第4章 再び東方へ

<アテネ・ローマ・エジプト~アーンドラ>

1、アレオパゴスでの問答とデルファイ神殿での神託

 イェースズとヌプ、ウタリの三人はエルサレムを後にして少し北上してから西へ向かい、カエサリアへと向かっていた。二日目には荒野を抜け、道は緑豊かな平らな土地を再び北上するようになった。

 そして三日目にして、ようやく大海の港が見えてきた。そこから船に乗って、西へと赴く。それが、フトマニ・クシロの霊的バリアを張り巡らすために、どうしても必要な旅程だった。

 いよいよユダヤから離れることになって、エルサレムでの出来事がうそのように思い出になりつつあった。旅の最初にエルサレムの城壁が視界から消え荒野に入ったその瞬間、それまでの自分、それまでの生活と遮断された感じがした。

 カエサリアの町は以前にも来たことがあるが、かなりの人口のちょっとした都市で、まさしくヘレニズム文化の入り口という感じだ。

 巨大な円形劇場、アーチ上の柱に支えられながら延々と北へ続く高架上の水道橋、それらは皆先代ヘロデ大王の建築である。ローマ人、ギリシャ人も多くいる港町で、普段はローマ知事が常駐しているが、ピラトゥスはまだエルサレムから戻って来ていないようだった。

 もう、ここまで来れば、イェースズのことを知っているものはほとんどいない。それでも潮の香りの町を歩きつつ、ふと使徒とすれ違うような錯覚に陥った。

 夜、宿でイェースズは、紙の地図を広げた。この地方だと紙は貴重で、たいていがパピルスや羊皮紙であるが、イェースズが広げた地図は本当の「紙」だった。だからそれは、この地方のものではないことは自明だ。

「これは、君たちの故国、もとつ国の地図だよ」

 ヌプもウタリも。目を丸くした。おそらく彼らは、自分たちの国を上から眺めた地図というものを、初めて見たのだろう。

「僕たちの国は、こんな島なんですか?」

 ヌプがそう言ったが、その認識とて彼らにとっては新鮮なもののようだった。そこには龍のような形をした島が描かれ、その中央部にはいくつかの点が打たれており、その点と点を直線で結ぶという幾何学的な図形も描かれていた。

「さあ、これから行く所を説明しよう」

 二人とも、思わずきょとんとしていた。故国の地図とこれから行く所との関連性が、彼らにはつかめないようだ。イェースズはそんな様子を見て笑った。そして、もう一枚の紙を取り出した。

「これが、この世界のすべての国の全体図だ」

 そこには円形の中に、地球上のすべての大陸が描かれていた。ヌプたち二人は、さらに目を丸くした。

「太古から伝わるものだよ。ミコ様から頂いたんだ」

「どうして昔の人は、こんなふうにすべての土地の形が分かったんですか?」

 ウタリが目を上げて、イェースズを見て尋ねた。

「大昔はね、空を飛ぶ船があったんだよ」

 笑って答えるイェースズに、二人はもうぽかんと口を開けていた。イェースズは一段と笑った。

「ここがエルサレム。そしてここがあなた方の国」

「僕たちの国って、こんなに小さな島なんですか?」

 そのウタリの問いには目で笑っただけで、イェースズは二枚の地図を並べて示した。

「この二つの地図を、よく比べてごらん。似てるだろう?」

「あ、ほんとだ」

 声を上げたのは、二人同時だった。

「あなた方の国は、全世界の大陸をぎゅっと縮めた形なんだ。つまり、世界の霊成型ひながたなんだよ」

 自分たちの国が島であったことに今さらながら驚いていた二人なのに、目の前につきつけられた事実にはもう言葉が出ないようだった。

「世界の地形のもとになっているだけじゃない。全世界の人類発祥、五色人創造の聖地、霊の元つ国こそがあなた方の国だ」

「そうか」

 ヌプが先に声を上げた。

「ここに来る出発前にミコ様から話を聞いたフトマニ・クシロは、この点と点を結んだ線なんですね。それを、二枚の地図を重ねて、同じ対応する位置に世界においてフトマニ・クシロを結ぶ」

