8、エレアザルの復活

 翌朝、イェースズは十二人の使徒だけベタニヤに帰し、自分はエルサレムに残って、神殿に礼拝を続けていた。

 この日も人々に説法をしたかったが、徹夜させてしまった使徒たちにさらにつき合せるのは酷だと思ったからだ。つまり、彼らを休ませようという配慮だった。

 ところが、イェースズが神殿での祈りを終えて人々の待つ広場に向かっている時であった。彼の意識の中に鮮烈な映像が展開された。それは霊的次元で、霊眼ひがんに直接映し出されるヴィジョンであった。

 それによると、十二人の使徒がベタニヤへの帰途で盗賊に襲われているのである。しかも鮮血が飛ぶ光景に、明らかに流血の惨事になっている。これはただの「まぼろし」や幻覚ではなく、明らかに実在していることを見せられていることを知っているイェースズは愕然とした。

 とにかく、一刻も早くベタニヤに戻らねばならない。イェースズは説法を中止して、エルサレムの城壁の門を出てオリーブ山を旋廻する街道を急いだ。

 歩きながらも、彼は考えた。なぜこの霊覚が事前に起こらなかったのか、つまり霊的次元でどうして予知できなかったのかということである。

 しかしそれは、すぐに理由が理解できる。それは、霊覚で未来を予知できる力があったとしても、それは自分の力ではなく神様から下されたものであるからだ。神様のご都合で止められたら、自分には予知も何もできないのである。

 では、その神様のご都合とは何か。それは、自分に対する神様のご守護にほかならない。徹夜させた使徒たちをそのままエルサレムにとどめるのは不可能だったし、ベタニヤに帰すのは必然だ。だが、本来なら自分も使徒たちと同行するはずが、自分だけ残った。

 現界的に見れば使徒たちを休ませようというイェースズの配慮が仇となったわけでそれは「偶然」ということになるが、天地一切の事象はすべてが必然であり、神の声、神仕組みであって、偶然というものは存在しないということも彼は百も承知している。

 とにかく、今はベタニヤに急ぐことが先決だった。


 ようやくたどり着いて町に入ると、人々はせわしげに動きまわっていた。


先生ラビ!」


 イェースズの姿に、血相を変えて走ってきたのはマルタだった。マルタはイェースズのそばまで来ると息を切らせてイェースズの足元にうずくまり、しばらく肩で息をしていた。


「エ、エルサレムまで、エルサレムまで走っていくつもりでした。先生ラビにお知らせしなくてはと」


 イェースズの目に、涙があふれてきた。すでにもうマルタの想念を読み取っているのである。


「弟が、弟のエレアザルが」


「言わなくてもいい。全部、分かった」


 とにかくイェースズはマルタを抱え起こし、共にゼベダイの屋敷へと向かった。その途中でイェースズは、


「人は死んでからまる一日が過ぎるまでは、離脱した霊魂は霊波線で亡骸なきがらと結ばれているから、眠っているようなものだ。その間は、向こうの世界に行ってからの霊的救いもできる」


 と言って慰めていた。

 ゼベダイの家に着くと、エレアザルの遺体が安置されている部屋に残りの十一人の使徒と、目を真っ赤に泣きはらしたマルタの妹のマリアもいた。イェースズが部屋に入るなり、


「だめでした!」


 と、イスカリオテのユダが叫んだ。


「突然現れた五人の盗賊でしたけど、一所懸命戦ったのです」


「戦ったのはユダとペトロ、そしてシモンだけでした」


 と、小ヤコブが言った。


先生ラビは常々、人と争うなとおっしゃっている。だから、身を守るだけで、相手を倒そうという思いは誰も持ちませんでした。しかし、その結果が」


 小ヤコブも泣いているようだった。


「いいんだよ、それでいいんだ。それでよかったんだよ」


 イェースズは使徒たちを見渡した。


「ほかに、怪我はなかったかい?」


 だれも負傷した者はなかったようなので、賊はいちばん若いエレアザルだけを集中的に狙ったようだ。なにしろイスカリオテのユダ、ペトロ、熱心党ゼーロタイのシモン以外は、皆無抵抗だったのだ。


