9、過越し前夜

 過越の準備の日も、二日後に迫った。

「あさってか」

 イェースズは宿屋の小さな窓の外が暗くなっていくのを見ながら、ぽつんとつぶやいた。部屋の中はひしめき合っている状態だ。なにしろ七人用の部屋に十三人が詰めこまれている。だが、そうなることによって彼らだけの個室が確保できたのであり、この時期としてはそれは奇跡に近かった。祭りの頃の市街の宿屋は、たいてい相部屋になるのが普通だったからだ。実はこの宿屋に入れたのも、最高法院サンヘドリンの議員でもあるニコデモの手配だった。

 窓の外は夜になっても、まだ人の往来が激しかった。ユダヤ全土の人口が、この都に集まってきているのではないかと思われるくらいだ。そんな人ごみにも、イェースズはまたため息をついた。イェースズにとっては、成人して初めての過越の祭りであった。

先生ラビ、何をさっきからため息ばかり?」

 ペトロがイェースズの顔をのぞきこむようにして尋ねた。

「あさってになったら、身代わりの子羊の血が神殿の庭で流される」

 彼らにとってイェースズが言ったのは当たり前の出来事だったので、誰もそれを気にもとめなかった。過越の準備の日には神殿の庭で生け贄の子羊が大量にほふられ、その子羊の肉と種なしパンがその日の夕食になる。祭りはそこから始まり、七日間はずっと種なしパンを食べることになる。ところがこの年は、その過越の晩餐をとる日没から、安息日になってしまう。

「ガリラヤのヤコブさん」

 イェースズがそんなことを考えていると、宿の主人が部屋をのぞいた。

「お客さんですぜ」

 ヤコブが怪訝な顔をして立ち上がりかけたが、それを小ヤコブが手で制した。

「私ですよ」

 それから小ヤコブは、イェースズを見た。

「さっき言ってた人たちが、見えたようですね」

 宿に着いてから小ヤコブが、イェースズに会いたがっている人たちがあとでここに来ると、すでにイェースズには告げていた。

「そんなに軽々しく、我われの居場所を人に教えるな」

 イスカリオテのユダが血相を変えたが、小ヤコブは笑っていた。

「それが、この人たちは絶対に大丈夫なんですよ」

 イェースズに会いたがっている人とは、昼間にトマスがイェースズに引き合わせギリシャ人たちのような人だと皆は思っていたので、小ヤコブが大丈夫だと言っても納得がいかない顔をしていた。

 だが小ヤコブが誰を連れてくるのか、すでに小ヤコブの意識から読み取っていたイェースズだけが落ち着いていた。その間にも小ヤコブは部屋から出て、やがて「その人たち」を連れて戻ってきた。

「お母さん」

 イェースズは母の姿を見て、軽くつぶやいた。だが、そこにいた使徒たちは皆驚いて、慌ててを正した。

「皆さん、お久しぶりですね」

 マリアは目の周りにだけしわができた顔で、ニコニコ笑いながら部屋に入ってきた。

「お母さんも過越の祭りに?」

 穏やかに笑みながら、イェースズが言った。そんなイェースズにも、母は笑顔を向けた。

「昨日、着いたのよ。それで今日神殿に行ったらあなたが人々に教えているし、まあ相変わらずと思ってね」

 マリアはイェースズのそばに、無理やり割り込んで座った。

「それでヤコブをつかまえて、ここを教えてもらったの」

「隠してたな、ヤコブ」

 イェースズは笑いながら、視線を小ヤコブに向けた。小ヤコブは顔をすくめた。小ユダが、言葉を続けた。

先生ラビをびっくりさせようと思って」

「ユダもグルだったのか」

 イェースズはひとしきり、高らかに笑った。母の前でいつしか小ヤコブや小ユダにとって師ではなく、心なしか兄に戻っていたイェースズだった。もう一人のヤコブも、笑って、

先生ラビは何でもお見通しだ。騙そうなんて無理に決まっているじゃないか」

 と、言って皆の笑いを誘っていた。だが、部屋の外には、まだ誰かいるような気配だった。その外に向かって、イェースズ自身が、

「入って来なさい」

 と、言った。

「お兄さん。しばらく」

 イェースズの弟の中でただ一人、今でもイェースズを兄と呼べるのはすぐ下のヨシェだけだ。そのガリラヤに残してきたヨシェが、やはりニコニコしながら部屋に入ってきた。そして妹のミリアム、さらにはエッセネ老尼僧のサロメ、そしてイェースズの妻のマリアもいっしょだった。