「その通り!」

 イェースズは嬉しそうに笑んでうなずいた。

「さすがはしっかりとミコ様から教えを頂いてから来ただけある。この線通りにミコ様は、すでに霊の元つ国において霊的な網を張って結界を結び、霊的砦を築いて下さっているはずだ。それを世界に拡大する。この霊の元つ国の地図を見れば、これから行くべき所が分かる。まずは西へ行く。この港から船出だ」

 いよいよイェースズは、ユダヤから離れることになる。 

 

 乗船の交渉は、すんなりといった。イェースズがギリシャ語に堪能だったことが、大きな利点だった。ギリシャ在住の商人ということで、イェースズたちはギリシャ行きの船に乗り込んだ。ユダヤ人でもギリシャ語さえ話せば、離散ディアスポラユダヤ人として通る。そういった人々の中には、ローマの市民権を得ているものすら多い。

 いよいよ出航だ。イェースズがこの港から船出するのは二回目で、前は故国に戻って来たばかりの頃、エッセネの老尼僧サロメとともにエジプトに向かうためだった。

 そして今、イェースズはここを起点に長い旅に出ようとしている。雲ひとつない晴天の下、順風を受けて純白の帆は張られた。すぐに船は速度を上げて陸地を離れた。

 ユダヤの大地が見るみるとおくなり、カエサリアの町も点になった。これから一気に大海を横断するのである。

 とにかく交渉や荷造りで乗船するまで火のついたような慌しさだったイェースズは、船が沖に出ると甲板で一気に寝込んでしまった。目覚めた時には、周りすべてに陸地は見えなかった。あっけない故国との別れだった。今自分がいるのは大海で、決してガリラヤ湖ではないのだという感傷が少しだけイェースズにはあったが、すでに故国への執着は持ってはいなかった。

 海はどこまでも紺碧の海で、それも透き通る青さだった。船は何度も寄港したが、半月ほどたってついた町は緑の大地で、まぶしい光の中にある町は完全に異国の町だった。白い壁の家が斜面に立ち並び、人々の服も白い。だから余計にこの町を輝かせている。

 船が着くとすぐに人足がどっと出て、荷の積み下ろしで港はごった返した。

「今がいちばんいい季節ですぜ、だんな」

 船べりでイェースズの隣にいた頭の禿げた商人が、イェースズにギリシャ語で話しかけてきた。イェースズも微笑を返して、

「ええ、雨季も終わりですね」

 と、ギリシャ語で答えた。

「そうさな、夏の乾季までの間は、花も緑もいちばん美しい季節だで。だんな」

 イェースズがまた微笑を返していると、後ろからウタリが顔を出した。

「ここで降りるんですか?」

「いや、またここから西へ、海をもう一つ渡った所にあるアテネという町に行くんだ」

「それがこの国の都?」

「まあ、昔はそうだったけど、今は全部ローマの領土なんだよ」

 そう言いながらも、とりあえず三人は上陸してみた。町を行きかう人々の顔はもうユダヤの人とは全く違い、ローマ人と同じ鼻が高く白い顔をしていた。その話し声を聞くと、それはすでにギリシャ語だった。今までギリシャ語というと地中海諸国の公用語であって、皆それぞれの自国語を持っていた。当然、日常用語はその自国語だ。

 だがここには、確実にギリシャ語を日常用語にしている人々がいる。あたりまえといえばあたりまえだが、ギリシャ語は公用語である以前にギリシャという地方の言語なんだということが、いやでも実感できた。

 船に戻り、この港で停泊したままの船で一泊したあと、翌朝船はまた出航した。船は小さな島と島の間を縫うようにして西に進み、時には狭い海峡を通過したりもした。そしてさらに五日ほどして、大きな都市の港へと船は吸い込まれていった。その時は夕方で、都市は炎のように真っ赤に燃える夕日に輝いていた。都市は半島の西側にあるので、西日をまともに受けて町全体が燃えているように見えたのだ。

 一行は上陸し、夕日に輝く町を前に、港にて三人とも立ちすくんだ。家という家がユダヤのように石を積み上げただけのものではなく、すべて白壁に塗られている。ティルスもカエサリアもギリシャ風の町ではあったが、ここまで徹底してはいなかった。

 町の中央には箱を伏せたような切り立った崖の丘があり、巨大な神殿がその上に乗っているのが見える。何本もの図太い円柱の柱が屋根を支えている石造りの神殿は、エルサレムのそれとは完全に構造が違った。

