14、復活の朝

 イェースズとあとから来たヌプとウタリは、そのまま園で朝を迎えた。

 すっかり明るくなると、小鳥たちの声がうるさいくらいにあたりに満ちた。春の中であった。空も昨日までの悪天候が嘘のように雲ひとつなく、ぬけるような青さで晴れわたっていた。はりつめた空気が、朝のさわやかさと新鮮さを強調しているようだ。

 イェースズは日が昇りきる前に、草の上で眠っていたヌプとウタリを起こした。ヨシェの墓は入り口の石がとりのぞかれたままで、そのことが昨夜の出来事が夢ではなかったことを物語っていた。

「二人とも墓の中に入って、誰か来たら『この墓の中の人はもうここにはいません』って言うんだ」

 イェースズは「墓の中の人はここにいない」というアラム語を、二人に教えこんだ。そのあとですぐに二人は、墓の方へ走っていった。その衣は白く、やっと昇った朝日を受けてまぶしいくらいに輝いていた。

 イェースズは頬かむりをして、その辺の草をいじりはじめた。緑の葉の中に、ところどころに黄色い花が点在している。こんな小さな花にも、生命があふれんばかりに感じられた。

 園に入ってくる人影があった。

 イェースズは頬かむりを深くし、低い木の下でその二人の姿を見た。ひと目で一人はイェースズの妻のマリア、そしてもう一人は母マリアだとわかった。妻マリアは、手に香料を携えていた。

 イェースズはすぐにも飛び出したかったが、一抹のためらいを感じてそのまま見ていた。二人は会話が聞きとれるほど、近くまで歩いてきた。

「あのお墓の入り口の石、どかせられるかしら」

「私たちだけじゃ、無理かもしれませんわ、お義母かあ様。誰かいないかしら」

 そう言ってあたりを見回した妻マリアが、イェースズの姿を見つけた。

「でもほら、管理人さんがいますわ。よかった」

 母と妻は自分を墓の管理人だと思っているようなので、イェースズは隠れるのをやめて草むしりを始めた。

「管理人さーん」

 妻マリアが二、三歩イェースズの方に近づいた時、母マリアが大声を上げた。

「ちょっと! あれはどうしたことでしょう! 入り口が開いている!」

「うそ!」

 二人はイェースズから離れ、墓の方へ駆けていった。

「どういうこと?」

「とにかくあの人たち、呼んできましょうよ」

 妻マリアが言って、香料を置いたまま二人は駆けて園から出ていった。

 息を切らせてが走ってきた。使徒たちの中の、ペトロとヤコブ、エレアザルの三人だった。彼らは、こんなにすぐにここに来られるくらいの近い距離にいたらしい。

 まず、エレアザルが中をのぞいた。後ろから、ペトロが声をかけた。

「何か見えるか?」

「いえ、布があるだけです」

「どれ」

 ペトロは墓に入っていった。

「遺体がない!」

 墓の中から、ペトロの叫ぶ声がした。

「遺体がないって?」

「体をくるんでいた布があるだけだ。頭を包んでいたのは、離れた所にまるめてある」

 中から大声がしたあと、声の主のペトロはすぐに出てきた。そこへ妻マリアも戻ってきた。年老いた母マリアは、若い人と同じくらいには走れないから、まだのようだ。ペトロは、イェースズの妻マリアに言った。

「遺体が盗まれた。みんなに知らせてくるから、ここで見張っていてくれ」

 ペトロとヨハネが走り去ると、ひとり妻マリアだけが残された。彼女はただ呆然と立ちすくんでいた。その時やっと、ヌプとウタリが墓の中から出てきた。ペトロが入った時は、憶して棺の後ろかどこかに隠れていたのだろう。

「天使……!?」

 マリアはその二人の姿を見て、目を開いてその場にひざまずいた。エルサレムに来る途中の旅路で彼ら二人と会って共にエルサレムまで来たマリアであったが、朝日に衣ばかりが白く輝き、かぶりもので顔がよく見えなかったためにあの二人だとはマリアは思わなかったようだ。