「みんな、おそろいだな」

 イェースズは上機嫌だった。そして、

「神様も、粋なお計らいをなさる」

 と、人々には聞こえないような小声で言った。だが、その全員を部屋の中に入れるには、部屋は狭すぎた。宿の主人が廊下につっ立っている彼らを邪魔そうにどけて、客の接待に走り回っていた。

「お母さんたちは、お宿は?」

 と、ペトロが心配して尋ねた。

「宿なんて、そんな。テントですよ」

 祭りの時期に地方から上ってきたすべての人を宿が収容するのは到底不可能で、多くのものは城外の巨大な仮設テントに入る。

「それよりもイェースズ、あなたは都でもずいぶん有名なのね」

 母マリアに言われて、イェースズは笑った。

「あなたを救世主とたたえている人たちもいるかと思えば、あなた、お尋ね者にもなっているじゃありませんか」

「そうだよ」

 と、部屋の外からヨシェも言葉を続けた。

「だからヤコブも、ここを訪ねても絶対に兄さん名前は出さないで、自分の名前を出せと言ったんだよな」

 イェースズは、少しだけ瞳を伏せた。

「ところで、お兄さん」

 続けてのヨシェの声に、イェースズは目を上げた。

「この人たち、見覚えがあるだろう」

「先生!」

 イェースズは耳だけが、その声の方に引っ張られていくような感触を覚えた。それはイェースズが忘れるはずもない、遠い遠い東の国の言葉だった。そしてすぐにヨシェの陰から、異民族の男が二人顔を出した。

「ヌプ! ウタリ!」

「先生、しばらく!」

 イェースズは、頭がクラッとする思いだった。そこにあったのは懐かしすぎる二つの微笑みで、使徒たちには理解できない言語で彼らはイェースズに挨拶をした。あの頃はまだほんの少年だったが、別れてからもう五年がたってもうすっかり立派な若者になっていたが、それでも面影はあった。

「先生、やっと着きましたぜ」

 イェースズがもとつ国を離れる時、あとからイェースズを追うということになっていた二人だが、こんな土壇場になって再会できたのだ。

「今度は本物の先生だ!」

 ウタリはイェースズの心境も知らずに、ただただ嬉しそうにしていた。それはヌプも同じことだった。イェースズはヨシェを見た。

「ヨシェ。どうしてこの二人が?」

「ここに向かう旅の途中で突然この二人が、わけの分からない言葉をしゃべって私にまとわりついてきたんだよ。でもよく聞くとこの二人、お兄さんの名前を連呼しているから、それで私と兄さんとを間違えているなってすぐに気がついてつれてきたんだ」

 そうヨシェは笑って言った。それは無理もないことで、ヨシェはいくら兄弟だからといってこんなにも似るものかと思えるほどイェースズと瓜二つであり、四人の兄弟の中でもイェースズとヨシェが似ていることは際立っていた。イェースズとヨシェは母親似、そして小ヤコブと小ユダは死んだ父親の血を濃く受け継いでいるようだ。

「先生、お会いできて嬉しい。昔のように、またお供をさせてください」

 ヌプが嬉しそうに言った。イェースズは顔を伏せてしばらく黙ってから、目を上げた。

「来るのが、少し遅かったかもしれない」

 イェースズの目は潤みだした。この二人とのこの場での再会は、あるいは自分への来るべき運命への神様からのせめてもの慰めかもしれないと思ったのだ。

 イェースズとヌプたちの会話は、ほかの人々には全く分からない言語だったので、誰もがきょとんとしていた。ただ、母マリアはただごとならぬ雰囲気を感じたように顔を上げた。