 そのような神殿が、丘の上には大小いくつも見える。

 丘のふもとには観客席が半円形になっている野外劇場と音楽堂が二つあるのが、遠目にも見えた。丘の斜面を使って造られたそれらの劇場は、いちばん低い所が舞台となっている。エルサレムにもこのような野外劇場はあったがそれは真似もので、その原型の本物がここにあるのである。

 三人はとにかく、人ごみの中を歩いた。ここではヌプやウタリだけではなく、イェースズまでもが異邦人なのだ。

「先生、宿を探しますか?」

 と、ヌプが言ったものの、言葉が分からない彼らにとってはイェースズだけが頼りだった。

「いや、この町に友だちがいるから、それを探すんだ」

「探すって言ったって、こんな大きな町で……」

 ウタリがいぶかったが、

「大丈夫、すぐに見つかる」

 と、イェースズは笑って言った。 

 

 町の中央の丘の近くに広場があって、そこは市場にもなっているようだ。エルサレムでは絶対なかったこととして、広場の入り口にはいくつもの神像が立てられていた。その広場に集まっている人たちにイェースズは先ほどヌプたちに言った「友だち」について尋ねると、最初に聞いた人ですぐに分かった。

「ああ、あの方ですね」

 イェースズの友人とは、よほど有名な人らしい。こんな巨大な都市で、訪ねる人がすぐに分かったのだ。

「アポロなら、アレオパゴスにおります」

「アレオパゴスとは?」

「このアクロポリスの向こう側の丘が、アレオパゴスです」

 巨大な神殿のある丘はアクロポリスというらしく、垢抜けした男が事務的に指さしたのはその向こうのやはり切り立った岩山で、アクロポリスよりは低い。丘というより、岩の固まりのようだ。岩は灰色で石灰岩のようであり、その上にも何やら建物も見えた。

 イェースズは礼を言って急いで広場をあとにし、そのアレオパゴスに向かった。もうかなり夕闇が、濃く迫りつつある。イェースズはヌプたちをつれて、一気に丘の上に続く坂道を登った。建物は神殿というより集会所か何かのようで、二十人ばかりの人がいた。だが、広場にいたような人々とは違い、そこにいたのは市民というより気位が高そうな服装で、どうも哲学者たちのようだった。どうもここは、そういった哲学者たちの討論の場でもあるようだ。

 その中の一人がイェースズを見つけて、驚いたような顔で近寄ってきた。

「も、もしかして、ユダヤのイェースズ!」

「おお、アポロ、こんなに早く見つかるとは」

 イェースズはニコニコして言った。だが、アポロと呼ばれた若い男は、ただただ目を丸くしていた。

「本当にイェースズなのですか? 本当に?」

「そうですとも」

 しばらくぽかんと口を開けていたアポロだったが、すぐにぼそぼそと話し始めた。

「あなたはエッセネを離れて別教団を作ったのに、この間亡くなったという知らせを聞いたのですが」

「私は別教団なんて作っていませんし、こうして生きていますよ」

 イェースズは笑いながら言った。

「じゃあ、全部うその情報だったんですね。よかった。心配していたんです」

 やっとアポロの顔も緩んだ。

「エジプト以来ですね」

 年格好はイェースズと同じくらいだが、髪の毛が少々薄い。アポロといえば、この国では太陽の神をさす。その名を名乗っているというのだから、よほどの聖賢のはずである。

「みんなに紹介しましょう」

 アポロはイェースズを、哲学者たちの所につれていった。

「皆さん。この方は前にエジプトで、私と共に学んでいた人です。私のエッセネの兄弟で、お名前はイェースズ。ヘブライ語ではヨシュアといいます。イスラエルの聖賢です」

「聖賢だなんて」

 そう言って笑いながら、イェースズは人々に会釈した。

「ちょうどわれわれは今、真理について語っていたところなんです。よかったら、我われに何かお話をしていただけませんか」

 アポロがそう言ってしきりに勧めるので、そこにいた哲学者たちも拍手でイェースズを迎えた。哲学者というと頭が固そうなイメージがあるが、見た感じはエルサレムの律法学者などよりもずっと柔軟性がありそうだった。そしてこの国の人は好奇心が旺盛で、新しい物や珍しいものには飛びついて興味を示すようだった。イェースズはアポロに、人々の真ん中に引いて行かれた。