「誰かが先生ラビの体を、どこかへ持っていってしまったようなんです」

 両手の指を組み、涙を流してマリアは訴えた。

「この墓の中の人は、もうここにはいません」

 ヌプが教えられた通りに、上手にアラム語で言った。イェースズは静かにマリアのそばに歩み寄り、その背後に立った。マリアはふりむいた。

「あ、管理人さん」

「どうしました? どなたをお探しです?」

「この墓に葬ってあった人は? もし管理人さんがどこかに移したのでしたら、教えて下さいませんか。私たちがひきとりますから」

「どうして生きている人を、死人の中に探すのですか」

 マリアは涙を流しながらも、小首をかしげた。イェースズは頬かぶりをとった。

「マリア」

 優しく微笑みかけるイェースズを、妻マリアはただ口をぽかんと開けて見ていた。やがてその唇がゆっくり動き、微かな声が発せられた。

「ラ……ビ……」

 次の瞬間、マリアはイェースズの胸に飛び込んだ。そして、固く抱擁した。

先生ラビ、どう、どうして……、どうして……?」

 イェースズは優しく、マリアの体を離した。そしてにこやかに微笑んだ。

「さあ、そんなにべたべたとすがりつかないで。みんなの所に行って、私は生きているとみんなに伝えてくれ。そしてベタニヤに戻って、ゼベダイの家に集まっているようにってね。私はそこで彼らに会おう」

 もう一度ニッコリ笑みを投げると、イェースズはその場をあとにした。ヌプとウタリがそれに従った。マリアはまだ呆然と、同じ場所に立ちすくんでいた。

 

 夕方にイェースズも、ベタニヤに向かうことにした。よく晴れていて、晴れたらそろそろ暑ささえ感じられるころだ。

 ヌプとウタリを左右にしてベタニヤへの街道を急ぐイェースズの周りにも、祭りの期間中とあって通行人は多かった。そのイェースズたちのすぐ前を歩いていた男二人連れの会話が、イェースズの耳に飛び込んできた。

「でも、ほんとかなあ、クレオパ」

「死体が盗まれたってもんな」

 すぐに自分のことを話しているのだなと、イェースズは気がついた。エルサレムの市民にとって、ヨシェがかかった十字架は、毎日のおびただしい数の十字架の一本にすぎず、大多数の市民にとっては関心の対象になっていないはずだった。

 知っていて関心を向けなかったのではなく、おとといの昼過ぎの三本の十字架のことなど知らない人の方が多かったはずである。それを、前を歩いている人たちは話題にしているということは、特殊な人たちらしい。

 しかし、特殊な人たちとはいえ、その人々の間に遺体消滅事件のことはすでに知れわたっているようだ。

「本当に盗まれたのかねえ。毎日あんな素晴らしい話を聞かせてくれた師だぜ。ひょっとしてひょっとするかもよ」

「いくらなんでもそんな馬鹿な」

 イェースズは少し歩速を早めて、追い越しがてらに二人の顔をのぞいた。確かに特殊な人たちで、それはいつもイェースズが神殿のそばで説法をしていた時に、いつも真ん前で話を聞いていたいわば信奉者たちだ。もはやエルサレムも郊外にぬけたと安心して、それで大きな声で事件の話をしていたのだろう。

 イェースズは完全に二人を追い抜いて、そしてその前で立ち止まって振り向いた。

「あなた方はいったい、何のお話をされているんですか」

 二人の顔が見るみる蒼ざめ、体は自然に応戦か逃亡かの選択をしきれないような中途半端な動きとなって震えだした。

 イェースズを律法学者の手の者と思ったらしい。しまった、こんな話をするんじゃなかったという後悔の念が、二人の想念から読み取れる。二人の男は、後ずさりした。ましてや目の前の男がイェースズだなどとは思っていない。

