<霊の元つ国>
1、タネコのヤレコの港上陸からムータイン・コタンへ
船は西風と潮流に乗り、順調に東進した。
数日たって、陸地が見えはじめた。右と左に二つ陸地があり、中央が海峡になっているようだ。その真ん中へと、船は進んでいく。
「あ、ここ、分かった!」
ヌプが叫び声を挙げた。もう彼らにとって、自分たちのいる位置が熟知の土地であるようだ。だから、
「あとは任せて下さい」
と、ヌプは言っていた。
「上陸するのは、右と左のどちらだね?」
イェースズの問いに、今度はウタリがしたり顔でうなずいた。
「右です。でも、今上陸しないで、このまま海峡を通って、そして海峡の向こうで右に曲がって上陸して下さい。その方が、コタンに近い」
ヌプもウタリも、かなり生き生きとしていた。遠くへの旅からようやく故郷にたどり着いたのだから、無理もないことであった。
イェースズもまた、感慨深げに景色を見ていた。空と海の境目に這いつくばるように、青い陸地は細長く横たわっている。
初めてこの国に来た時は、霧の中の緑の大地に
それは、これまで行ってきた世界のどこでも感じたことのないものだった。もしかしてこの島国全体が、天地創造の神様の御神体なのかもしれなかった。
船はゆっくりと進み、大地と大地の間の海峡へと身を進ませていった。
やがて右の岬の上に、間違いなくかつて見た山の姿があった。かなり遠くではあるが、そのきれいな円錐形の山は、あのブッダの塚があった山の上から見えていた山だ。
相変わらず風は冷たい。
岬を過ぎると右手は湾になっているようで、やがて次の半島が見えてきた。
やがてその先端を過ぎた。陸の上は荒涼とした岩山がそびえ、霊気すら感じられた。今は冬だから岩山のように見えてているが葉の落ちた木々の幹で覆われており、夏になったら緑の山になることは容易に予想された。
その向こうに回りこんで、そのまま海岸線に沿って船は南下した。再び陸の上は緑が生い茂るようになり、そしてヌプの舵取りで船はその海岸線の一角にと滑り込んだ。
祭ってある青龍神の御加護があってか波に揺れはしても、船は無事にここまでたどり着いた。白い鳥が無数に波の上をただよい、船を囲むように飛来した。まるでイェースズたちの船を護衛するかのように、白い鳥の群れは翼を広げて悠々と船とともに進んだ。
浜は砂浜で、そのすぐ近くにまで松の緑も鮮やかな小高い丘が迫っていた。その浜の方へと波をけって進んでいた船に手ごたえがあった。船底が海の底についたようだ。ヌプが水しぶきを上げて飛び降りると、ひざまでの水深だった。そのままヌプとウタリの二人で綱を引き、舟を砂浜に引き上げた。
イェースズは目頭が熱くなるのを感じていた。今、帰り着いたのだという実感が、ひしひしと湧きあがってくる。
この国を離れて生まれ故郷のガリラヤに到着した時は、こんなには泣かなかったのにと思うと不思議だ。今、こうして無事にここに戻ってくることができたのも、すべてが神の御守護の賜物と、イェースズは深く感謝を捧げた。そして砂浜を見ると、ヌプとウタリが抱き合って大泣きだった。そのそばに歩み寄って、
「ありがとう。やっと戻ってきたね」
と、イェースズは彼らに言った。彼らは今度は、イェースズに抱きついてきた。
「先生こそ、ありがとうございます」
「でも、一番感謝申し上げなければいけない御方がおられるよ」
イェースズはその場にひざまずき、霊の元つ国に戻って最初の天の御父の神への祈りを捧げた。
それから、イェースズは周りの風景をさっと眺めた。そして、目の前の松で覆われた丘に目をとめた。
「無事に着けたのも、青龍様のお蔭もある。その御神体を御安置しよう」
青龍神の御神体のお供をして、イェースズは松の木の繁る小さな丘に登った。頂上は平らになっていて、大海原を目前に四方の景色がよく見えた。海には冬の弱い陽射しが、淡く光を落としていた。丘は独立したものではなく、いくつもの丘がその尾根をつながらせて次第に高くなり、遠くの山脈の方へと続いている。
「あの山を越えたら、僕たちのコタンですよ」
ウタリの説明に、イェースズもその方角を見た。イェースズの胸にも、懐かしさが込み上げてきた。かつて自分も暮らしていた村へ、ちょうど十年ぶりに戻ることになる。
「先生、早く行きましょう」
ヌプが促したが、イェースズは首を横に振った。