「ゼベダイは?」


 聞くと、よりによってこんな時に妻、すなわちエレアザルの母のいるガリラヤの本邸に仕事で出向いているという。


「たぶんあれは、盗賊なんかじゃない」


 ペトロが涙混じりに、叫ぶように言った。


「おそらく、律法学者が放った刺客だ。先生ラビの命を狙っていたに決まっている」


「そう、決めつけるものではない」


 と、イェースズは言った。確かにその可能性は否定できないものの、憶測の域を出ない。


「いいかい、相手の賊を怨むんじゃないよ。むしろ、敵であるその賊のために祈れと、私は再三言ってきた。究極の感謝はだね、死してもなお感謝なんだ」


 イェースズはそれだけ言うと、静かに祈りを捧げていた。


「あの子は、こんな若さで」


 と、泣きじゃくりながらマルタが言った。


「若くして死んだからとて、それが不幸とは限らない。寿命は神様がお決めになることだ。エレアザルは向こうの世界での神様の御用があるのだよ。こちらでの死は、向こうの世界では誕生なのだから」


 イェースズは自分にも言い聞かせるようにして、マルタに言った。


「そんな、みんな僕のことでめそめそしないでよ。僕は向こうの世界でがんばるからと、エレアザルは言っているよ」


 エレアザルを知っている人なら、誰でもそう感じるであろう言葉だった。

 イェースズは遺体の眉間に手をかざした。先ほどマルタに言った言葉の通りまだ離脱した霊と肉体の間に霊波線はつながっているはずだから、遺体の眉間に霊流を放射すればそれはそのまま霊魂にまで届き、これから行くべき霊層界を上げることもできることをイェースズは知っている。

 確かにエレアザルの死に顔にみるみる赤みがさしてうっすら笑みさえ浮かべ、眠っているのと変わらない状態にまでなって、遺体も死後硬直が解けて柔らかくなった。普通はあり得ないことで、その奇跡に誰もが目を丸くした。


「だいたい死に顔で、その人の霊魂はどういう世界に行くのかが分かる。こんな穏やかな眠っているような表情なら、間違いなく天国に行く」


 イェースズがそう言っているところへ、末の妹のルツが夫のアシャー・ベンとともにやってきた。


「お兄さん!」


 エレアザルの遺体にすがりついた。それでも手をかざすイェースズを、律法学者であるアシャー・ベンは冷ややかな目で見た。


「おまえがうわさの新興宗教の教祖か。盲人の目を癒したおまえが、エレアザルを死なせないようにすることはできなかったのか」


 イェースズはその言葉のぬしには黙礼しただけで、ただひたすら手をかざしながらエレアザルの死に顔を見つめていた。

 その晩、イェースズもほかの使徒たちも眠らなかった。これで二晩徹夜することになるが、誰もそのような気にならなかった。そして、誰もが無言でいた。イェースズも沈黙のまま祈り、そして十二使徒が一人欠けて十一人になってしまったことの意味も考えた。十二人というのは神様が定めた数であったのに神様のお考えで十一人にしたのはどういうことなのだろうかと。

 だが、すべては神様のご都合によるものである。


 翌日には、エレアザルは墓に埋葬される。ゼベダイ不在のことで、エレアザルの兄でイェースズの使徒のヤコブが一切を取り計らった。エレアザルの遺体には香油が塗られ、家からすぐそばの墓地まで運ばれ、崖をくりぬいた横穴の墓に遺体は安置されて入り口を巨大な岩でふさがれる。

 こうして葬儀は終わった。その晩は雨だった。ふと使徒たちは、イェースズがいないのに気がついた。ペトロが探しにいくと、イェースズはエレアザルの墓の入り口の巨岩の前で、雨に打たれながらうずくまっていた。その涙を、雨が流す。それでも涙はとめどなく流れて、雨滴と混ざり合っていた。

 とにかくペトロは、イェースズをつれ戻そうとした。いくらなんでも三日の徹夜では体がもたないと、ペトロは現界的に判断したようだ。だがイェースズはもう少ししたら帰ると約束して、ペトロを戻らせた。

 イェースズは祈っていた。やはり十二人は十二人でないと意味がないし、この何かが起こるであろう過越の祭りの直前に十二人の一人でもほかの人になるのは考えるのが難しかった。それにエレアザルは十二使徒の中でもいちばん若いし、若いけれどかつてのヨハネ教団では師のヨハネのいちばん近いところにいた人でもあって、さらにさかのぼるエッセネの教えにも驚くほど通暁していたのだ。

 生死を司るのは神様のみの権限で自分には与えられていないことはイェースズは十分承知していたが、今は神栄光のためその力を神様が行使してくれることをこいねごうばかりだった。イェースズはすべての念を凝集させ、頭から湯気が出るほどに強く祈った。


