3、真主湖の艮の金神
すでに秋も深く、イェースズはトー・ワタラーの湖のほとりを歩いていた。
故国でガリラヤの海を見ていた時、その風景をこのトー・ワタラーになぞらえたりしたが、今はその本物を見ている。
だが、いかにもガリラヤの湖よりは小ぶりで開放的な風景はなかったが、その代わり実に繊細で優美な風景であった。やはりガリラヤの湖はガリラヤの湖、トー・ワタラーはトー・ワタラーである。
ここでは今、周辺の山も見事な錦に彩られ、至高芸術とはかくやということを思わせる風景であった。
この国に戻ってからようやく三つの季節を過ごしたが、地球上の他のどの国にもない季節ごとの美しい変化と大自然の妙を、イェースズは味わってきた。大陸のような雄大さと壮大さはこの国にはないが、その代わり実に巧妙な自然の美がここにはあった。
だがイェースズは、そんな秋の風情をのんびりと楽しむ余裕はなかった。
それは、例の御神示である。国祖の神のご引退になった
スクネもミユも、もうすっかりこの村に溶け込んでいた。村人たちと同じ服を着て、頭には鉢巻きをもしめた。そしてミユの太陽のような笑顔は、村の誰の心をも暖めていった。
かつてヌプやウタリが
ミユは行動的な娘で、気がつくともうどこかへ行って一日帰らなかったりもした。村の中の同世代の娘たちの仲間の輪にも加わった。イェースズや兄のスクネ、そしてヌプの家族などと一緒にいる時よりも、その娘仲間といる時の方がミユは楽しそうだった。
声に特徴があるので、家から少し離れた所で談笑していても、ミユの笑い声だけは家の中にまで響いてくる。
そんなスクネとミユの様子にイェースズは一応安心して、いよいよ出発することにした。まずはヌプとウタリに、早速旅立ちを告げた。
「え? ここから
ウタリが目を丸くした。イェースズは穏やかに微笑んでいた。ヌプの家の前のちょっとした広場の腰掛に、三人は横一列に並んで座っている。
「でもヌプが前に、海の向こうにも陸地があると言ったじゃないか」
「そう。アイヌモシリっていう大きな陸地があって、そこにいるのは僕らと同族ですけど、この村には誰もそこに行ったことがある人はいません。とても寒くて、農耕すらできない土地だそうですから」
しかし
その日の夜にヌプの父に旅立ちのことを話すと、案の定猛反対だった。その理由はこれから冬になるからで、冬になればすべての村も山も雪で閉ざされるからだめだというのだ。
「お
確かに大陸での冬の旅を思えば、イェースズにとっては雪に閉ざされた大地の旅なんてどうということはなかった。だが今のヌプの口ぶりでは完全に自分やウタリも師の自分と同行するつもりであるらしいことはすぐに分かった。だから、
「今回は、私一人で行くよ」
と、いうイェースズの言葉に、二人とも耳を疑っていた。
だが、遊びに行くのではない。二人をどうにか説得して、いよいよ出発の日の朝にイェースズを村が総出で見送った。
まずはいつものように、ヤレコの港までは徒歩である。そしてもうすっかりなじみとなった自分の船をイェースズは巧みに操り、沖に出た。あらかじめ調べておいたのだが、砂浜を背に左前方へ行けばそこが
ところが出航してから二日目の朝に、もう行く手に陸地が見えてきた。やはり海峡の向こうに見えていた陸地がアイヌモシリだということになる。山脈が左右に長く延びて水平線を遮っているが、右手の方は次第に山が低くなって途切れている。どうやら大きく海に突き出る巨大な半島か岬のようだ。ここで上陸しても、そのまま直進したら岬の向こう側の海に出るだけのようなので、イェースズは船に乗ったまま岬を迂回することにした。岬を左に見て、船はまっすぐに北上した。。
やがて半日も航海するとすぐに、また大きな陸地が見えてきた。大きく湾曲して、前に見た岬とはつながっているようだ。今度は半島ではなく本格的な陸で、その上には相当高い山々がそびえ、その
見渡す限りの原野で、人の姿は全く見られなかった。もちろん、農耕の形跡もない。とにかく一面に広がる広大な空間はどうも湿原のようで、この国にもこのような雄大な風景があったのかとイェースズは驚いた。どうにも繊細なこの島国には似つかわしくなく、どちらかというと大陸的な風景であった。
