2、変わり果てたオミジン山

 美しい娘だった。だが、イェースズにとって美しいかどうかなどよりも、その娘がどういう人で、なぜここにいるのかの方が大きな問題だった。

 娘は、今は怯えきった様子だった。そしてイェースズが近づくにつれますます体を硬直させ、逃げ出すことさえもできないほどに震えて立っている。言葉すら出ないようだ。ただ、村の人のような白い布の環頭衣ではなく、獣の革衣を着ているのが妙だった。

 イェースズは、笑顔を見せた。そのことがほんの少しではあるが、娘の恐怖心を和らげたようだった。

「ちょっとお聞きしたいのですが」

 イェースズの言葉に、娘の体はビクッと反応した。だが、次の瞬間には強張った表情も幾分和らいだようだった。そこでイェースズはあることに気付き、ますます笑顔を見せて言った。

「私はこの山のふもとにいるような大人うしじゃありませんよ。昔、ここに」

 イェースズは地面を指さした。

「ここに住んでいたんです」

 娘は、不審そうに首をかしげた。イェースズは言葉を続けた。

「そう、もう十年くらい前に、この山に住んでいたんですよ。でも、その時あったものは全部なくなっていて……。その時にここでお世話になった方たちがいるんですけど、何かご存じありませんか?」

 今度は娘はびっくりしたような表情になって、じっとイェースズの顔を見つめていた。そして小さな声で、

「あのう、昔、十年前くらいにここに住んでいたって……、私もずっとここにいますけど。もちろん十年前も」

 と、言った。

「十年前にもいたって、失礼だけどその若さで十年前だとまだ……」

「小さな子供でしたけど……」

 イェースズの中でもしかしてという思いがあってそれを尋ねようとしたが、それよりも前に娘の方が、

「もしかして、昔ここにいたお兄ちゃん?」

 と、ぽつんと言った。

「やはり、そうか!」

 と叫んだのはイェースズの方だった。すると娘の顔もパッと輝き、小走りに近寄ってきた。

「そう、お兄ちゃんでしょ。私がちっちゃい頃にここにいた、あのお兄ちゃんでしょ!」

「君は、そう、確か名前は、ミユ!」

「え?」

 娘が驚いたような声を出すので、イェースズは忘れかけていた風習を思い出した。この国では、実名を呼ばれるというのは相当親しい間柄のあかしなのだ。だが、ミユの顔はますます輝いた。

「ねえねえ、本当にあの時のお兄ちゃん?」

「そうだよ。イェースズ、いや、ここではイスズって呼ばれていたっけか?」

「うわあ」

 ますますイェースズの近くに来たミユは、イェースズの手をとって飛びはねた。イェースズも笑みの中で目を細めた。

「いやあ、信じられない。子供だったのに、すっかり娘盛りになって」

「もう、十年もたっているんだから。私、今、二十一。お兄ちゃんこそ、もうお兄ちゃんじゃなくっておじさんって感じじゃない」

 後ろでヌプたちも、驚いて見ていた。それをミユもちらりと見た。

「あら、あなた方はお兄ちゃんがいなくなってからもしばらくここにいたいたお弟子さんよね」

 ヌプたちは照れていたが、イェースズは自分を棚にあげてのミユの言葉がおかしくて大笑いをした。

「ところで、ミコ様は?」

 急に真顔になって尋ねたイェースズだったが、

「お父さん? お父さんも元気よ」

 のミユのひと言に、安堵の笑顔に戻った。

「今は、どちらに?」

「ここにいるわよ。そうだ、早くお父さんに会って。お父さんも心配していたから」

 案内するミユのあとに胸躍らせながらイェースズはついていき、ヌプ、ウタリもそれに従った。ミユは杉林の木立の中に入って行く。中は鬱蒼として暗い。その登り傾斜となっている細い道をミユは慣れた足取りでどんどん登っていき、イェースズもヌプもウタリも遅れることなく身軽について行った。