 イェースズは死んだという先入観が彼らの頭を支配し、何ら変装をしてないイェースズの顔を直接見てもそれがイェースズだとは思わなかったのだ。

 二人はとうとう逃げだそうとした。

「逃げなくても大丈夫。私はあなた方の言うラビをよく知っていますし、逮捕のいきさつも知っています。それによると、神殿兵も今後一切あなた方のラビの使徒、弟子、信奉者には一切手出しせず、お構いなしになったのですよ」

 二人ともまだ、半信半疑だった。

「実は私、今日は昼職を食べていないんです。よろしかったらごいっしょしませんか? あなた方のラビの話も聞きたい」

 イェースズが近くの草むらに腰をおろすと、二人の男もためらいながらついてきて座った。ヌプとウタリは、イェースズの背後につっ立っていた。

「で、あなた方のラビは、どんな方だったのです?」

 クレオパと呼ばれた男よりも早く、もう一人のザッカイという男が答えた。

「預言者でした。言葉だけでなく、実際に神のわざの奇跡もできる人でしてね。でも、おととい死刑になってしまいました。ローマ人の手でです」

「この方こそローマからの圧政からユダヤを救ってくれる救世主だと思っていたんですけどね」

 と、もう一人のクレオパが付け加えた。

「おまけに死体が盗まれたってことなんで、これは毎日あの方の話を聞いていた人がまず疑われると思って、我われはとにかくエルサレムをあとにすることにしたんです」

 イェースズは、ニッコリ笑った。

「そうですか。ところで、よかったら私のパンをどうぞ。祭りの期間ですから種なしパンですけど」

 そして懐から種なしパンを取り出すと、それを割いてクレオパとザッカイの二人に渡した。そして急に、イェースズの口調が変わった。

「これをとって食べなさい」

 それは、いつも神殿のそばで人々に説法をしていた時のあのイェースズの口調だった。

「私の体である命のパンを食べなさい。生命いのちのパンと救いの杯を戴くものは、永遠の生命いのちが得られますから」

 叫んだのはクレオパもザッカイも同時だった。

「ま、ま、まさか、あなたは……。似ているとは思っていたけど」

 震える指で、クレオパはイェースズを指さした。イェースズは依然頬笑みながらも、ゆっくりとうなずいた。

「じょ、冗談でしょ? た、ただのそっくりさんでしょ?」

 イェースズは何も答えずに笑いながら立ち上がり、尻もちをついて動けないでいる二人に笑顔で、

「主の平和シャローム

 と、言って、街道を先へ急いだ。もう、エルサレム郊外だからと、イェースズもちょっとしたいたずら心を出したようだった。

 

 夕方になってイェースズがベタニヤのゼベダイの家に着くと、扉は内側から鍵がかけられていた。ローマ兵を警戒しているらしい。イェースズは一気に肉体をエクトプラズマ化させ、難なく物質の扉をすりぬけた。

 使徒はイスカリオテのユダと熱心党ゼーロタイのシモンを除いた十人とも集まり、それにヤコブ、エレアザルの父と姉妹、イェースズの妻マリア、そして母マリアがひとかたまりになって座っていた。重苦しい空気がそこにあった。イェースズの妻のマリアが言ったことを、まだ誰も信じていないようだ。イェースズは部屋に入った。何人かが顔を上げた。