「この方はエジプトのピラミッドで行われた聖賢試験に、ことごとくパスされたお方なんです」

 人々は、一斉に歓呼の声を上げた。

「それでは僭越ながら、私がこの国に参りまして感じたことを少しお話しさせて頂きましょう」

 と、イェースズは口を開いた。あとは頭の中を真っ白にして、どういう言葉が口から出るかは神様任せだった。哲学者たちは身を乗り出すように、イェースズの言葉を待った。

「私がこの地に来させて頂いたのは、わけがあります。この地上の何ヶ所かに、神様の世界に届く目に見えない火柱を打ち建てる必要があるんです。それで、このアテネこそ、それにふさわしい場所だと思うんです」

 人々はイェースズのひと言ひと言に、うなずいて聞いていた。

「この国には哲学、芸術、建築などあらゆる文化が育ちました。政治的には今はローマの支配下にありますけれど、文化はむしろギリシャがローマを支配したといってもいい」

 人々の間で、また拍手が起こった。外はもうかなり暗く、集会所の中に篝火が何ヶ所かにともされた。

「私はここで、哲学の話をするつもりはありません。哲学に関しては、皆さんの方が専門家でしょう。私がこれまでイスラエルの地で人々を導くために語ってきたことは、もっと内なる神理、霊的な法則で、それこそが人々を真に救いに導くミチなんです。申し訳ありませんが、哲学で人は救えないんじゃないでしょうか」

「人を救うとは、どのようなことですかな?」

 一人の哲学者から、質問が出た。

「はい。それは、魂の救いですよ。救いこそが私の使命であります。皆さんは今、真理について語っておられたということでしたね。真理とは神の置き手(掟)、天の律法であり、真理の峰は一つしかありません。真理は一つであり、世界は一つであり地の底も一つ、人類の先祖も一つということに他なりません。人類界は、長い間孜々しし営々として一つしかない真理の峰を希求してきたのではありませんか。例えばそれは神々の住むというオリンポスの山に登るようなものであって、ある人は南からオリンポス山に登り、またある人は北側から登るかもしれません。それぞれがこの国でいちばん高いオリンポスの高みを目指して登ってみれば、高嶺の一角に合流するのであります。しかるに山頂に辿たどり着く前に中腹で議論が始まり、喧々諤々けんけんがくがくと興じている間に雲が出てきて周りは見えなくなり、迷妄の雲の中で右往左往していたのでは真理の峰に辿り着くことはできなくなってしまう。今世の人々は真理を求めて五里霧中の中で迷いよろめいている登山者のようです。議論に明け暮れる暇があれば、ず山頂を目指さなくてはならない。真理の峰に立てば、陽光燦々と輝きて美しい下界を共に喜び合って眺めることができるでしょう。このように真理の峰は一つであり、思想や哲学を超えています。目の前の迷妄の雲を払ってしまえば、太陽が輝き全貌が明らかになっていくことをサトらなくてはなりません。私はしばらくこの地に滞在しますから、もっと皆さんといろいろとお話がしたいですね」

「おお、せひ」

「これは今までに聞いたこともない、珍しい話だ」

 哲学者たちはイェースズに、意外に好意的に接してくれた。

「決して私は、皆さんの哲学というものを否定するつもりはありませんよ。ただ、もっと奥深い、心というものよりもさらに奥に霊的な世界があるということを知っていただきたいんです。心というものは、目に見えるものしか解決できないのです。五官に振り回されていては、永遠なる霊の世界は体得できないでしょう。五官のような肉体ではなく、あくまで目に見えない霊の方が主体なんですよ。皆さんの哲学と霊的法則を十字に組めば、すごい智慧となると思うんですけど」

 哲学者たちはしばらく反応するのも忘れ、ぽかんと口を開けていた。しばらくたってから、ようやく人々の間でまた拍手が起こった。

「いやあ、おもしろい話だ」

「ぜひゆっくり滞在なさって、ここでまた我われと語りましょう」

 イェースズは哲学者たちが好奇心からにせよ、すんなり自分の話を聞いてくれるのが嬉しかった。同胞であっても自分に敵意しか向けなかった律法学者とは、雲泥の差だ。

 その晩はヌプやウタリとともに、イェースズはアポロの家に泊まった。そして勧められるまま、その家にそのまま逗留することにした。 

 