「もう確実にこの国に帰ってきたのだから、焦ることはない。まずはこの龍神様を祭る
ヌプもウタリも、それで不平を言うような二人ではなかった。イェースズはしばらくこの地に腰を落ち着けて、来し方行く末のことに思いを巡らせたいという感情もあった。
早速ヌプとウタリに言いつけて木の切り株の上を松葉で覆い、かろうじて風雨を防げる仮の祠をイェースズは造ってそこに龍神像を安置した。
「これは仮のもので、しばらくここに滞在して、本格的な祠をお造りするんだ」
イェースズたちは仮の祠に安置された青龍像に参拝し、それから再び周りの景色を見た。
「ここは、何という所なのかい?」
ウタリが答えた。
「ヤレコっていうんです。ちっちゃい頃、来たことありますから」
ウタリの得意な答えを聞いて、イェースズは納得したどころか驚きに口をぽかんと開けていた。
「ここが……、ここは昔からヤレコという名だったのかい?」
「昔から?」
ウタリは首をかしげたが、イェースズは満足げにうなずいていた。
「そうか、ここがタネコのヤレコの港だったのか」
「何ですか? それ」
ヌプが、首をつき出すようにして尋ねた。
「前にミコ様からお聞きしていたんだよ。太古にこの地の
見わたしても、あまり人影もない静かな土地だ。ただ、今立っている丘の丘の南側にちょっとした幅の川を中心に平らな土地があって、そこに集落があるのが見えた。わらを三角錐に積み上げた竪穴式住居だ。
「とりあえず、あの村に行こう」
イェースズはヌプたちを促し、松林の中の道を丘の下へと降りて行った。
日はすでに傾きつつあった。
村に近づくと、何人かの人々が外で煮炊きものを始めていた。先が尖った土器を
イェースズたちが近づくと、二、三人の男が顔を上げた。イェースズはニコニコして近寄っていった。顔を上げた男が、イェースズに尋ねた。
「旅の方かね?」
イェースズは笑ったまま、うなずいて答えた。
「はい。でも、わけがあって、この土地にしばらく住みたいんですけど」
「ああ、いいよ。どこに住もうと自由だ。海も山も、みんなカムイのものだからね」
やっと、ヌプやウタリにも解せる言葉での会話を、イェースズがしている。
「ありがとうございます」
イェースズはまた、笑顔を見せた。当たりを見回して見ると、集落の背後には川のほとりに森があって、その中に池があるようだ。近寄ってみると、池の中には島があった。島とはいっても一ヶ所だけ堤のような細い道で、周囲の岸とつながっていた。
「あの島へ、行ってみよう」
イェースズが促して、三人で細い堤を渡り、島の上に立った。ちょうど竪穴式の家が一軒建つくらいの広さだ。
「ここにしよう」
と、イェースズは自分たちの仮の住まいを立てる場所を決めた。
「前にこの国にいた時に、ちょうどこんな池の中の島のお堂に四十日も籠もって修行した。池の大きさといい島といい、すごく似ているから懐かしくなってね」
そう言ってから、イェースズは声を上げて笑った。その時、池の外から彼らを呼ぶ声がした。
「一緒に、食事をしないかあ?」
イェースズたちは微笑んでうなずき合い、その言葉に甘えることにした。そして、一つの家の中に通された。土の床で、中央に炉がある。それを四人の家族が囲んでいた。
「遠い所から来なさったのだろう?」
長老のような長い白髭の老人が、イェースズにそう尋ねた。頭には、図柄の入った太い紺色の鉢巻をしている。
「その赤いお顔や高い鼻は、このへんでは見かけんからのう。ヤマトの方じゃな」
とりあえずイェースズは、そういうことにしておいた。とにかく、海を渡る前に通ったいくつかの村と違って、言葉が通じるのが嬉しかった。しかしそれだけではなく、やはりこの国は霊の元つ国だけあって人々の霊性が違うらしい。太陽の直系国の住民らしく、どこまでも陽気なのだ。
そこを辞して出てきた時は、もう暗かった。夜になると、まだかなり冷える。そこで島に戻るまでの間に木々の枝を拾い、島に戻ってから焚き火をして暖を取った。まだ住む場所を決めただけで、そこには何も建っていない。
「今、何月なのだろうか」
イェースズがぽつんとつぶやくと、ヌプがしたり顔で言った。
「さっきのおじいさんに聞きましたよ。今日はケサリ月のコモリム日ですって」
