4、アーンドラの懐かしい人々

 航海は穏やかだった。今度は大海を横断するでもなくほとんど陸地沿いの航路だったが、夜ごとに停泊しながらの船旅は数ヶ月に及んだ。本来ならもうそろそろ秋も深まって涼しくなる頃だが、船の上はいつまでも暑かった。冬のない地方を、船は航行している。

 最初は船から見える大地は赤茶けた砂漠で全く山ははなく、遠くは鮮やかな地平線が続いていた。

 何か月かののち東へ向かっていた船が陸地沿いに南下するようになると、緑鮮やかな大地が横たわるようになった。遠くに緑の丘陵も横たわって見える。

 そのうちまた船は海岸沿いに東に向かい、再び北上するころには、陸地はまた山もない平らな大地となった。

 砂地が基本だが緑もある。だが、海岸線はずっと長い砂浜だった。

 ここはイェースズにとって二十年ぶり近くに再度訪れる国である。今この国は雨季が終わって乾季に入ろうとしていた。国土全体がいちばん緑に覆われる時期だ。これが完全に乾季になってしまうと、赤茶けた大地になる。

 イェースズの故郷のユダヤの地では冬が雨季だが、ここでは逆で冬が乾季である。冬といっても少し涼しいくらいで、ユダヤの夏と変わらない。そんな新緑の中の港に、船は滑り込もうとしていた。長かった船旅だが、ようやく終着点に着こうとしていた。


 イェースズの少年時の記憶が甦った。あの時も上陸したのは、確かこの港だった。上陸したら、今まで行ってきたどの国のどの港よりもかまびすしい喧騒と町全体の体臭に包まれるはずであることは、イェースズが過去の記憶を手繰り寄せればすぐに分かることだった。

 港が近づいてきた。すると黒い波がうごめいているようにしか見えなかった人の群れが、陸に張り付いているのが見えてきた。

「ひえー、あれが全部人間なの?」

 ヌプもウタリも、速度が落とされた甲板から人の群れを見て、あらためて目を丸くしていた。

 思えばもう十七、八年も前になるが、その頃に来た懐かしい町へ、船は近づいていく。町並みも風景も年月が彼の頭の中から記憶を取り去ってしまってはいたが、それでも初めて来る町とはやはり感覚が違っていた。

 上陸すると果して多くの物乞いの子供たちにたちまち囲まれ、何本も差し出された黒い腕にヌプやウタリはすっかり怯えてしまっていた。そんな人ごみの中を泳ぎながら、イェースズはヌプやウタリの腕を引っ張って歩いた。

 町はずれに出るまで、ずいぶん時間がかかった。そこで人を乗せている象を見た時、イェースズの中にかすかな記憶が甦った。初めて来た時もこのカリンガ国は雨季が終わってちょうど緑が全土を覆う季節であったが、奇しくも今まさにそれと同じ季節にイェースズは再びこの国を訪れたのである。

 色とりどりの花が咲き乱れる丘の麓を回ると一面に水田が広がり、牛がのんびりと時間を流していた。その水田を見た途端、ヌプもウタリも歓呼の声を上げていた。彼らにとって水田は、郷愁をさそう自分たちの文化に属するものなのだ。そんな二人の様子に微笑みながら、イェースズはさらに郊外に向かって歩いて行った。行き先はもう決まっている。だからこの町では、宿を探す必要はなかったのだ。

 そのイェースズが目指している場所は、すでに見えていた。街はずれにそびえる白亜の宮殿で、そこへ行く道のりの記憶が確かだったことに、イェースズは自分自身で安堵していた。