 この上が、かつてミコから超太古に巨大な黄金神殿があった所だと聞かされていたのをイェースズは思い出した。

 その時、前方にパッと人影が立ちふさがった。まるで猿か何かのようにすばしっこく、一目散にこちらへ向かってくる。

「ミユ! そいつは山の麓の人間じゃないか!」

 叫び声と共に巨漢ともいえるたくましい青年が、ミユを通り越してイェースズの前に立ちはばかって身構えた。

「何をしに来た!? 妹をかどわかしに来たのかッ!」

 イェースズはミユを見た。ミユを妹と呼ぶということは、この男は……とイェースズが考えているうちに、ミユが困惑しきった表情で男にすがりついた。

「お兄ちゃん、やめて。忘れちゃったの? この方は、ほら」

 男の威勢が一瞬ひるんだ間に、イェースズはその若者に笑顔を見せた。

「君は、もしかしてスクネか?」

「え?」

 若者は呆気に取られて、身構えを解いた。

「立派な若者になった。確か、このヌプやウタリと同じくらいだったよな。今は、ちょうど私がここにいた頃の年齢になっているよね」

「あ、あ、あ、あ、あの、もしかして……」

「そうよ。昔ここにいたお兄ちゃんよ」

 と、ミユが口をはさんだ。スクネと呼ばれた若者はとたんに表情を変え、イェースズのそばによってきた。

「いやあ、たくましくなったなあ」

 イェースズにそう言われて照れるスクネに、ヌプやウタリも、

「やあ」

 と、声をかけた。

「おお、君たちか。しばらく」

 三人は手を取りあっていた。

「今、お父さんの所につれて行こうとしていたの」

 兄にそう言ってからミユは、愛くるしい笑顔でイェースズを見た。

「さあ、行きましょう」

 スクネとミユにさらについて行くと、兄妹は山の中腹の洞窟の中に入っていった。中は真っ暗だ。洞窟は、かがんでやっと歩けるくらいの狭いものだった。だが、奥から光が漏れているので、なんとか足元を確保して歩くことはできた。

 突き当たりは広くなっていて天井も高く、そこに灯火に照らされて一人の細身の初老の男が座っていた。その顔を見た途端、イェースズの目に熱いものが込み上げてきた。向こうもイェースズの顔に驚いてすぐに立ちあがり、

「おお、おお、おお」

 と、感嘆の声を洩らしていた。かなりやせ細り、頭もほとんどが白髪になっていた。それでも、紛れもない武雄心親王タケオココロのミコだった。

「ミコ様!」

「イスズよ。戻ってきたか!」

 ミコは、しっかりとした足取りでこちらに歩いて来た。体力は衰えていないようだった。二人は固く抱き合った。こらえていたものが、イェースズの頬を伝わった。

「約束どおり、生きて戻って参りました」

「そうか、そうか。それはよかった」

 それからミコはイェースズに座るように促した。

「よう帰ってきたな。もう十年になるな。よくここが分かったな」

「ミユとばったり会って、案内してくれました」

「十年もたったのだから、スクネもミユも大きくなっただろう」

「はい、最初はぜんぜん分からなかったのですよ」

 ミコはうなずき、そして立ち上がった。

「では、御神殿にお参りをするといい」

「そういえば」

 イェースズの顔が、急に真顔になった。

「御神殿といっても、なくなっていたではありませんか」

 ミコは笑った。

「あるんだよ、それが、ちゃんとここの中にね」

 ミコは立ち上がり、イェースズが通ってきた入り口に向かう洞窟へと歩いて行った。入ってきた時は暗かったのでよく分からなかったが、実は一本の通路ではなく分かれ道があり、ミコはその右に折れる別の通路へと入って行った。それはすぐに行き止まりとなったようで、ミコがさっと灯火をかざすとそこには腰ぐらいまでの石の小さな祠が二つ、こじんまりと鎮座していた。

「これが今の皇祖皇太神宮スミオヤスミラオタマシイヒタマヤだよ」

 と、ミコは言った。イェースズは瞬いてその祠を見、そしてすぐに視線をミコの横顔に移した。心なしかミコの顔は、悲しそうに見えた。

 イェースズはその祠の前に額づき、とりあえずもこの地に再度戻れたことの報告と感謝の祈りを捧げ、それからもとの広間に戻った。そして開口一番、ミコに今までの疑問をぶつけた。