「うわっ! 出たあッ!」

 トマスがまず絶叫した。みな恐怖におののき、座ったままあとずさりしていた。ただペトロと母マリアだけは平然と、イェースズを直視していた。

主の平和シャローム(こんにちは)」

 イェースズはニコニコしてそう言ったが、挨拶を返す者はいなかった。トマスはまだ歯を鳴らしていた。

「何を恐がっているんだい? 私だよ。私は生きているよ。幽霊なんかじゃない。ほら、さわってごらん」

 イェースズはトマスに手をさしのべた。トマスは恐々、その手に触れた。

「ほらね、正真正銘の私だろ。幽霊なんかじゃない。幽霊だったら触れないよ」

 使徒たちの真ん中には、すでに夕食の魚が用意されていた。

「頂いていいかな?」

 ペトロが手で勧めた。イェースズは焼き魚を食べた。

「ああっ!」

 ヤコブが大声を出した。

「幽霊じゃない! 幽霊だったら、食事なんかするわけがない!」

「本物の先生ラビが生きておられる!」

 人々の声に明るさが戻り、その顔も一斉に光が輝いた。室内がパッと招命に照らされたように明るくなった。

先生ラビが生きておられる!」

 笑顔で互いに手をとりあい、そして使徒たちはイェースズを囲んでその体に触れた。喜びの渦で、室内は輝き充ちた。

先生ラビが生きておられる」

「紛れもない、先生ラビだ!」

「私たちの先生ラビだ!」

「でも、なぜ……。なぜ先生ラビが生きておられる?」

 トマスがつぶやくと、エレアザルがゆっくり口を開いた。

「奇蹟だ。私は先生ラビに、死からこの世に呼び戻された。しかし先生ラビはご自身で、死から立ち上がられたんだ」

先生ラビの正しさを、神様が証明されたんだ。先生ラビは死に打ち勝たれたんだよ」

 小ヤコブも気狂いのように、叫びまわっていた。

先生ラビが十字架にかけられると聞いた時、先生ラビの教えは結局は今の世の中に通用しなかったのかって、悲しかった。でも、先生ラビが正しかったっていうことは、神様が証明して下さったんだ」

先生ラビは復活された」

 その最後のピリポの言葉にイェースズはほほえんで、それから全員を見回した。

「復活というのは、肉体が生き返ることじゃあないんだよ。事実、私は死んではいない。死んではいないけれども、私は今、神の子として蘇った。それが本当の、神の子の復活だ。あなた方も皆等しく神の子なのだから、誰もがこの神の子の力を甦らせなければならない。神の栄光に満ちて、霊化されて霊的に変容することが本当の復活なのだよ。そして復活後の私には、本当の意味で神様の御用が始まるんだ」

 誰もが歓声を納め、イェースズを見つめて聞いていた。心なしかイェースズは、少し目を伏せた。

「あの過越の晩餐で言ったことは、本当だ。その神様の御用のために、私はもうすぐいなくなる。あなた方とも束の間の再会だけど、またすぐにお別れなんだ」

 しばらくは沈黙が漂った。

「そんなあ、先生ラビ。せっかく再会できたのに、またどこかへ行かれてしまうんですか?」

 小ユダが、半分涙ぐんで訴えた。

「とにかく今」

 しばらくの沈黙を破って、アンドレが声を上げた。

「今ここに先生ラビがいてくださるだけで十分だ。夢が覚めないうちに、この夢の楽しさを存分に味わおう」

「夢ではない。現実だ」

 と、ペトロが少し目を伏せて言った。母マリアもまた、目を伏せていた。イェースズはそんなペトロに少し目配せをしてから、また明るく笑った。

「あなた方は今まで、私と苦しみを共にしてくれた。でももう受難の時代は終わった。ともに喜び、ともに祝おう」

 イェースズも嬉しそうにそう言った。なにしろ二度と会えないと思っていた使徒たちに、こうして再会できたのだ。そしてそのまま、喜びの祝宴が始まった。

 

 その夜、イェースズはひそかに部屋を抜け出して庭に出た。そこに妻のマリアがいた。イェースズはすでにマリアが一人庭に出ていることを察知し、故意に出てきたのである。

先生ラビ

 マリアは驚いたように、顔を上げた。その顔は満月から少し欠けた月に照らし出されて輝いた。

「何をしていたんだい?」

 優しい笑顔を、イェースズは妻でありそして弟子であるマリアに向けた。

先生ラビとまだこうしていられるのが夢のようで、もしかしたら幻を見ているのではないかと思いまして。夜風に当たれば、幻か現実かはっきりするでしょう?」

 それを聞いて、イェースズはまた笑った。

「私は幻ではないかもしれないし、幻かもしれない。でも、最初にあなたが生きている私を見た時、あなたは動じなかったね。それはあなたの叡智のなすところ、あなたは幸せだ。その叡智を大事にしなさい」