 いざ宮殿に近づいても、白い柱に宝石を散りばめた門、きらびやかな装飾には確かに記憶はあったが、それでも細部まではとなると初めて来たような感は拭い得ない。

 ヌプとウタリは呆気にとられてその宮殿を見ていたが、なぜイェースズがこのような所に自分たちを連れてきたのかいぶかりはじめていた。

「ローマ人か」

 イェースズたちを見ると、頭に布を巻いた門兵のクシャトリヤが立てた槍を手に尋ねてきた。

「はい。こちらにラバンナという方がいらっしゃるはずですが」

 本当に十数年ぶりに使うこの国の言葉だったが、思った以上にすらすらと出てきた。

「それはわれわれの王だが、王とお知り合いか」

「友人です。といっても彼これ十五年以上も前の話なので、覚えておられるかどうかは分かりませんが」

「そうでありますか、一応、伺って参りましょう」

 王の友人と聞いて、門兵の態度はかなり柔らかくなった。

「お願いします。ユダヤのイェースズと申します」

「ユダヤといえば、ローマ帝国のユダヤでありますか。しばらくお待ちを」

 イェースズはできる限りの笑顔を作って見せた。門兵二人のうち、一人が中に消えた。だいぶ待たされてから、門兵は戻ってきた。

「とりあえずどうぞ、ということです」

 そう言われて、イェースズたちは中に入った。廊下も天井もまばゆいばかりの宝石だらけで、床は大理石だった。こぢんまりとしている宮殿だが、ヌプやウタリを興奮させるには十分だった。中庭には四角い池があり、その中にををとり囲む二階はすべてバルコニーとなっていた。王の部屋に上る階段には赤い絨毯が敷かれ、それを上がってイェースズは召使いに導かれて王の部屋のドアから入った。

 少年イェースズをこの国に連れてきた王子ラバンナは、イェースズより少し年上のお兄さんといった感じの青年だった。だが、入った部屋の正面の椅子に上半身裸で座っていたのは、中年の大人だった。それでも顔つきに、そういえばという面影があった。

「おお」

 ラバンナが立ち上がるので、イェースズは自分を思い出してくれたものと嬉しくなったが、ラバンナはイェースズの方に歩み寄ると床にひざまずいた。

「あなたは、ローマの賢人でおられるな。ようこそおいで下さった」

 恭しく礼をし、ラマースはイェースズを見あげた。

「わざわざこのような所にお越し頂いたのは、いったいどういうわけで? 十五年前といいますと、私がよくローマ帝国領に交易に赴いておりましたが、その時にでも?」

 ラバンナの想念を読み取っても、実は彼が自分を思い出したわけではないことをイェースズは知った。

「どうぞ、お立ち下さい」

 イェースズはラバンナに立つよう促してから、ニッコリと笑った。

「私をお忘れですか? 遥かエルサレムの地であなたと会い、ガリラヤの田舎から私をこの国まで連れて来られたのはあなたではありませんか」

 しばらくラバンナはぽかんとイェースズを見ていたが、やがて声をあげた。

「ああ、あの時の!」

「はい。あの時はまだ、十三歳でした。あなたは私をジャガンナス寺院にシャーミーとして入れてくれました」

 ラバンナはしばらく言葉を忘れていたようだが、イェースズはニッコリと笑った。

「いやあ、驚いた。見違えましたぞ。あの時の少年の面影は、全くない。立派な聖者の風格そのものだ。あなたがここに入って来た途端に、本当にまばゆい光がパーッとさして部屋中に充満したので、てっきりローマの聖賢だと思ったのですよ。門兵も、ローマから来た人と告げましたのでね」

「本当のローマ人は、こんな赤茶けた顔はしていませんよ」

 イェースズは大声で笑った。ヌプとウタリはまた言葉が分からないので、ぽつんと突っ立っていた。

「そうですか。いや、そうですか。それは懐かしい。今夜はゆるりとお休み下さい」

 三人は、一つの部屋に通された。天蓋つきのベッドが三基用意されている。部屋の外はバルコニーで、中庭の池が見下ろせた。池の水面には蓮の葉が浮かび、所々で花が首を伸ばして満開に開いていた。その部屋で三人とも、数ヶ月の船旅の疲れでとりあえず晩餐の時間まで熟睡した。

 

 晩餐で出たのは香りと色のついた茶で、イェースズにとって懐かしい匂いだった。そして、テーブルの上には肉や果物など、色とりどりの料理が並ぶ。黄色く辛い液状のソースで、ここの人たちがおいしいものターカリーと呼ぶものには、はじめはヌプたちも驚いていた。手づかみの食事にも抵抗を感じていた二人だったが、すぐにもそれに慣れたようだ。左手のひじだけ卓上について手は隠す習慣はイェースズも忘れておらず、それをヌプたちにも伝えた。

「そうですか、そうですか。あの時の少年が……」

 ラバンナは、まだピンとこない様子でいた。

「あなた様こそ、今は?」

「そう、あの時はまだ王子でしたけど、王であった私の叔父が亡くなって、子がなかったので私が継ぎました。まあ、ご覧のとおり王とはいっても小さな領地の領主、この宮殿のあるじにすぎないただのマハー・ラジャーですけどね」

