3、ピラミッドの火柱と東方三博士との再々会

 ローマ滞在は、半月にも満たなかった。イェースズはクラウダスと別れ、再びヌプやウタリとともに巨大すぎる都をあとにし、港へと出て船便を待った。

 今度は大海を一気に横断する。これから目指すべきはイェースズにとって初めての土地ではなく、むしろ因縁深いエジプトだった。

 大海原を見ていると、胸が晴れ晴れとするイェースズだった。潮風が心地よい。ローマの人工物に囲まれた生活から自然の中に出ると、実にすがすがしさを感じる。ローマにいる間は、ほとんど土を踏むということもなかった。それほどに道という道は石畳で舗装されていたのだ。

 

 船は北からの風を受けて順調に航海した。この夏の時期、エジプトからローマへの航海は風のために困難な時期であるが、その逆にはちょうどよい季節なのである。

 船は十日ほどで、エジプトのアレクサンドリアの町に近づいた。海岸沿いに横に細長く延びている町だ。海岸にへばりついているといってもよい。

 そこもローマの支配下の町で、到る所でローマの匂いがする。しかし、本家のローマの町を見てきたあとでは、以前に初めてここに来た時とは感覚がまるで違う。ローマの匂いは敏感に鼻につくが、非ローマ的要素も目に入ってしまうのだ。

 以前ならただの異国ということで、こんな区別はつきようもなかった。町には無論ローマ兵も多いが、土着の人とともにユダヤ人も多かった。彼らは皆、ギリシャ語を日常語にしている。ただ、エジプト人とユダヤ人は外見上はよく似ているので、ちょっと見ただけでは分からない。

 とにかく、町全体がのんびりしていた。しかし、これが普通なのだ。ガリラヤでも、エルサレムでもそうだった。それなのに、今までいたローマがあまりにもせわしすぎる町だったので、余計そう感じてしまうのかもしれない。

 ここに来るのが初めてのヌプやウタリは、また違う文化の町に来たと、キョロキョロばかりしている。だが、アレクサンドリアには一泊しただけで、三人は目指すヘリオポリスに向かった。そこにはエッセネの本拠地があるし、またそこにも火柱を立てねばならない。


 ナイルの三角州の平らで緑豊かな森や耕地をぬけ、ナイル川沿いに南下した。やがて五日後の夕方に、夕日を受けて黄金色に輝くピラミッドが見えてきた。

「うわっ! あれは?」

 ヌプの問いに、イェースズは笑って答えた。

「あれは、神様の山だよ」

「山? だって、あれ、人が造ったんでしょ? 石を積み上げて」

「そう。太陽の神様をお祭りする太陽神殿なんだ」

「神殿っていっても」

 ウタリが口をはさむ。

「エルサレムやアテネ、ローマとかの神殿とは、ずいぶん違うじゃないですか」

 イェースズはまた笑った。

「あなた方の国にある神殿こそ、本当の神殿なんだ。あなた方の国では自然の山を、そのまま神殿にしている。でもこの国には山はないから、人工の山を造ったってわけだね」

 歩きながら話しているうち、ピラミッドの手前にあるヘリオポリスの町に近づいた。暗くなるまでには、着けそうであった。

 

 イェースズはその足で、エッセネ教団の本部に向かった。しかし彼らはイェースズが、あの日来神堂ピラミッドの中での試験に合格して最高の栄誉を賜ったあとに出奔したと思っているだろう。

 ヨハネが捕えられた時点で、彼はここに戻って来るべきだったかもしれない。それなのに勝手にガリラヤに戻り、別教団を打ち立ててイェースズはエッセネからは離脱したとも、彼らは思っているに違いない。

 ましてやイェースズは死んだということになっているし、代わりに死んだ弟のヨシェの遺体はこのエッセネの無言兄弟団が持ち去ったのもイェースズ自身が目撃している。

 だから、「今さら何をしに来た」と言われる可能性もあるが、あえてイェースズは臆さなかった。自分は決して離脱して別教団を打ち立てたりはしておらず、また教団に媚びる必要も感じていない。だいいち教団とか宗教とかいうものにもこだわっていない。

 イェースズの教えは教えであって教えではなかった。天則、法則、すなわちミチを説いていたのだ。そのことを分かってもらいたかったし、自分に対する誤解をも解いておく必要があった。