つまり、この国での二番目の月の二十六日であり、ユダヤではちょうどこの年はユダヤ暦でのうるう年で第十三の
また、池の外で誰かが呼ぶ。見る突先のイェースズの家族の若い男が、抱きかかえきれないほどのわらを持ってきてくれていた。これで、暖をとれというらしい。
「いやあ、至れり尽くせりだね」
イェースズは心の中で瞬時に、神に感謝の祈りを捧げた。
そして翌日は一日がかりで、家を建てた。まず、竪穴を掘り、拾ってきた木材で柱を立てた。わらは、村人たちがいくらでも提供してくれる。そして夕方までには、こじんまりとしたやはり円角錐の新築ができあがった。やはり大工の息子としての血が流れているようだ。
次の日からは、青龍神を祭る祠に着手した。何日かかかって建築を進めているうち、イェースズは作業中にふと、
そして二ヶ月ほどかかって、祠がやっと完成した。新しい祠に青龍神のご神体を御安置すると恭しく三人は拝し、村人たちも段々参拝するようになった。
「いやあ、有り難い。村の護り神にしますだ」
長老は涙を流さんばかりに喜んで、イェースズの手をとった。そんな村人とも別れて、イェースズたちはいよいよヌプたちの故郷に向かうことになった。
道はすぐに山間の谷間となった。両側の山ともに緑が生い茂る低い丘で、ほとんど木々のトンネルの中を道は続いているようだ。なにしろ海からちょっと歩いただけで、風景が一変する。そのことは、かつてもイェースズは感じていたことだった。そして自然たるや実に優美であり、繊細なのだ。雄大さや猛々しさはないが、包み込むような優しさがある。
今歩いている道は超太古においてはヤレコの港から分霊殿へ向かうメインストリートだったのだろう。今でこそ細い道になっているが、かつてはかなり整備された街道であったはずだ。その痕跡は、ほとんどといっていいくらいにない。
緑がまぶしい。こんなにも自然が美しい国は、ほかにないだろうとイェースズは実感していた。なにしろ山という山が、すべて緑に覆われている。この国の人々にとっては当たり前のことかもしれないがそれまで岩山や砂漠を見続けてきたイェースズの目には、とても新鮮に映っていた。
一日目は野宿だった。食料となる木の実や小動物もふんだんにある。このままあと二日も歩けば、まずウタリの村に着くはずだという。
翌朝、左前方の小高い山に、イェースズの目がとまった。一瞬ピラミッドかとも思ったが、どうも違うようだ。しかし、何かしら神聖な霊気が漂っている。
「登ってみよう」
と、イェースズは言った。
中腹から上は、松林だった。そこからさらにかなり登ると、平らな空間があった。頂上はまだ上だ。その空間には三ツ股に別れた一本の木があり、その股の部分に水がたまっていた。
「これ以上登るものは、これで手を洗えということかな?」
冗談半分に笑いながらイェースズは手を洗い、ヌプやウタリも従った。そうしてからさらに上に登っていったが、登れば登るほどますます霊気を感じる。そして、もうすぐ頂上という解きに、また平らな土地に出くわした。さっきより広く、その中央にはほかよりもひときわ高い松の木が三本生えていた。
イェースズはその松の前に歩み寄った。すると突然電流にも似たショックが、体中を書けぬけた。そしてはっきりと、内なる声を聞いた。
――この山こそ太古、
ハッとはじけるものが、イェースズの中にあった。すべての神聖な霊気のわけが、ようやく分かった。
途中、空堀のようなところを渡って頂上にたどり着くと、そこには小さな円墳があった。イェースズは
それが終わってあたりを見わたすと、ちょうど山の南側だけ樹木が生えておらず、重なる山々や遠くに横たわる山脈と海などが一望に見渡せた。
「この国はちょっと歩いただけで、このような遺跡に次々に出会うなんて、本当にすごい国だな」
イェースズは誰にともなくつぶやいていた。
谷あいの道も、進むうちに高度が増して登り傾斜となってきた。やがて峠道となり、その峠を越えた時に目の前に谷に沿った細長い村が展開した。そしてイェースズにとって、上陸以来はじめてはっきりと記憶にある馴染みの風景がそこに展開した。そこがウタリの故郷、キムンカシ・コタンだった。丸木柱の頑丈な家、屋根の急傾斜、紋様入りの合わせ着と鉢巻きの人々……イェースズにとっても何もかもが懐かしかった。だが、当のウタリの気持ちを察すると、自分が必要以上に懐かしがるのはウタリにとってすまないという気さえしたイェースズは、ただ温かい微笑をウタリに向けた。