イェースズは上陸した。その時点でもうかなり宵闇が迫っていたので近くの川で大きな魚をいとめて夕餉にし、それから焚き火を炊いてその脇で野宿をした。
翌朝は、さらに北東に向かって進む。どこに行くというあてがない旅だけにその足取りは慎重だったが、自分が行くべき道は神が示してくれるという絶対な安心感と共にイェースズは歩いた。
だが、とにかく湿原で歩きづらい。下手をすると大きな沼にはまってしまう危険性もある。それでもイェースズは上手に道を選んで進んだ。
山の麓に着いた時は、日は西へと傾き掛けていた。暗くなるまでにはまだ間がありそうだったが、道はどうもこれから山にさしかかるようなので、イェースズは大事をとってまたそこで野宿をした。それまで、誰一人として人に会わなかった。大陸では数十日も人に出会わない旅はざらにあったが、この島国では珍しいことだった。
こうしてイェースズは七日近く歩き続けていた。
途中二回ほど丘陵地帯の峠道もあったが、おおむね平坦な道のりであった。だが、見渡す限り一面の平原という光景は、船から上陸してしばらくの間だけだった。それでも、この国にしては珍しく雄大な景色の中を道は続いていた。
そして上陸してから八日目の昼前、道は緩い登りの峠にさしかかった。だが視界は開けていて、高原の道という感じだ。まるで緑豊かなガリラヤの、カペナウムの北側の高原を彷彿とさせる光景だった。
やがて峠のいちばん頂点に差しかかった。下界が開けているので本当なら目の前に大パノラマが展開されるはずのようだが、この日は峠の下には一面に霧がかかり、何も見えなかった。
だが、その方からものすごい霊を感じた。しかもそれが、清浄な気なのである。
そしてイェースズが果てしない上昇感を感じているうちに、その閃光の中に
――イスズよ。我が、愛する子よ!
イェースズは思わずアラム語で、
「アパ!」
と、叫んでいた。
――よう、訪ねまいりしかな。よきかな。
その胸に響く声は、幾度となく邂逅した高級神霊だ。
――この地こそ我が神魂隠遁の地、
その内容はミコから聞いた話やあの太古文献で読んだ内容通りだ。だが、いつになく厳しい御神示であった。イェースズは身を引き締めて聞いていた。
――そも
イェースズは、静かに目を上げた。
「御名を、御名をお明かし下さい」
イェースズとて何度も邂逅する父神の御名を知らないわけではなかったが、ここはモーセの例に倣ったのである。
――この方の名は
イェースズの意識は自分を包む御神霊とほとんど一体になって、その神示を腹に収めていた。
――そも、こたびの天の岩戸閉じの真義を聞かさん。それ天地初発の時よりの『大根本神』の経綸には、裏の経綸あり。創造、統一の世と経綸進展せしに、統一のままにては宇宙の調和は保たれありしも人類はそのまま神と通じ、
イェースズは、衝撃に打たれた。国祖である父神が一時隠遁されていたのがトー・ワタラーだということで、その湖に感じる清浄の霊と
――
イェースズがこの峠道を越えた時、目の前に展開していたのは霧の海だけだった。その霧の下に「
――されど、経綸はひと時も止まりてはおらず。やがて自在の世も終わりて限定のみ世来るならん。閉じられし天の岩戸も、岩戸開きの時迎えるなり。その備えのため今より汝らの申す時間にて千年ほど前に、この方は大きなる仕組みせしよ。これ、国祖三千年の大仕組みなり。すでに三分の一の千年が経過せしも、来るべき天の時には、今世人類のままにてはかなりかわいそうな時ともならん。その時の様相、前に汝に示せし通りなり。
「その終末の時の様子は、お聞きした通りに私もかつて故国で使徒にも話しましたが、もっと具体的にどうなるのでしょうか?」
すると突然目の前の黄金の渦の中に、空中映像が始まった。そこに映った人類の文明は、イェースズには想像もできないほどの別世界の文明のようであった。エルサレムの神殿よりも数十倍も巨大な四角い箱のようなガラス張りの建造物がなんと数十基も林立して空を突き、その間をものすごい速さで走る乗り物、さらには空にさえ翼を持つ鉄の乗り物が飛びかっているそんな文明だった。