「ミコ様、どういうことなんでしょう? もとの御神殿も何もかもなくなって、皆さんはこんな洞窟の中に。今日、上陸して以来の麓の風景も一変してしまっていますけど」

「君が故国に帰っている間に、ずいぶんと変わったのだよ」

 イェースズは、小首をかしげた。

「確かに海の向こうのシムの国も、前に私がその都の長安ティァンアンに来た時にはシェンという国だったはずなのに、今ではハンという国になっていました。だから、十年という月日で変わるのは分かります。分かりますけど、なぜミコさまがこんな洞窟の中で暮らしているのですか? たしかに世界では穴暮らしの民族もいました。でも、ミコ様は以前は立派な建物に住んでおられた。それだけではなくて、全世界の五色人類が崇める皇祖皇太神宮までこんな小さな洞窟の中へ」

 ミコはしばらく黙っていた。そして、目を挙げて空中を見ながら言った。

「今、たいへんなことがこの霊島ひじまに起ころうとしているだ。この霊(日)の元(本)つ国にね」

「たいへんなこと?」

「昔、君が初めてこの国に来た時も、西の山の向こうには君と同族の人たちがいたろう」

 確かにいた。砂漠に消えたイスラエル十支族のエフライムとこの国で出会って、イェースズは驚いたものだった。

「その人々がこの十年の間にだな、稲作をする下戸げこたちを引き連れてついに峠を越えて、この地方にも入り込んできたんだ」

「そうだったんですか。でも、もとからあった皇祖皇太神宮を壊して、ミコ様たちをこんな所に押し込めたのも彼らなんですか?」

「まあ、わしらは押し込められたというよりも、難を避けてここへ逃れてきたのだがな。なにしろ超太古からの大切な御神宝を護らないといけない」

「どうして彼らは、ここを狙うんでしょう?」

「歴史だよ。歴史に問題がある。稲作の民が大人ウシと呼ぶ君の同族の人たちは西の方から勢力範囲を広めて、この島国をすべてその掌中に納めようとしているんだ。彼らはもとからこの国の民だった黄人おうびとを下戸と呼んで服従させている。その彼らが困るのは、ここに超太古からの莫大な歴史の記録、つまり真正人類史があることなんだ。よその土地から来た彼らだけに、自分たちのこの国での統治の正統性を作り出すためには、ここにある本当の歴史が彼らには邪魔なんだよ。この国が霊の元つ国であっては、彼らにとって都合が悪いのだ。だから本当の歴史を伝える我われ一族を抹殺しようとしたんだ」

 驚きに眼を見開きながらも、あり得ることだとイェースズは思っていた。そして、ミコが「彼らは君と同族」と言った言葉に、重みを感じた。

 狭義には彼らは十支族、イェースズはユダ族だから同族ではないが、ともにイスラエルの民であるという意味では同族だ。そして今のイェースズにとってイスラエルの民は自分の同胞というよりも、かつて自分を十字架に掛けようとした民族、しかし実際には弟のイシュカリス・ヨシェを十字架上で殺してしまった民なのだ。

 その時、イェースズの中で衝撃が走った。ミコが今話しているのはあくまで現界的な話だが、その裏にある高次元での霊的な意味をイェースズは瞬時にしてサトッてしまった。だが、ミコはそんなことも知らずに、話を続けていた。

「彼らはこの国に固有にあった文字までをも使用禁止とし、この国には文字はないとして、海の向こうの国の文字を強制的に使わせようとしている」

ハンの国の文字ですね。私も最初はあの文字はだめでした。世界でいちばん複雑な文字ではないでしょうか。象形文字の森の中に迷い込んでしまいそうな気がしていました」

 イェースズが「最初は」と言ったのは、前世記憶が戻る前のことだ。今や彼は自分の一つ前の前世が今のハンのある所に昔あった国で学者をしていたことが分かっている。

 正確には、普通の人間の魂のような輪廻転生による前世ではなく、前回に神霊の分魂として遣わされていた時ということだ。

 その前世記憶によって今はハンの字も言葉も、自在に操るイェースズとなっていた。しかし、そのことはあえてミコには言わなかった。するとミコも、しばらく黙っていた。やがてまた、顔を上げてイェースズを見た。

