだけ言って榊原は電話を切った。佐藤病院は地元では一番大きな病院で知らない者はいない。

 正直聞きたくなかった。自分は家を出た時点で母親を自分から切り離した。だから、母親に関する情報は一切いらないのだ。榊原にはそのことを繰り返し伝えてきたはずなのに…。

 もちろん、病院に駆けつけるつもりは毛頭ない。そんなことわかっているはずなのに、榊原は親切心で知らせてきた。榊原は夫と同じで『いい人』なのだ。いい人は時に悪魔になることに気づいていない。だから、この分だと、母親が亡くなればまた連絡してくることだろう。

 案の定、危篤の電話の3日後に、その電話はあった。しかも、その時は傍に夫がいた。

「お母さん亡くなったぞ」

「そうですか。わざわざご連絡いただいてすみません」

 ひどく冷淡な言い方になっているのは自分でも気づいていた。

「なんだ、その言い方は。実の母親が亡くなったんだぞ。お前が母親を恨んでいたことはよく知っている。だけど、もう許せよ。お母さんはお前が自分の元を離れたのは自分のせいだと最後まで自分を責めていたそうだ。責めて、責めて、たった一人で亡くなったんだ」

 最後は涙声で叫ぶように言っている。だが、聞いている彩音はひどく冷めていた。母親がどんなことを言おうと、今更遅いとしか思わなかった。

「何で先生が泣くんですか」

 夫が心配そうな顔をして自分を見ているのが煩わしい。

「だってお前…。俺にも子供がいる。だから親の気持ちが痛いほどわかるんだ」

「先生と母はまるで違います。ですけど、とにもかくにもご連絡をいただいたことには感謝します」

「そうか。お前のことだ、葬儀にも行かないんだろうが、せめていつか墓参にだけは行ってくれ、頼む」

「わかりました」

 そう答えはしたけれど、もちろん行く気はなかった。ただ、榊原が当時と同じ熱血教師だったことが嬉しかった。電話を切って振り返ると夫と目が合った。

「どうしたの?」

「母が亡くなったって」

「えっ、そうなの」

 顔を歪め、絞り出すように言った。

「あなたがそんな哀しそうな顔することないじゃない」

 そんなこと言うつもりじゃなかったけれど、夫の顔を見ていたら自然に出てしまった。

「何でそんなこと言うんだ」

 決して咎めるというような言い方ではなかったが、寂しそうであった。

「ごめんなさい。でも、もう私には関係ないことだし、ましてやあなたが悲しむことじゃないの」

「どうしてそういうこと言うんだろうね」

 夫には私のことが理解できないのだ。子供のことで諍いをした時に、自分が夫を遠い存在だと思ったように、夫も今の私のことがよくわからないのだろう。

「事実を言ったまでだけど」

「そう…」

 そう言って一呼吸置いた。夫は夫で私の気持ちを変えられないもどかしさを感じているのだろう。私は次の言葉を待った。

「実の親なんだし、そういうこと言っている場合じゃないんじゃないか。行かなくていいのか?」

 葬儀に駆けつけるべきだと言いたいのだろう。

「今電話をかけてきた先生も同じことを言ってた」

「それが普通の感情なんじゃないか」

 そうなのだ。私たち親子はともに普通じゃなかったからこうなっているのだ。

「まあ、そうでしょうね。でも、私の気持ちは変わらないから」

「わかったよ」

 乾いた言い方だった。これ以上何を言っても無駄だと思ったのだろう。

 翌日から私は自分で言った通り、これまでと何ひとつ変わらない日常生活を送っていた。表面上は…。でも、心の中はずっと揺らいでいた。それは日々成長する自分の子供と向き合う中で、親というものが少しずつではあるが理解できるようになっていたからかもしれない。