先生ラビ、もしあなたが幻なら、私の心が見ているのですか? それとも魂が見ているのですか?」

「そういう二元的に考えないで、魂と心を十字に結んだところに叡智が生じて、その叡智が幻も、神さえもあなたに示す。唯霊も唯心も、もちろん唯物も偏頗だ。でも魂、つまりあくまで霊が主体で縦、心は従で横だ。そしてその叡智に至るには、退けなければならないものがある。第一に心の闇、つまり陰の波動、次に我欲、そして無智、妬み、物質欲、人知才知、怒りの想念だ。これらはすべてその原因は、自己愛だ。われしの心だ。でも決して『悪』ではない。それらすべても神様の大経綸によってとりあえず生じている仮のものだから、それらを裁いている暇があったら、克服するんだ。さもないと、叡智にはたどり着けない。いちばんの方法は、それらにとらわれないことだ。それらはもともと存在しないのだから、存在しないものにとらわれるのがおかしい。自分の内にそのような悪想念がわいたら、どうしてありもしないものがあるのかと、それを払い除ければいいだけだよ。己心おのれごころあるうちは、神様からはお使い頂けないんだ」

 イェースズはもう一度優しく笑って、それだけできびすを返した。

 

 翌朝、使徒たちとイェースズは、近くの小高い丘に登った。登ったというより、この丘の斜面にベタニヤの村は造られている。同行したのは十人の使徒のほかに妻マリア、そしてヤコブやエレアザルの姉妹のマルタとマリア、当然ヌプとウタリもいた。

 使徒たちにはまだ、どこかに恐怖心が残っているようだ。あれだけの軍勢に捕らえられて極刑になった師が実はまだ生きているということが、ローマ当局に知れたら一大事である。

 だが、イェースズの明るさと、再び師と共にいるという喜びで、そんな心も晴れていった。

 ここは至近距離とはいえエルサレムではない。それに、イェースズが十字架上で死んだと思い込んでいる人々に、実はイェースズが生きていると言ったところで誰も相手にしないだろう。そんな安心感から、使徒たちの心もほぐれていった。

 だが、その当の使徒たちもまだ、半分は夢を見ているのではないかと現実を受け入れられずにいた。そのような中で、イェースズが今ここにいることを唯一現実として受け入れられるのがペトロであった。

 そして彼らが手放しに喜べない要因は、イェースズが再会は束の間であることを昨日のうちに宣言していたことだ。

 頂上に着いた。ここは見晴らしがよく、荒野ごしに遠くにエルサレムが望める。そんな頂上で、イェースズはペトロをそっと離れた場所に呼び、小声で話した。

「ペトロ。あなたは私を今でも、師として愛しているかね?」

「もちろんです。それは、先生ラビがいちばんよくご存じじゃないですか」

 ペトロは照れ隠しに、少し笑った。イェースズは一段と、声を落とした。

「決して誰にも、あなたが知っている真実を語ってはいけない」

 ペトロは慌てて神妙な顔をしてうなずいた。イェースズは話を続けた。

「前にも言ったように、あなたには司牧しなければならない羊の群れがある。今まであなたは、あなたの思う通りの人生を歩んできたかもしれないけれど、これからは不本意なミチも歩まねければいけなくなるよ」