 ラバンナは少し苦笑したが、逆にイェースズは神妙な顔をした。

「そういえばあの時は、私はせっかく入れて頂いたジャガンナスを飛び出してしまったんでしたね」

「そうですよ。あの時は、あとが大変だったんですから」

 と、ラバンナは笑って言った。

「我が宮殿にも寺院のバラモンの圧力がかかりましてね」

 イェースズは神妙な顔のままだった。

「それは、ご迷惑をおかけしました」

 イェースズが頭を下げるので、ラバンナはまたひときわ大声で笑った。

「そんなもう大昔の出来事で、済んだことです。さ、どんどん召し上がって下さい」

 勧められるままに、イェースズたちは料理を口に運んだ。酒も出た。

「明日は、ジャガンナスでも見物してきたらいかがですかな。もう、あなたのことを覚えているものもいないでしょう」

「ジャガンナスといえば、一つお伺いしたいんですが」

「何でしょう」

「あの寺院で私といっしょにいたラマースというシャーミーをご存じないですか? あの頃はシャーミーでしたけど、今ではもうそろそろ、サマナーになる頃だと思いますけど」

「ラマース……」

 ラバンナはしばらく絶句した。イェースズもそうだった。ラバンナの想念を読み取ってしまったのだ。そうとも知らず、ラバンナは口を開いた。

「彼は、亡くなりました」

 ラバンナはあえてそれしか言わなかったし、またそれ以上は言うつもりはないようだった。だがイェースズは、ラバンナの想念からすべてを知ってしまい、涙を抑えることもできす、料理に出していた手も止まってしまった。

「そうか、ラマース。そうだったのか」

 今まで、十五年以上も知らずにいた事実だったが、ヨシェだけではなくもう一人犠牲の小羊の上に、自分の生命は与えられていたのだった。少年イェースズを殺そうと暴徒と化したバラモンたちの手にかかって、イェースズになりすましたラマースはイェースズの身代わりとなって命を落としていたのである。

 ヌプとウタリは言葉が分からなくても何か深刻な事態になったということだけは知って、二人とも料理を口に運ぶ手を止めていた。

「私は」

 と、やっと顔をあげてイェースズは言った。

「私はこの国を離れてから、もっと東の国へ行って修行をしていました。そして一度故国へ帰国したのですが、今はその東の国へ戻る途中なんです。故国ではローマ兵が私を捕らえ、私は殺されることになった。でも、私は……私は、今……生きています」

 イェースズは嗚咽しながら、また顔をあげた。

「死刑の判決を下された私は、尊いある犠牲の上で死に打ち勝ったんです。故国で私は神様のミチを説き、それは今後故国だけでなくギリシャ、ローマにも広がっていくと思います。それは、千金の重みを持つ人類の財産なのです」

 イェースズの話に、熱が入ってきた。


 翌日、イェースズはヌプたちを連れて、ジャガンナスに赴いた。寺院の門前は相変わらず雑然としていて、人々でごった返していた。祭りの山車だし用の車も広場の隅に安置され、シカラがいくつも、青い空に向かってそびえていた。

 イェースズは満身にエネルギーを満たし、ジャガンナスの寺院に向けて両手をかざした。ジャガンナスの霊界が、目に見えない黄金の光で満たされていった。

 イェースズは、ありったけの想いをこめて手をかざした。そこにあるのは過去の自分と、そしてラマースの思い出だ。そのすべてを浄化しようと思った。ラマースの霊の救われを、イェースズは祈らないではいられなかったのである。

 二、三日逗留したあと、イェースズはラバンナの宮殿を辞すことにした。出発の朝、ラバンナは宮殿の入り口にまで出てイェースズを送ってくれた。

「あなたが来て下さったのは、夢のような出来事でした。あなたは、本当は風が運んでくれた幻だったのでは?」

「いいえ、そんな」

 と、イェースズも満面の笑みで応えた。

「私は定めのない風が造ったような、架空の人物じゃありません。私の肉、骨、筋、みんなここにありますよ」

 イェースズが笑いながらそう言って、二人はしっかりと手を握り合った。

 

「再会とはいいものだな」

 色とりどりの穴が咲き乱れる草原の道を歩きながら、イェースズは言った。シシュパルガルフから港とは反対の方角の、内陸部になる北西へと向かっている。

「先生、これからどこに行くんですか? こっちは西ですよね」

 東へ帰ることばかり考えているウタリが、首をかしげながら尋ねた。

「いいんだ。また再会の感動を味わいたくてね」

 そこまで言った時またイェースズの頭の中にラマースのことがよぎり、思わず彼は口をつぐんだ。

 そのままいい気候に恵まれた旅を続けて二十一日目に、大河とともに町が見えてきた。すでにここはカリンガ国ではなくアーンドラ国で、その大都市カーシーにたどり着いたのだ。