だが、各地で戦争が起き、その戦争もイェースズが知っているような戦争ではなく、空から火の雨が降り、ものすごい規模で火薬が爆発するような戦争だ。そして火山の噴火、大地震、大津波、そして人々の日常生活が瞬間冷凍されるなど、背筋が寒くなるようなもので、それよりもそのような人災・天災の災害に、阿鼻叫喚となって逃げ惑う人々の姿にイェースズは涙せずにいられなかった。
そんな人々が火で焼かれ、大津波に飲み込まれていく姿がどうにもいたたまれずに、イェースズは全身を振るわせながら、嗚咽とともにその場にうずくまった。
しばらくしてから顔を上げると映像はすでになく、黄金に輝く龍の姿と、周りすべてを埋め尽くす光の洪水があるだけだった。
「こ、これは……、未来の姿なんですか?」
あまりのむごさに、イェースズはそれだけだしか言葉を発せられなかった。神の声が響いた。
――これまでも神々の都合により、地上全体を泥の海と化せしこと幾たびかならん。されど、我が仕組み
全くその通りである。神様も好き好んで天変地異を起こされるわけではない。神経綸成就のためには、地上天国建設のためには、一度どうしても穢れきった世を大掃除しないといけないのだ。それが大神様の
「神様」は神の人類を、もっともと愛したいに違いない。その愛する神の子人類を焼き浄めねばならぬというのは、「神様」にとって断腸の思いだということもひしひしと伝わってきた。
本来は、親である「神様」のお喜びになることをするのが子である人類の務めである。それなのに逆に、悲しませ申し上げている。「神様」が人類を創造し、至れり尽くせりの大仕組みですべてをお与え下さり、大愛の中で
そう思うとまたイェースズは、申し訳なさで次から次へと涙があふれてくるのだった。そのお詫びと、生かされていることへの報恩感謝の証として何がさせて頂けるのか、イェースズはひたすら自問していた。
――されどまた、汝にだけは告げおかん。「神」はすべての神を求むる神の子が御経綸成就致し次ぎ世の種人となりて、ともにミロクの世を建設せんことを望むなり。地上すべてが
次の瞬間、イェースズはもといた地上へと戻されていた。ところが、驚いた事に、それまで峠の向こうは一面の霧だったのに、その霧が晴れていく。
そしてイェースズは、目を見張った。そこにはトー・ワタラーよりもかなり小ぶりの湖が横たわっていた。
だが、その
イェースズはこの壮大な眺めにのみこまれそうになりながら、そのまま帰途に着こうとしていた。だから見せられた幻がものすごい衝撃で放心状態になって、なかなか歩が進まなかった。
イェースズがオピラ・コタンに帰りついた時は、ちょうど雪が積もり始めた頃だった。そして一年に一度の大行事の、イヨマンデの祭りが近づいて来ていた。祭りの支度で飛び交う男たちや急に装いはじめた娘たちでにぎわい、さらにここ数日好天続きとなった。
祭りの前夜には篝火が炊かれ、火の粉が夜の闇に舞った。それが前夜祭の饗宴である。ご馳走と酒が振舞われ、人々は歌って踊った。特に初めて見るミユはとても興味深そうに、あれこれと無邪気にイェースズに質問していた。
「この祭りは、熊の祭りなんだ。冬は
「神様に送るって?」
「明日になったら分かるけど、たとえどんな内容でも、ここの人たちの伝統文化なんだからあれこれ言わないようにね」
と、それだけをイェースズは言っておいた。
翌朝、広場には
「わ、かわいい。ねえねえ、熊、見に行こう」
無邪気にミユはイェースズの手を引いたりするが、この子熊のこれからの運命を知っている彼はミユには見せたくないと思っていた。果してミユは、行事の途中から席をはずした。無邪気に遊ぶ子熊に弓が射られ、首がしめられ、ばらばらに解体される様子は正視に堪えなかったのだろう。
イェースズの故国でもエルサレムの神殿で生け贄の小羊の血が流される。神がそのような行為を要求しているかどうかは別としても、人々は神のためよかれと思ってしていることであり、その赤誠が神様には通じるのだと、ふさぎこんでいたミユにイェースズは説明した。