 エッセネの本部は、ピラミッド近くの長方形の建物だ。どうもいつもよりも、人の出入りが多いように見えた。もうかなり暗くなっているので松明たいまつを手に人々がどんどん集まって、その建物の中に吸い込まれていく。

 聖賢の集まりのようだ。本部の建物は入るとすぐにホールになっていて、時々そこで集会がある。イェースズも何食わぬ顔でその人々の群れに混ざり、建物に入った。

 なんと、一歩入ったすぐの所にいたのは、老尼僧のサロメだった。イェースズと目が合い、しばらくはぽかんとした彼女だが、一瞬の後に飛びあがらんばかりに驚いて、しわだらけの顔で目を見開いた。

「あ、あ、あ、あなたは……」

「どうも、お久しぶりです」

 照れたように笑って、イェースズは頭を下げた。

「どうして……どうして……」

「そういうわけで、私は実は生きているんですよ」

 今度のイェースズの笑みは、いたずらっぽいものに変わった。そんなやり取りを聞きつけて、建物に集まりつつあった聖賢の何人かが足を止めた。

「サロメ。どうかしましたか?」

「こ、この方、この方があの、ほら、ガリラヤの……。あのピラミッドでの試験に合格して、最高位の資格を手に入れた、ほら、あの」

 サロメは驚きのあまり、言葉が回らなくなっていた。足を止めた聖賢の数が増えた。サロメとイェースズは囲まれる形となった。

「え? まさか、ガリラヤのイェースズ?」

「でもあの方はエルサレムで十字架にかけられて亡くなって、私たちの仲間が遺体をこちらに移して葬ったじゃないですか」

 イェースズは、笑って人々を見わたした。

「私です。私はこの通り、生きていますよ」

 イェースズを囲む人々の数は、ますます増えていった。

「本当に、本当に生きておられたんですね」

「ええ、この通り」

 人々の間から、どよめきが上がった。

「あなたが亡くなったと聞いて、大騒ぎだったんですよ。盛大に葬儀もやったのに」

「あなたが亡くなったというのは、何かの間違いだったのですか」

 人々は歓声を上げた。だが、サロメだけは腑に落ちない顔をしていた。なぜなら、彼女はイェースズの十字架をその目で目撃しているのだ。

「そういえば、エルサレムの方では、あなたが復活したといううわさが流れていましたね。でもそれは、我われが遺体を持ってきてしまったから、遺体がないものだからそういう噂となったんだと解釈していましたけど」

「どっちにしても、これは奇蹟だ」

「とにかく、中へ」

 人々はまた一段と歓声を上げ、イェースズの背を押してホールへといざなった。

「なんと温かいお体だ」

 イェースズの背中に触れた一人が、思わずそうつぶやいていた。

 ホールへイェースズが一歩入ると、イェースズと共にホールに入った人々は中にいた聖賢たちにイェースズの生存と来訪を大声で告げた。場内は、一斉にどよめきたった。

 信じられないといったような驚きの様子と、そして喜びとが一斉に湧きあがったのだ。

「さあ、あなたの座る椅子はあそこです」

 イェースズがそう言われてその方を見てみると、なんといちばん上座に人々の方を向いて椅子が置いてある。

「ピラミッドの最高試験を通った方だけが、あの椅子に座れるんです。今まであなたがいらっしゃらなかったから空席になっていましたけど、やっと座れる方がいらっしゃった」

 そう案内されてイェースズは人々の歓呼に笑顔で応え、その椅子へと向かった。それは、今まで誰も座ったことのない椅子であった。最高の聖賢のみが座ることを許されている席にイェースズは一度座り、そしてすぐに立った。人々の歓呼は一瞬にして静まり、誰もがイェースズの言葉を待った。

「皆さんの上に、神様の祝福がありますように」

 凛とした声が、ホールに響いた。

「皆さんは私が死んだと思っておられたようですね。でも、私は生きています。皆さんの肉体の中にも、復活の魂は入っています。生き変わり死に換わり、肉体は滅んでも魂は生き続け、幽界ハデスにて修行をして、再び転生してくる。でも、なんといっても、この世がいちばんの修行の場です」