「彼らはどうしてこの国に来たのだろうか。どうして、この国をほしがるんだろうか」

 イェースズの中では、実はもう明確な答えが出ていた。だがそれをあからさまにミコには言わず、

「この世での現象の発端は、すべて神界にあります」

 と、だけ言っておいた。神界での出来事が、物質化してこの地上で同じことが起きる。

 イスラエルの民の東進を神界から操っている御神霊は、他ならない副神系統の天若彦アメノワカヒコの神である。

 国祖はご引退なさったといえども、この霊の元つ国の霊界は正神系統の天照彦アメノテルヒコの神が統治されているが、そもそも国祖の神のご引退によって霊の元つ国霊界を天照彦大神が統治することになったのは、他らなぬ山武姫ヤマタケヒメ大神の策謀によるものだった。

 だが今や、山武姫ヤマタケヒメ大神と天照彦大神は相容れぬ仲となっている。その霊の元つ国の霊界は霊的には非常に大事で、なにしろ世界の中心なのだ。その天若彦を裏で糸を引いているのはヨモツ国の神霊界に君臨する副神系統の神々の親玉、山武姫の大神に他ならない。

 今やその腹心であったはずの金毛九尾にも歯向かわれている山武姫大神は、副神の最高の神だけにどうしてもこの霊の元つ国の霊界を掌中に収めたいのだ。だが、その支配欲ために現界で操るのがなぜイスラエルの民なのか、それもイェースズはすべて瞬時に承知した。

 ユダヤは物質を司る使命がある。そもそも副神系統の神々の役目は、この地上の物質開発であった。それも天地初発の時の大根本神の裏の経綸があって、一時神・幽・現の三界とも大根本神との糸を断ち切った自在の世となし、そのための国祖ご引退まで仕組まれたのである。

 そういった裏の仕組みも知らない中つ神々と欲心を与えられた人類が、自在の世を火と水のほどけたホドケの世、水の世となしてしまっている。

 だから、究極的には悪ではないのだけれど、一見悪のようにも見える世の中となった。そして山武姫大神と天若彦大神は、この霊の元つ国にれましてかつては全世界の棟梁であった天皇スメラミコトに、山武姫大神の御神魂を持った魂を降ろそうとしている。いや、むしろもう降ろされているのだ。

 だがその天皇スメラミコトはもはや世界の棟梁ではなく、この島国のみを治める他の国でいう国王や皇帝と同じような地位になってしまうことになる。

 だが、それらのことはあえてミコには言わずに、ただ、

「彼らは私と同胞であっても同族ではないのです」

 と、イスラエル十二支族の歴史をミコに話した。

「十二の支族がそろって栄えていたのは、ソロモンという王様の時代までなんです」

「それは、いつごろのことかな?」

「そうですね、千年くらい前でしょうか」

「やはりな」

 ミコの説明ではイスラエルがもとっも栄えていた時は、この国では前の王朝の葺不合朝フキアヘズちょうが致命的な崩壊を遂げた頃だという。

 だからイスラエルの民とこの霊の元つ国は神様が選ばれた合わせ鏡であり、言霊ではユダヤは枝の国だ。霊の元つ国は縦、ユダヤの物力は横で、その相反する力を十字に組む時に新しい力がそこに現れるというのだ。

 イェースズはうなずきながら、黙って聞いていた。

 

 一晩寝て、翌日はいい天気だった。ミコは洞窟の外で、木の実を土器かわらけで炊いていた。イェースズが近づくと、ミコは笑顔で顔を挙げた。

「この山の中だけでも、食料にはこと欠かないよ。木の実もふんだんにあるし、鳥獣もたくさんいるからね」

 ミコの話だと、貯蔵用の貝や海のものはスクネが夜の闇にまぎれて採ってくるのだそうだ。麓の村は昔と違って貝を使わなくなったので、海には貝が余るほどあるとのことだった。

 イェースズはかつてここに来るまで大きな大陸を横断する旅をしていても、一度も食うに困ったことはなかったことを思い出した。すべては神様が必要な時に必要なだけ与えて下さる。そもそもこの大地には、人類が最初から食うに困らないだけのものを神様は埋蔵してお創りになっている。それが自然であり、それがそのまま至善しぜんなのだ。