 母親の死の報せから二週間たった土曜日。仕事が忙しく、今月に入って初めて休みのとれた夫が朝早くから起きていた。午前の白く清潔な光が心地よい。

「せっかくの休みなんだからもっとゆっくりしてればいいのに」

「いいんだよ。それより食事が終わったら話がある」

「そう…」

 このところ夫は毎晩遅く帰ってくる日々が続いていたので会話らしい会話をする時間はなかった。ひょっとして、夫は私と向き合うのが嫌で残業しているのかと疑っているところもあった。だが、話し合わなければならないことがいっぱいあることを二人はわかっていた。両親の間にそんなことが起きていることを何も知らない彩美が起きてきた。

「ねえ、ママ。9時半には瑠璃ちゃんが迎えに来るから早くしてね」

 今日は1日友達の瑠璃ちゃんの家に遊びに行くことになっていて、それが嬉しくて昨夜からずっと興奮していた。

「大丈夫よ。彩美ちゃんの分はすぐに出せるようにしてあるから座ってて」

「はーい」

 自分には似ず、聞き分けの言い子に育っている。そそくさと食べ、迎えに来た瑠璃ちゃんと一緒に出かけて行った。後片付けが終わったのを見計らって夫がリビングから声をかけてきた。

「今行くから待って」

 キッチンで息を整えてからリビングの夫の正面に座る。

「で、何?」

「行こう」

 まったく違うことを予想していたので、意外な言葉に驚く。

「どこへ?」

「お母さんの墓参だよ」

「何言っているの。行くわけないでしょう」

「いつまで意地を張ってるんだ。彩音がずっと迷っているのは傍で見ていてわかった」

 珍しく夫の眉根に苛立ちが浮かんでいる。

「……」

 その通りだっただけに反論できなかった。

「行って心のけりをつけたほうがいい。彩音のそのわだかまりが、僕たち二人の関係もおかしくしている。彩音のためにも、お母さんのためにも、そして僕たち家族のためにも僕と一緒にお母さんの墓参に行ってくれないか。お願いだ」

 そう言って、頭を下げた。もう負けだと思った。夫の言っているとおりだった。私は自分勝手に果てしなく深い孤独の沼に怯えていただけだ。自分がいつまでも母への思いを捨てずに、意固地なまでのわだかまりを持っていることで家族を壊していた。そんな私を責めるのではなく、救おうとしてくれている。なぜこうも自分の周りにはいい人たちが集まっているのだろう。榊原といい、社長といい、夫といい。時に鬱陶しいと思うこともあるけれど、自分は幸せなのかもしれない。

「あなたの言う通りよね。私はバカでした。今気づきました」

 白紙の頁に新しい言葉を書くために一歩を踏み出すことにした。

「僕は彩音を責めるつもりなど毛頭ないよ、苦しんでいたのは彩音なんだから。でも、行ってくれるんだね」

「うん」


3-8

 バスを降り、途中にある花屋で供花を買い5分ほど歩くとお寺の堀が見えてきた。寺は大道路沿いにあるのに、都会の喧騒が嘘のように遠ざかっていく。一歩一歩が次第に重くなってきて、自分を囲む時間がはらりはらりと過去へと落ちて行く。

「ここよ」

「大きなお寺だね」

「由緒あるお寺らしいの。詳しいことはわからいけど」

「そうだろうね」

 門をくぐり中に入ると右側に管理事務所がある。電話で墓参を伝えてあったが一応声をかけることにする。夫を外に待たせ、自分だけが中に入る。

「すみませ~ん」

 奥に向かって声をかける。現れたのは住職の妻とみられる年配の女性だった。

「電話で連絡しました桜井彩音といいます」

「ああ、小坂さんの娘さんですね」

「そうです」

「やっぱりよく似てらっしゃいますね」

「そうですか」

「ええ、そっくりです。それで、これから墓参ですね」

「ええ」

 火のついた線香を受け取り外に出ると夫が所在なさげに立っていた。

「じゃあ行きましょうか」

 水を汲んだ水桶を夫に持たせ、自分は供花を持って小坂家の墓まで歩く。途中も掃除が行き届いていてまったくといってよいほどゴミが落ちてない。母親に何度か連れて来られたので場所はわかっていた。小坂家の墓は奥まった比較的広い場所にある。