 人々の呼吸の音が聞こえるくらい、皆は静まりかえってイェースズの話に耳を傾けていた。

「死とは、決してすべてがなくなってしまうことではありません。肉体はもはや生きていませんから、土に返らなければなりません。普通はこれを死と呼んでいるわけですけど、人間の本質はあくまで霊なんです。肉体はその入れものにすぎませんから、死とはいわば住み家を替えるようなものなんです。そうして魂の方は死ぬこともなくそのまま幽界生活に入るのですが、より次元が高い魂に昇華するためには努力という人間の力が必要なんです。でも、人間の力だけではだめで、人間の力と神様のみ意が一致した時、つまり神人合一の境地に達した時に、神様のみ力でスーッと引き上げられるんです。そして究極的には、この世に再生する必要のない魂へと昇華しょうげしていってしまいます。これが、私が今まで説いてきたことです。私はああしろ、こうしろという倫理や道徳は説いていませんし、あれしちゃいけない、これしちゃいけないというようなことも説いていません。ましてや私が話してきたことは、哲学ではないのです。こうしたらこうなりますよ、神様と一致するにはこうしたらいいんですよという霊的法則を説いてきただけです。その通りにやるかやらないか、実践するかしないかは聞いた人の自由でありまして、それ救われるかどうかも自由ということになります。決して他力本願じゃ、救われないんですね。与えられた問題を、自分で解かないといけないんです。誰かが解いてくれたら救われるというようなものではありません。真の救世主は問題を解いてあげる人ではありません。逆に、問題を出す人なのでもあります」

 そこでイェースズは一つ息をついで、集まった人々を笑顔で見わたした。

「皆さん、どうですか? これでも私がこのエッセネ教団と決別して、他教団を打ちたてたとお思いですか?」

 人々は、静まり返っていた。

「私が説いてきたのは、どの教団の教えをも超越しているのミチです。すべての教えの大元を説いたのですから、どの教団の人にも通用する普遍のミチなんです」

 そしてイェースズはそこに集まった聖賢たちに向かって、両手をかざした。人々の間からどよめきが上がった。イェースズの両手から放射されるパワーが人々には視覚化され、イェースズ自身が黄金の光に包まれているように彼らには見えたからだ。

 そしてどよめきはさらに大きくなった。人々はそれぞれ自分の手を見てどよめいている。そこには一様に、金粉がついていたからである。

 

 イェースズが与えられた宿舎は、ナイル川沿いの緑の中だった。

 ナイル川は、あのアーンドラ国のガンガーに匹敵するほどの大河だ。

 その岸で行われている毎朝の太陽礼拝も、イェースズにとっては懐かしいものだったが、ヌプやウタリにとっては初めての経験となるはずだ。しかし、彼らにとって抵抗はないようだった。

「僕らの国でも、やっている人はいましたから」

 と、ウタリがけろっとして言う。やはり彼らの国は霊の元つ国で、すべての大元の国なのだ。

 ある日の夕方、涼しくなってから、イェースズはヌプとウタリを連れて南西の方角にあるピラミッドの方へと出かけた。もはや本格的な夏で、日中はとても出かけられたものではない。

 緑地帯が終わって砂漠が始まるちょうどその接点の部分の砂の上に、三基のピラミッドは山のように空にそそり立っている。

「すごい山だ」

 と、ヌプが言った。ウタリがピラミッドを凝視したまま、言葉を受けた。

「でも、もし自然の山だったら小さい丘にすぎないけど、これが人の手で造られたっていうからすごいな」

「四角くきれいに切り出した大きな石も、全部人間が造ったんですね。それをよくもまあ、見事に積み上げたものだ」

 隣にいたイェースズが、二人に説明を始めた。

「ただ形がきれいなだけではなく、一辺一辺が正確に東西南北を向いているんだよ。頂上を見てごらん。少し岩がはだけているだろう?」

「はい」

「昔はね、あの上に円形の石の玉があったんだ。今はどこかに行ってしまったけど、それが太陽石といってこの神殿の御神体石だったんだ。あなた方の国の自然の山の神殿の場合も頂上に太陽石があって、その周りを石で囲んで東西南北に方位石を置いているのだけれど、ここのは人工の山だから方位石の代わりに一辺一辺が東西南北を向いているんだ」