村に入ると、そこに居合せた人々はウタリの顔を見て驚いて手を止めた。
「あれまあ、あの
「おお、おお、元気かね」
口々に声をかけてくる人々に、ウタリはいちいち微笑を返していた。そして、山の方へ坂を登った所にあるウタリの家に続く土の階段を、ウタリが先頭になって登った。庭にウタリの母の姿があった。
「
ウタリがひと言呼びかけると、ウタリの母は最初きょとんとして突っ立っていた。そして少ししてから、
「いやあ、おったまげた」
と、声を上げた。そしてウタリの本当の名前を呼んだ。
「何でまあ、突然帰ってくるし、それに、母ちゃんより背も大きうなって」
ウタリの母は目にいっぱい涙を浮かべ、しばらくは成長した我が子を見ていた。それでも、元気そうだった。イェースズが初めてここに来た時の、あの熱病で瀕死の状態だった気配はもう全くない。あれから十年近くたっているのに、むしろ十歳は若返ったようだった。
「あの、こちらがあの時のあの先生かね?」
ウタリの母は涙をぬぐいながらイェースズを見て、ウタリに訪ねた。イェースズは笑って会釈した。
「お久しぶりです」
イェースズとて二十歳そこそこだったのが、今では三十歳を越えている。そしてあのころと違い、今は髪も伸び、顔はひげで覆われていた。
「ま、どうぞ、中へ」
中に通されて、しばらく母は外で何かしていた。それは彼らの夕食の支度だった。
「せがれがお世話になりまして。で、今まではどちらに?」
「はい、私の生まれた国に行っておりました。息子さんとヌプはあとから追いかけてきたのですが」
「西の果ての国だよ。帰りは途中を船で来たから一年くらいで帰ってきたけど、行く時は歩いて行ったから三年か四年もかかった」
と、ウタリが口をはさんだ。
出された夕食は温かい獣の肉入りのスープで、それが旅の疲れを癒してくれた。それを共に食べながら、
「先生。しばらくはこの
と、ウタリが聞いた。
「いや」
イェースズは首を横に振った。
「明日、出発する。ヌプの村にも行かないとね。あなたはここに残って、しばらくお母さんのそばにいてあげることだ」
「そのあとは? まさか、ヌプの
「先のことは分からない。ただ、一つだけ言えるのは、もう私は少なくともこの土地を離れたりはしない。この土地のどこかの村にはいる」
「本当ですかあ?」
やっとウタリの顔がパッと輝いた。
翌朝早くにウタリをおいて、イェースズはヌプとともに出発した。やはりウタリは、母としばらくいっしょにいられることが嬉しいようだった。
キムンカシ・コタンを出てから南に向かってさらに谷あいの道を進んだ。そして昼前にはヌプのオピラー・コタンにたどり着けた。ヌプの父の祭司も元気だった。
「おお、帰ってきたのか」
と、ヌプの姿に目を細め、イェースズには頭を地につけんばかりにして礼を言った。
「本当にもう、息子がお世話になりました」
「いや、こちらの方こそ、いろいろと助かりましたよ」
イェースズはどこに行っても、太陽のような笑顔を忘れずにいた。
翌朝早く、イェースズはヌプとともに村の周辺を散歩した。かつてもここで、まだ少年だったヌプとこうして歩いたこともあった。
生涯の中でもう一度同じような場面が巡り来たことが不思議であったし、それだけで感無量だった。しかも、同じ二つの場面の間には、おびただしい出来事がはさまれている。
「先生」
ふと、ヌプが声をかけてきた。
「先生は、これからどうなさるおつもりですか?」
やはりヌプも、ウタリと同じことが気になっていたようだ。少し間をおいてから、イェースズは歩きながら遠くを見つめて言った。
「実は、独りで行きたい所があるんだ」
「独りで?」
「あのムータイン・コタンのそばのトバリ山に、
「我われ一族のヌサとは違う形の、あの祠ですね」
「それは、超太古の
「独りでって言われるからまたどこか遠くに独りで行ってしまわれるのかって心配しましたけど、そんな近くなら安心しました」
ヌプが笑うと、イェースズも笑って視線を山の上へと這わせた。
緑に覆われた山々を見ながら青い空と熱い日ざしを満身に受け、ゆるい上り坂をイェースズは登った。左手は崖となって落ち、下は谷川の小さな激しい流れだ。やがて山あいも切れ、なだらかな起伏の波を短い草が覆う高原へと出た。