 それを、人知で作りだした貨幣というものがないと食うに困る社会というのは、どこかおかしい。「おかしい」というのは一見「悪」のように見えるが、イェースズはそのすべてが神様の裏経綸で必要があっての神仕組みなのであることも理解していた。

 そして夜、イェースズは洞窟の外で焚き火をしながら、ミコと二人だけで語らっていた。

「実は君が戻ってきたばかりでこのような話をするのもなんだけど、実は君がいない間もずっと考えていたことなんだ」

  ミコは神妙な顔をしてそう言った。イェースズは息をのんで、ミコの次の言葉を待った。

「近々わしは、御神宝も御神殿も封印してしまおうと考えている」

 驚いてイェースズは、ミコを見た。

「ミコ様は、どうなさるんですか?」

「わし一人くらい、何とかなる」

 ミコは笑って言う。その一人というのが、イェースズには不審だった。スクネはミユはどうするのだろうか……、それにミコの妻は、昨日から姿が見えない。イェースズがそんなことを考えているうちに、おかまいなしにミコ話を続けた。

「いつ麓の連中が、この山にも登ってくるかも分からん。それで君たち三人は、あのヌプやウタリの故郷のうしとらの国に早く帰るがいい。せっかくここに戻ってきたばかりで申し訳ないのだが」

 ミコの口調だと、状況はかなり切羽詰っているようだ。

「その日髙見ひだかみの国が、今はいちばん安全だ」

 イェースズはミコの言葉の真意のほかに、ミコの言った「艮」という言葉が引っかかっていた。そして、国祖の神よりの最近の御神示を思い出した。国祖の神は艮(東北)の方角に神幽かみさられたということだった。そしてその隠遁の地に自力で来いというのが、イェースズに下された神命だった。

 ミコはさらに続けた。

「それと、もう二つばかり頼みがある。御神殿を封印してしまうのは本当に天の神様に申し訳ないことで、だからせめて御分霊をかの日髙見の地でお祭りして、それをお護りしてほしい」

「承知致しました」

「もう一つは、スクネとミユもいっしょにつれて行ってほしい」

 それでミコが先ほど「わし一人、何とかなる」と言ったわけも理解した。ミコは、最初からそう考えていたようだ。

「ミコ様は?」

「わしはしばらくここで、様子を見る。後からわしも行くかも知れんがな」

「そうですか、それなら安心です」

「もう、今日の夜には出発しなさい。早い方がいい」

 ミコの口ぶりは淡々としていていた。そしてその想念を読めば、ミコの妻は二年前に熱病で亡くなっていたようだ。

「それから、封印してしまう前に、君にだけはあの文献を見ておいてもらおう」

 ミコが言った文献とは、洞窟の中の神宝の中にあった膨大なものだった。

「君が前にここにいた時にあの赤池の中の白龍満堂で、この書物の内容は三日がかりで君に伝授したんだ。でも、文献で見せるのは初めてだから、その内容をよく腹の中に入れておいてくれ。腹だぞ。頭じゃないぞ」

 イェースズはミコがなぜそのように言うのかも、総て熟知していた。それからイェースズは一日がかりで、かなりの数の巻物を読破した。それは紙ではなく動物の革をなめしたものに書かれており、文字はこの国の固有の文字で、ミコはそれをコシ文字だと言った。

 遥か悠久の昔の天地創造の様子が、イェースズの故国の聖書トーラー創世記ベレーシースよりも詳しく正確に綴られている。それはかつてミコが講義してくれた内容よりも詳しかった。

 宇宙の創世が天神七代という神々によって創造されたことはミコから聞いた通りだが、その宇宙大根本神の皆が、ここでは『元無極體主王モトフミクライヌシオの大神』という御名になっている。

 そして第二代「中末分主ナカナシワカレヌシの大神」が時間の神、第三代「天地分主アメツチワカレヌシの大神」が空間の神で、この二神が根本三六ミロク大神であってこの時に天地剖判し、その間三百二十四億三十二万十六年だという。

 第四代は男女神の「天地分大底アメツチワケヒオホソコの大神」と「天地分大底女アメツチワケヒオホソコメの大神」で、それぞれ霊質(火)の神と物質(水)の神であり、すなわち底津岩根ソコツイワネ大神であって、これで時間、空間、火、水の四大元素が創造されたことになる。