 それから毎日イェースズは、アレオパゴスの集会所で哲学者たちと問答するのが日課となった。この集会所は教養のある評議員たちが集まるアレオパゴス評議所という法廷で、ここに集まっているのは貴族たちであり、ここはそういった貴族や哲学者が政治や宗教、文化などについて討論をする場所であった。また、新しい哲学や宗教を伝える人に関して、その内容を吟味する場所でもあったのである。

 この地は気候も穏やかで、よく晴れていれば丘の上から海が見え、その青さは今までイェースズが行ったことのあるどの地方の海よりも青く感じられた。また、アテネの町が一望だった。

 イェースズと話をするために集まってい来る人々は、哲学者だけでなく貴族らしき人も増えていった。中にはイェースズを新しい宗教の導入者と見て、この評議所で吟味しようという意図でやってくるものいて、イェースズはすぐに想念を読み取ってそのことを知ったが、ほとんどがイェースズの話を聞くうちにそれに感化されていった。

 そんなある日、イェースズがいつものように人々と評議所の中で話していると、血相を変えて駆け込んできた男がいた。

「デルファイ神殿で、ご神託がくだっているそうです」

 それを聞いてアポロがイェースズの話を遮り、

「あなたもご神託をご覧になりませんか?」

 と、イェースズに聞いた。

「ご神託?」

「御神霊が時々、神殿に仕える女に降って御神示を下さるんです」

「そういうことがあるんですか」

 イェースズは、その事実には驚かなかった。ただ、この地ではよくそういうことがあると聞いて興味を持った。イスラエルの地ではあり得ないことだ。ユダヤは一神教で、天地創造の神おひと方しか神を認めない。そんな天地創造の神が人間にかるはずはないし、そのような事例があったにせよユダヤの唯物医学は単に精神異常と片付けてしまう。

「ご同行しましょう」

 アポロにそう言われて、イェースズはその現場を見たいと思った。彼自身これまで何度も神霊に遭遇しているし、御神示も戴いている。しかし、人の肉身にかる霊とも会話してきた経験上、邪神邪霊、挙げ句の果てには動物霊までもが高級神霊の名を騙って人の肉身に憑依してしゃべることがあるので気をつけねばならないことを知っている。そういうのに騙されると、危険な霊媒信仰に陥りかねない。

 だから、デルファイの信託というのもその類ではないかどうかを確認しなければいけないと思ったのだ。もしそうなら、人々を危険から救う必要がある。だからイェースズは、アポロに同行を希望した。


 イェースズは最初、そのデルファイの神殿というのがアテネの町の中にあるものだとばかり思っていた。しかし聞けば、アテネの北西の方へ丘陵地帯を続く道を歩いて約四日の距離にあるという。そうなると、エルサレレムからガリラヤまでの距離に等しい。

 だが、ご神託がいつまで続くか分からないので、ヌプとウタリはおいて、イェースズとアポロの二人で馬を飛ばして行くことにした。そうすると翌日には着けるという。イェースズたちは、すぐに出発した。

 緑の森に覆われた丘陵地帯を道は続く。この国は国土が狭いながらも山がちで、平地は少ない。だが、そう峻険な山があるわけでもなかった。

 やがて二日目には、道は山道となった。深山幽谷へと進んで行くうちに、デルファイに着いた。もう丘陵地帯というよりも、ちょっとした山岳地帯だ。デルファイの町は山の上にこびりつくようにして乗っており、神殿は町からは少し離れた山の中腹にあった。背後の岩山に抱かれるように、秘境ともいえるその神殿は神秘な気がみなぎっていた。

「汝自身を知れ」と刻まれた門を入って石畳に舗装された上り坂の参道を歩き、いくつもの神像を見ながら大きく右に折れると神殿があった。太陽神アポロを祭る神殿だという。

 やはりいくつもの太い石の円柱に屋根が支えられているもので、神殿の下は半円形の野外劇場だ。斜面を利用して観客席が造られ、舞台は下の方にあった。神殿の上の方には、競技場があるという。ここは、世界のへそなのだと、アポロは着く前にイェースズに説明していた。