その高原を遠くに横たわる連山を見ながら歩いて行くと、やがてムータイン・コタンに着く。この島国では、地平線というものを見ることは不可能なようだ。故国を離れて以来初めて独りになったイェースズは、足早にムータイン・コタンへと向かった。
イェースズはまだ、自分が再びこの国の土を踏んでいるということが夢のように思われてならなかった。懐かしい空気を吸いながら、酩酊感さえ感じる。故国での自分が、遠い存在のようにも思われてくるのだ。そして、それよりももっと遠い過去であったはずのこの国での出来事が、今や現実となって目の前に再展開する。
やがて山の間に、三角錐のトバリ山が見えてきた。相変わらずの霊気にイェースズは息をのんだ。
そしてムータイン・コタンに着くと、やはり人々は温かかった。イェースズは昔世話になった、この村の祭司を訪ねた。あいにく本人は不在で、応対に出たその妻にもてなされながら待つことしばし、戻ってきた祭司はイェースズのことをよく覚えてくれていた。また昔のように世話になりたい旨を告げると、祭司は快諾してくれた。
翌朝、イェースズは出かけた。村を見渡すと、広い草原に点在する家、樹木、池、そしてその周りのシダの葉の群生など、かつてイェースズがここをエデンの園だと思ってしまった要素がまだそのまま残っている。その村全体を静かに見下ろすトバリ山の麓の祠に参拝すべく、全身に霊圧を感じながらもイェースズはトバリ山に近づいていった。
もはやここは村はずれで、人影はない。記憶を頼りに探した祠はすぐに見つかって、イェースズはその前で額づいた。そして再びここに来て参拝させて頂けたことに、感激の涙が込み上げてきた。かつては五色人が集い、全世界からの参拝者であふれたであろう分霊殿だが、今は見下ろすほどの小さな祠だ。だがイェースズは、十分に承知していた。現界では朽ち果てたような小さな祠が、その場の霊界では巨大な黄金神殿だったりするのだ。
そこから少し離れた所にある
その時、イェースズの魂に衝撃が走った。いつもの御神示が下される時の衝撃だ。イェースズはその場にかしこまった。ゆっくりと、肉耳ではなく魂に直接響く声が告げられた。
――神霊界の秘め事、汝に一つ聞かさん。裏の裏の
久々の御神示に、イェースズは身を震わせた。そして、
この国に戻ったことを師に告げねばならないのも道理と思い、イェースズはすぐに決断してそれを実際行動に移した。翌朝、イェースズは早くもムータイン・コタンを離れる旨を祭司に告げた。
ムータイン・コタンを出発した時は山の木々の緑などは色濃く、夏の匂いを感じさせる頃であった。
イェースズはヌプ、ウタリをそれぞれのコタンから呼び寄せて、ミコのいる
ミコのいる
イェースズは船の
そのまま何日かが経過したが、陸地伝いなので景色を楽しみつつの航海で、退屈はしなかった。一度だけ岬の先を回ったが、あとはまっすぐな海岸線だった。右手に大きな島も見えたりした。さらに十数日が過ぎ、もうすっかり夏本番という頃になって、ようやく巨大な山脈がそのまま海にな誰落ちている地点を通過した。海のすぐそばまで天を突くような山岳が迫っている。
ここは、陸路なら最大の難所だ。そしてそこはイェースズが歩いて越えた記憶もある場所で、そこを越えたら目指す
いよいよだ。イェースズは慣れた手つきで櫓を漕ぎ、船を左の岸へと近づけつつ、ヌプ、ウタリに笑顔を見せた。十年ぶりに見るこの景色に、イェースズの心は高鳴った。
上陸してしばらく行くと、山に囲まれた平地に広がる草原の遥か彼方に横たわる小高い丘が見えてくるはずで、それが
ところが、そんな記憶はすぐに破壊させられた。松林が切れて目の前に展開されたのは、草原ではなく一面の水田だった。青々とした稲穂が水面に影を落とし、風にそよいでいた。
一瞬、上陸地点を間違えたのかと、イェースズは思った。ヌプやウタリも、目を見張っていた。ヌプたちの民族のいる北の国なら水田はあるが、この地方の人々はまだ狩猟生活をしていたはずだ。この平地の西の、半島の先まで連なる山並みの峠の向こうでないと、水田はなかったはずだ。十年という歳月が、こうも景色を一変させていた。
「先生、村があります。行ってみましょう」
