第4話 ハニーハント3

 窓の空が色付き始め、オリヴィアは懐中時計を開く。空が白んだ頃に、ヨハンが部屋に訪れた。彼は医者を呼びに行くと報告し、馬に乗って屋敷を出て行った。昼になる前には、ヨハンは医者を屋敷に連れて来る予定になる。手持ち無沙汰になったオリヴィアは、本のページをパラパラとめくる。


「…何かしら?」


 次々にページがめくれ、一切れの紙が床に落ちた。オリヴィアがその紙の内容を読むと、表情が一変して険しくなる。


(…いたずらにしては、少しやりすぎかしら)


 あまりにも悪質なそのメモの内容に、この本の入手経路を辿る。この本は屋敷で過ごす前に、侍女のミモザを通して入手した紡織の専門書である。彼女の姉は家庭教師をしており、幅広い分野に対する知識と人脈を頼った次第である。つまりこのメモは、誰かが意図的に挟んだものである可能性が浮上するのだ。オリヴィアは筆を執るために、席を立ちあがった。それはまだ、早朝のことであった。


――…


 紙の上をペンが滑る音が聴覚を刺激し、暖炉の薪が爆ぜる音でフランツの意識は浮上した。部屋は相変わらず夕暮れのように薄暗く、時間の感覚が掴めないでいた。音のする方へ顔を向けると、ペンの音が止まった。


「お目覚めですか?」


 眠りにつく前に聞いた声と同じ女の声で、フランツはなぜか安堵を覚えた。彼女の付かず離れずの淡々とした態度が、フランツにとってどこか心地よかったのも起因している。


「今、何時かわかるか?」


 痛む頭を抑えて起き上がろうと身体に力を込めると、柔らかい花の香りに包まれていた。抱きしめるという動作ではなく、それは支えるといった方が動きであったため、フランツの身体の傷がひどく痛むことにはならなかった。花の香りが離れると金属性の鎖が触れ合う音が鼓膜を揺らし、何かの蓋を開ける音が次いで聞こえた。


「…悪いな。申し訳ないが、名前を教えていただけると呼びやすいんだが、」

「片田舎の屋敷で女主人をしているオリヴィアと申しますわ。現在の時刻は、朝の9時すぎになります。ほかの者を呼んで参りましょう」

「よろしく頼む。…申し遅れた。私は騎士団長のフランツだ。何から何まで世話になった。オリヴィア嬢、礼を言う」


 薄暗い視界の中、虚ろな蜂蜜色のフランツの瞳が宙を漂いながらオリヴィアをそこはかとなく捉える。当の本人であるオリヴィアはどこか曖昧な表情を浮かべた後、口元だけ微笑んだ。


「大したことではありません。少々失礼いたしますわ。…熱は下がったようですね。そろそろ医者が来る頃でしょうし、エミール様を呼んで参りますわ。失礼いたします」


 フランツの黒く柔らかな髪を、陶磁器のような白い指が梳くように軽く触れ、ほのかに甘い暖かさを残して離れた。オリヴィアが部屋を去ると、一人取り残されたフランツは手持無沙汰に背にあたるクッションを積み上げて、力なく倒れ込んで目を閉じる。外は嫌に静けさで包まれており、馬のいななきと金属製の扉が軋む音がやけに大きく聞こえた。


「お嬢様、ただいま戻りました」


 ヨハンは山の麓にある村の医者ではなく、ルートレッジ家専属の医者を何かの魔術のような速さで連れてきた。額に滲んだ汗を拭うヨハンの背後では、気分が悪そうに青ざめた若い医者が膝を床についていた。プラチナブロンドのカールした髪は、雪か汗で濡れそぼっており、眼鏡越しに見える灰色の瞳からは疲弊の色がうかがえる。歩いて半日かかる道のりを、ヨハンは数時間で乗り越えてきたのだから、無理もないだろう。


「や、やぁ、オリヴィア嬢、今日も紫陽花のように綺麗だね」

「御機嫌よう、クリス様。さ、二階へ参りましょう」

「案外鬼だね、君」


 有無を言わせずにオリヴィアは笑みを浮かべ、クリスは汗でずり落ちそうになる眼鏡をかけなおした。屋敷に入る前にオリヴィアの侍女の一人から事情を聴いて、クリスは呼吸を整えた。これからクリスが診る患者は、今までのそんじょそこらの貴族ではないことは明白であったためだ。扉を開けたオリヴィアに続いて、クリスは部屋に踏み入れる。


――…


 クリスの的確な問診と診察によって、背と腕の傷を含め適切な処置が行われ、フランツの顔色は良くなった。視力の方は、一時的で精神的な問題であるとクリスが診断を出した。その診断結果を聞いたフランツは、取り乱す様子もなくどこか他人事のような態度であった。オリヴィアが仮眠を済ませ部屋に入ると、クリスは持ち合わせてきた薬を調合し、フランツに飲ませるところであった。