また、自分の民とは違う民が、自分たちと違うことをしたからとてそれを否定してはいけないとも言った。神様はいろんな文明をこの世に降ろし、単一の単色ではなく、いろいろな文明が錦を織り成す立体的な文明をご覧になりたいのだということも説明すると、ミユは納得していた。
そしてイェースズは思った。今はまだ熊だからいい。やがて天の時が到来したら、全人類の上にもっとむごいことが降りかかるのである。
祭りはクライマックスを迎えていた。解体された子熊は毛皮は男たちによってたたまれ、肉と内臓は素早く女たちによって調理される。そして頭の骨はヌサに供えられ、
やがて雪に閉ざされる季節も終り、ゆっくりと北の国にも春が訪れようとしていた。ミユがふさぎこんだのは祭りの日だけで、もうその翌日からは村人と共に天真爛漫な笑顔で生活を続けていた。兄のスクネも、ヌプと意気投合しているようだった。
日一日と雪も溶け、陽射しに温かさが感じられるようになった。思えば二年前の今ごろはエルサレムにいて、十二使徒に囲まれていた。あれからわずか二年しかたっていないのにこれほどまでに境遇が変わると、エルサレムでのことが遥か遠い昔のことのように思えてならなかった。
使徒たちのことは今でも気にかけている。いかに彼らを愛したことか、そのことは今も変わっていない。だが、必要以上に心配するのは執着になると、イェースズはそう考えていた。
雪もかなり薄くなり、もう春もそこまで来ていると感じられた。
「屋根の雪を下ろすのも、もういらぬな」
ヌプの父がぽつんとつぶやく。イェースズはコノメハルタツの日もそろそろだと知り、その日が来るとスクネやミユ、そしてヌプとウタリであの丘の上の皇祖皇太神宮分霊殿にて神祭を執行した。
しかしこの村の村人は、そのような天祖・人祖をお祭りすべき太古の神祭りの存在すら知らず、ただの平日として暮らしている。だがまだこの国の西の方の人々のような、恐るべき豆まきをしないだけ救われていた。
その祭りも済んだある日、前の日までニコニコとイェースズと話していたミユが、急に無口になった。
「ミユ」
家の中でイェースズが呼びかけてもそっけなく返事をして、ミユはつらそうに腕を枕に前かがみに伏せた。
「どうした?」
「何でもない。大丈夫」
ふとイェースズは、ミユの額に触れてみた。
「おお、熱が出ているね」
その声に、ヌプがすぐに飛んできた。ヌプの父も、顔を出した。
「ミユが熱を出したって? すぐ薬師を」
ヌプの父が家から出て行こうとしたが、イェースズはそれを呼びとめた。
「クスリなんていりませんよ」
イェースズはなるべく心配の念を出さないように気をつけながらも、外見は心配しているふりをして、ミユの額に手をかざしてパワーを注入していた。
翌朝、ミユはけろっとしていた。
「お兄ちゃん。元気になったよ。ありがとう」
ミユはただそれだけをイェースズに言うと、さっさと外に行ってしまった。
そしてそれを境に、ミユはあまりイェースズと口を気かなくなった。まさしく態度の急転硬直化ともいえる状況で、話しかけても、
「なに?」
と、そっけなく言うだけであり、話を聞こうともせずにいってしまう。それでいてヌプやウタリ、そして自分の兄のスクネとは相変わらず無邪気で愛想のいい笑顔でこれまでと変わらずに接していた。
だがイェースズは、気にもとめなかった。ミユの心の中をすでに読んでいて、それは喜ばしいことだと思っていたからである。
それからしばらくミユとイェースズは、同じ家の同じ屋根の下で暮らしながら、ほとんど会話のない日々となった。そんなある日の朝、散歩に出たイェースズは村のはずれでこの年初めての紫色の花が咲いているのを見つけた。
その時、背後に人の気配を感じた。振り向くと、ミユがいた。ミユはイェースズにニッコリと笑った。久方ぶりにイェースズに向ける笑顔だった。
「お兄ちゃん、話があるの。家に戻って」
「話って、何だい?」