 初めてここに来た時は、ラマースといっしょだった。二度目は、ジャガンナスを飛び出してからのことで、その初めての時と二度目の時と同じ光景が、目の前で展開されていた。人々の、大河ガンガでの朝の沐浴である。人々が水の洗礼を行っている川にイェースズは両手をかざし、火の精霊のバステスマを施した。ガンガに火のバプテスマを行って、ここに火と水を十字に結ぶカーシーでの御神業が完了したイェースズは、さらに西へと向かった。急がないと、暑熱乾季がやってくるのだ。そうなると、日中はとても旅などできる状態ではなくなる。

 イェースズが目指しているのはガンダーラのプシュカラヴァティーだった。その町はずれに、ブッダ・サンガーがあるはずだ。かつてイェースズがカーシーをも追われたあとに入門したヒーナ・ヤーナではなく、マハー・ヤーナのサンガーだ。

 かつてそこにアジャイニンというビクシューがいた。今でもそこにいるかどうかは分からない。イェースズがダンダカ山に行くと言って別れて、それきりなのだ。そのアジャイニンに、イェースズはどうしても会いたかった。

 また一カ月ほど旅をして、プシュカラヴァティーに着くことができた。すでに暑熱乾季に入ってはいたが、このあたりは高度が高いので旅には支障はなかった。あれほど色とりどりだった大地が、緑も枯れて赤茶けた砂漠に変貌している。

 このプシュカラヴァティーの町もやはり以前来たことがあるという事実のみが存在し、記憶そのものは年月がおおかた流し去ってしまっていた。だが、イェースズはだいたいの勘で、サンガーの精舎にたどり着いた。丘の上に続く道の竹林は、何となく見覚えがあるといえばあるような気がした。

 そして丘の上に昇り、パゴダと緑の広場、そこにたむろする黄色い僧衣のビクシューたちの姿を見た時、イェースズの中に一気に記憶が甦った。初めて来た時の少年イェースズはサンガーの僧衣を着ていたので、突然の来訪を誰もが温かく迎えてくれた。しかし、今ではそうではない。ましてやローマの市民服と、その赤い顔の容貌である。つれているヌプとウタリは東洋人だ。この奇妙な取り合わせの三人に、ビクシューたちはそれぞれの手を止め、好奇な視線を投げかけてきた。

 それでもイェースズは、どんどんと中に入っていった。僧たちは若い。イェースズが前にここに来た頃には、まだほんの子供であったろうものもいる。その僧たちがイェースズに近づいてきたので、向こうが何か言う前にイェースズの方から口を開いた。

「あのう、こちらに……」

 ところが、その言葉の途中でイェースズの背後から声がした。

「おお、あなたは」

 自分を知っているものがいたのかとイェースズが振り向くと、そこには確実に懐かしい顔があった。

「アジャイニン!」

「おお、やっぱり。あなたはイッサではありませんか」

 懐かしい名前を呼ばれた。二人は満面の笑みで互いに手を取り、躍り上がった。

「しかし、よく分かりましたね。私だって」

「面影がありますよ。だけど、見違えるようだ。全身から光がさしている」

 そう言うアジャイニンも昔の青年の面影を残しつつも、もう中年のたくましい体格になっていた。

「お互いにおじさんになってしまった。あれからもう、どれくらいたちますかな?」

「十五年ぶりですよ」

 笑いながらのイェースズの返答に、その肩をアジャイニンも笑顔で何度も叩き、それからイェースズを精舎の中へと招き入れた。するとビクシューたちは一斉に、アジャイニンに頭を下げた。それを見たイェースズは、

「おや、もしかして……」

 と、言った。アジャイニンはまたニッコリと笑った。

「一応、私が今はこのサンガーの長老なんですよ」

 イェースズと縁のあった人たちは、今もそれぞれに活躍している。ここは精舎だけに晩餐でもてなすというわけにはいかないだろうが、アジャイニンとの歓談がイェースズにとっては最大のもてなしだった。周りの竹林がざわめいて、涼しい風が入ってくる。