 ヌプもウタリも、感心して聞いていた。

「この神殿はピラミッドっていうんだけれど、もとはあなた方の国の自然の山の日来神堂ひらみどうだよ。このあたりの文化は何から何までギリシャやローマから始まったように思われているけど、超太古においてすべての文明が霊の元つ国から世界に伝播していったということがこれを見ても分かるだろう?」

 二人は、黙ってうなずいた。

「もう一つおもしろいことを教えてあげよう。こんなに大きなものでなく小さなものでも同じ形で東西南北をきちんとして置くと、その中に宇宙のパワーを集めることができる。それに気づいた最近の人がこの神殿の中に王の遺体を安置するようになってね、それでこれを王の墓だなんて思っている人が多いけど、もとは太陽神を祭る神殿だ」

「先生。じゃあ、あれは?」

 ヌプが指さしたのは、ピラミッドの手前にある半人半獣の巨大な像だった。かつてサロメに連れられて初めてここに来た時にイェースズが発した質問と同じ質問をヌプがするので、イェースズは笑った。そして、その時のサロメと同じ答えをした。

「あれは、ここまま人間が神様から離れすぎるとあんなふうな四ツ足獣人になってしまうぞという、神様からの警告の型示しの像だよ。一方で、神殿を護っている像でもあるんだけれどね」

 そして、サロメは言わなかったことを、つけ加えた。

「あの像の目が、どこを見ているか分かるかい?」

 像の背後に砂漠が広がっているので、顔が向いている方は砂漠が途切れて緑地帯が始まる方角だ。つまり、東を向いていることになる。イェースズはそのまま空中を指し、それを東の果てへとゆっくりと移動させ、パッと地平線を指した。

「あの目線の先はずっと東の、あなた方の国、霊の元つ国のアメノコシネナカヒダマの国のクライ山という山だ。そのクライ山もまた、自然の山の日来神堂ひらみどうなんだ」

 ヌプもウタリも話のスケールが大きすぎて実感が湧かないのか、ただうなずいているだけだった。

 

 ある日、イェースズはこれからピラミッドに登ると、ヌプやウタリに告げた。しかも夕方ではなく昼間、炎天下にであった。手で目の上にひさしを作らないと歩けないほどで、砂漠のある地方にしてはいやに湿っぽくて蒸し暑い。だが、時折北の方から心地よい風が吹きつけることもあって、それだけが救いだった。

 ヌプもウタリも、頭に白い布をかぶっていた。ピラミッドは下から見上げるとかなりの傾斜で、四角い石を積んでいるのだから階段状になってはいるが、一つ一つの段はかなり大きい。

「先生、危ないですからやめて下さい」

 ヌプが登ろうとするイェースズに、懇願するように言った。

「大丈夫だよ」

 と、イェースズは笑っていた。

「これは御神命だからね、どうしても行かないといけない。そうしないと、この地で私がなすべきことはできない。このエジプトは私とも因縁が深い場所で、それだけにどうしてもここの霊界を明かなにしておかないといけない」

「でも、この暑さですよ」

「この地に火柱が立とうとしているんだ。暑くもなるさ」

 イェースズはまた高らかに笑って、身を翻してピラミッドに登り始めた。

 しかし、確かに炎天下にこれに登るのはきつかった。額に汗がにじめて胸元に落ち、背中は川に入ったのと同じくらいびしょぬれだった。それでもイェースズは、一歩一歩着実に登っていった。その懐には、イシュカリス・ヨシェの遺髪がある。

 イェースズはヨシェとともに登った。ヨシェが歩んだ悲しみの道行きに比べたら、こんなもの苦しいといううちに入らない。かつて東方への旅で登った山に比べたら、あっという間に頂上に着いてしまう簡単な登山だった。

 頂上に立つと、北の方からの風が冷たく汗を吹き払ってくれた。周囲を見ると西の方は地平線まで砂漠がずっと続いている。かつてエジプトの人々が、死者の国は西にあると考えたのも無理はない。

 反対側の東は緑地帯で、その手前を右から左に大ナイルが蛇行している。この川こそ母なる川だ。母なるナイルの水と太陽新ラーの火が十字に組まれて、エジプト文明が産み出されたのである。