 その次が第五代「天一天柱主アメハジメアメハシラノシの大神」で、この神が大根本神のご真意をすべて代表するみ役を持ち、その次、第六代「国万造主クニヨロヅツクリヌシの大神」が大根本神のたいの面として実際にこの地球と人類の霊成型ひながたをお創りになったいわゆる国祖の神様で、四十八ヨトヤのみ働きをなす大天津神である。この方が大天底に総ての神々を勧請かんじょうして神霊界で初めての神祭りを行い、また立春コノメハルタツの日をまこと正月元旦とする暦を制定したという。

 そして第七代「天御光太陽貴王日大光日アメミヒカリオオホヒナカキオウヒノオホテルヒの大神」、すなわち「天照日アマテラスヒ大神様」であり、この時に天祖降臨が行われてここより皇統の時代に入るのである。

 そのすべてが、ことごとく「創世記ベレーシース」よりも詳しいが、全く矛盾することはなかった。神々の代を「創世記ベレーシース」では一日と表現しているだけだ。その「創世記ベレーシース」では、五日目に鳥や魚が、六日目に陸の生物と人類が創造されたとある。まさしく天神第六代「国万造主クニヨロヅツクリヌシ大神様」の御時に万生とヒトの霊成型ひながたが創造されたとなっている。まずは男の霊成型ひながた、二万年後に女の霊成型ひながたを創造され、そのあとで物質化されておられる。

 そして、そこにはすべて四十八ヨトヤの神々のどなたかかの神魂を分魂として入れられている。それが神の「霊」を「とどめ」た神の子「霊止ヒト」なのだという。

 だが、「創世記ベレーシース」と違うのは、そのどこにも「アダムとイブ」の名前はなかった。

 以前にすでにミコから聞いてイェースズは知っていたが、この文献ではそれに続く皇統時代の、皇統第二代造化気万男身光神天皇ツクリヌシキヨロヅオミヒカリカミスメラミコト様の御時に全世界に十六人の王子が派遣され、その中の紅一点である皇女がヨイロッパ・アダムイブヒ赤人女祖あかひとめそとある。つまり、アダムとイブというような二人の人間ではなくお一人の皇女様であり、その子孫がアブラハムでありイスラエルであり、モーセである。つまり、この方こそがユダヤ人の祖であるようだ。

 この文書に記されている話はこの世のものではなく、遥か高次元の神界、神霊界に及ぶものである。神霊界に魂がたびたび呼び出されているイェースズであっても、その雄大さには気が遠くなる思いだった。

 こういった内容は、たしかに故国では使徒たちに対してでさえ伝えるわけにはいかない、『神』の御経綸上せもまだ伝えることは許されない内容だと実感した。まだこういったことを公開する時代ではない。

 そして彼の心の中に甦ったのは、国祖の神の御神勅である。自分は、うしとらを目指さねばならない。ミコがここに着くや即日ここを離れるように言ってくれたのも、背後にそのようなご真意による仕組みを感じずにはいられないイェースズだった。

 それからイェースズは洞窟の中の石の祠でみ魂分けの神事を行い、夜になってからミコに別れを告げてヌプ、ウタリ、ミユ、スクネの総勢五人で闇にまぎれて海岸まで行った。そこにはイェースズの船がまだあったので、一行は早速それに乗り込んだ。

 

「ミユ、寒くはないかい?」

 兄のスクネが心配して声をかけると、ミユは笑顔のままみんなが座っているあたりにやってきた。明るい陽光の中を北へ進む船の中でもミユはじっとしていることはなく、ちょろちょろと船内を動き回っていた。

「落ちるぞ」

 とイェースズに冗談を言われながらも、ミユは船から身を乗り出し、

「あ、お魚」

 と、濃緑色の水面を指さして笑っている。

「何だかまるで、遊びに行くみたいだな」

 そう言って、兄のスクネが苦笑した。イェースズも愉快そうに、そんな兄妹の様子を見ていた。一度は死を覚悟した自分がこうして再びこの国でこの兄妹と共に同じ船に乗っていることに、運命の妙を感じずにはいられないイェースズだった。ミユは今でもイェースズのことをお兄ちゃんと呼ぶ。