「そういえばあの時イッサは、ダンダカ山に行かれたのでしたね。カララー仙の子孫という方にはお会いできたのですか?」

「ええ。お蔭様で」

 そのダンダカ山ではカララー仙の子孫のアラマー仙のみならず、もっとすごい存在との邂逅があったのだが、イェースズはそれはあえて言わなかった。

「私もあの時は何も知らずに、あんな山に行っても何もないなんて言ってしまいましけど、お恥ずかしい話なんですが、私はその後であそこにカララー仙の子孫がいらっしゃるということを知ったんですよ。それをすでにご存じだったあなたは、さすがだなって舌を巻きましたよ」

「いえ、そんな」

 イェースズは照れて笑った。

「それで、あの当時の長老と私とでダンダカ山に行ってみたんですけれど、そのカラマー仙のご子孫はもうお亡くなりになってました」

「え?」

 しばらく互いに沈黙があったああと、

「そうでしたか」

 と、だけイェースズは言ってうつむいた。これで当初はこの足でダンダカ山にとも思っていたが、その必要はなくなってしまったことになる。

 イェースズは目を上げた。

「あの方は、偉大な方でしたよ。本当のブッダの教えを継承されている方でした。私はあの方のお蔭で魂をも浄められ、そしてそのままここへは戻らずに東の方へと旅をして、東の果ての国で修行して故郷へ帰っていったんです」

「うらやましい」

 と、パッと目を上げて唐突にアジャイニンは言った。

「皮肉なものでしてね、私は今は長老としてこの精舎を預かる身ですけど、あなたは自由だ」

「いえ、あなたこそ毎日ブッダの法の中で暮らしておられる」

「でも、時々虚しさも感じるんですよ。もっとも、ビクシューたちにはこんなこと言えませんけどね」

「お気持ちは分かります」

 イェースズは一旦言葉を切ってまたうつむいたが、すぐに顔をあげた。

「宗教というのは、究極は救いの業ですからね。政治も医学もすべては救いの業ですから、目指す頂上は同じだと思いますよ。その中でも宗教は、最も霊的な救いの業にならなくちゃいけない」

「そう、そこなんですよ。世尊バガバッドの霊的な救いの力が、このサンガーにどれだけあるのか」

 イェースズは大きくうなずいた。

「ほう、サンガーの長老のあなたの口から、そんな言葉が聞けるとは」

「あなただから言うんですよ。経文スートラにしたって、全部世尊バガバッドの入滅後、数十年もたって書かれたものでしょう? ご存知の通り、その世尊バガバッドの残した教団は、今や真っ二つに割れています」

「ヒーナ・ヤーナとマハー・ヤーナのことですね。宗教が霊的救いを失ったら、それは形骸ですよ。もっとも神様のご計画上、今は人類が神様から離れすぎないように歯止めを掛けていればいい時代ですけれど、そうは言っても宗教はそれぞれの宗門護持、伝統護持ばかりに終始して、救いを忘れて、神様を祭り上げて利用することばかり考えているとしたら、とんだ神様へのお邪魔になると思うんですが、いかがですか?」

「全くその通りですね」

 アジャイニンは、大きく何度もうなずいていた。

「同感です。真理はやはり、宗門宗派を超越したところにあるんじゃないでしょうか」

 イェースズは再び、アジャイニンの手をとった。

「私は故国で頑迷な宗教者たちのために、命を奪われる直前にまでいったんです。夢の中じゃなくて、現実の話ですよ。それなのに、宗教者の中にあなたのような方がいらっしゃると聞いてとても嬉しく思います」

「でも、私の考えは、間違っていないでしょう?」

「もちろん。間違ってなどいませんよ。それこそ、ブッダが主張されていたことではないでしょうか? あなたには悪いけれど、今のブッダ・サンガーで教えられていることの多くは、後世の人が書き加えたり、捻じ曲げてしまったものじゃないでしょうかね」

「でも私は、今の地位を捨てるわけにはいかない」

「それでいいんです。あなたはご自分の立場を通して、神様の御用をされて下さい。まずは宗教者ほど真理に目覚めて、霊的救いをするべきでしょう」

 そんなことを言いつつも、イェースズの心はふとガリラヤに、そしてエルサレムへと飛んでいった。今あらためて、残してきた使徒たちのことが気になるイェースズだったが、西の空を仰ぐとそのあたりの雲が真っ赤に染まっていた。


 数日の滞在のあと、イェースズは出発する旨をヌプ、ウタリに告げ、アジャイニンにも辞去の意を示した。当然引き止められたが、イェースズの微笑の中にその大役を読み取ったのか、アジャイニンも無理にとは言わなかった。