「イェースズ。これからどうするの? 大祭が終わったら、ガリラヤに帰ってくるんでしょう? そうすれば少しは安全よ」

 かつては危険と思われていたヘロデ・アンティパスの領内が、今ではむしろ安全圏でもある。イェースズは少し間を置いた。

「分かりません。まだ、何も言えません」

「分かりませんって……」

 マリアはちらりと、部屋の外にいるイェースズの妻のマリアに目をやった。妻マリアは、黙って目を伏せていた。その母マリアたちが、これ以上ここにいるのには限界があった。宿の中もますますごった返してきた。特に老齢のサロメを、立ちっぱなしにさせるのも忍びない。

「ヌプ。ウタリ。母や妻、弟を守ってくれ」

「守るって?」

「実は、私は今や権力者たちに追われている身なんだ。だから危害が母さんたちに及ばないようにね」

 ほかの人々が言葉が分からないのをいいことに、イェースズはそんなこみいったことまではっきりとヌプたちには告げた。それから彼は、使徒たちを見わたした。

「ペトロ。それからユダ」

 イェースズがペトロとともに指名したのは、イスカリオテの方のユダだった。

「お母さんたちを、テントまで送っていってほしい」

 二人は、返事をして立ち上がった。

「それから小ヤコブと小ユダもだ」

 二人の弟は、限りなく嬉しそうな顔をした。彼らにとっても久々の母との再会なのだ。

 一行が出ていって少し部屋に余裕ができたが、そのときマタイがイェースズに言った。

「ペトロはともかく、どうしてユダを? あ、イスカリオテの方ですよ。あいつは、どうも危ない」

「危ない人物こそ、いちばん重要な役につかせろっていうじゃないか。それに同じ使徒なんだ。仲間をそんなふうに言うものじゃない」

 イェースズはそう言って笑っていたが、その笑顔の下の彼の真意は、そこにいた誰もが分からなかったようだ。

 案の定、小ヤコブと小ユダだけが戻ってきても、ペトロやイスカリオテのユダはいっしょではなかった。

「ペトロもイスカリオテのユダも、なんかヨシェ兄さんと天幕の外の草むらに座ってずっと話しこんでいましたから、二人とも置いてきました」

 小ヤコブは、そう説明した。そのペトロとイスカリオテのユダが戻ってきたのは、夜半も過ぎてからだった。

 

 翌日、イェースズは外出もせず、昼近くになってからヤコブとエレアザルの兄弟、そしてペトロを呼んだ。

「今夜、みんなで特別の食事をしよう」

「ああ、今日はキブシュの日ですね」

 毎週、安息日の前々日の夜、すなわちローマ歴でいう木曜イオウィスつまりハミシーの夜に、ラビと称される人々は皆、弟子とともに晩餐をともにする。それをキブシュというが、イェースズが言った食事をペトロはそのキブシュだと思ったようだ。

 だがイェースズは、首を少し横に振った。

「確かにキブシュの日だけども、今日の夜に過越の食事セダーをするんだ」

「あ、なるほどそうですね」

 と、ペトロがうなずいた矢先、ちょうどそばにいて彼らの会話を小耳にはさんでいたトマスが、

「え? 祭りの準備の日は明日ですよ」

 と、勝手に話に割って入ってきた。

「つまり、過越の晩餐は明日でしょう?」

 ペトロたち三人は、それを聞いて少し笑った。使徒の中でもペトロなどのようなヨハネ教団出身のものは、エッセネの流れが身についている。つまり彼らはユダヤ暦とは別の、エッセネ暦を知っているのだ。

 ユダヤ暦が月の満ち欠けだけで祭礼の日取りを決めるのに対し、エッセネ暦は安息日も加味して決める。この年は過越の晩餐をする夕方から安息日に入ってしまうのだが、エッセネ暦ではそれを避けて一日早く過越の晩餐をする。それが、今日なのである。

「いいんだよ。今日で」

 と、ペトロがトマスに説明した後、そのペトロたち三人にイェースズは、

「あなた方で、晩餐の場所を準備してほしい」

 と、言った。ヤコブが小首をかしげた。

「でも、こんな時にどうやって探せばいいんでしょう」

 イェースズは笑って、

「あの人に頼むといい」

 と、言った。

「あのシロアムの池のすぐそばの泉の門の所に行けば水瓶を持った男がいるから、その後をついて行けばあの人の所に行く」

「あの人って、もしかして」

 と、エレアザルが顔を上げた。

「そう。かの法院議員だよ」

 ニコデモだ。いつの間にかイェースズはニコデモと、過越の晩餐の手はずまでしている。しかも、水瓶を持った男などという合図まで決めていた。そもそも水汲みは女の仕事だから男が水瓶など持って歩いていたら目立つし、すぐに気づくに決まっている。

