終 章
<霊の元つ国>
1、最後の仕事
数ヶ月にわたる航海が、また始まった。船は、イェースズが二時間ほど海上を歩いて渡った隣のリプシ島ですぐに手に入った。
たった一人の船旅ではあったが、神ともに
夜となって朝となり、その繰り返しの毎日が何十日も続き、一片の島影もない洋上でイェースズはそんな毎日を過ごした。
途中、またマヤの地に寄港してそこで船を乗り捨て、大陸のいちばん細い部分を歩いて横断し、再び船を捜して見つけ、大洋に乗り出した。
さらに三ヵ月半ほどした朝、肌をさすような朝の空気の中、何もかもが澄みわたる風景の中に
海岸からすぐ近い所が小高い緑の山になっており、その緑は実にこまやかな繊細な緑だった。引き締まるような空気、青く透明な空、暖かな朝日、それらはまぎれもなく神秘の国・霊の元つ国のものだった。
ついにイェースズは戻ってきた。それと同時に、神の懐に戻ってきたという実感さえ湧いた。
岸が近づく。遥か遠くから松林が見える。白い砂浜に打ち寄せる波、飛び交う白い鳥……。イェースズは帆を降ろし、櫓を漕ぎながら目を細めた。そして、大きく息をついた。
民家がある。小さい。山も林も人々の姿も、何もかもが小さい。小さいというより、細かいと言った方がいいかもしれない。しかし、それだけに愛らしさと美しさを感じる。実に調和のとれた風景だ。まさしくここは「和」の国だった。
イェースズは故国に帰った。しかし、故国はなくなっていた。そこはもう故国ではあり得なかったし、住む所すらないほど自分はよそ者だった。それよりも今の彼にとって、故国とは今目の前にある神秘の国に他ならなかった。
イェースズは上陸した。村の人々は驚きもせず、親しげに近寄ってくる。今いる位置を、イェースズは尋ねた。
村人たちは突然現れた赤い顔の老人が、流暢に自分たちの言葉をしゃべるので親近感を持ったようだ。そしてイェースズも、だいたいの位置を把握することができた。目指す懐かしい村に帰るには、海岸沿いに少し北へ行けばいい。イェースズは再び船を出し、岸伝いに北上した。
懐かしいイヴリーム・コタンが見えてきたのは、夏になってからだった。その村の姿に、イェースズは驚いた。山間の村の周りのわずかな平地は、埋め尽くすような黄色い波だった。荒地だった所が開墾され、一面のヒマワリ畑になっていたのだ。
そしてそれを取り囲むように山の麓も切り開かれて、リンゴの果樹園が延々とムータイン・コタンやキムンカシ・コタンの方まで続いていた。
ようやく彼は、このヒマワリとリンゴの樹に囲まれたこの地で、静かに余生を送れそうだった。
山々の木々が一斉に赤茶や黄色に色づく頃を過ぎると、山間のこの地方の気候は一気に冬めいてくる。そして吐く息も白く見えるようになれば、雪に閉ざされるのも時間の問題だ。
村はずれの山へそのまま続く斜面を登るイェースズの息も、白く凍る朝だった。村を囲む山々の木々は、もうすっかりその葉を落としている。
イェースズが故国より戻ってから紅葉、落葉、降雪、この廻りがもう何十回も繰り返された。さすがのイェースズももうすっかり腰が曲がり、木の幹を伝わっての登坂だった。
イェースズは久々にムータイン・コタンの自分の家から、イヴリーム・コタン郊外のこの地を訪れていた。
雪が降る前にどうしても、今年も詣でておきたい所があったのである。
ある程度傾斜を登って振り返ると、谷間に細長く延びるイヴリーム・コタンが一望できた。移住者たちがここに来てこの村を開いてからもう三十年近くの年数がたち、もうすっかりこの国の村として定着していたし、今やこの土地で生まれたものたちが村人の中心となっている。
そんなイヴリーム・コタンに目を細めたあと、イェースズはまた斜面を登りはじめた。そして山の斜面のわずかな平地に、彼は出くわした。そこには土饅頭のような塚が二つ、仲良く並んでいた。その下には、湧き水があった。
イェースズは二つの塚の間に立ち、まず右側の塚の前まで行って地に
その墓の前でしばらく祈ったイェースズは今度は真後ろを向き、もう一つの塚に拝礼した。それこそ自分の身代わりの子羊になって十字架にかかった弟のヨシェ・イシュカリスの遺髪を埋葬した墓だった。その弟は、イェースズにとって決して忘れることのできない存在だった。イェースズはその墓の前で、無言でしばらく時を過ごした。