「着いたわ」

「立派なお墓だね」

「母方の家系は代々事業をやっていて、それなりに栄えていたみたい。でも、祖父の代に

没落したって聞いた」

「そうだったんだ」

「じゃあ、彩音からお参りして」

 夫の言葉を受けて彩音が墓の前に進む。少し前に誰かが訪れたと見えて、花の残骸が残っている。いったい誰が来たのだろうかと頭を巡らせてみるが、自分にはわからない。

 まずは掃除をする。花の残骸を除け、墓の周りの草むしりをする。落ち葉やゴミなどを持参したビニールの袋に入れる。ひしゃくで墓石に水をかける。タオルで墓本体を丁寧に磨く。花立に供花を差し、水鉢に水を灌ぐ。最後に火のついた線香を差す。

「彩音、これ」

 夫が買ってきたワインボトルを渡してくれる。酒の中でも母がもっとも好きだったワインを用意した。ボトルごと墓石の前に置く。腰を下ろし、目を瞑り、数珠を持った手を合わせる。

 しかし、いざ母に呼びかけようとして彩音は悩んだ。ママ? お母さん? 母さん?

何年もの間自分はずっと『あの人』としか言ってこなかった。心の中ではアイツとまで言っていた。小さい頃はママと言っていた。でもそれは、母からママと呼ぶように言われていたからに過ぎない。それに、情愛の秤を考えると、今の自分に『ママ』と呼べるほどの深い感情はない。結局、お母さんと呼ぶことにした。

「お母さん」

 心の中でそう呟いて見たが、次に言うべき言葉に詰まった。夫に言われ、覚悟を決めてここまで来たものの、母を完全に許せたわけではなかったから。

「そちらはいいところですか?」

 こちらでは必ずしも幸せでなかった母に訊いてみたかったことだ。

「そちらでも悪い男にひっかかったりしてないでしょうね?」

 気になるのは、どうしてもそんなことだった。

「ごめんね。来るのが遅くなって」

 話しているうちに、心の中で何かが溶けた。許せなかったけれど、最後に自分が母に対してとった態度は決して褒められたものではない。だから、ここは素直に詫びた。 

「お母さん、知ってるかどうかわからないけど、私ね、結婚したの。夫は今傍にいる彼。それから女の子が産まれたの。お母さんの名前から1文字と私の名前から1文字とって彩美にした。だからといって、私、お母さんのこと許したわけじゃないよ。でもね。自分の子供を持って、ほんの少しだけどお母さんの気持ちがわかった」

 そこまで言ったところで涙が出た。泣くはずじゃなかった。いや、絶対泣くことだけはしないと誓ったはずなのに…。

『きっとお母さんも一人で闘っていたんだね、自分の孤独と』

 ふと、そんな気がしたのだ。

「私、お母さんに似ちゃったらしくてダメな母親なんだけど、今頑張っています。お母さんと違うところは、私はいい夫に出会えたこと。本当に優しいの。どう? 羨ましいでしょう」

「私、わかっていたんだ。お母さんは、ほんとうはごく普通の結婚をして、ごく普通の、ありきたりな、のっぺりとして退屈な、でも幸せで目がくらむような生活がしたいって思っていたんだよね。その思いが強すぎていつも空回りしてた。お母さん。お母さんはほんとうの恋に憧れ過ぎて、ほんとうの恋ができなかったんだと、私は思っている。そんなダメなお母さんでも、私にとっては世界でたった一人の大切なお母さんだったんだよね。今さら遅いけど、ようやく気づいた」

「もう二度と来ることはないと思うけど許してね。そちらで、今度こそいい人を見つけて幸せになってください。じゃあ、行くね。さようなら」

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