 神殿には多くの市民や神官、学者が集まり、互いにざわざわと論じ合っていた。誰もが興奮している様子だった。かつてはこの神殿で、よくアポロ神の信託が降っていたという。

 神殿の屋根の下の中央に一人の少女が白い寛衣を着てすわっていたが、それが依代よりしろとなる巫女なのだろう。長いブロンドの髪の少女は、目をつぶってうつむいていた。アポロとイェースズは人ごみを分けて、その少女の前に出た。途端に少女は目を閉じたまま、顔を上げた。

「アポロ!」

 少女の口が動いた。太陽神を呼んでいるのか、イェースズと一緒に来たアポロを呼んでいるのか、それは分からない。ただ少なくともその口調は少女のそれではなく、威厳に充ちていた。

「月の世は終わりを告ぐるぞよ。アサになるぞと申しておろうが。デルファイの太陽のアポロはやがて月に当たりて月の世は突き当たり、天炎呂あほろの世が来るのじゃよ。正神真神まがみ、岩戸開くぞ。そうなれば人々は、デルファイの声を聞く必要はなくなるのじゃ。今は木や金や宝石にて神の光を現しておるが、これからは違うぞ。人を使うのじゃよ。こう申すは、ユラリヒコの神」

 イェースズは霊眼を開いた。少女に下った神霊とは、本物であった。そしてイェースズには、その御神霊の御名までもが分かってしまった。

 月の系統、水の系統の副神でも、ましてや邪霊でもない。天地を創造された天の御父、国祖の神に直に従う大天津神様、すなわち正神、火の系統の神様であったのだ。

「まずは、インマヌエルに聞け! インマヌエル、この地に来られたのじゃよ」

 それだけ言うと、少女は大声で「おお!」と叫んで地に伏した。それと同時に、御神託を下した御神霊とイェースズの魂は瞬時にして交流交感していた。国祖の神の股肱であったその御神霊は、超太古の天の岩戸閉め、国祖ご引退によってこのギリシャの地の霊界に隠遁された。

 しかし、「ろ」の国、すなわち現界的にはヨモツ国といわれるこの地の霊界は、副神の親玉の神が君臨し、その配下にある金毛九尾や八尾狐を率いて磐石に構えている。そして霊の元つ国の霊界さえ狙っている有様であったが、御神霊は隠遁の身であって表立っては何もできず、そこでこの地の人々を愛し、あらゆる文化、技術を発達せしめて、それが副神の支配するヨモツ国においてもその科学技術や文明が他を凌駕するように仕組んできたのである。この国の文化は、小国であるが今後全世界の文明に影響を与えるはずである。

 こういった正神の神の隠遁する地であればこそ、第一に火柱を立てなければなかったのだ。イェースズは早速この地の霊界に両手をかざして、霊界を浄めた。そして目には見えない火柱を立てていった。

 イェースズとともにここまで来た友人のアポロは、御神託の様子を見てイェースズの顔をのぞきこんだ。

「今、語っていたのは……」

「神々様のおひと方でしょう」

「あなたはユダヤ人なのに、異邦人の神を信じるのですか?」

「本当の神様には、異邦人も何もありませんよ。すべての人類に共通の祖神おやかみ様はおひと方です。でも、この絶対神をユダヤ人は崇めますけど、その神様の下に眷属の神々が多数おられます。これが神界の実相なんです」

 それだけ言ってイェースズは、ニッコリと笑った。 

 

 アテネに戻ってから数日間、いい天気が続いた。夏になると雨はぐっと少なくなり猛暑となるが、乾季となってからっとしていて過ごしやすい。もっとも、冬の雨季でもこの国では、それほど多くの雨は降らないということだった。だが、夏になったばかりの頃はごくたまに嵐がこの国を襲うこともあるということだが、ちょうど話に聞いたその嵐の日の夜に、イェースズはアポロの家で漁船が転覆しそうになっているという知らせを受けた。

 イェースズはすぐに飛び出して、嵐の中を海岸へと走っていった。知らせを聞いたのは夕刻だったが、海岸に着いたらもうすっかり暗くなっていた。浜では篝火が炊かれていたが、それを激しく雨が殴ってはいた。寄せる波は、人の背丈よりも高くはなかった。転覆した船は案外海岸の近い所でその腹を見せ、多くの人がそれにしがみついて大声で助けを求めている。