 出かけていったペトロたち三人は、かなり時間がたってから戻ってきた。聞くとその場所の詳細は、上の町のダビデの墓のある建物の二階だという。そうなると、大祭司カヤパの私邸からも歩いて数分の至近距離となる。今、イェースズを躍起になって探しているのは、その大祭司カヤパのはずだ。そのすぐそばで晩餐の宴をはるということは、灯台下暗しの効果をニコデモは狙ったのだろう。

 夕方になってイェースズは、使徒たちとともに宿を出た。この日のイェースズはいつもの白い衣ではなく、灰真珠色の一衣縫を着ていた。これも、ニコデモから贈られたものだ。

 使徒たちはまとまって行動すると目立つので分散して歩き、城門をくぐって上の町に入った。神殿の南東で、実に起伏の多い、道も狭い町だ。

 途中、何度も人ごみの中で、馬に乗ったローマ兵とすれ違った。祭りの期間はとにかく多数の人口がエルサレムに集中するのだから暴動も起こりやすく、従って普段は海浜のカイザリアにいるローマの知事ポンティウス・ピラトゥスも今はエルサレムに来ているはずで、駐屯するローマ兵の数も数倍に補強されている。

 だが、イェースズが警戒すべきは祭司たちの神殿兵であって、ローマ兵から見ればイェースズなどという存在はローマの辺境の蛮国の都に群がる異邦人の群れの中の一人にすぎず、関心の対象外だった。

「ここです」

 とペトロが示した石造りの建物は、坂を上った高くなっている土地の上にあった。確かに東の方のすぐそばにカヤパの邸宅がそびえているのを、坂の下に見下ろしている。

 ニコデモに用意された部屋のある建物は、ダビデ王の墓のある巨大な箱型の建物で、イェースズたちが目指しているのはその離れのような部分である。ダビデの墓の北側だが、一応建物はつながっているようだ。

 巨大といっても、あの一大栄華を誇ったダビデ王の廟所としては小さい気がするし、何よりも神殿の喧騒とは対照的にかなり閑散としていた。

 その建物の入り口の所に、一人の少年がいた。

「僕がマルコです。ニコデモから聞いています。用意はできていますから、どうぞお二階へ」

 イェースズは笑顔で礼を言い、階段を昇った。部屋に入るとプーンといい香りがした。焼きたての羊の肉とパンの匂いだ。

 食事の準備は、すっかり整っている。自宅でこの過越セダーをする場合は、まず家中のパンやケーキなど種入りのものを探して取り除く「ベディカーツ・ハメツ」という儀式から始まるが、ここではすでに習慣通りに布がかぶせられたマッツアと呼ばれる種を入れない大判のパンが三枚、そして小羊ペサーのすねの骨、パセリ、マロアーという苦菜、リンゴと木の実を混ぜたハロセスという練状の調味料などが床の上の皿の上に盛られて床に置かれていた。さらには、水の入った桶もあった。

「いい部屋だな。こんな部屋で過越の晩餐ができるなんて有り難い」

 イェースズは部屋の中を見渡した。オリエント風のアーチ上の内飾が、柱と柱の間の天井部分についている。いくつかの円柱が、その天井を支えていた。

 かなり広い部屋で、十三人が円座して食事をするにはちょっとだだっ広いという感じもあった。

「さあ、先生ラビ。始めましょう」

 その広い部屋の片隅に固まってという感じで、彼らは座った。

 アンドレがそう言ってイェースズに席に着くよう促し、イェースズに続いて皆が食事の皿を囲んで床に丸く寝そべって座ると、イェースズは祈りの言葉を唱えながらろうそくに火を灯した。