 イェースズは懐から、ヨシェの遺髪を取り出した。そして、ヨシェにとっては生まれ故郷であるエジプトの大地を、ヨシェに見せた。

「見ろ、イシュカリス。ここがおまえの生まれた国だ。そして私は、いつまでもおまえといっしょだ」

 目の周りにたまったのが汗か涙かよく分からなくなったが、それをもすぐに北風が運び去った。

 イェースズは遺髪を持った手のもう一つの手を、ピラミッドの頂上から四方八方に向かってかざした。たちまち目には見えない霊的な火柱が、この地に燃え上がった。イェースズは古代の王の墓などではなく、太陽神殿・日来神堂ひらみどうの復活を強く念じていた。


 目的を果たしたイェースズは、この地を後にしてまた旅に出ることをヌプやウタリに告げた。彼ら二人はそれを聞いても「ああ、そうですか」という感じであったが、同じことを集会所のホールでエッセネの聖賢や幹部たちに告げた時は大騒ぎになった。

 彼らは自分たちエッセネ兄弟段の最高位の師であるイェースズが、教団幹部としてずっとこの地に留まるものだとばかり思っていたからである。だから、イェースズの突然の旅立ちの発表は、大衝撃であったようだ。

「皆さん、聞いて下さい」

 やっとの思いで、イェースズは人々を静めた。

「私は決して、皆さんを見捨てるのではありません。私が神様から頂戴した御神命は膨大で、これからも世界中を回らなければならないんです」

「世界中に散らばっている兄弟団のためですかな?」

 前の方にいいた賢者が一人、静寂を破って訪ねた。

「もちろん兄弟団の方とも、これから行く先々でお会いするでしょう。でもそれだけでなく、私は全人類の救いのために出かけるんです。宗教なんていうちっぽけな枠に私は囚われていないって、いつかもお話ししたはずです。一人でも多くの人々のみ光をお与えさせて頂き、また逆法渦巻く今の世に目に見えない神様の霊的火柱を立てる必要があるんです」

「なぜ、そんなにしてまで人類のためにされるのです?」

 と、別の聖賢が訪ねた。イェースズは微笑を絶やさなかった。

「神様は全人類と万物の造り主ですね。だから神様の大愛は、神の子であるすべての人類に注がれているんです。そして私も神の子として御父である神様を愛したいし、等しく神の子であるすべての人類の霊益のためなら、神大愛でどこへでも出かけていきます」

 場内に拍手が湧き起こった。分かってくれたことが嬉しくて、イェースズはニコニコしたまま人々を見渡した。やがて、拍手も収まった。

「私はまた旅に出ます。神様の御経綸は日々進展していますから、ぐずぐずはしていられないんです。肉身は現界にありながらも常に神霊界と通じ、霊的にものごとを考えています。また、皆さんもそうであってほしい。そうでないと神様と波調が合わなくなって、御経綸が進展すればするだけ神様から離れていってしまうことになります。私がエルサレムで律法学者や祭司と論争してきたのは、彼らが千数百年前のモーセの律法にしがみついて、その千数百年間の御経綸の進展について知ろうとしなかったからです。人々が神様から想念的に離れすぎますと神様の大愛のみ意による大洗濯が始まって、一気に火の洗礼期へと突入してしまうんです。そのへんをご理解頂きたい。私がエルサレムで語ったことは、まだエルサレムにいるでありましょう使徒たちが知っています。私はもはや使徒たちだけの師ではなく、この兄弟団の最高幹部であるだけでもなく、全人類の救いをしなければならないのは、そういうわけがあるのです」

 場内、割れんばかりの歓声だった。イェースズはニコニコしたまま人々に手を振って、演台を降りた。彼がエジプトでなすべきすべての仕事が終わろうとしていた。

 

 翌朝、イェースズたち三人はヘリオポリスを出発し、炎天下の砂漠のという過酷な道を東へと向かった。ただ一面の砂漠で遠くに岩だけの黄色い山が連なっているだけで、道は平坦だった。

 そんな砂漠の中を四日ほどすすんで大海のほとりに出た。そこに小さな港がある。

 そこで交易のユダヤ人隊商の船を見つけて、交渉の上便乗させてもらい船出した。葦の多い海を船は順調に南へと進んだ。

 そこはかつてモーセが出エジプトの際に、海を二つに割った所だ。そして幼少のイェースズが、初めて東の国に向かって旅立った時もここを通った。岸に沿って船は南下したが、岸上はずっと砂漠で夕方にはやっと港町を見つけては停泊して日を重ねた。