先生ラビ、それは私だけですか? それともここにいるみんなもそうですか? 例えばあのエレアザルも?」

 ペトロがエレアザルを引き合いに出したのは、エレアザルが二人からいちばん近い所に座っていたからだ。

「エレアザルはエレアザルだ。例えば、私がエレアザルにもう二度と死なないようにと願ったところで、それはエレアザルの人生だ。あなたの人生とは違う。あなたは私の教えを実践し、それを広めることを使命として生きていくんだ」

 それからその場に、イェースズは大きな声でエレアザルを呼び寄せた。

「エレアザル。あらためて言うが、母さんを頼む」

 それは十字架上からヨシェがエレアザルに言ったことだが、それを知っているイェースズも、同じことを言った。エレアザルはうなずいた。

「はい。でも、弟さんは?」

 エレアザルがそこまで言いかけた時に、ペトロは大きく咳払いをした。だが逆にイェースズがその咳払いに目配せをした。

「いいかい、エレアザル。あなたの使命はそれだけではない。実はあなたにはとてつもない、もっと大きな使命が与えられようとしている。だから私は、あなたない新しい名を贈る」

 かつて弟のヨシェにイシュカリスという名を贈ったように、イェースズはまた新しい名をエレアザルに贈ろうとしていた。

「ヨハネ――あなたは今日から、ヨハネと名乗るのだ」

「ええっ?」

 エレアザルは目を見開いた。それは普通の名ではない。

 かつて彼が兄のヤコブやペトロたちとともに師事していた師であり、イェースズにとってもまた師に当たる人の名にほかならない。

「ヨハネ師の名を継げと?」

「この名は、ヨハネ師の名というだけでなく、その言霊にとてつもない使命が秘められている。やがて使命が明らかになる時に、その意味もあなたに明らかにされよう」

 その時、小ヤコブがイェースズのそばに来た。

先生ラビ先生ラビはこうして生きておられるのだから、もう私を後継者にする必要はありませんよね。継承のメダイはお返ししましょうか?」

「いや」

 イェースズは静かに首を横に振った。

「あなたは、そのままそれをかけていなさい。そのことでこれからみんなに話をしようとしたところだ」

 そう言ってイェースズは、人々を自分の周りに集めて座らせた。またいつもの有り難い教えが聞けるという想念で、使徒たちは女性の弟子をも含めて集まってきた。そしてイェースズよりも先に、ペトロが口を開いた。

先生ラビ、あなたは私たちにすべてを教えて下さいました。でも、もう一つだけお伺いしたいことがあるんです」

「なんだね?」

 イェースズは慈愛の目をペトロに向けた。

「罪とは、いったい何なのですか?」

 何度も言ってきたはずだなどと、イェースズはもはやペトロを叱責したりはしなかった。

「罪というものは、本来存在しないんだよ」

 誰もが「え?」というような顔で、イェースズを見た。

 イェースズは微笑んでいた。

「例えばある人が姦淫を行ったとしよう、それを律法では罪と称するけれども、罪などというものは存在しない。存在するのは、その罪を犯した人だけだ。その人の想念の中で、その行為は罪になる。そこで、魂の本質が善一途の神の分けみ魂だから、いかなるものも善の方に引き戻そうとする。そこで、魂の浄化が行われるのだよ。時にはそれは、大いなるアガナヒになることもある。だから私はあなた方に、ス直になれと言ってきた。まずは、自分の心にス直になることだ、さしずめそれは、神の分けみ魂の自分の魂にス直になることになる。あなたの神が、あなたの魂となってあなたの中に宿っているのだから、ス直になりなさい」

 それに対してペトロが何か言おうとするよりも早く、ナタナエルが身を乗り出してイェースズに言った。

先生ラビ。一度いなくなった先生ラビが再び戻ってこられたということは、いよいよ天の時なのですか? 先生ラビはいつか、その時にはまた再び戻ってくるっておっしゃってましたよね」

 イェースズは大笑いをした。

「こんなたった三日いなかったからって、私がいなくなって再び戻ってきたなんていうのはいくらなんでも気が短いというものだ。だが、別の意味ではいよいよ時が来たともいえる」