 そしてパルチア国から出航する時にラクダを手放していたイェースズたちに、また三頭のラクダを送ってよこした。

 イェースズとアジャイニンは、旅立ちの時に精舎の入り口で固い握手を交わした。

「この握手の意義は大きいでしょう。アジャイニン、あなたはあなたの立場でがんばって下さい」

 強く握った手は、アジャイニンによって強く握り返された。

「イッサ、あなたのことはこのサンガーで後々までも語り継がれていくでしょうね」

 そんなアジャイニンの言葉に、イェースズは笑みを返した。ビクシューたちもイェースズたち三人を見送ってくれた。年がヌプたちに近いものも多く、互いに言葉が通じないまでも交流を深めていたようだ。

 サンガーを後にした一行だが、イェースズはそのまま北を目指した。しばらくは平坦な、緑の多い大地を進んでいたがそれも束の間、道は次第に険しい山岳地帯へと入っていった。それも、一つの山を越せば終わりというようなものではなく、大地のひだのようにいつまでも山岳は続いた。それまでは結構親切な人が多く食料にも事欠かなかったが、いよいよ人で会うことはめったになくなってきた。

 そうなると、ヌプやウタリがどこからともなく狩をしてくる。ちょっと林の中に入っては小動物や木の実を採り、また川では魚を捕らえ、大地の恵みに何も不自由することはなかった。思えば金があれば何でも手に入り、金がないと飢え死にしてしまうよう社会は故国のイスラエルやあるいはローマくらいで、それに慣れてそれが常識だと思っていたが、巨大な地球の表面ではそのような場所はごく一部なのだ。

 だがやがて、その貨幣経済が世界中に広がる時が来るであろうことは、イェースズは十分認識していた。それがユダヤのやり方であり陰謀でもあるが、その奥の奥の奥には神御経綸上の神霊界の裏の裏の仕組みがあることもイェースズは知っていた。金、つまり通貨や貨幣がない社会は、欲望のない社会といってもいいくらいだからだ。

 この旅においてイェースズはほとんど金を持っていなかったし、持ってたとしても故国のユダヤ貨幣もギリシャ貨幣もローマ貨幣も、もはやここでは何の意味もなさない。それなのに一度も食料にありつけずにひもじい思いをしたことはない。すべてを至れり尽くせりで与えられているという感じだった。

 親切な人からの施しや、ほかは大地の恵みとして森の中から頂いた。


 道は山岳をぬけると高地の上になり、砂漠も増えてきた。夜ともなるともう冷える時分だが、彼らは焚き火を焚いてその周りで眠った。だが焚き火のせいではなく、イェースズのそばにいるだけでぽかぽかと暖かくなると、ヌプもウタリも言っていた。

 やがて、高原の道が続くようになった。その一面の草原で時々出会うのは、羊の群れを追う遊牧民たちだった。

 皆、人はよかったが、なにしろ言葉が通じない。身振り手振りでこちらの意思を伝え、相手の想念を読み取ったところ、もっと東に自分たちの民族ソンビ族の王がいるシベラという町があるという。そしてもう一つ得た情報は、もうすぐ秋が終わって冬になるので、そうなるとこのあたりは完全に氷雪に閉ざされて旅は不可能になるということだった。

 イェースズ一人なら寒暑は彼の問題とするところではない。常に神と波調さえ合わせていれば、寒暑の苦など存在しないのだ。しかし、ヌプやウタリはまだその段階に至っていない。そこで、とにかくそのシベラという町まで行こうとイェースズは思った。

 そしてもう一つ気がついたことは、土地の人々の容姿が白人しろひと赤人あかひとのそれではなく、ヌプやウタリと変わらない黄人きびとになってきたことであった。遊牧民の群れに出くわすと、イェースズはひと目で異邦人と分かるので、彼らはまずヌプやウタリに声をかけてくる。二人を同族だと思っているようだ。もちろんヌプたちとて言葉が分かるはずはないのだが、どうもシムの国が近づいてきたとイェースズは感じていた。

 シベラに着いた。集落には城壁などなく、家も皆すぐに移動できそうな天幕だった。王の宮殿とて、宮殿とはいえ外見は円形の天幕であり、周りに柵があることでかろうじて庶民の天幕とは区別されていた。イェースズは、その王に会うことができた。天幕の中には赤い絨毯が敷かれ、王も毛皮の衣服を着ていた。髭が濃く、頭髪は長い。しかも顔のほりが深いので、ヌプやウタリとは明らかに同族のように見えた。