 翌日、エレアザルに最後の別れを告げるために、人々はエレアザルの墓の前に集った。もう雨はやんでいたが、空はどんよりと曇っていた。

 イェースズもエレアザルの墓の前に、皆と一緒に参列していた。

 本当ならこのようなことはめったにないのだが、この時のイェースズは感情が湧き出てついにとめどなく涙を流していた。

 その時皆が一様に、雷に打たれたような衝撃を感じた。果してこの時、イェースズに神示が下っていたのである。それは「許す!」という、たったひと言の神示だった。

 イェースズは突然立ち上がり、人々に向かって墓の入り口の巨石をどかすように言った。誰もが耳を疑ったが、使徒たちは師の言うことなのでそのまま言われた通りにすることにした。

 使徒たちの手で、巨岩はすぐに動かされた。四角い墓の入り口が開き、イェースズはその前にたたずんで両手を上げて天を仰いだ。


「神様、いつも真にありがとうございます。どうか神様のお許しとお力を賜り、お使い頂けますよう」


 それからイェースズは暗い墓室へ降りる石段を下った。そして中へ向かって呪文のような言葉をかけ、


「エレアザル! 出てきなさい!」


 と、叫んだ。外で待つ人々は沈黙のまま、ことの成り行きを待っていた。その沈黙を破ったのは、墓の中から聞こえてくる足音だった。そして布に包まれたまま、死体であったはずのエレアザルが歩いて出てきた。

 マルタは絶叫した。その時、雲の割れ目からさっと太陽の光がさした。


「エレアザル!」


 マリアは飛び上がって走り出し、生きている弟の体をしっかりと抱きしめた。


「僕はいったい、どうしたんだ?」


 エレアザルは何だかわけが分からないという顔で、きょとんとしていた。


「死んだと思っていたのに、僕は生きていた。それなのに体は宙に浮かんで、横になっている自分の体を上から見下ろしているし、その周りでみんなが泣いているのも見た。自分の葬式も見たし、もう一人の自分が墓に入ってからは、僕は家に帰って天井のあたりに浮かんでいた。そうしたら先生ラビの声がして、急にすごい力で引っ張られて、墓の中の体の中に戻っていた。どうなっているんだろう。わけが分からない」


 エレアザルは、まだ夢を見ているような表情だった。しかし、それ以上に墓の前にいた人々も、夢を見たように唖然としていた。だが、皆の目からはすぐに滝のような涙が流れて、エレアザルの名を叫んで一人の若者に十人以上の男が押し寄せた。

 その光景を見ていたアシャー・ベンは、一目散に駆けていった。ほかにもこの光景を目撃していた村の人々もいて、エレアザルが蘇ったということはたちまち村中に広まった。

 噂が広まっている間にマルタはエレアザルの体の布をほどき、イェースズもエレアザルの手を取った。


「すべて神様のお計らいで、あなたはまだまだこの現界で神様の御用をしなければならない。そういう意味で、神様はあなたをここに戻して下さった。まだまだお役目があるよ。もう、当分あなたは死なない。それを心して神様の御ために働かないと、神様がせっかく下さった生命いのちが無駄になる。今、神様の栄光があなたの上に表された。すべては必然であって、偶然が入り込む余地はない」


 それから、イェースズは微笑んだ。

 その夜、エレアザルは心もだいぶ落ち着いてからイェースズと二人きりになり、さらに詳しく話し始めた。


先生ラビ。実は私はもっとすごいものを見てきたんですよ」


 話し始めながらも、エレアザルは興奮していた。イェースズは温かく笑んで、それを聞いていた。エレアザルが話そうとしていることは、霊界をつぶさに知っているイェースズにとってはもう予想のつく内容だったが、それでも黙って聞いていた。


「私はもう一人のわたしの頭からスーッとぬけ出て、ぽかんと中に浮いていたんです。ずっと下の方に、もう一人の自分が倒れている。そして私が墓に入れられるまでずっと見ていたんですけど、その後ものすごい上昇感でスーッと上に引き上げられまして、もう下の方は雲がかかって見えなくなって、当たり一面明るい世界にいたんですよ。きれいな花畑で、とてもいい香りがして、そして自分自身がとても軽いんです。何だか重い外套をさっと脱ぎ捨てたような感じでしたね。心の中まで温かい幸福感に満たされていまして、今までよくもまああんな重い肉体の中で生活していたものだって思いましたよ」