 これもすべてしきたり通りである。このろうそくが灯された瞬間から、この空間は聖なる時間を迎えるのだ。

 まめそうな少年マルコが、下の階からこの部屋に通じる階段を上がってきた。イェースズはタオルを腰に巻き、立って水の入った桶のそばに行き、その桶の前にかがんだ。ここで全員が順番に手を洗い、その手を召使いがタオルで拭く。だからここでは当然少年マルコがそれをするはずだったが、イェースズはタオルをマルコに渡さなかった。

「さあ、みんな。一人ずつ、足を出しなさい。私が洗ってあげよう」

「え? そんな」

 そう言われても、誰もがためらった。手ではなく足を洗うとイェースズは言うし、しかもまるでイェースズが召使いであるかのようにその手伝いをすると言うのだ。

「早く!」

 イェースズと最初に目が合ったアンドレが最初に床から立ち上がって桶のそばに行き、恐々と桶に足を入れた。イェースズはそれに水をかけ、自らの手でぬぐった。

「はい、次」

 次々に使徒たちの足を洗うと、イェースズはその足をタオルでふいていった。

先生ラビ!」

 と、悲痛な声を上げたのは、ペトロだった。自分の番が回ってきた時、その足元にうずくまる自分の師を見て叫んだのだ。

「これじゃあ逆じゃありませんか。私たちが先生ラビの足を洗って差し上げなければならないのです。どうか、お願いです。私は勘弁してください」

「いいんだよ」

 イェースズは微笑み、ペトロに無理やりに足を出させようとした。

「いずれ、この意味が分かるよ」

「いいえ。やはりだめです。お願いですからやめてください」

 とうとうペトロは、出しかけた足を再び引っ込めた。

「私に足を洗わせてくれないのなら、私とあなたの関係は無になってしまうよ」

「え?」

 ペトロの顔が一瞬引きつった。

「そんな、無になるなんて困ります。じゃあ、足だけではなく、手も頭も洗ってください」

 慌ててペトロが早口で言うのでイェースズは声を上げて笑い、皆も大爆笑となった。

「そこまでは必要ないさ。体は一度洗えばもう浄いからいいんだ。でも足は外を歩いて来るわけだから、洗わないといけない。いくらもう浄いっていったって、何から何まで浄いってわけにはいかないんだよ、あなた方はね」

 イェースズはペトロの足をも洗いだした。そしてそれもふいて、次のマタイに移った。

「火の洗礼バプテスマの業で魂を浄めても、どうしても日々の罪穢は積んでしまうんだね」

 やがて全員の足を洗い終わると、イェースズは食事が置いてある床に腰をおろし、足を投げ出して横になった。皆もその通りに円い輪となって足を投げ出し、横向きにに座った。

「みんな、なぜ私があなた方の足を洗ったのか、分かるかい」

 誰もが黙って、首を横に振った。

「みんなは私を、先生ラビと呼んでくれる。その私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方もこれにならってほしい。これからはみんな、互いに足を洗い合うべきだ。つまり互いの魂の向上のために互いにおろがみ合って、そうした下座の心で人々を導いていってほしい」

 何かを納得したように、使徒たちはようやくうなずき合っていた。

下僕しもべは主人にまさるものではないし、遣わされた私も神様に勝るものではない。だから、下座が大事なんだ。そしてこれからは、神様が私を遣わしたように、今度は私があなた方を遣わす。頼むよ。前にも言ったけど、私が遣わすあなた方を受け入れる人はあなた方を遣わした私を受け入れることになるし、私を受け入れる人は私を遣わした神様を受け入れることになるんだ」