 一同の顔に、緊張が走った。使徒たちは昨夜、イェースズがまたもうすぐいなくなると言ったことを思い出したからだ。その想念を、イェースズは機敏に読み取った。

「あなた方は私がどこかへ行くということばかり気にしているけど、私が行くだけでなくあなた方も行くのだ」

 使徒たちは、怪訝な顔をした。

「かつてあなた方を二人ずつ組ませて近隣の村に派遣したように、今からあなた方を全世界に派遣する」

「世界へ?」

 小ヤコブが首をかしげた。

「そう。世界だ。しばらくはエルサレムに留まっていていいけれど、時が熟したと思ったらサマリヤを含めた全ユダヤだけでなく、ギリシャに、ローマに、エジプトにと教えを広めていくんだ」

 サマリヤや全ユダヤならまだしも、ローマと聞いて使徒たちの身はほとんど硬直していた。

先生ラビ

 ピリポが、目を上げた。

「ガリラヤやエルサレムでもなかなか受け入れない人がいたのに、ましてやローマだなんて」

 それでもイェースズは、穏やかに笑んでいた。

「ローマ人であれギリシャ人であれ、みんな等しく同じ神の子なんだよ。だからあなた方のこれからの道はいばらのミチだと言っておいたんだ。一人一人が私の代理人となって、世界の果てにまで正神の神様の教えを広めるんだ」

先生ラビはどうされるんですか? どこに行かれるんですか?」

 マタイの発問を、誰もがもっともな問いとしてうなずいた。

「私の御神業の範囲は、もはや神界にまで広がった。現界のことはあなた方に任せるから、私は天国での仕事がある。でも、私は死ぬわけじゃないよ。この世にいて天国の仕事をするんだ。そのためにも、今日、今から、そしてこの場所から私は旅に出る」

 使徒たちは、一斉にどよめいた。

「そんな、いくらなんでも昨日今日じゃないですか」

 不満そうなヤコブの言葉に続いて、トマスが、

「そうですよ。せめて四十日くらいはいっしょにいてくださいよ」

 と、言った。その四十日という数がどこから出てきたのか分からず突拍子もないものだっただけに滑稽であったが、誰も笑わなかった。ただ、イェースズだけが笑った。

「その四十日というのは、どこから出てきたんだね。いいかい、私もまたあなた方と同じように、全世界を巡らなければならないんだ。まずはこのエルサレレムに正神の霊的くさびを打ち込んだのだから、次の仕事が待っている」

「いやだ、私は先生ラビといっしょに行きます!」

「私も!」

「私もです」

 小ヤコブの叫びをかわぎりに、使徒たちは皆異口同音に叫びをあげていた。

「私も、先生ラビに従います」

 そのヤコブの言葉に、イェースズは静かに首を横に振った。

「たとえ私といっしょに来たからとて、それが私に従うことにはならないよ。むしろばらばらになったとしても、それぞれが同じ神のミチを伝えるという使命に生きるのなら、みんなの心は一つだ。どんなに距離的に離れていても神様のみ意を地に成らしめるために働くのなら、互いの距離は近いといえる。あの晩餐の時にも言ったじゃないか、どんなに遠く離れていても、皆同じ神様の袖の内にあるんだって」

 サトされて、使徒たちもようやく納得した顔でうなずきだした。

「あなた方はもう私の使徒じゃない。神の使徒だ。神の使徒に別れの悲しみなんてない。たとえ西と東に別れていても、心は同じ聖職の友だ。あなた方はもう、私の友だと言っておいたはずだ」