 イェースズは、一つ一つの言葉にうなずいて見せた。


「そうしましたらある所につれていかれまして、そこで自分の生まれてから今までの様子が次々にとても速く、空中に描き出されるんです。それを見て、私は死んだんだなって思いました。でも、その時に思ったんですよ。先生ラビはこれからものすごいことをされようとしているのに、私がここで死んだら先生ラビにとってまずいんじゃないかって。自分の使徒も救えないって人々に意識されたら困ります。先生ラビにもご迷惑をかける。そこで一心に祈ったんです。『もう一度地上で、神様の御用のお手伝いをさせて下さい。地上天国が実現しますように、お使い下さい』って。そうしたら目もくらむような光の玉が目の前に現れて、『いずれおまえにも、役立ちてもらうことがあるぞよ』と声がして、それと同時に先生ラビのものすごい声がして、またスーッと墓の中の自分の体に、今度は足の方から入って言ったんです」


 イェースズが穏やかに口を開いた。


「あなたの祈りが、神様と波調が合ったんだね。私が神様やあなたと一体の心になって、神様は動いてくださったんだ。地上天国実現のためと祈るあなたを、神様はあちらに留めようとされるはずはない。祈りの力と、あなたの魂を切り換えんとする動きがピターッと重なった。そこに私の祈りが入った。あなたはこの世で、とてつもない大きな御用をするだろうね。だから、私より先に死んではまずいんだ。やがて、もっと大きな空中に描き出される絵を見る。まあ、まだずっと先のことだけどね」


 イェースズはエレアザルの目を見て、にこやかにうなずいていた。

 

 噂が噂を呼び、イェースズのもとに押し寄せる人々は前にも増して増えた。しかも今まではエルサレムでイェースズを待っていた信奉者も、このベタニヤに押し寄せてくるようになってしまった。イェースズは使徒たちと手分けして人々を癒し、また火の洗礼の業を施して人々の魂を浄めていった。

 夜半になってから、最後に訪れてきたのはあのペトロの親戚の老いた律法学者ニコデモだった。


先生ラビ、たいへんだ」


 と、ニコデモは来るなり言った。


最高法院サンヘドリンはとうとう、本格的に先生ラビを捕らえる準備を始めましたぞ」


「なんだって!?」


 慌てたのはペトロをはじめ、使徒たちの方だった。ニコデモも肩で息をしている。だが、イェースズはいたって落ち着いていた。


「遠くへ逃げた方がいい。先生ラビは殺される」


「まあ、落ち着いて」


「昨日、臨時の法院が召集されましてな、みんな先生ラビのことをたいへん恐れている。このまま放っておいたら、エルサレムの人々はこぞって、父祖からの神殿への祈りを棄ててアーメン教に改宗してしまうのではないかって」


 イェースズは大笑いした。


先生ラビ、笑いごとじゃありませんがね」


「改宗だなんて、要するに彼らは自分たちが失業することを恐れているんでしょうね。私の教えはそんな一宗一派の教えではなく、つまり宗教なんていうレベルを超越した宇宙の神理なんですけどね。だから改宗なんて必要はない。イスラエルの民に限らず全世界のどんな教えを奉ずる人も私のもとへ来て構わないし、それまでの信仰を捨てる必要もないんですがね」


「いやいや、そういった信仰上の問題だけではないのですよ。もしエルサレムの人々が神殿の教えを棄てたらこれ幸いとローマ軍が攻めてきて、祭司や律法学者は皆殺しになるって主張している議員もおりましてな。だから大祭司カヤパは、皆が殺される危険性があるならその前にたったひとりの人を殺してしまおうと、そう言ったのですぞ」


 使徒たちは言葉を失くし、中には震えだした者もいた。


「大丈夫だよ」


 と、優しくイェースズは言った。


先生ラビ、ここも彼らに知られたのならまずい。どこか遠くに逃げましょう」


 先を切って、ペトロがそう言った。それに同調して、使徒たちも同じことを口々に叫んだ。なにしろ、賊の襲撃にあった直後である。その賊は律法学者の手のものによるイェースズの暗殺未遂だと、ペトロなどはもう固く信じて疑わない。

 だが、イェースズはかぶりを振った。


「大丈夫だ。ここにいよう」


 イェースズは落ち着いていた。ところが、ピリポがそこに、


先生ラビ、彼らと戦う気でですか」


 と、言って割り込んだ。


「いや、戦いはいけない。戦ってはならないんだ」


先生ラビがそういうお考えなら、ここはペトロの言う通り一時避難した方がいい。もし彼らと争いになりかけたらその時は逃げろと、先生ラビはおっしゃったではないですか」


 イェースズはしばらく考えていたが、やがて首を縦に振った。すべては、使徒を救うためである。

 仮眠を取り、翌朝まだ早いうちに、イェースズたち一行はゼベダイの家を出た。彼らはまず災難を逃れるために、異教徒の町のサマリヤ領に入るつもりでいた。そこなら律法学者も祭司も、手を出すことができないはずだ。