 白い帆にいっぱい風を受け、船は紺碧の海の上を滑っていった。

 十六日ほどの航海で、船は少し大きめの港に入る気配を見せた。その途中で、船の右側に陸地を見て進んでいたのが、大海を横断したようで、このころでは陸地は左手にあった。

 イェースズたちはここで上陸する。ここはもはやローマ帝国領ではない。小さな港町で石造りの箱型の家がほこりにまみれて並んでいるにすぎないのだが、港に人は多かった。

 船に積まれている物資はここまで船で運ばれるが、あとは隊商がラクダに乗せて東へとゆっくり進んでいく。そんな商人でごった返す港の喧騒の中を、イェースズはヌプ、ウタリとともに宿を探した。

 ここは海上輸送と隊商による陸上輸送の接点の港町で、隊商というのはほとんどユダヤ人だから、イェースズがこの町にいることは端から見ると不思議ではなかった。しかもイェースズはギリシャ語を話すので、ここにいる多くのユダヤ人と同じであり、そんなこんなで宿はすぐに見つかった。

 入ってみると客のほとんど全員といっていいくらいの人がユダヤ人だった。もっとも彼らはユダヤ本国に住んでいないので、エルサレムの出来事もイェースズが誰であるかも知りはしない。

 イェースズたちが宿に入ると、昼間は炎天下で頭がくらくらするほどの猛暑だったのが、朝晩は急に寒くなったりもした。

 宿に入ってからウタリは、イェースズの地図をのぞいていた。そして、

「ここですか? 今いる所」

 と、ウタリが指さした。

「そう」

「ずいぶん遠くまで来ましたね」

「でも、ぼくらの国までにはまだ半分もいっていない」

 イェースズは黙ってうなずいていた。そしてヌプが手に持っていた地図をのぞきこんで、微笑んでいた。その地図には、エルサレムもあった。

「エルサレムか、懐かしいな」

 と、ぽつんとイェースズがつぶやく。

「みんな、元気かな」

 ヌプもウタリもイェースズの心情を推し量って、黙っていた。そしてそこには一泊しただけで、海に背を向けて内陸の方に向かってイェースズとヌプ、ウタリは早朝に出発した。その前に港でイェースズは、うまい具合に三頭のラクダを購入していた。そして岩山ばかりのわずかな丘陵地帯を縫うように進むと、あとはずっと砂漠だった。そして翌日の夕方には、岩山に囲まれた小さな町が見えてきた。

「先生、ここにも当分いるんですか?」

 ヌプが峠道の上からこれから行く町を見下ろして、イェースズに聞いた。イェースズは即答した。

「ここにも火柱を立てないといけないし、それのこの土地は私は初めて来るけれど、神様に大いに因縁のある土地になるだろうね。その下準備だ」

「え?」

「この地は、神様との因縁も深い地だよ。今は何もない普通の小さな町だけど、やがてこの町の名は全世界に知られることになる」

 イェースズの予言めいた話に、ヌプもウタリも分かったのか分からないのかぼんやりと聞いていた。

「だから、この地に長居はしない。やがて遣わされる方は神様から教えを受けて、私に対しても真実の証をしてくれるだろうからね」

 その言葉通り、イェースズはこの地で今までと同じように霊線をつないだあと、三日滞在しただけでこの町をあとにした。


 しばらくは丘陵地帯の谷間の道を北へと進んだが、それほど険しい山岳があるわけではなかった。そして何日かたつといよいよ巨大な砂漠を横断する旅となった。

 幸い猛暑の季節は過ぎて、少しは涼しくなってはいる。それでも日中の砂漠の陽射しは強く、一面の黄色い大地にはヌプたち二人は気が滅入るのではないかとイェースズには懸念された。なにしろ視界に山もなく、人工のものとてなく、このまま永遠に砂漠が続くのではないかという錯覚にさえ襲われる。

 だが、イェースズは何の苦しみも感じてはいなかった。そしてうまい具合に、ちょうど日没の頃になるとオアシスが現れるのだ。そんな旅がもう二カ月近く続いていた。そうなるといよいよもって、エルサレムからもローマからの遠ざかっていくような気になった。

