第3話 ハニーハント2
応接室に足を踏み入れると、生暖かい鉄の匂いが微かに部屋を漂う。疲労の色が隠しきれない騎士達がソファを囲み、そこには上半身の傷を生々しく晒した黒髪の男がうつぶせで寝かされていた。その体には薄汚い煩雑な布が巻かれており、ところどころ血が滲んでいる。
「フランツ隊長の容態はどうだ」
「それが、エミール副隊長…」
「…失礼いたしますわ」
甲冑の輪を切るように近づいて、フランツと呼ばれる男に膝をつく。彼女の振る舞いに周りが戸惑い、空気がざわめいた。フランツに近づいたことで、より一層血の匂いが鼻腔にまとわりつく。体に巻かれていた布を慎重に捲ると、肩から背にかけて稲妻が走るように肉が抉られており、左腕も同様の傷が見られた。
「…この傷は、」
「どうしましたか?」
「いえ。…医者を呼んだほうが良いかもれしませんね」
布を巻き直して様子を再度観察を行う。鍛えられた背と不釣り合いにその顔色は悪く、額には油汗が滲んでいる。オリヴィアは懐からハンカチを取り出し、呼吸の荒いフランツの額を拭った。
「お嬢様、ヨハンです。フランツ様が休まれる部屋と薬の用意が終わりました。…担架を持ってまいりました。お運びいたしますか?」
「えぇ、そうしましょう。どなたか手を貸していただけますか?」
「でしたら、私が。…お前たちは、しばらく体を休ませておけ」
「部屋の手配が済みましたら、侍女のアイビーがご案内しますわ。しばらくこちらで、ゆっくりお休み下さいませ」
数人の騎士達はもの言いたげな表情をしていたが、エミールの有無を言わせぬ表情を見て口をつぐんだ。
「何から何まで、申し訳ない」
「お気になさらず」
ヨハンとエミールがフランツの傷に触らぬようなるべく静かに動かし、担架に身体を移した。オリヴィアは一階の応接室から二階の個室へ、慎重に案内する。二階へ到着するとすでに扉は開いており、滞りなくフランツをベッドに寝かせることができた。
「お嬢様、俺はこれで…」
「ありがとう、ヨハン。浴場の用意と、明日朝一で村から医者を呼んでいただけるかしら?」
「はい、お嬢様」
深々と頭を下げ、ヨハンはその場から立ち去っていった。部屋のテーブルにはお湯の入った銀製のボウルが置いてあり、傷を手当するための包帯と二種類の薬と消毒用のアルコールが用意されていた。ベッドのサイドテーブルには、数枚の白いタオルと男性用の寝巻きがある。静かに部屋を去るヨハンの背を見送り、エミールに向かい合う。身につけていた甲冑を取り外しているところだった。
「お疲れのところ申し訳ありませんが、手を貸していただけますか?」
「もちろんです。本来は私たちがしなければならないのですが…」
「そうおっしゃらずに。これも何かの縁ですから」
「オリヴィア様…」
「…意識がないのは幸いでしたわ。まずは、傷の処置から参りましょう」
服の袖をまくりあげて、空のボウルにお湯を移す。そこで念入りに両手を消毒し、オリヴィアはベッドに横たわるフランツに向き合う。未だに顔色は土気色で、呼吸は苦しそうだ。
「失礼いたしますわ」
意識のないフランツに形式的に声をかけ、オリヴィアは処置に取り掛かる。両手から漂うアルコールの匂いが、やけに甘く香った。
―――…
咄嗟のことだった。背中と左の二の腕に、鋭い痛みと焼けるような熱さが走った。目の前の隊員は無事なのか、脳を揺さぶる痛覚に耐えながら瞼をこじ開ける。目の前の隊員は顔面蒼白である点以外、大きな外傷は見当たらない。
(…よかった)
白い雪はフランツの血で、朱い斑点を浮かび上がらせる。周囲には、錆びた鉄の匂いが漂う。その匂いでさらに狂暴化した熊は、大きな咆哮をあげた。隊員達が剣を構え、熊を囲い込む。前線から引きずられるように下がった俺の横には、弓を構える隊員が呼吸を整えていた。風を切る音と熊の苦痛のうなり声を聞こえた。気が緩んだことで襲った激痛と眩む視界に耐えきれず、フランツは意識を手放した。
本のページをめくる音と暖炉の薪がはぜる音で、深い眠りから浅い眠りに意識が浮上する。意識が覚醒したのは、紅茶の香りが嗅いだ時だった。長時間閉ざされた瞼を開けるには、苦労を伴った。全身の関節は、油の注していないブリキ人形のように軋んでいる。
「…ぅ、」
「…お目覚めですか?」
聞いたことのない女の声だ。媚びたような鈴の音ではなく雪のようにしっとりとした落ち着きのある声だ。返事をしようにも口は乾き、体は思うように動かず歯がゆい思いをする。それと同時に、己の情けない姿を女性に晒すという失態に気付く。熱があるせいか思考は思うように定まらず、と奇妙な浮遊感と伴って全身を支配する。
「もう少しお休みになってください。医者がいらっしゃる予定ですから」
額に浮かぶ汗を冷たい布で拭われ、気分がわずかに良くなる。自分の額を拭う女性の姿を確認しようとするが、何かの“もや”のようなもので視界が覆われ、はっきりと見て取れない。