「分かりました。先生ラビのおっしゃる通り、どこへでも行かせて頂きます!」

 小ヤコブの言葉に続いて、今度はそれを使徒たちは異口同音に叫んだ。実に統制のとれた一体化だった。イェースズは感動のあまり、自分の目に涙があふれるのを感じた。

 そのあと、全員の名前をひとりひとり、イェースズは呼んだ。

「ペトロ」

「はい」

「アンドレ」

「はい」

 皆それぞれ、明るく返事をした。

「ヤコブ」

「はい」

「ヨハネ」

「はい」

「マタイ」

「はい」

「トマス」

「はい」

「ナタナエル」

「はい」

「ピリポ」

「はい」

「小ヤコブ」

「はい」

「小ユダ」

「はい」

 少し間をおいてから、イェースズは妻のマリアも見た。

「マリア」

「はい」

 その声は涙に潤んでいた。

「みんな、ありがとう。今日の別れは終わりではなく、出発点、つまり始まりなんだ。全世界へ行って福音を伝えてほしい。あなたがたにはもう、力を授けた。憑依霊による霊障を解消し、体内の毒素をも排泄させる毒消除の神業かむわざを与えたはずだ。病人に手をかざせば癒されるんだから、自信を持って行ってほしい。すべての人に火と聖霊による洗礼バプテスマを与え、神のミチを伝えるんだ。あなた方は神殿の聖職者、ましてや大祭司や世界のいかなる指導者にもできないことができる。神様は聖職者だからということで霊力をお授けになるのではなく、霊力を授かるにふさわしい資格をそなえた人にお授けになるのだよ。ただし、私があなたがたに伝えたこと以外のものを付け加えて、人々を戒律でがんじがらめにするようなことをしてはいけないよ。法律のごとく戒律を人々に守らせるというようなことは、しないでくれ。そうすると、今度はあなた方がその戒律に縛られる。戒律など、人知以外の何ものでもない。さあ、みんな。往け! 地の果てまで。救いの訪れを告げるために!」

「はい!」

 元気のよい返事が、一斉に返ってきた。

 イェースズはもう一度、使徒たちの顔を見まわした。自分から告げた別れであったが、イェースズ自身彼らと会うのがこれで最後という実感がわかなかった。この使徒たちと、いつまでもいっしょにいられるという錯覚さえ起きる。だが、この別れはすべて定めなのだ。

 イェースズはそれから、丘の上から眺める景色をしっかりと目に焼きつけた。赤茶けた荒野の中に浮いているように、エルサレムの町はある。この都に上って半年、さらにはこの故国へ戻ってから約三年、さまざまなことがあった。それは、自分の人生の大部分が凝縮されたような濃い三年だったような気がする。だが、彼の使命は、これからが本番を迎える。

 そして最後に、もう一度遠くに霞むエルサレムを見た。自分がこの国からいなくなるということとは関係なしに、もうしばらくはこの巨大な都市は都として機能し、息づいていくだろう。あの都の中を自分を慕ってくれた信奉者たちが今も歩いているだろうし、律法学者も祭司も、あのカヤパやピラトゥスも、あの霞んで横たわる都市の中のどこかにいるはずだ。そしてその都は、弟ヨシェ――イシュカリスの尊い犠牲の血が流された場所でもある。自分もそこに存在していた都を、イェースズは目を細めて眺めた。

 やがて、イェースズは使徒たちの方へ視線を戻した。

「では私は、先に行く」

先生ラビ!」

先生ラビ!」

 使徒たちの叫びに笑顔で応えながら、

「主の平和が、あなたがたともにあるように。私は世の終わりまで、常にあなたがたとともにいる」

 それだけを言い残して、イェースズはきびすを返した。

 丘をだいぶ下ってから振り向くと、使徒たちはまだ同じ場所にいて手を振っていた。イェースズも手を振り返した。だが、やがてそんな使徒たちの姿も見えなくなった。そしてベタニヤの村は素通りして、先に丘を降りていたヌプ、ウタリと合流したイェースズは、そのまま荒野の中の街道を歩き出した。その懐の中には、イシュカリス・ヨシェの遺髮が抱きかかえられていた。

 イェースズとヌプとウタリ、三人の長い道中はここから始まった。

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