 イェースズたち一行は北上した。エルサレムを出るとすぐに、道はわずかな草地に岩があちこちに点在する荒野の中に入っていく。そんな道でも、真夏の炎天下の砂漠よりは楽であった。そしてまる一日歩いて道が丘陵地帯にさしかかると、大きくくねった道の向こうに町があるのが見えてきた。


「もうこのへんは、サマリヤではないでしょうか」


 ヤコブがあたりの景色を見回しながらいった。


「あの町は、エフライムだ」


 と、前方の町を指してナタナエルが言った。その名を聞いて、イェースズの心にはじけるものがあった。

 かつて霊の元つ国で出会った同胞は、ユダ族ではなかった。つまりかつて歴史の中に消えたと言われるイスラエル十二支族のうちの十支族で、その総称をエフライムと言っていた。今、ユダ族の律法学者などから逃れるための旅で、消えた十支族の総称と同じ名の町にたどり着いたのも偶然ではないようだった。

 夕刻になって、イェースズたちはエフライムの町に入った。ここは、ヨルダン川西岸地域になる。空はよく晴れていた。

 使徒たちは肉体的にも精神的にも疲れ果てているようで、その町に数日滞在している間は何の活動もせず、ただ静かに時を過ごした。使徒たちには、いい休日となった。


 それでもイェースズだけは、過越の大祭が近づくにつれて胸騒ぎが大きくなっていった。イェースズは夜、一人外で月を見ながらため息をついた。月は上弦の月で、それが満月になれば過越のみ祭が来る。

 使徒たちは、まだおぼつかない。自分にもしものことがあった時に、今の使徒たちでひとり立ちできるかどうかは怪しいものだった。彼らはまだまだ自分に甘えすぎている、とイェースズは感じていた。何かあっても先生ラビが何とかしてくれると、その考えが頭から離れないようだ。そろそろひとり立ちの訓練をさせる時だと、イェースズは感じた。

 その翌朝、イェースズは使徒たちを集めた。過越まで、あと八日しかない。


先生ラビ


 と、ヤコブが聞いた。


「私たちをまた集めて、まさかこれからエルサレムに戻るなんて言いだすんじゃないでしょうね」


「そのまさかだよ。こっちこそ聞くが、あなた方はこの異教徒の町で、過越の大祭を過ごすつもりなのかね?」


「今エルサレムに戻るのは、死にに行くようなものです」


 と、小ヤコブも血相を変えた。彼らが伝え聞いた話では、イェースズの信奉者の会堂シナゴーグ追放に飽き足らず、とうとうイェースズに懸賞金までかけて指名手配しているということだ。とうとうイェースズはお尋ね者になったわけで、逮捕されれば最高法院サンヘドリンの裁判にかけられ、へたをすると、否、十中八九死刑になる。


「大丈夫だよ」


 と、イェースズは笑っていた。


「私が神様から与えられた使命を果すまでは、神様は私を死なせてはくれない。この夜の世に、神様は私という一時期だけの光を与えて下さった。その光のあるうちは、つまずかない」


「でも、もし学者たちが先生ラビを捕らえようとしてきたらどうします? 戦いますか」


 と、シモンが尋ねた。イェースズは笑った。


「戦ったりはしないさ」


「でも、捕まったら?」


「その時はその時、神様にお任せだ」


「そんな!」


 大声を発したのは、イスカリオテのユダだった。


「私たちは先生ラビに、戦ってほしいんです。神理の教えのためなら、戦うことも必要だと思いますけど」


「それは違う!」


 ピシャリとイェースズは言った。


「戦いはいけない。どんな時でもね。ユダ、あなたはまさかまだ私が、反ローマの戦いをすることを期待しているんじゃないだろうね」


「でも、人々はみんなそれを期待しているというのも事実です」


「とにかく、エルサレムの大祭だ。多くの人も集まる。我われはこのために、エルサレムに来たのではないのかね?」


「よし!」


 トマスが気合いを入れて、握りこぶしを作った。


先生ラビといっしょに、我われも死のうじゃないか!」


「おう!」


 全員が一斉に声を上げた。イェースズはひとりだけ、困った顔をしていた。

 

  エルサレムへ向かう街道は、すべてが人で埋め尽くされていた。なにしろ年に一度の大祭には、ユダヤの人口の大部分がエルサレムに集中するといってもいいくらいだ。人々はほとんど行列となって、同じ方向へと進む。肩と肩とが触れあわずには歩けないほどだった。その中でイェースズも使徒たちも、いっしょに群衆にもまれていた。