分かりきっているイェースズも、わざととぼけた。とうとうミユも打ち明ける気になったか、その時が来たかと、イェースズはミユに体する祝福の気持ちで嬉しくて仕方がなかった。
ヌプの家に戻ると、もう面々は顔をそろえていた。真ん中にミユが座り、ヌプもヌプの父も妙に神妙だ。ウタリだけがいつもの調子で、
「あ、戻られた」
と、イェースズを見て叫んでいた。
「どうしたんだい? みんな集まって」
「どうした」のか知っているイェースズも、わざと何も言わなかった。イェースズはヌプを見て、微笑んだ。
「自分から、話します」
と、ヌプが顔を上げた。そしてヌプは、イェースズを見た。
「大事な話があるんです。実は」
そこまで言って、ヌプはその先の言葉が言い出せない様子で、口の中でもごもごしていた。イェースズはヌプが言わんとしていることをあえて知らぬというふりをして、ヌプの言葉を待った。ヌプの父が痺れを切らしたように、真顔でヌプに代わって切り出した。
「実はこのミユを、せがれの嫁にということで」
「え?」
イェースズはわざと驚いて見せて、ヌプとミユの顔を交互に見た。ミユははにかみ、笑みを含みながらも下を向いて黙っていた。
「そうか、そうか」
イェースズは笑って、目を輝かせた。
「先生、ご異存は?」
ヌプの父が恐る恐る尋ねた。
「異存など、あるはずはありませんよ」
イェースズが笑うと、ヌプもミユも心底からの笑みを漏らし、それをウタリが横目でからかっていた。それを見て、イェースズは高らかに笑った。ヌプの父もやっと笑顔になって、胸をなでおろした。
「ああ、よかった。ミユの父親代わりの先生にお許し頂ければ」
「父親代わりというには、私はまだ若すぎますよ。ミユとは十一、二歳くらいしか離れていないのに」
「先生、申し訳ありません。今まで言い出せなくて」
ヌプが頭を下げると、ミユも同じようにペコンとして、
「ごめんなさい」
と、付け加えた。
まだまだイェースズの中で幼い少女の頃のイメージがぬけないミユが嫁ぐのであるから、何か不思議な気分だ。ヌプとて、ヌプが少年の頃からの付き合いである。あのイヨマンデの祭りの頃からミユの態度がおかしかったのは、ヌプとこういうことになったのに自分に言い出せないでいる罪悪感と照れからだということはとっくに見抜いていたイェースズだったが、あらためてこういうふうに打ち明けられると嬉しくもあった。
「でも、ちょっと待ってくれ」
イェースズは、そんな空気の中に水を一滴落とした。話は、ヌプの父に向けてだった。
「私がいいと言っても、私は親代わりとはいえ親ではありませんからね。やはりこういうことはミユの本当の父親であるミコ様の知らない所で話を進めるのはまずい」
それは正論だが、でもどうやってミコの了承を得ればいいのかと誰もが想念の中で
「まずヌプは、直接ミコ様にお話するべきだ。そして私も、いっしょに行こう」
「行くって、
「そう」
「え? お兄ちゃん、ありがとう。私も行く」
ミユの言葉に、イェースズは首を横に振った。
「今、あそこは危ないということは、ミユが一番よく知っているだろう。ミユはとりあえず留守番していなさい」
「え、そんなあ」
少し頬を膨らませたミユだったが、
「大丈夫。すぐに帰ってくるよ」
と、優しく言うヌプの言葉にうなずき、それを見ていたウタリが今度は声を上げて本格的にからかいだした。それからウタリは、
「僕も行きます」
と、言った。
「いいよ」
イェースズはすぐに承諾したが、そいのあとに、
「僕も行きます」
と、言ったスクネには首を横に振った。
「君は残って、ミユを守るんだ」
そしてイェースズは、もう一度ヌプとウタリを見た。誰かが幸せになっていくがイェースズはいちばん嬉しかったし、それが崩れざる幸になるように祈るばかりだった。
「夫婦とは火と水、つまりタテとヨコの結び合いだ。だから、まず地上天国の最小単位としての、愛和の家庭を作る責任があるよ」
ヌプもミユも、大きくうなずいていた。