「…薬は飲まん」

「…フランツ、頼むよ。これ以上困らせないでくれ」


 一晩休んだエミールの顔色は良くなっていたが、呆れ果てたように吐き出された溜息は部屋の空気を重くするだけであった。クリスは助けを請うようにオリヴィアを見上げ、彼女の存在に気付いたエミールは力なく笑うだけであった。オリヴィアは驚いたように数回まばたきを繰り返した後、ベッド近くの椅子に腰かける。人の気配に気づいたフランツの蜂蜜色の瞳が、そこはかとなく揺れる。


「…オリヴィア嬢か?この医者に言ってくれないか、薬なんか飲まなくても大丈夫だと」

「いや、だからね?飲まないと傷が悪化すると…」

「…そうですわね、わざわざ飲む必要はないでしょう」


 多くの貴族を言いくるめてきたクリスが珍しく手こずっており、オリヴィアは静かに微笑んで言葉を紡いだ。近くにいたクリスは頭を抱え、エミールは途方にくれた表情をしていた。その反応を楽しむように、オリヴィアはさらに言葉をつづけた。


「最近の薬学は発達していらっしゃるようで、わざわざ苦い思いをせずとも薬を体内に取り込む方法はいくらでもございますわ。ね、そうでしょう?クリス様」

「あ、あぁ、そうだね」


 でしたら、とオリヴィアはどこか嬉しそうに手を合わせて微笑みを浮かべる。エミールは何かを悟ったようで、哀れな目でフランツを見つめ、クリスは正気を疑うような表情でオリヴィアの言葉を待つ。


「座薬を使いましょう」


 その言葉にフランツの顔から血の気が引き、エミールは何も言えずに茫然と立ちつくし、クリスは楽しそうに薬の準備に取り掛かる。その物音に我に返ったフランツが、自ら進んで薬を飲みだしたのは言うまでもない。並べられるだけの恨みつらみを吐きだしたフランツは、意を決して薬を飲み下す。


「…君のような女性は、初めてだ」

「光栄ですわ」


 フランツは皮肉を言ったつもりだったがオリヴィアには全く通じておらず、彼はなんとかオリヴィアに一矢報おうとするが、どれも華麗にかわされている。フランツはこの屋敷を出れるようになるまでに回復した暁には、自分を翻弄する賢い女性が慌てる姿を見ようと彼は固く決心した。


――…


「君のような女性が涙を流す姿が見れず、とても歯がゆく思うよ」

「フランツ様が杞憂せずとも、この両目は正常ですわ。…どうかお気をつけて。帰路の安全を願っておりますわ」

「私の目が戻った時にまた会いに来るとしよう」

「楽しみにしておりますわ」


 フランツの傷が回復して間もなく、騎士団一行は都に戻ると言い出した。フランツの視界は幾分か回復の兆しはあるが、夜道にランプを照らしているように未だ良好ではない。都に戻ればきちんとした専門の医師に診てもらえることもあって、彼らは屋敷を離れることを決めた。いつ吹雪くかわからない道中は危険だとオリヴィアは引き留めたが、一刻も早く報告しなければならない案件があると言って聞かなかった。道に精通しているヨハンが案内を買って出たため、オリヴィアはしぶしぶ引き下がることになった。本音を言えば、フランツと過ごす時間が楽しく、手放し難かったというのもある。フランツが屋敷を出た瞬間から、屋敷の女主人オリヴィアはなかったことになる。心を開けて話し合う友人が少ない彼女にとって、フランツは貴重な人であったのだ。


「では、君も身体に気を付けることだ。世話になったな」


 馬上のフランツは、わずかに判別できる色彩からオリヴィアを判別し、別れの挨拶をするかのように右腕を伸ばした。オリヴィアはうやうやしくその手をとり、フランツに微笑みを向ける。


「えぇ、それでは」


 一瞬、手を強く握り合い、二人の手はどこか名残惜しく離れた。オリヴィアは寒空の下、森の向こうに彼らの姿が見えなくなるまで見送った。浮かれた脳を冷やすように彼女の口から白い息が吐き出され、後ろに控える使用人たちを振り返る。


「ヨハンが戻り次第、この屋敷を離れます」


 オリヴィアは懐から取り出した一枚のメモを見つめ、唇を真一文字に強く結ぶ。先ほどまで熱で浮かれたような瞳は、凍てつくような冷たさで手元のメモを無表情で見下ろしている。そのメモは、彼女の根幹を覆すことが書かれていた。


『お前の母親の死因を知っている。』






―――


新たな登場人物

●クリス

眼鏡をかけたルートレッジ家専属の若い医師。

プラチナブロンドの天然パーマと灰色の髪を持つ。

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