 彼らはエルサレムに入る前に、一度ベタニヤに戻った。ゼベダイも妻とともにガリラヤから戻ってきており、留守中の出来事については、マルタから報告を受けていたようだった。


「ありがとうございます」


 ゼベダイはイェースズの手を取って、また涙を流しながらエレアザルの復活についてイェースズに何度も礼を言った。それから、嫌がるエレアザルを無理やり抱きしめていた。

 その晩、ゼベダイはイェースズたちのために宴を開いてくれた。


「いやあ、先生ラビはいなくても、人々は毎日押しかけて来ましたよ」


 と、その宴の席上でゼベダイは言った。


「それもみんな、エレアザルを見るのが目的だったようでしてね。死んで生き返ったやつっていったいどんな顔をしているのかと、そのおもしろ半分に見に来るんですよ」


 それが受けて、使徒たちは一斉にどばっと笑った。


「エレアザルはいないって言っても、うそだって言って帰らないんですからね」


 その席に、マルタとマリアはいなかった。


「マルタはまだ、台所ですか?」


 と、イェースズが尋ねた。


「姉はまめですから」


 と、父に代わってエレアザルが答えた。


「呼んできてくれないか。いっしょにどうぞって」


 言われたエレアザルは立って奥に行き、


「すぐ来るそうです」


 と、言ってすぐに戻ってきた。

 その間にイェースズが横になって座っていると、久しぶりにイェースズと会うゼベダイの妻がイェースズのそばに来た。そして、イェースズの前にひざまずいた。


先生ラビ、この度は息子をお救い頂き、本当にありがとうございます」


 イエスはにっこりと笑った。


「私の力ではありません。神様のみこころです」


「では、どうかお救い下さいましたついでに、天の国では私の息子のヤコブとエレアザルをあなたの左右に座らせてください」


 イエスは大声で笑った。


「あなたは何を言っているのですか。ご自分が言われていることが分かっておられますか? そのようなことは、私が決めるのではありません、神様がお決めになることです」


 このやり取りを聞いていたほかの使徒たちは、あからさまに顔をしかめていた。イェースズはもちろん、その空気を機敏に察していた。だから、ほかの使徒たちにも聞こえる声で言った。


「まだガリラヤにいた時、この使徒たちが何かもめているのでそっと聞き耳を立てていたら、なんとこの十二人のうちの誰がリーダーかで言い争っていたのですよ。そこで私は言いました。あなた方のうちでもっとも自分を低くする人が天の国では最も高いところに引き揚げられるって」


「はあ」


 エレアザルの母はまだ浮かない顔をしていたが、聞いていた使徒たちはばつが悪そうに苦笑していた。

 そこへ、まるで何かの儀式のように静々と入ってきたのは、マルタではなく妹のマリアの方だった。

 そのまま彼女は、イェースズが横に投げ出している足の所で身をかがめた。手には、小さな壷を持っている。そしてその目は、心なしか潤んでいた。

 壷のふたを、マリアは開けた。途端に得もいえぬ香りが、部屋中に充満した。壷の中には油が入っているようだ。マリアは終始無言で、その油をイェースズの足に塗った。使徒たちもゼベダイもその妻も呆気に取られ、それを黙って見ているだけだった。

 マリアは手でイェースズの足をぬぐい、自分の長い髪の毛でそれを拭いた。

 沈黙を破って、イスカリオテのユダが声を上げた。


「ちょっと待った! その香りはナルドの油じゃないか」


「え?」


 と、ほかの使徒たちも声を発した。ナルドの油といえば、超高級品だ。


「そんな高価な油を無駄遣いして、いいのか」


 そう言ったユダをマリアは潤んだ瞳で見たが、何も言わなかった。


「ユダは会計係だから、無駄遣いにはうるさいんだよ」


 と、熱心党ゼーロタイのシモンが笑いながら口をはさんだ。ユダはさらに言葉を続けた。


「あんたは先生ラビのみ意が分からないのか。そんな高価なものを無駄遣いするより、売ってそのお金で貧しい人に施しをした方が、どんなに先生ラビのみ意にかなっているか。現実的にもその方が、ずっと効果があるじゃないか」