「大長老! やはりここに!」
イェースズの黙祷を遮ったのは、イヴリーム・コタンの若い連中だった。イェースズは不快な表情もせず、振り向くとゆっくりと立ち上がった。
「何ごとかね」
イェースズの涼しい顔の前に、使いの若者は肩で息をしていた。
「大変ですよ、大長老! 今すぐムータイン・コタンに戻って下さい。うちの長老と
「誰が召集をかけたのかね?」
「オピラーとキムンカシの長老様です」
ヌプとウタリだ。この二人が
「何ごとが起こったというのかね?」
「とにかく大変なんです。ヤマトの、それもこれまでにない大軍勢が、この近くまで進んできているのだそうです」
「ヤマトがねえ」
この島国の西南半分を支配するヤマト
「今度は、とにかく今までにない大軍なんです」
若者は興奮して、まるで自分で見てきたかのように言う。ヤマトとは、この島国の霊的な歴史を抹殺しようとするユダヤ十支族のエフライムの連中だ。
「分かった。わしも行く」
イェースズはゆっくりと若者たちについて、斜面を下って行った。
イェースズがムータイン・コタンについたのは、昼前だった。そこは、武装した若者でごった返していた。ただでさえ
村の中央にある
「これはこれはハチノヘ様」
入って来たイェースズにすっかり老人になったスワヌチは浮かない顔で目を上げ、席を勧めた。部屋の中央の炉には火が焚かれ、それを囲んでの車座だった。イェースズが座ると、今のムータイン・コタンの
「この冬支度の忙しい時にわざわざ来る、それがやつらの狙い目でしょうな」
「卑怯だ!」
と、キムンカシ・コタンの
「しかし、防備は万全だ」
スワヌチは居丈高だ。
「東、東南、西の三口は若衆で固めた。最前線にはイヴリームの若者を当てたよ」
イヴリーム・コタンの人々とヤマト人の
同じ民として愉快な話ではないが、だがそれはヤマト人の中でも
だがその場合、もっと有利だ。なぜならかの
だが、そのような戦術的な策略に、イェースズは関心がなかった。炉の中の炎がぱちぱちと音をたて、やがてイェースズは笑顔で言った。
「相手の大将を招いて、宴を開きましょうぞ」
驚きの声を上げたのは、皆同時だった。しかし、すぐにスワヌチが笑んで手を打った。
「なるほど! 相手を懐柔して油断させ、寝首をかくおつもりですな」
「おお」
皆のどよめきは、安堵と感嘆の声に変わった。イェースズは黙っていた。また、イェースズがそのようなことを考えるはずがないということをよく知っているヌプとウタリもまた、言葉を発せずにいた。
果たしてイェースズの真意はこうであった。ヤマト
イェースズはこの場では、何もそのようなことは言わなかった。
宴に招待する旨を伝える使者には混血していない純真なイヴリーム・コタンの者をたてた。やはり敵の軍勢の兵士の多くは
宴はイヴリーム・コタンで行われ、イェースズの言いつけで料理は熊の肉、そして餅を種なしパンのように焼いた煎餅、酒はさほど度の高くないものが選ばれた。
宴の準備も終りかけた頃に、使者が戻ってきた。だが、その使者の話が奇妙だった。言葉が通じなくて、身振り手振りで伝えてきたという。ヤマト人ならヘブライ語が分かるはずだから、言葉が通じないという状況はあり得ない。そうなると、使者が話してきた相手は、少なくとも
準備も整った頃、イヴリーム・コタンのすぐ南東まで軍勢はやってきて、供を十人ほど連れた武将が
このような老人が一軍の将が務まるものかと皆が
その老武将は四人だけ供をつれ、その供の者に体を支えられるようにして
兜を脱いだその顔を見て、イェースズも驚いた。
老将の方もまたイェースズを見て大いに驚き、その場にひざまずいて柏手を二つ鳴らした。
「先ほどの使いの方といいあなた様といい、どうしてここには、
「わしはもう六、七十年はここに住んでおりますよ。本当はずっとずっと西の国から来たんじゃがな」
そう、イェースズはヤマトの言葉で言ってから、大声で笑った。イェースズがヤマトの言葉を話したことで、また老将は驚いていた。先ほどの使者は、ヤマトの言葉を解しなかったからである。
間もなく、宴が始まった。相手の武将がヤマトの
「ご来意は?」
と尋ねた。
「はあ。ヤマトにまつろわぬ
「御大将のお名前は?」
ヤマトでは人に名前を聞くことの重大性を重々承知の上で、あえてイェースズは聞いた。