 使徒たちの想念は、また二人組みになって家々への福音宣教の旅に行かされるのかなという程度だった。

 そのあとで一同は席についた。晩餐の食物を真ん中に使徒たちは輪になって、床に横座りに座った。

先生ラビ!」

 座るや否や、当然トマスが叫んだ。

「今日の先生ラビは、何だか変だ。まるで、今日を境に先生ラビとお別れするような気持ちになってしまうじゃないですか」

 イェースズは、静かに目を伏せた。

「今日、私はある人に、私を裏切らせようとしている」

「えっ!」

 驚きの声は、誰もが同時だった。

「だ、誰ですか、それは」

 イェースズの向かいに横になっているペトロは上体を起こし、声を震わせながら尋ねた。暑くもないのに、その額には汗がにじんでいる。

先生ラビ、それは誰なんですか?」

 イェースズの右隣のエレアザルが言った。エレアザルはイェースズに背を向けて横になっているので、ものをイェースズに言うときはイェースズの胸にもたれかかる形になる。

「それはいつも私とともに食事をし、今も私がパンを浸して渡す人の中にいる」

「それじゃあ、俺たちの中の誰かじゃないか!」

 と、アンドレが叫んだ。

「裏切らせるって、まさか私じゃないでしょうね。私だったら無駄ですよ。私は裏切りませんから」

 そう言ったトマスをはじめとし、使徒たちは次々に同じ質問をした。

「私ですか」

 と、ぼそっとイスカリオテのユダも言った。それをイェースズは見た。

「あなたまで、そういうことを言うのか」

 この時は、イェースズのこの言葉の真意を誰も理解していなかった。

「みんな、自分の胸に手を当てて、よく考えてみるといい」

先生ラビ、この際だから、言っておきたいことがある」

 イスカリオテのユダは、続いてヒステリックな声を上げた。もはやこれ以上は猶予できないという悲壮な決意が、その表情には表れていた。

先生ラビは、『まず行ってやまいを癒せ。しかる後に福音を伝えよ』とおっしゃいましたね」

「ああ」

「ならばなぜ、病めるユダヤを癒そうとはしないのですか」

「病めるユダヤ?」

「そうです。ローマの支配下にある今のユダヤは、やまいそのものではないですか。神の愛云々を先生ラビは説かれるけど、神の愛はこんな苛酷な状況をお許しになるんですかね? 先生ラビはどうしてローマの圧政と重税に苦しむ人民を、ローマから救おうとなさらないのですか。おっしゃってることが矛盾してるんだ!」

 ユダはかなり興奮していた。それでもイェースズは微笑んでいた。

「あなたは私に、ローマを敵とし、ローマを憎めと言うんだね?」

「当然でしょう。ローマのために、我われイスラエルの民は虐げられているんだ。ローマは敵です」

「言っておいたはずだよ。あなたの敵を愛し、仇なすもののために祈れって」

 ユダはしばらく、唇をかみしめて黙っていた。

先生ラビ、もはやこれまでですね」

「あなたは、あなたが思うようにすればいい」

「では、そうさせて頂く」

「今すぐだ。あなたにはやるべきことがあるんでしょう? それを今すぐしなさい」

 ユダは立ち上がった。ほかの使徒たちは、ただ呆気にとられていた。

「ただ、私は先生ラビこそが救世主だと、今でも……今でも、信じている!」

 それだけ言い残して、ユダは階段を降りていった。しばらく気まずい雰囲気と沈黙が漂った。イェースズはその雰囲気を打開するかのように、笑って目の前の水差しを持ち上げた。

「おい、おい、この水差し。取っ手が壊れてるよ」

 そう言ってイェースズが大笑いした。イェースズの笑顔が、その場にパッと光をもたらしたようだった。

  「口のところも欠けてるし、我われにぴったりのボロだなあ」

 それでやっと、使徒たちの顔の筋肉も緩んでいった。

「さあ、過越の食事を始めよう」

 町では一斉に灯火が灯された頃だ。

 エッセネではない一般の家庭では明日が過越の晩餐となるので、その前夜であるこの日の灯火を合図に一斉に家中の普通の種のあるパンが捨てられる「ベディカーツ・ハメツ」の儀式が行われ、八日間は種なしパンマッツアしか食べることができなくなる。

 その時トマスが、怪訝そうに首をかしげた。

「ユダは? 何か買い物にでも行ったんでしょう? 待たなくていいんですか?」

「いいんだよ」

 イェースズは静かにうなずいた。

「明日は神殿で、犠牲の小羊の血が流される日だ」

 イェースズはしばらく、目を伏せた。そして、言葉をなくしていた。使徒たちはまだ、何も知らない。

 イェースズは、両腕を高く上げた。

「主よ。今、過越の晩餐を過ごす私たちを、祝福して下さい」

 イェースズは口のところが壊れた水差しから水をぶどう酒の中にたらし、杯をのみ干した。そして苦菜マロアーにハロセスをつけ、それを使徒たちに配った。どの家庭でも、過越の晩餐はその苦菜を食べることから始まる。皆が顔にしわを寄せながらその苦い野菜を噛んでのみ込み、イェースズもその野菜に口をつけた。