「本当はお兄ちゃんじゃなくて、おじさんと呼びたいんだろ」

 イェースズが笑って言うと、

「うん」

 と大きくうなずいておきながら、

「うそうそ」

 と笑って答えるミユは、本当に天真爛漫だ。もうすでに二十一歳の娘盛りではあるが、イェースズにとってはまだ十何歳かの頃のあどけない少女のイメージがぬけなかった。

 やがて左手の大きな島との間を通過し、右手の陸の上には裾野が美しく広がる高い山を見ながらさらに数日の航海で、海に西につき出た半島にでくわした。その半島の突端の岬を回ってまたしばらく行くと、、海岸には砂浜が続くようになった。ここはすでにアラハバキの領域、ミコのいう日髙見の国だった。もうそろそろ秋の気配を感じる頃になっていた。

 その後の航海も順調で、船は海峡を越えて再び南下し、無事にヤレコの港にたどり着いた。

 生まれて初めて来る異郷の地でスクネもミユも緊張しているのではないかとイェースズは気遣ったが何のことはなく、ミユなどは楽しそうにはしゃぎ回っていた。

 港から西へと内陸に進む道のりでも、ミユはちょろちょろして、気がつくとふとどこかへ行ってしまったりした。そんな姿を見て、

「子どもより始末におえないね」

 と、イェースズは笑った。ミユやスクネはヌプたちの言葉が分からないので、二人のいるところではヌプもウタリもイェースズと話す時にはなるべくスクネたちにも分かる彼らの言葉で話すようにしていた。

 

 ヌプの村のオピラー・コタンでは、祭司であるヌプの父がいきなり大人数とともに息子が帰ってきたので驚いたようだったが、それでも温かく迎えてくれた。

 村に入るや初めて接する異文化にミユの好奇心は爆発し、あっちへ行ったりこっちへ行ったりで、子供がいたら通じるはずもない自分の言語で話しかけ、気さくに迎えてくれる村人にありったけの笑顔で手を振っていた。

 文化が違うとはいっても人々の顔つきは自分たちとほとんど同じなので、ミユはそれほど警戒心も持っていないようだった。

 その夜、寄宿させてもらっているヌプの家で、イェースズは祭司であるヌプの父と二人きりで、例の相談ごとを持ちかけていた。ミコより預かり、ここまでお供をさせて頂いた皇祖皇太神宮の御分霊殿の御神体をお祭りすることである。

「どうか、この村にお祭りさせて頂きたいんです」

 ヌプの父の反応は、しばらくはなかった。何かを考えているようでもあったが、やがてあごに手を当てて口を開いた。

「私は荒吐アラハバキカムイの、このコタンのヌサを祀る祭司イノンノイタックルですからねえ。異民の神をこのコタンで祭るのはねえ、ちょっと。だいいち、村長エカシが何とおっしゃるか」

「ちょっと待って下さい」

 イェースズは右手を上げ、ヌプの父の言葉をさえぎった。

「今、異民の神とおっしゃいましたけど、そんなのおかしいと思いませんか? 民の数だけ創造主の神様がいらっしゃっるんでしょうかねえ? 確かにそれぞれの民族の担当の神様というのはいらっしゃるでしょうけど、大根本の神様はおひと方でしょう? 私はこの民族だからこの神様に創られた、私は何々族だから別の神様に創られたなんて、そんなばかな話ありますか?」

「んん」

 ヌプの父はうなったまま、うつむいてしまった。イェースズは穏やかな笑顔で、話し続ける。

「それぞれの民のそれぞれの神祭りは、その民の伝統文化としては尊重しなければならないでしょうけど、でも宗門宗派というのは人知が作った垣根なんですよ。神様は、そんなことをお命じになってはいないんです。いいですか。大根本の最高神はおひと方で、全世界全人類に共通なんですよ。神様の置き手ののりも、全人類に共通なんです。だって、そうでしょう? 私は何々族だから食料は半分でいい、私は何々族だから四分の一でいいってわけにはいかないでしょ?」