「まあまあ、ユダ。落ち着いて」


 と、イェースズがそれを手で制した。


「マリアがやったことを、責めちゃいけない。マリアはエレアザルのことで、最大限の感謝の気持ちを形に表しただけだよ。この油は彼女の財産の中でいちばん高級なものだろうけど、それを私の足に塗ってくれた。貧しい人々は、これからもずっとあなた方の身近にいる。でも、私はいつまでもいるとは限らないよ。私はいつも、貧しい人、罪びとの味方だって言ってきたよね。施しもしてきたけれど、それが目的じゃあないてことがまだ分からないのかね。私が貧しい人に与えたかったのは物質的な救いでも心の慰めでもなく、霊的な救いだよ。共に祈り、共に罪を詫びてきれいな魂になれば、その人はひとりでに脱貧できる。物質的な施しをしたって、すぐになくなってしまう。だからといって、そんなものは必要ないと言っているわけではない。物質的な施しもした上で、さらに高次元の霊的救いに持っていかなければならない。これは、永遠になくならない」


 それからイェースズは、マリアに目を向けた。そして、


「ありがとう。このことは忘れないよ」


 と、優しく言った。マリアはどっと泣きだし、壷を置いて奥に入ってしまった。

 

 ベタニヤからエルサレムに向かう街道はそれまでに増してものすごい人出で、オリーブ山の麓あたりでとうとう前に進めなくなった。ただでさえ過越の祭りでエルサレムの人口は膨れ上がるのに、それに加えてイェースズの信奉者が、行方をくらませていた師が都に出てくるといううわさで大騒ぎとなり、たちまちに集まってきたのである。

 また、イェースズが使徒のエレアザルを復活させたといううわさも加わって、イェースズを見にきたものも多数いた。そのようなのが混ざり合って、これだけの人出となってしまったのである。


「こりゃあ、すごいな」


 と、ナタナエルがうなった。その脇で、熱心党ゼーロタイのシモンがつぶやく。


「これなら律法学者どもが兵を出してきても、群衆が手出しをさせないな。先生ラビがエルサレムに戻ったことが分かったとしても、一応は安心できる」


「でも」


 と、小ヤコブは首をかしげた。


先生ラビがいちばん恐れている流血騒ぎになったら、それこそ一大事だけど」


 普段なら昼前にはエルサレムに着けるが、この日はもう夕刻近くになっていた。そして群衆の歓呼の声に迎えられて、それに笑顔で応えながらイェースズは神殿に入った。かつては神殿の庭の一角に人々が細々と集まってイェースズの話を聞いているという状況だったが、今や群衆は神殿の異邦人の庭に所狭しとひしめきあっている。

 それでもその数十倍のイェースズに関心のない人々が神殿の中にはあふれ、それを目当ての商人たちの呼び声も相変わらずかまびすしかった。

 イェースズは至聖所に至る一段高い部分に登ろうとした。そこからなら、庭の群衆を見渡せるのだ。段上でイェースズは人々の方をむき、話し始めるつもりでいた。ところが、イェースズが石段を二、三段登ったところで、その脇にピリポとアンドレが来た。


先生ラビ、上がるのを待って頂けませんか。先生ラビにどうしてもお会いして、お話が聞きたいという方々がいるんです」


「では、段上に一緒に上がるといい」


「それが、そこには上がれない方々なんです」


 イェースズが登ろうとしている段上に上がれないのは、つまりユダヤ人ではない異邦人だということになる。異邦人が段の上に上がったら、それは死を意味することになる。果たしてイェースズが再び異邦人の庭に降りると、ピリポの後ろの群衆の中に混ざっていたのは、風体からギリシャの商人のようだった。四人ほどいた。


「さっき、ここへ入る前の二重門の外でアンドレが話しかけられたんですけど、ギリシャ語が分からないということで私が聞いてあげたんです。そうしたら、どうしても先生ラビに引き合わせてほしいって」


 ギリシャの商人たちは、さっと前に出た。


「あなたの話は、全部聞きました。人々からずいぶん騒がれているんですね。私たちもそばに置いて、いっしょに行動させてもらえませんか?」


 アンドレが、そこに口をはさんだ。


先生ラビがお望みの、教えを全世界に広めるいい機会ではないですか」


 イェースズはその言葉に軽くうなずいたが、微笑みの中にも微かな憂いを見せ、ギリシャ人たちに流暢なギリシャ語で言った。


「私の話は、あなた方が好むような哲学ではありませんよ。それにしても、もう少し早く来て下さっていたら……。今はもう、時が来てしまったんです。一粒の小麦も地に落ちて死ななければ、いつまでたっても一粒の小麦でしょう? でも地に落ちて死んだら、多くの実を結ぶじゃないですか。物質的な人生に執着を持っていたら、いつまでたっても霊的に生まれ変わることはできないんですよ」