 この晩餐は決して祝宴ではない。そもそもが出エジプトという、民族の苦難の歴史を思い起こさせるための行事だ。だから苦菜と種なしパンを食べる。

 だがイェースズにとってその苦菜は、一段と苦く感じられた。彼の霊智ははっきりと、使徒たちと晩餐をともにするのはこれが最後だといういことを、しっかりと認識していた。

 一同が苦菜を食べたあと、今度はパセリが塩水に浸されて、一同に回された。使徒たちはまた、新しい命の象徴であるパセリを口に運んだ。それからイェースズは、パンマッツアをとった。種なしだから小麦粉を練って延ばし焼いただけのもので、薄っぺらいものだ。しきたり通り、イェースズはそれを中心から二つにいた。二つに割くのも、ナイフを使わずに手でちぎるのも、ヤーハツというしきたりの一つだった。

 使徒たちは終始無言で、厳粛な祭儀にあずかっていた。

 しきたりではマギードといって、ここでイェースズから過越の由来についての話があるはずだった。どの家でも家長がそうする。

 出エジプトの際にモーセに率いられたユダヤ人は、小羊の血をその門に塗った。それがユダヤ人であるしるしで、すぐに災いがエジプト人の家の長男を襲ったが、そのユダヤ人の印のある家は災いが過ぎ越していった。

 そして出エジプトは慌ただしい脱出だったので、彼らは種を入れたパンを焼く暇がなかった。罪の犠牲の生け贄の小羊ペサーの肉を食べ、種なしパンマッツアを手でちぎり、苦難の象徴の苦菜マロアーを食し、そして小羊の血を表すぶどう酒を飲む、そんな苦難の記念は、薪に臥して胆を嘗めるという意味合いがあった。

 イェースズはそんな種なしパンを高く揚げた。

 ところがそれに続くイェースズの言葉は、そのような民族の歴史をしきたり通りに告げるものではなかった。

「みんな、これをとって食べなさい」

 十一人の視線が、一斉にイェースズに集まった。

「これはあなたがたのために渡される、私のからだである」

 誰もが呆然とした。最初にパンを渡されたイェースズの隣のアンドレなど、手を出すのさえ忘れていた。やがてひと通りパンはちぎられてまわり、使徒たちはそれを口に運んだ。

 生命のパンである神の教えを実践し、自らの血と肉にしてほしい――使徒たちを見ながらイェースズは、切実にそう願っていた。神の教えは生命いのちのパンであり、それを食べるということは、教えを日常の中で実践することだ。

 しかしこの時の使徒たちは誰も、イェースズが「あなたがたのために渡される」と言ったその「渡される」という真意を理解してはいないようだった。

 今日自分は、敵の手に渡される――イェースズはすでに霊智によってそう確信していたのだ。

 食事が終わりにイェースズは、同じようにぶどう酒の杯を揚げた。

「みんな、これを受けて飲みなさい。これは私の血の杯。あなたがたと多くの人のために流されて、罪の許しとなる新しい永遠の契約の血である。これを私の記念として行いなさい」

 イェースズは杯をまわした。使徒たちは飲んだ。その間、イェースズは首をたれてじっとしていた。

 「私の記念として行いなさい」……これはつまり、「自分のことを永遠に忘れるな。自分の言葉と教えを忘れることなく、確実にこれからも語り継ぎ広めてほしい」というイェーズスからの使徒たちに対する祈りが込められていた。

 だが、明日も明後日もこれからもずっと、今日までと同じようにイェーズスは自分たちとともにるそんな日常が続くと信じている使徒たちにとっては、何のことだか全くわかってはいないようだった。

 型破りの過越の晩餐は、静けさの中で進んでいった。使徒たちに一通り杯が回ると、イェースズは目を上げた。

「さあ、歌おう」

 歌う歌は決まっている。「詩篇テヒリーム」の一一三章だ。


  ハレルヤ。主のしもべらよ、主を賛美せよ。

  今よりとこしえに、主の御名が讃えられるように。

  日の出る所から日の沈む所まで、

  主の御名が賛美されるように… …

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