今回の旅も、海路を取った。南に向かうとあって、海上を進めば進むほど春になっていく。そしてイェースズとヌプ、ウタリの三人を乗せた船がミコの住むオミジン山のある海辺の盆地のあたりに近づくと、陸の上では所々で木に薄い桃色の花が一面に咲いているのも見えた。海にそのままなだれ落ちる巨大な山脈の上はまだ白い冠があったが、そこを通過すると途端に春真っ盛りとなった。
そのまま、夜を待って上陸した。幸い月があったので行動に不便はなかったが、水田には今は何もない状態なので気をつけないと人目についてしまう。かといって、月がなかったら身動きができない。
明け方近くに
そして三人の話声が聞こえたのか、
「おお」
と、言ってミコが出てきた。
「誰が来たのかと思ったら、君たちか」
「ミコ様」
イェースズの表情がパッと輝いた。ヌプもウタリも安堵の表情を見せていた。
「びっくりしただろう。前の穴は御神宝といっしょに塞いでしまったよ。今はわし一人が寝るのに十分な、この穴に住んでいる」
ミコはひとしきり笑った。穴は確かに奥行きも人が一人寝られるくらいしかない。それからミコは、少し真顔になってイェースズを見た。
「ところで、どうしたんだ? 急に」
「あ、実は」
と、言って、イェースズはヌプの背中を軽く押して前に出した。
「実はミユとこのヌプがいっしょになりたいということで、それでミコ様のお許しを頂かなくてはと思いまして」
「ほう。それで、わざわざ」
ミコの住む穴は狭すぎてこの人数は入れないので、まだ明けやらぬ林の中での立ち話だった。
「とりあえず、かけたまえ」
ミコは、近くの岩を示した。自分はそのそばの木の切り株に座った。
「そうか、なるほど」
「どうでしょうか?」
ヌプは照れてうつむいている。ミコはそんなヌプを見ながら、ゆっくりとイェースズに言った。
「いいだろう。いずれは嫁に出さねばならぬが、ここにいたらそれもかなわぬかもしれないと心配していたんだ」
それからミコは、ヌプの手をとった。
「娘を頼む。そしてわしの娘の血を子々孫々に伝えていってくれ。君の子孫はミコの跡と呼ばれることになるからね」
やっとヌプは、ミコに笑顔を返した。ミコも笑顔でうなずいてから、三人を見た。
「穴はわし一人で満員だけど、この林の中は誰も来ないから、安心してゆっくりしていきなさい」
「はい。有り難うございます」
イェースズはニッコリと微笑んだ。だが、ミコの言葉ではあったが、春とはいえ夜はまだ寒く、三人は目的を果たしたということで、その日の夜にはまた船に戻って翌朝早く出航する事をミコに告げた。
日もかなり高くなり、ミコにイェースズがそれを話していた時だった。ミコを含めてイェースズの周りのヌプやウタリも何かの衝撃を感じたらしく、驚いたような表情になった。その時、イェースズには例の声が聞こえていた。
――西へ行け。やがておぬしの神魂も明かされよう。さすれば、おぬしはもはや神と一体となり、おぬしの御神業の範囲は神霊界にまで広がるならん。
イェースズはそのままミコを見て、
「私は帰りません。西へ行きます」
と、言った。ヌプとウタリは、さらに驚いた顔をしていた。
「先生、いっしょに帰らないんですか?」
「西へ行くといっても、この島国の中の西へ行くんだ。君たちは二人だけで船で帰りなさい。それからヌプ」
「はい」
「私が帰るのを待たなくていいから、ミユといっしょになりなさい。君の民のやり方でいい。お父さんに祭式してもらうんだ」
「ありがとうございます」
それからイェースズがミコを見ると、ミコはイェースズの目を見て言った。
「いいことだろう。前にフトマニ・クシロを張り巡らせとこい言ったが、この国は世界の縮図だから世界のために重要な場所もある。今のこの国の状況など一応無視して、心の通りに歩いてくるがいい」
夕方、海の方へと向かうヌプとウタリの二人を、イェースズはミコとともに見送った。それからイェースズは一晩、林の中で寝た。そして朝になったらいよいよ出発だ。ミコに別れを告げ、単身になったイェースズは新たな旅路を開始した。
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