「…夜か?」
「はい」
「ここは、」
「…わたくしの屋敷ですわ」
「…ほかのヤツらは?」
「別室で休んでおります。お水を持ってまいりましょうか?」
フランツが頷くと女は額に湿らせた布を乗せ、どこかに行った。部屋の中央であろう位置にオレンジの丸い光を放ち、人影をぼんやりと浮かび上がる。黒い髪をした女性だと見て取れた。コップに水を注ぐ音と女の静かな歩みが、部屋に響く。部屋は暗く、女が持っているコップすら把握できない。起き上がろうと上体に力を入れるが、体は沼に沈んだように思い通りに動いてくれない。
「…すまない」
「いえ。…失礼いたしますわ」
彼女はフランツの首の後ろに腕を通し、上体を抱きしめるように抱える。フランツの脳を麻痺するように、花とわずかな蜂蜜の香りが嗅覚を支配する。唇に冷たい感触を感じ、口を開けるとゆっくりと水が流し込まれる。背中の傷に障るといけないと示唆され、体重を支えるはずの腕への負荷は彼女の細腕に加わる。コップの水が減るにつれて、彼女の腕は一人の男性を支えるために震え出し、その震動で額の布がずり落ちる。
「…もう、大丈夫だ」
「…失礼しました」
元の位置に体がゆっくりと沈み、彼女の体の柔らかさと暖かさが消える。女はそれ以上を話そうとしなかった。いや、それ以上のことを話す必要はないと判断したように感じる。熱を測るように額に当てられた手は、心地よい冷たさと柔らかさで睡魔が脳を支配しだす。
「おやすみなさいませ」
紅茶とどこかで嗅いだ花の香りに引き込まれるように、俺の意識はまた深い眠りに落ちた。
―――…
時刻は、フランツが目を覚ます数刻前に遡る。二人の侍女と数分にも及ぶ押し問答を通し切り、オリヴィアは夜通しの看病を決行していた。条件として、日中は寝ることに集中することと体を冷やさないようにすることで二人を説得したのだ。彼女たちには、日中の騎士たちの面倒を見てもらわなければならない、そう考えたオリヴィアの決断である。風と雪が窓を叩きつける音を遮るように、控えめにドアがノックされた。
「…エミール・ローレンスです。オリヴィア様、夜分遅くに申し訳ありませんが、少しお話を」
「どうぞ、鍵は掛けておりませんわ」
扉を開けて入ってきたエミールは、客人用の寝巻で腰に剣を下げていた。食事と風呂を提供したことにより、顔色は良くなっている。しかし、その表情はどこか曇っていた。
「フランツの様子は?」
「エミール様の処置のおかげでしょう。呼吸は落ち着いていますわ。お茶はいかがです?」
「いや、すぐ部屋に戻る予定なんだ。少し話をしたいと思いまして」
部屋の暖炉前の席に移動し、表情の硬いエミールと向き合う。テーブルに置いたランプの光が一瞬大きく揺らぎ、エミールの表情が読めなくなる。フランツの睡眠を妨害しないために部屋の光源は、机のランプのみである。その近くには、しおりが挟まった読みかけの本が置いてある。沈黙を破ったのは、オリヴィアのほうだった。
「食事や寝床などの御代は結構ですよ。私が客人として迎えただけですもの」
「そうおっしゃるには何か確信があるからですか」
「…彼が、シュバルツシルト王家第一王子であること以外は何も」
「気づいていらっしゃったのですね」
「紋章とお名前から予想しただけですわ。ですが、エミール様たちがこの辺境にいる理由までは把握しておりません」
「…貴女には過ぎた理由になりますでしょう。できれば、我々がここにいることも含めて、貴女にはこの件を口外しないでいただきたい。この条件を飲んでいただければ、少なくとも無事に目を覚ますことはできるでしょう」
「言われなくとも、そのように振る舞うつもりですわ。私のことは、片田舎に住む屋敷の女主人とフランツ様には説明しておきますわ」
「お願いします」
そう言ってエミールは、部屋を後にした。冷えた身体を温めるために、暖炉に薪をくべ、紅茶をいれることにした。フランツが目を覚ましたのは、明け方の頃だった。夜中のうちに厚い雲はどこかへ散り、地平線近くの空は白く染まり始めている。眠りについたフランツの横顔を見おろし、オリヴィアはある疑念を抱いた。
(もしかしたら、フランツ様の目は見えなくなっているのかもしれない)
彫刻のように整ったフランツの横顔を見つめ、さきほどのやり取りを思い出す。フランツの蜂蜜色の瞳は、宙をさまよっていた。視界が暗くなっているのか、わずかに光が差し込んでいる部屋に対して夜という言葉を発した。熱は下がってはいるが、予断を許さない状態だと察する。ヨハンが一刻も早く医者を呼んでくるのを、オリヴィアは冷たい指を握りながら待つ以外、オリヴィアに手段はなかった。
―――
●フランツ⇒フランツ・A・シュバルツシルト
シュバルツシルト王家第一王子
漆黒の髪と蜂蜜色の瞳を持つ。
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