 なんとか救助の船は出せそうなくらいの波の高さで、そのためにちょうどよい漁船もいくつも浜にはある。人も浜辺には大勢いた。

 だが、驚いたことに、誰も救助の船を出そうとはしていなかった。もし人々がそうしていたのなら、イェースズが知らせを聞いてここに駆けつけるまでの間に、とっくに転覆した船の人々は救助されていたはずだ。

 イェースズは当然そうだと思っていたので、救助された人の中に救いを求めている人がいるのではないかと思って駆けつけたのだ。ところが、なんとまだ転覆船は救助されされていなかった。

 多勢いる人々は何をしているのかというと、雨の中に海の神ポセイドンの神像を持ち出し、それを囲んで一所懸命拝んでいるのだ。像は雨ざらしとなって、無言で宙を見つめていた。

 イェースズはヌプとウタリに命じて、そのへんの船を沖にと漕ぎ出させた。そしてイェースズ自身がそれに飛び乗り、ヌプとウタリは大波を避けてうまく船を操った。そしてすぐに、転覆している船に近づいた。岩場に乗り上げているようで、岸からそう遠くはない。もし嵐でなく穏やかな海だったら、十分岸まで泳いで戻れるほどの距離だ。

 イェースズは肉体をエクトプラズマ化させ、海の上に飛び降りるとそのまま波の上を歩行して溺れている人たちに近寄り、一人ずつ手を引いて自分が乗ってきた船へと押し込んだ。

 イェースズたちが戻ると、やっと神像を拝んでいた人々は拝むのをやめ、イェースズの周りに群がってきた。それには構わずイェースズはヌプたちに手伝わせて、溺れていた人々を介抱した。水を飲んでいるものは胸を押して水を吐かせ、口移しに息を吹き込んだりもした。また外傷がひどいものには手をかざし、その傷をみるみる塞いでいった。

 ひと通りそれが終わった頃、嵐も小康状態になった。イェースズは大きく息をついた。そしてようやく、群衆が自分を取り囲んでいるのに気がついた。イェースズは厳しい表情を彼らに向け、大声で言った。

「皆さんは神様の力を信頼していた。それはいいことだと思います。でも、それしかすることはなかったのですか!? 石の神像を拝んで、それで少しでも嵐がやみましたか?」

 人々はいきなり現れた異邦人の顔の男に戸惑ってざわついていたが、その剣幕に圧倒されて言葉をのみ込みはじめた。イェースズの口調には、ますます力が入った。

「この雨ざらしの石の像のどこに、嵐を鎮める力がありますか? この像の頭にハエ一匹とまっても自分ではどうすることもできない像に、何ができるというのですか? もちろん、あなた方の信仰を否定するつもりはありません。あなた方がこの石の像で表された海の神を信じ、それを拝むのはいいことです。でも、目に見えない本当の神様のみ力は、人間が与えられた力を十分に使ってやるべきことをやった時に、はじめて手を差し伸べて下さって足りないところを補って下さるのです。与えられた力を出しきらないで、ましてや今のように何もしないで、『神様、お願いします。神様、お願いします』じゃ、だめなんですよ。天井に向かって、パンが落ちてくるのを期待して口を開けて待っているようなものです」

 人々はまだ、沈黙したままだった。イェースズは幾分口調を和らげて、続けた。

「人が神様から与えられた力を出しきった時に、神様は救いの手を差し伸べて下さるのです。もちろん、人間の力が万能だとうぬぼれてはいけませんけどね。いいですか、これはあなた方が好きな哲学などではなくて、神様の霊的な法則なんですよ」

 イェースズは間を置き、またもう一度人々の顔を見わたした。何人かは感じるところがあったようで、こうべをたれている。さらにイェースズは話を続けた。

「今日はこうして私が駆けつけて何人かを助けさせて頂きましたけどね、あなた方が像に祈っている間に、助ければ助かる人まで溺れて死んでしまった可能性はあるんですよ。神様は、この世のことは人間に任せておられるんです。救いを現すにしても、人間の体を通してなんです。神様の世界には神様の世界のやり方、この世にはこの世のやり方があって、同じではないんです。その神様を拝むのなら最高の捧げものをするべきで、それは同じ神の子である兄弟である他人を一人でも多く救う、これが最高の神様へのいさおしなんです。祈りは大切ですけど、祈っているだけでは神様はうるさいとおっしゃいますよ。祈ったら、行動に出ることが大事です。あなた方が隣人にしたことを、神様はして下さいます。隣人に何もしないで祈っているだけでは、神様も何もして下さいませんよ」