 王の話では、シムの国はここよりも南であるという。従ってイェースズたちはシムに到着せず、その遥か北の方へと道をとってしまったのだ。しかも、王の想念を読んでの会話では、シムではかつてイェースズが訪れた時のシェン王朝はすでに滅び、その前にあったハンという国が再興しているという。都もティァンアンから別の場所に移されたということだ。

 イェースズは身振りでそこに言ってみたいことを告げたが、王はとんでもないという想念を送ってきた。このシベラとハンはずっと戦闘状態にあり、しかもそのハンとの間にはかのジェン・チャーグ・フアンが築いた長い城壁があって、それは越えられないという。

 その城壁の東の端は海に至り、西の端までは馬を飛ばしても数ヶ月かかるということだ。その想念の中の、東は海に至るということにイェースズはピンときた。南のシムに行くより、東に向かって海まで出れば、船で霊の元つ国まではすぐに行けるはずだ。もうシムに行く必要はなく、ここから真っ直ぐ東に行って海に出て、それから海を渡ればいいことになる。

 その夜は珍しい酒でもてなされ、翌朝にはもうイェースズは出発しようとした。王はひきとめ、もうすぐ冬になると何度も繰り返したが、目指す国を目の前にし、さらにヌプたちの望郷の念をも考えると一刻の猶予もできなかった。

 その王は、イェースズたちのラクダに関心があるようだった。どうもこの国にはいない動物らしい。代わりに遊牧民でありながら騎馬民族ともいえるほど、この国の人々は皆馬に乗っていた。

 イェースズの出発に当たって王はラクダと馬の交換を申し出て、イェースズは快諾した。さらに王は三人に毛皮の上着をも与えてくれた。

 ラクダよりも歩速の速い三頭の馬に乗り換えたイェースズたちは、あと一息と勇んで再び東を目指した。

 

 確かに、冬の旅は辛かった。

 一面の銀世界の中、馬の足も遅々として進まない。吹雪ともなると前進は不可能となるので、仕方なく岩陰に火を焚いて一日を過ごしたりもした。それでも東に向かう三人の顔は炎に照らされて希望に輝き、そんな時も談笑して時を送っていた。

 東進するにつれて、若干ではあるが文化の程度が高くなってきたということが感じられた。ある日出くわした村では、それまでの円形の移動式天幕ではなく石造りの瓦屋根の家が並び、その家はかつてシムの国で見たものと少しも変わらなかった。

 しかし、シムの言葉は通じなかった。それでも人々はイェースズたちが旅のものと知ると、粗野ながら丁重にもてなしてくれた。食器はまるで神に供える皿の下に足のついた高杯たかつきであり、酒を相手に注がれればそれに返杯する慣わしのようで、まず自分の杯を洗って相手に差し出し、相手は手を組んで深々と礼をしてから一歩下がって厳かに杯を差し出す。そんなうるさすぎるほどの礼節の国なのだ。その家の壁には、戦闘用の武具があった。

 村の周りは一面の平地で、遥か遠くを山が連なって横たわっているのが見える。家長が話す言葉は分からないがイェースズがその想念を読み取ると、今は雪の下になっている平地は実は麦やきびの畑なのだそうだ。しかも、この村では誰もが皆、道を歩く時に歌を歌いながら歩いているので、いつもにぎやかだった。

 それに加えて折りしもこの地方での正月らしく、村中で連日宴会となっていた。歌や舞踏も催されてにぎやかな限りであり、聞けばこの日は囚人さえ一時釈放されるという。村の人たちの服装は綿の入った上着に、下は足にぴったりとした筒状の履物だが一様に色は白だった。足には革沓かわぐつを履いていた。

「ここから真っ直ぐ東に行って、海がありますか?」

 もう一度イェースズは、そのことを確かめたかった。最初に出迎えてくれた髭の濃い家長に、身振りでそれを伝えるのに苦労した。時には雪の上に絵を描いて、意思を伝達した。それがやっと通じて家長が言うには、ここから真っ直ぐ東にひと月も歩けば海に出るとのことだった。しかしそれは夏場の話で、海までは険しい山脈を越え、さらに別の国を通過しなければいけないとのことで、彼はイェースズたちをなかなか出発させようとはしなかった。

 半月ほどして、もうこれ以上雪は降らないという頃になったということで、イェースズたちは旅立つことにした。村中でイェースズたちを送り出し、家長はこの国で取れたという赤い玉をくれた。