 イェースズは少し視線をそらし、そこの皿に盛られていた塩に目をやった。

「例えばですね、この調味料は全人類共通でしょう? これをあなた方は何といいますか?」

「はあ、シッポですが」

「そうですか。これをヤマト人はシポといいます。私の国ではメラフといい、隣の国ではハルス、その向こうではサールというんです。でも、どんな名前で呼んでも、これは同じものでしょう? それなのに、これはシッボだ、いや違う、これはサールだといって争っているのが今世の人々なんです。あなた方がカムイといい、ヤマト人がカミといい、私の国ではエロヒーム、そしてセオスとかデウスとかいっても、同じ方の別名なんですよ。この御神体はそういった全人類共通の祖神おやがみ様や実際にこの世と人類を創られた七代の神様をはじめ、あらゆる神々を合祀したものです」

「え、今、七代の神様と言われましたね?」

「ええ。親神様より七代にわたって、そして何百億という時間をかけて、神様は神界・神霊界をはじめ、この世をお創りになっていったんです。それは全人類共通の出来事で、そうなると神様の天地創造はもう一つの宗教の話ではなくなるでしょう?」

「あのう、私どもも同じです」

「ほう」

 イェースズは感心した声を上げた。

「祖神荒吐アラバキの神七柱といいまして、七代のカムイがこの世をおつくりになったと伝えられています」

「ほらね、そうでしょう。私の国の聖典では、七代を七日という表現にしていますけどね」

「はあ」

 ヌプの父は分かったのか分かっていないのか、とにかくうなずいた。

「それで」

 イェースズはひざを一歩前に進めた。

「この近くのムータイン・コタンのそばの三角の山、つまりトバリ山の麓に祠があるのをご存じですか?」

「とんでもない」

 ヌプの父は、急に慌てた。

「あの山には、誰も足を踏み入れたりはしないはずだ」

 まだ頑なにそう信じている人もいるようだ。むしろこのあたりではその方が普通だ。

「あそこに、祠があるんですよ」

「祠って、ヌサですか?」

「ええ。しかも、超太古に世界が一つだった時、世界のあらゆる民族の万人が崇めまつった黄金神殿の分霊殿が、あそこにはあったんです」

「そんな話は、我われが受け継いでいる話にはありませんけどなあ」

 イェースズは口元に、笑みを含ませた。

「それはそうでしょう。なにしろ何万年も昔の話ですから」

 想像を絶する年代を聞いて、ヌプの父はうなった。そして、次の瞬間には勢いよく顔を上げた。

「分かりました。どうぞ先生のお考えの通りになさって下さい」

 イェースズの顔が、パッと輝いた。そして、ヌプの父の手をとった。

「ありがとうございます」

「先生には、せがれがお世話になりました。それに、前にここにいらした時に先生からお聞きしたブッダという人の話が、十年以上たってもまだわしの頭から消えないですだ」

「そうですか」

「ええ、ありゃ素晴らしいお話だった。そんな先生のおっしゃることなら、間違いない」

 イェースズは、今度はうやうやしく頭を下げた。


 翌日さっそくに御神体の遷座が行なわれ、イェースズとヌプの父の祭式で皇祖皇太神宮の分霊殿がこのオピラー・コタンの郊外の丘の上に営まれた。それは太古の分霊殿のあったトバリ山からは東へ歩いて七時間ほどの距離になる。

 一切が偶然ではあり得ない。規模こそ比べようもなく小さいが、それでもいわば太古の分霊殿が数万年の時を経てこの地に再興されたわけである。そのために自分を神様はお使い下さった。それだけでも感謝があふれて涙を流すイェースズだった。

 分霊殿の形態は全くコタンのヌサと同じで、御神体だけがイェースズがトト山からお供してきたものであった。だから村の人々は「異民族の神」という意識はなく、自分たちの新しいヌサができたくらいにしか思っていなかった。これはイェースズの方から申し出たことで、むしろヌプの父の方がそれでいいのかといぶかったくらいだった。

「全人類共通の神様ですから、お祭りする場所の民の風俗に合わせてで構わないんです。要はそんな形ではなくて、お祭りする想念ですから」

 そう言いながらもイェースズはヌプの父を祭司として尊敬していたし、ちょっとでも異郷・異端の臭いがあると排斥する自分の故国の祭司や律法学者とは雲泥の差で、やはり霊の元つ国人の黄人おうびとだなと認識を新たにしていた。

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