 イェースズはそこではじめて、笑顔を見せた。それによって、人々の心も少し和んだようだ。

「おお、あなたは」

 人々はそう口々に言って、イェースズに近づいて来た。

「あなたはもしかして聖賢アポロの友人で、アレオパゴスにいつもおられる方では?」

 一人がそう言うのでイェースズはうなずいた。

「おお、素晴らしい。哲学以上の教えを、この方は持っておられる。しかも、分かりやすい」

 イェースズは、ニッコリ微笑んだ。

「哲学は、難しいですね。でも、私が説いているのは、神様のミチです。真理とは本来は分かりやすいもので、聞いたらすぐ実践できるものなんです」

 イェースズは微笑んだまま、人々が差し出す手をしっかり握った。 

 

 いよいよ、本格的な夏が訪れた。イェースズはそろそろこの国をあとにすることを、アポロに告げた。

「エルサレムに帰るのですか?」

「イェースズは首を横に振った」

「いえ、もっと西に行きます」

 それだけを、イェースズは答えておいた。だが、それだけで十分に行き先は分かる。ギリシャより西で、わざわざ行くような所といえばローマしかない。

 イェースズは、大帝国の都は見るべきだと思っていたし、ユダヤを苦しめているその元凶の正体も見たかった。だがそれは、彼にとってかなり危険な旅になるはずだった。

 現界的にということではなく、霊的に今のローマの霊界を統治しているのは副神の神の親玉なのだ。ただの副神ではなく、多くの邪霊や思凝霊を配下にして、いつかは霊の元つ国の霊界をも掌中にせんとたくらんでいるあの女神なのだ。しかし、フトマニ・クシロの関係上も、どうしてもローマへは行かなければならない。

 出発の前日、イェースズはヌプやウタリと共に、アクロポリスの大バルテノンに登った。石造りの図太い巨大な円柱が天に届けとばかり並んで、巨大な屋根を支えている。この丘の上からは、アテネの町すべてが見渡せた。イェースズはここでも火柱を打ち立てるべく丘の上から両手を町全体にかざし、このあたりの霊界を一気に明かなにした。それからいつものアレオパゴスに戻り、人々に挨拶をした。

「私は子供の頃から世界のいろんな国を旅してきましたが、こんなに温かく迎えて下さった所はありませんでした」

 なにしろこのアテネの霊界には、正神の神様が隠遁されているのである。霊界も現界も、どこか光に充ちていた。

「私はここでいろいろな話をさせて頂きましたけれど、要は肉と骨と知力だけを頼るか、人の本源である霊的生命を重視するかです。皆さん、がんばって下さい。今この地には神の火柱が立ちました。といっても、それは目には見えませんし、それについて語ろうと思うと、私はここに骨を埋めなくてはならなくなる」

「おお、どうぞ。ぜひ骨をうずめて下さい」

 初老の哲学者が、ニコニコとそう言った。イェースズはまたにこやかに微笑んで、続けた。

「皆さん、お互いにがんばりましょう。しっかりと霊が主体であることをサトって、哲学よりも奥深い、霊的なミチを極めて下さい。そうすれば神様はあなた方の楯となって下さるでしょう」

 翌日の出発の日も、アポロはじめ多くの人が港まで見送りにきてくれた。そこでイェースズはまた、彼らに口を開いた。

「デルファイの信託は、もうないでしょう。今までは木や石の神像を通して神様はみ光を与えて下さっていましたけど、これからは直接、人間の霊体をお使いになります。やがてはイスラエルからも、私のそばにいた神の使徒たちがここに来る時があるでしょう。その時には、何分よろしくお願いします」

 船はマルス号というローマへの直行便で、かなり大きな帆船だった。多くの商人やローマの市民たちと共に、イェースズはヌプやウタリと共に船上の人となった。帆が風を受け、錨が上げられた。やがて船は大海へと滑りだした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る