「わしはコシの国のもので、
ヤマトでは、珍しい名ではない。だが、イェースズにとってその名は、ここでは重大な響きを込めていた。ほかの同席者はイェースズと宿禰と名乗った老武将との会話の言語が分からないので、黙って酒肴を口に運んでいた。
「お父上は
宿禰の手が止まった。目を見開いて、じっとイェースズを見ている。そして、ぽつんと、
「やはり……」
とつぶやいてから、慌てて首を横に振った。
「いや、まさか」
「あなたがこの地に来られたのは、本当は戦争が目的ではありませんね。日高見広しといえども、わざわざこの地を目指してこられたのでしょ」
宿禰は何も答えず、黙ってイェースズを見つめていた。
「わしはかつて、コシの国の
宿禰はただ口を開けて、ぽかんとしていた。イェースズはスワヌチを宿禰に示した。
「この村の前の
イェースズはヌプを示す。
「お忘れかのう。このお顔。そなたの義理の弟じゃ」
「おお」
宿禰はもう、何も言葉を発することができずにいた。自分の妹の婿が、目の前にいる。何十年ぶりの再会になるのか、ちょっとやそっとでは数え切れそうもなかった。なにしろ互いに青年であった頃以来の再会なだけに、顔を見る限りでは初対面と変わらなかった。
「懐かしいのう」
と、イェースズは言って、声を上げて笑った。宿禰はもううつむいて、涙をポロポロと流しはじめていた。そんな宿禰に、イェースズは慈愛の目を向けた。
「よく、生きていたのう」
宿禰はようやく顔を上げ、涙声でたどたどしく、
「はい、あともう、二、三年で百に達します。あなた様こそ。こう申しては失礼だが、まさかまだ生きておいでとは」
イェースズがかつて自分の父の弟子であり、自分たちは妹ともにイェースズを「お兄ちゃん」と呼んで慕っていたあの若者だということが、もうはっきりした事実として認識された。
「わしは百を六つも越えてしもうた」
イェースズはまた大声で笑ったあと、ヌプやその場に居合わせた人々に、この老将の正体を手短に話した。ヌプは驚きのあまり目を見開いて、じっと宿禰を見つめたあと、身を乗り出してその手をとった。
「おお、
妻ミユとの
「妻はとうに亡くなりました」
と、ヌプもヤマトの言葉で言った。
「そうでしょう。そのような気がしておりました。しかし、再び生きてこの地に巡り来れただけでも幸いですな」
もはや彼はここでは、敵の大将ではなくなっていた。それどころか、身内なのである。
「ところでお父上、ミコ様は?」
「息災でおります。コシの国で今でも御神宝を守っております」
その言葉に、イェースズはもう涙をはらはらと流していた。まだ生きておられたのだ。そうなると、長いこと沙汰もしないことの無礼を、イェースズは心の中で詫びていた。
「今にでも飛んで行きたいが、そうはいかぬ。もう、時間がない。そのような時に、宿禰、あなたが来てくれて本当に嬉しい。私はどうしても、あなたに来てもらわねばならなかった。それがこのように本当に来てくれたのも、すべて神のお引き合わせよのう」
イェースズはそう言って、目を閉じて念を発し、神界に感謝の波動を送っていた。それから、目を上げた。
「しかし、まさかヤマトの軍勢といっしょに来ようとは」
そう言ってイェースズは、少し笑った。宿禰もまた、苦笑しながら言った。
「ほんの短い間だけでしたがかつて暮らした村、そして妹をおいてきてしまった村を死ぬ前にひと目もう一度見たくて、この国に遠征することをヤマトの
だが、イェースズの目は真剣になっていた。
「私はこの世でしなければならないことの、すべてをもう果たした。それは三十年も前に終ったのだよ。それからというもの、この静かな村で余生を送ってきた。しかし最後の最後にもう一つしなければならないことがあって、そのためにはあなたが来てくれなければまずかったのじゃ」
「先生!」
ヤマトの言葉が分かるヌプやウタリが目をむいた。
「最後にって、どういうことですか」
「今は分からなくてもいい。あと、二、三ヶ月もすれば分かる」
イェースズは再び目に涙をためて、ヌプやウタリを見た。
その晩、宿禰ともにイェースズは晩酌をしながら告げた。
「軍勢を帰らせてくれ。もうじき冬で、このあたりは雪に閉ざされる」
宿禰は、穏やかにうなずいた。