と、ウタリが言うので、イェースズはうなずいた。近づいてみるとその村は見慣れた竪穴式のわらを円錐形に積み上げた家ばかりでなく、高床式の住居や倉、物見の櫓まであって、村全体が柵で囲まれていた。
そしてその柵からイェースズが一歩村に入るやそこにいた人々はイェースズを見てさっと道をあけ、両側にひざまずいて二拍手を打ち鳴らし、イェースズを迎えた。人々は皆、白い環頭衣を着ていて足ははだしだった。ヌプとウタリはその奇妙な風習に驚き、途惑いを見せていたが、イェースズには覚えのある風習だった。
「
一人の老人に訪ねられ、イェースズは、
「おう!」
と、答えてから、
「この村の
と、言った。それはヌプたちとの会話で使っている言葉とは違う、イェースズが久しぶりに使うヤマトの言葉であった。
案内された高床式に建物の
イェースズは、もはや驚かなかった。笑顔でヒコはイェースズに座を勧め、
「いやあ、ようおいでなさった。ヤマトから来られましたのかな?」
日本国は黒い髪と黄色い肌の紛れもないこの国の人だったが、流暢なヘブライ語を話した。そこでイェースズは、いきなりきり出した。
「この近くに
「さあ」
ヒコは首をかしげたが、イェースズは地形を説明すると、やっとうなずいて、
「ああ、
と、言った。
「今は、そういうのですか? でも、確かにあるんですね」
「あ、あ、ありますけど」
ヒコは、少なからず狼狽していた。しかしイェースズは、あえてその先を言った。
「そこへ行ってみたいのだが」
「な、何ですって? いったい何をしに行かれるのですか?」
ヒコの腰を抜かさんばかりの様子を見て、イェースズは不思議でならなかった。その想念を読み取っても、何かを隠しての演技ではないようだ。さらに、声を落としてヒコは言う。
「あれは、
「そんなあ」
イェースズはわけが分からなくなった。
「この地方じゃ、知らない人はいないですだ。話題にすることすらはばかられます。とにかく、あの山はいけません。仮に生きて出られたとしても、あの山に入ったものはたとえ
「処罰って? 誰に?」
「この
昔にイェースズが初めてこの国に来た時、上陸地点はコシの国といっていた。今は、このあたりまでコシの国になっている。ただ、この地方の古い呼称は「
とにかく、行ってはいけないというということは、絶対に何かがある。しかも、そここそがイェースズの今回の旅の目的地、
イェースズは村を辞して、とにかく
水田の間の道をだいぶ進んでいくうちに、川に出た。見覚えのある川だ。そしてその川の向こうに、紛れもない
そして手前の川のほとりに
ただ、川の土手の上に上がってもう一度あたりを見わたして見ると、一面の水田の中の一角に空き地があった。そこでヌプやウタリを促してそこへ行ってみると、何やら建造物の跡らしきものがあった。もはや礎石のみが残っているといってもいいようなものだった。
それを見てもしやと悪い予感がしたイェースズは、記憶をたどってある方向に歩いた。果してそこには片葉の葦が繁り、それをかき分けて進むと赤い水の池が忽然と現れた。
イェースズは、大きく息をのんだ。池の中央にあったはずの四角四面の赤池白龍満堂は、跡形もない。そこに十日間も籠もり、神啓接受した場所なのだから間違えるはずはなかった。すると、先ほど見た建物の跡は、位置関係から間違いなくメドの宮だ。
一瞬呆然としたイェースズだったが、メドの宮がこうなっているということは
山の入り口は木の枝や幹などで入れないように道が塞がれていたが、三人ともそのようなものはお構いなしに一気に飛び超えた。山の上に続く杉木立の間の昇り坂は、昔のままだった。そこを三人は駆けた。道が右に旋廻し、その先の長い石段を登ると、太古の巨大神殿のわずかな名残である小さな
だが、何もなかった。何かあった形跡だけはある。しかし
イェースズはただ呆然とし、肩で息をしながらしばらく無言で突っ立っていた。ところがまだ何も思考が働かないうち、右前方で音がした。
見ると木の水桶を足元に転がした若い娘が、おびえきった表情でイェースズたちを見て立っていた。この山は誰も入ることが許されないはずなのにと不審に思ったイェースズは、ともかくもその娘の方へと歩いていった。
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