 だが実際は、エルサレムからはそう離れてはいなかった。なぜなら、イェースズたちが目指していたのは、バルチア国の都のクテシフォンだったからだ。

 

 イェースズが東方の旅からの帰途に、最後に寄った町がここだった。まだほんの五、六年前のことで、イェースズの記憶にも新しかった。ここから西にまた一ヶ月ほどで、再びエルサレムに戻ってしまうのである。

 そしてこのクテシフォンもまた、フトマニ・クシロで火柱を立てるべき地に指定されていた。

 都は前に来た時と変わらない喧騒で、きらびやかな宮殿も元のままだった。イェースズはまっすぐに、丘の上の寺院を訪れた。ここは幼少時より愛読していた『ゼンダ・アベスタ』の故地で、その寺院も火を拝む寺院だ。

 黒っぽい何ら装飾のない筒型の寺院に入ると、中央では巨大な炎が焚かれていた。その周りで無言で瞑想している人々の中央にいた、イェースズにとっては見慣れた顔の老人が顔を上げた。しわの中の目を寄せてイェースズを見ていたが、イェースズが近づくとやっと顔を判別できたらしく、声をあげて立ち上がった。イェースズが前にここに来た時に出会った、高僧カスパーだった。

「おお、来られた」

 と、カスパーはなんとヘブライ語で言った。それから、瞑想していた人々の中の三人の老人の僧の名を呼んだ。

「ホルタザール、アスバールン、メルヒオール。あなた方の言われた通りじゃ。このお方は来られたぞ」

 曲がった腰をかばうように立ち上がった三人の老僧も、前にここに来た時に親しく接してくれたマギ僧たちであり、すなわちイェースズの幼少時にエルサレムまでイェースズを探して、黄金、乳香、没薬を持ってきてくれたあの人たちだ。皆よたよたとイェースズに近づき、その手をとった。

「いやあ、ようこそ。今回もまた星が出ておったのでな、また来られるとすぐに分かった。ただし、星は、今回は南西の空だったがの」

「私は、星とともに現れる……ですか」

 そう言って、イェースズは高らかに笑った。

「偉大な先生。今度はどんなよき知らせを持ってきて来てくださったのかな?」

 カスパーが代表する形で、イェースズに問いかけた。イェースズはまた微笑んだ。

「平和、ですよ。地には善意の人々に平和あれ、ってことですね。私は前にここを失礼してから故地に帰り、故郷で神のミチを説いてきました。つまり私は故郷で、霊の実在や、その霊的世界こそが主体であり実相界であることを人々の前で実証して来ました。そして今よき知らせを持ってと言われましたが、私が来たこと自体がよい知らせ、福音でしょう。私が説いた法則に従えば万人が神の子として復活し、私と同等にもなれます」

「かれこれもう、三十年も前のことでしたかね」

 と、メルヒオールが口をはさんだ。

「天にしるしの星を見て我われはあなたの存在を知って、三人で旅に出た。そしてエルサレムで見たのは、生まれたばかりの赤児あかごだった。そして今から五年ほど前に、成長したその時の赤ちゃんは大人になってこの地を訪れてくれましたな」

「そうでした。そのあとで私は故郷に帰ったのです」

「あの、もし」

 火の周りで瞑想を続けていた僧たちの中の一人が、そう言ってイェースズに接近してきた。

「あなたはエルサレムで、人々に師のように仰がれて教えを説いていた方では? たしか、パリサイ人とかとわたりあっていたラビですよね」

「エルサレムに行かれたのですか?」

 と、イェースズは少し声を弾ませて聞いた。

「申し遅れました。私はこの間もエルサレムに行ってきたばかりですから。そして、あなたのお弟子さんというような方々ともお会いしてきましたよ」

 イェースズの顔が、突然輝いた。

「そうですか? ヤコブとかペトロに会いましたか?」

「ヤコブという方にはお会いしました。でも、そんな名前はたくさんいて、あなたのお弟子さんにもヤコブとは二人いましたけど、あなたが言われたのははてどちらでしょうか」

「両方とも大事な使徒です。みんな元気でしたか?」

「はい。彼らはあなたが十字架上で死んで三日後に復活したと主張していましたが、今現にあなたがこうしてここにいるのだから、彼らの言うことは本当だったんですねえ」

「どんなふうに彼らは暮らしていました?」

「全員が共同生活でした。自分の資産は投げ打って、すべて共同財産ってことにしていました。そして幹部の方たちがどんどん奇蹟を見せるものですから信者もどんどん増えて、毎日午後には神殿のソロモンの廊という所で祈祷集会をしていましたし、夜にはパンとぶどう酒での晩餐会をしていました。このパンとぶどう酒がそう、あなたの地と肉だとかなんとか言って、食べて飲んでるんです」