 集まっていた群衆はなかなかイェースズが段上に上がらないので、ざわめきはじめていた。ギリシャ人たちは、イェースズの言葉の内容が分からずにきょとんとしていた。


「いや、申し訳ない。いきなりこんな話では難しかったでしょう。実は今、私の心はたいへん騒いでいるんです。何と言えばいいんでしょうかね」


 イェースズはギリシャ人たちに軽く会釈をしただけで、彼らを残してさっと段上に上がった。群衆は大歓声で、イェースズを向かえた。しかしイェースズは群衆ではなく神殿の至聖所の側面の方を向いて座り、天を仰いで祈った。


「天の御父である神様!」


 群衆は、さーっと静まりかえった。


「私の苦しみを取り除いてくれとは申しません。ただ、苦しみに打ち勝つ力をお与え下さい。私は自ら選んでここに来ました。神様の栄光を現させて頂けたらと存じます」


 群衆は一斉にどよめいた。イェースズのオーラに乗っている高次元パワーが、一気に物質化したのだ。

 人々にはイェースズが光を放っているように見えた。そして人々は自分の手や互いの手を見つめ合い、またどよめいた。彼らの手には一様に、金粉がついていたのである。

 その時、イェースズは内面に声が響くのを聞いた。久々の神啓接受だった。


――われ、汝にすでに栄光を現せり。今ひとたび、そを現さん。


 この声は、群衆にも聞こえたようだ。群衆はさらにどよめき、悲鳴を上げるものも多かった。彼らには声としてではなく、ただ非常に大きな物音としか聞こえなかったようだ。


「雷だ!」


 と、叫んでいるものもたくさんいる。イェースズは微笑んで、群衆の方を向き直して言った。


「今のは、天のみ声です。それは私のためではなく、あなた方のためのものでした。物質の力ではない別の力が存在することを、皆さんに知って頂くためです」


 そして、ひと呼吸おいてから、


「皆さん」


 と、イェースズは声をはりあげた。


「光はまだしばらくは、皆さんの間にあります。闇の世にせっかく光がともされたのですから、無駄にしないで下さい。光が消えれば、またもとの闇の世の真っ只中なんですよ。いいですか。光があるうちに、光の子となるために、光を信じて下さい」


 イェースズは、しばらく沈黙した。そして、互いにひそひそとささやき合っている群衆を見た。この中の多くは、まだイェースズを政治的救世主と思っているようだ。この大祭を機に、イェースズが先頭に立って反ローマの旗を振り回すのを期待している。


「誰が私たちの聞いたことを信じたのか。主の救いの力、力強い奇跡のみわざは誰に現されたのか」


 イェースズはそこで、ひと息入れてからまた続けた。


「行ってこの民に言いなさい。『あなた方は聞くには聞くが悟らない。見るには見えるが分からない』」


 また少し間をおいてから、イェースズは早口で言った。


「これはご存じの通り、『イザヤの書』の一節です。まだ、ここにおられる皆さんはいい。いや、この中にもまだたくさん、私を信じきれていない人がいます。そして多くの人々は、私がいくら警鐘を乱打しても振り向きもしない。でもですね、たとえ私を信じなくてもいい。私のなした奇蹟の神業かむわざ、そしてお伝えさせて頂いております神様のみ教えは信じてほしいんです。どうしてそれが、信じられないのですか? 実はパリサイ人の中にも、私を信じてくれる人はいます。ただ、ご自身の立場をはばかって、公言できないだけなのです。まあそれは、この物質界では仕方がないことでしょう。しかしですね」


 イェースズの声が、一段と高まった。


「私が伝えさせて頂いた教えを信じるということは、神様を信じるということになるんです。これは決して驕り高ぶって言っているのではなく、神様がもう私にそういう使命を与えて私をこの世に遣わされたのだから仕方がない。だから、私を信じない人がいても、私は決して裁きはしません。かわいそうだなとは思いますけれど、放っておくしかないんです。私は人々を裁くためではなく、救うために来たのですからね。私が伝える神様の教えを信じない人は、神様の置き手(掟)のり、大宇宙の法則通りになっていってしまいます。再三言いますけど、私は神様からお伝え頂いたことをそのままみなさんにお伝えさせて頂いているんですよ。私の考えや私の作り事は一切ありません。すべてが御神示なんです。いいですか。神様は絶対ですよ。私はその絶対なる神様のラッパにしかすぎません。ラッパは自分で音を出しているんじゃないんです。神様がラッパを吹かれるから、音が出るんです。そのことを忘れないで下さい」


 イェースズはそれだけ語ると、さっと下に降りて肉体をエクトプラズマ化させ、神殿の外に出た。そのままマントで顔を覆って下の町に行き、使徒たちとかねて打ち合わせてあった旅館へ入った。

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