「分かり申した。私の目的は達しました。軍勢はもういりませぬ。本当は私のヤマトへの面子は立ちませんが、構いません。なんとか言いつくろってヤマトに帰しましょう」
イェースズは静かに、宿禰に頭を下げた。
軍勢は帰し、宿禰は単身イェースズの住むムータイン・コタンへ移り、そこでイェースズとともに暮らした。
ついに、雪が降り始めた。そしてやがて本格的な降雪の時期を迎えた。気候が寒くなるにつれ、イェースズは暖炉に火をともした部屋の床の中にいる時間が段々と長くなった。彼は日一日と時間が進むたびに、何かをサトっているという様相を呈しはじめた。
しかし、その日は突然にやってきた。
夜中に、同じ部屋で眠っている宿禰をイェースズはそっと起こした。
「わしはいよいよ自分の生涯と、この世の人々のこれからについて述べなければならぬ時が来た。最後の仕事じゃ。その聞き役を、あなたがしてほしい」
突然のことに途惑っていた宿禰も、イェースズの笑みを含んではいてもただならぬ形相に、身を引き締められる思いで起き上がった。暖炉に火がともされた。
「ここ数日、わしは自分の一生を振り返ってみたんじゃよ。この世に降ろされてからわしがしてきたことは何だったのかと、そして後世の人々にとってどのような力があったのかとな。わしは十分にわしが言いたいことを伝え得なかったし、また今の時代ではそれも許されなかった。このわしの最後の言葉を、わしがもっともっと愛したかった人類への遺言としたいし、あなたが代表してそれを聞き、また
「そんな、遺言だなんて。テンクウ様にはまだまだご健在でいて下さらねば」
はじめは冗談かと思って聞き流そうとした宿禰だったが、あまりにもイェースズの表情が厳しいので思わずその笑みを引っ込めた。そしてイェースズが、
「この世の仕事だけが、わしの仕事ではない。わしの仕事は、神界にまで拡がっておる」
と、ピシャッと言うので、宿禰はもはや言葉を発することができなかった。
「わしはこの胎蔵、月神統治の水の世に、日神系統のみ
イェースズは目を伏せた。宿禰は何も言う言葉はなく、やがて目を上げたイェースズの顔が暖炉の炎に照らされて赤く輝くのを見た。
「わしが教えを広めたのは、長い人生の間のわずか三年じゃ。そのあとで使徒と別れる時にも言ったが、わしはこの世の終りには再び戻ってくる。その時までに人類は悔い改めないと、時すでに遅しとなる。とんでもない状況になるのじゃ。だから
イェースズは、ひとつ咳払いをした。そしてゆっくり立ち上がって、部屋の隅から何かを持ち出してきた。
「これはわしの母の骨像じゃ。これをあなたに託すから、どうかお父上のもとに届けて、
骨像を宿禰に渡すと、イェースズはそのまま床に入った。
「いささかくたびれた。少し休ませてくれ」
床の中からそう言ったかと思うと、すぐに寝息が聞こえはじめた。宿禰はイェースズの母の骨像を胸に、いつまでも涙が止まらず泣き続けていた。
それから、五日後のことであった。
オピラー、キムンカシ、イヴリートの各
皆が集まると、イェースズは床に横になって目を閉じていた。しかし苦しそうな様子は全くなく、顔つきも健康そのもので、しかも微笑んでいた。人々は、何が容態の急変だといぶかしく思ったくらいだった。
しかし宿禰だけはイェースズがもうすぐ天に帰ることを知っていたし、だからこそ人々を呼び集めたのだ。
一夜明けたがそのままイェースズは眠り続け、夕刻になってやっと目を開けた。
「先生!」
まず、ウタリが詰め寄った。ほかのみんなも一斉にイェースズの床を囲んだ。
「先生、お気分は?」
ヌプの問いに、イェースズは微笑を見せた。誰もがそれを見て安堵した。だが次の瞬間、イェースズの言葉は皆の体と心を硬直させた。
「わしは、帰るぞ」
それから、イェースズはゆっくりと上半身を起こした。
「そこの窓を開けてくれないか」
窓が開けられると、真冬の刺すような氷の空気が一気に室内へと乱入してきた。外は黄昏時だった。西に面したその窓からは山並みの上に真っ赤な夕焼けが、すでに日が没した後の空を鮮やかに染めているのが見えた。
その中に、ひときわ明るく光る星があった。イェースズはしばらくその星を凝視したあと、ゆっくりとそれを指さした。
「あの星は、わしが生まれた夜に大きく輝いていた星じゃ。そしてわしは今、あの星に帰るんじゃ」
人々はイェースズの言葉の真意が分からず、黙って聞いていた。イェースズは話し続けた。