 イェースズは頭を抱えたい思いだったが、所詮はそんなものだと分かっていたことでもあった。どうの自分がミチを説いていたその真意は、彼らには十分には伝わっていなかったようだ。

 若い僧は、

「とにかく、ユダヤ教の一派としてはいちばん羽振りのいい宗教になっているんじゃないですかね。もう男だけで五千人の信者がいます。ダビデの墓の近くの、マルコという人の家の二階を本拠地にしています」

 と、最後に付け加えた。その本拠地とは自分が使徒たちと最後の晩餐をしたあの部屋だが、自分の教えが自分の意に反して宗教になっていっているようだ。

 今の世では仕方がないことかもしれない。自分がいる間は決して教団は作らなかったのだが、今後どうなるかはもうだいたいイェースズには見えていた。それは今聞いた話による現界的なことだけではなく、神の経綸と今の神霊界の状況からも分かることだった。

「私が残したのは十二人の使徒だけだったんですよ。でも事情があってそのうち二人は欠けていますから、十人ですけれど」

「幹部は今でも十二人でしたよ。確かに二人欠けたとかで、信者の中からくじ引きで、ユストという人とマッテヤという人が加わって十二人の幹部となっています」

「くじびき?」

 もう、何をか言わんやである。イェースズは絶句した。あの連中は将来、自分が伝えてきたことの解釈さえ投票か人知の会議で決めたりするんじゃないかと、イェースズには危惧された。

「しかし、最高法院サンヘドリンなどの当局との間は問題ないのですか?」

「ペトロほか数人はやはり逮捕されて裁判にかけられたようですけど、奇蹟で脱出したようです。当局も、たとえば熱心党ゼーロタイでも頭目が処刑されたら後は放っておいても霧散するものだから放置しておけということになったようですけど、霧散どころかさっきも言ったように確実に教線は伸びています」

 それもよしとしようと、イェースズは思った。形は変わっても、神を信じない人々へ神の実在を知らせ、神から離れすぎないようにする歯止め役にはなるはずだ。それさえできれば、自分の使命は達成できたことになる。

 自分の教えは水の教えとしてヨモツ国に広まってしまうということはイェースズも兼ねてから覚悟していたことだし、今の世では避けられない宿命だと分かっている。使徒たちは火の洗礼バプテスマを人々に授けることができるがそれも一代限りで、次の世代になるとまたヨハネ師がしていたような水の洗礼に後戻りしてしまうということも予想していたことだ。

「よく聞かせてくれました。ありがとうございます」

「お気を悪くなさいましたか?」

「いえ、大丈夫ですよ」

 イェースズは微笑んで言った。若い僧はまた、もとの瞑想に戻った。

 どんな神が直接降ろされた霊団でも、一旦地上に降ろされたら地上の組織として一人歩きしてしまうものであることも前から知っていた。もはやエルサレムのことは、すべて神のみ手に委ねるしかない。自分はほかになすべき新しい使命があるのである。

 イェースズは炎の前でしばらくたたずみ、その炎に向かって両手をかざした。これでこの炎に霊的な命が吹き込まれ、この地にすでに霊的火柱を立てたことになる。

 この地へのイェースズの逗留はわずか二、三日だった。その間、カスパーやホルタザール、アスバールン、メルヒオールの三人ともいろいろ語り合った。そして、さらに東へ進むべく、さらなる逗留を強く望むカスパーたちに強引に別れを告げ、イェースズとヌプ、ウタリの三人を乗せた三頭のラクダはひとまずは南との方へとチグリス、ユーフラテス川に沿って砂漠の中を南東へと進んだ。この辺りはさすがに川沿いなので、砂漠とはいっても結構草も生えていた。相変わらず、どの方角にも山はなかった。

 そして十五日ほどで海に出た。そこから再びイェースズたちは、船旅となったのである。

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