 道は白樺の森林地帯を抜けると確かに険しい山道となり、やがて本格的な山岳地帯となっていった。切り立った岩の断崖の下の細い道では、馬も怯えて進まないこともある。その道の遥か下も谷川で、そんな道に巨大な鷲が時折飛来して馬を驚かせたりもする。

 もう暖かくなったからというので長く滞在したプヨの国の村を出発したのだが、これでは厳冬に逆戻りだ。ヌプやウタリはもともと雪国育ちなので、それほど苦には思っていないようだ。無論、イェースズは寒さなどを感じたりはしない。

 どこまで行っても、人家はありそうもなかった。しかしある日、驚くほど長い弓で狩をしている男に出くわした。向こうもイェースズたちのいでたちに驚いていた様子だったが、ひと言ふた言何か言って歩き出した。どうやら、ついてこいということらしい。

 そしてついて行って驚いた。この地方の家は、地面を縦に深く掘った穴居だったのだ。これでは人家は見つからないはずだ。穴の中へは梯子で降りる。小さな穴の入り口ではあったが、地下に戻ると思ったより広かった。

 だがすぐに、異様な臭いが鼻を突いた。どうやら家人の体臭らしい。イェースズたちの顔を見て家長はすぐ察し、毛皮の衣の腕をまくって見せた。そこに、異臭を放つあぶららしきものが塗られていた。これで寒さを防ぐのだという。その脂を持ってきて家長が笑いながらイェースズたちにも塗ろうとするので、慌てて身振りで断ってイェースズもヌプもウタリも三人で笑いながら逃げ回った。

 もてなしてくれた夕食は獣の肉の入ったスープで、かなり美味だった。ところがそのまま数日滞在するうちに分かったのだが、このオロの国ではどの家でも豚を飼っており、その肉を食し、衣服も豚の皮で作られ、体に塗っている防寒のための異臭を放つ脂も豚の脂だという。

 もし普通のユダヤ人が聞いたらその場に卒倒しかねないが、世界中を歩き回ったイェースズにとってはたいていのことでは驚かなくなっていた。

 イェースズはやはりここでも、海について聞いてみた。するとこの国の国土の東は大海に面しており、その辺の住民はよく舟で漁に出ているという。それを知ってイェースズは飛びあがらんばかりに喜び、そのことを伝えられたヌプとウタリも大騒ぎをしていた。しかも、この家長も舟を持っているということで、イェースズはヌプとウタリの故郷がその海を東に渡った所にあると説明した。

 家長も、確かに大海を東に渡れば大きな島があると聞いたことがあるというので、そこへ渡りたいとイェースズが告げると、家長は馬と引き換えになら舟をくれると言った。三人が喜びと感謝に満ち溢れたのはいうまでもなかった。

 その家長の案内で、一行は再び東に向かった。丘陵地帯をぬけると、驚くほど海は近かった。しかも、陽気までぽかぽかと春めいてきている。

 海辺に着いてから家長より航海に耐えられそうな立派な帆船を与えられ、あとは出航するだけとなった。イェースズは家長の手を、しっかり握った。言葉は通じなくてもイェースズはありったけの笑顔を贈り、その心は通じたらしく家長も笑顔を返してくれた。そしてイェースズは握った手を通して霊的エネルギーを家長に与えて家長の全身に満たし、家長の魂は浄化されていった。


 出航の朝、風は刺すように冷たかった。海も荒れている。陽気になったとはいえ、まだまだ真冬の海だ。果てしなく広がる白っぽい海原を目前に、イェースズはこれが最後の難関だと思った。これまでも山岳や原野を乗り越え、やっとここまでたどり着いた。しかし、目指す霊の元つ国へ渡るには、どうしてもこの大海を越えねばならない。神様が下さった、最後の試練にも思えた。

 イェースズは海岸近くまで迫っている岩場の針葉樹のうち、小さい木を切り倒した。そして懐にある小刀の「アマグニ・アマザ」のうちのアマグニの鞘を払い、切り倒した木で瞬く間に木彫りの青龍の像を彫りあげた。そして神呪を唱えて霊線をつなぐと、この調整によって木彫りはそのまま御神霊とつながる御神体となり、航海の守り神である龍神の青龍の依代よりしろとなった。

「さあ、これを船の中にお祭りして、いよいよ出発だ」

 明るくイェースズは、ヌプたちに告げた。

「はい」

 元気な返事が、すぐに二人から発せられた。

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