「あの星は今は宵の明星じゃが、来たるべき天の時には、
人々はやっとイェースズの言わんとしていることを察し、口々に、
「先生!」「テンクウ様!」
と叫んで、イェースズのそばに寄った。イェースズは微笑を絶やさずに、さらに話を続けた。
「わしの現界でのみ役は、とりあえず終わったよ。じゃが、わしの存在そのもののみ役は終わらぬ。今もいつも、世々に至るまで」
「そんな。先生! いつまでもわしらとともにいて下さい!」
ウタリがそう言うと、またイェースズはニッコリと笑った。
「私はどこにも行かない。ここにいる。ただ、ものは言わなくなるがな。そしてわしの魂は、これからも活動を続け、あなた方を見守る。いつもあなた方とともにいる」
イェースズがさらに一段と微笑んだ時、西の空の明星から、一条の光がスーッとイェースズ目がけて差し込んできたように、誰もが感じた。
その瞬間、イェースズは目を閉じた。百と六年の波乱に満ちた生涯は、ここで終った。
「先生!」「大長老!」「テンクウ様」
皆一斉に、イェースズの体にしがみついた。その時誰もが、
「私は死んだのではない。私は今もいつも生きている。あなた方のそばにいる」
というイェースズの声を、はっきりと胸の中で聞いた。
そしてイェースズの遺体は静かに床に寝かされた。
翌日、不思議なことが起こった。イェースズの死に顔はいつまでも赤く、微笑み続けていた。そして遺体は翌日の夕方になっても軟らかいまま、ぬくもりがあるままだったのである。
イェースズは現界から神界へと
それから彼の遺体はムータイン・コタンを見下ろす日来神堂のトバリ山の山頂で、木に吊るされた。いわゆる鳥葬であって、これはイェースズが生前望んでいたことだった。
そして一ヶ月ほどたって、村人たちはあらためてイェースズを葬るために山に登った。そして彼らが見たのは、信じられない光景だった。本当なら、一ヶ月も立てば遺体は鳥が食べるか腐乱して、白骨のみが残っているはずなのである。しかしイェースズの遺体はそのままで腐乱どころか生きている時と変わらず、その顔は目を閉じている今でもまだ微笑みを続けているかのようであった。
やがて夏が終る頃、ようやくイェースズの遺体は白骨化した。そしてその遺骨から骨像が一体彫られ、ほかの遺骨は分骨され、半分がトバリ山の北東の三つの峰を持つ高い山に、もう半分はトー・ワタラーの近くのオンコの山と呼ばれている山に葬られた。これもイェースズの遺言で、自分の肉体は父母から頂いたものだから、半分は父なる山に、半分は母なる山に返し、その魂は神より頂いたものだから骨像にして皇祖皇太神宮にて祭祀してほしいということだった。
死してもなお父母を思うイェースズの心に、誰もが打れた。その父なる山は、イェースズにちなんで後にイヴリームの山と呼ばれる。
さらにイェースズの遺言は、自分の母と弟の墓である二つの塚を、子々孫々まで村人で守ってほしいということだった。
もう一つの遺言は、母と自分の骨象、そしてはるか昔にミコから授かった「アマグニ・アマザ」の二つの宝剣を、ミコにお返ししてほしいということだった。そして自分の生涯をミコにつづってもらい、それも皇祖皇太神宮に奉納するというのもまた遺言の一つだった。
春の雪解けを待って、三人の老人はイェースズの遺言を成就させるための旅に出た。一人は宿禰、そして後の二人はヌプとウタリである。そして初夏の頃にようやく
ある満月の夜、ミコと宿禰、そしてヌプとウタリの四人はかつて赤池白龍満堂があった池の中の島で、車座になって座った。ようやくミコが筆をとるというのだ。
ミコは昔からの文字を何種類も知っていたが、文字を持たないヌプたちの民のためにイェースズ自ら作り、弟の名をとってイシュカリス文字と名づけたその文字をミコは使うことにした。
ただ、言葉だけはこの地方の、いわゆるヤマトの言葉で、いわばイェースズの遺言状ともいえる文をミコは記しはじめた。それは、数十夜に及んだ。主に宿禰がイェースズから聞いて覚えていたところを語り、ミコが聞き書きにするという形で進められたが、またミコの記憶のあることやヌプやウタリの話もそこには加味された。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます