3、【回想】エリザベツ訪問・御降誕

 六年前――すなわち、イェースズがちょうどマリアの胎内にいた頃のことである。

 

 その頃はまだローマからは同名領主とみなされていたヘロデ大王の在世中だった。だが、エルサレムの神殿を大々的に改築し、大劇場や各要塞都市などを次々に建設して栄華を誇った大王もすでに七十歳近くになっており相当弱ってはいた。

 だがそれでも自らの地位に対する執着はすさまじく、自分の実子でさえ反乱を嫌疑がかけられるとことごとく処刑してしまうほどであった。


 そんな時代、ナザレの家の指示によってすでにヨセフの元に嫁いでいたマリアは、初めての妊娠と出産ということで不安と期待で押し潰されそうになっていた。

 夫とは父と娘といっても通りそうなくらい年が離れていて、それだけに不安もまた大きかった。

 ただ一つ、マリアにとって心の支えは、あの異次元体験だった。

 そしてそのほか、こと出産に関しては、従姉いとこのエリザベツもまた頼りになる存在だった。しかしマリアがエリザベツを頼りにしていたのは、出産のことだけではなかったのである。


 マリアはあの異次元体験については、今までに二人の人にしか話していなかった。一人は彼女が“ナザレの家”という僧院で、同じメシアの母候補として共同生活を送っていた七人の乙女のうちの年長格のサロメである。

 だがサロメは、


「夢でも見ていたんでしょう。とにかくまるで死んだように意識を失っていたんだから」


 と、言っただけで、マリアの体験談を一笑に付した。

 それはマリアにとっても当然だと思えた。なにしろ自分自身が、自分の体験に対してまだ半信半疑なのである。

 しかし、サロメの心には何か響くものがあったようで、マリアはすぐそのあとにヨセフに嫁ぐという形で引き取られていったことから、マリアがメシアの母として選ばれたのではないかとサロメは考えたようであった。


 それを裏付けるかのように、マリアの結婚とほぼ同時にほかの六人の乙女の修道生活には終止符が打たれ、在家に戻ったもの、尼僧になったものとそれぞれ分かれていった。

 サロメが選んだ道は尼僧だった。


 そしてもう一人が、従姉のエリザベツである。

 結婚間もなくして、マリアは夫のヨセフとともにエリザベツのもとを訪れた。

 エリザベツの家はエルサレムよりも南のヘブロンにあった。途中、このころはセバステと呼ばれていた異教徒の町サマリアを通り、ヘロデ王が築いた宮殿が威容を誇るエルサレムを抜けて、さらに南へ行くとヘブロンがある。そこまではカペナウムからほぼ六日前後を要した。


 カペナウムがある緑多いガリラヤと違い、木々の少ない荒野の中にヘブロンの町はある。そのヘブロンにヨセフとマリアが着いたのは、夕方だった。

 突然の来訪にエリザベツは玄関先まで二人を迎えに出て、慌てたような嬉しいような表情で二人を中へ入れた。


「まあまあ、先に知らせてくれたらいいものを。さあ、入って入って」


「お姉さま、ご無沙汰」


「ねえ。マリアが今度結婚したって聞いてたから、そのうちいつかは来てくれるだろうとは思っていたけどねえ」


 はにかむように微笑んだマリアは、自分の隣にいる夫を目で示した。


「それにしてもねえ、ヨセフさんのお嫁さんになるとはねえ」


 エリザベツは同じナザレ人としてヨセフを見知っていたが、まさか自分の従妹のマリアと結婚するとは思ってもいなかったようだ。

 だが、二人の年齢的に不釣り合いな組み合わせを気にする様子でもなかった。エリザベツもヨセフと同年齢で孫がいてもおかしくない年ごろだが、子供すらいない。

 この地方がパレスチナの中でもいちばんナザレ人が多く住んでいる地域で、それに次ぐのがマリアたちのいるガリラヤだった。


「マリアがナザレの家に入って以来よねえ」


「ええ、やっと自由の身になれたのですもの」


 三人でひとしきり笑った後、マリアはふとエリザベツの腹部のあたりに目をとめた。


「あら。しばらく見ないうちに、お姉さま、太ったんじゃありません?」


 エリザベツは意味ありげな微笑を見せただけで、黙って自分の腹をさすった。


「実は私、おなかに赤ちゃんがいるの」


「ええっ!」


 驚きの声を上げたのは、マリアもヨセフも同時だった。


「こんなおばあちゃんがって、信じられないでしょう」


「でも……」


「それがね、不思議な話なんだけど……。ま、どうせ話しても信じてくれないでしょうから、やめにするわ」


「いいえ。お願いです。話して!」


 身をすり寄せるようにして、マリアはエリザベツに懇願した。自分自身がそのような人に話しても信じてもらえない体験を持つだけに、マリアの好奇心は一層かき立てられたのである。


「実はね、ある夜のことなんだけど……」



 エリザベツの話によると、彼女が寝ている時に突然大きな声で


 ――起きよ……


 と、聞こえたという。その後、意識だけが肉体を離脱して異次元世界に行き、大いなる光のかたまりのようなガブリエルと名乗る存在から、エリザベツはメッセージを受けたということだった。


 ――なんじ、今より後、一人の男子おのこを生むならん。その者、ミチを開くためのさきがけとなるなり。その名は四八音ヨハネ天地あめつち創造つくりの神のみ役なしたるみ使いの神の御名みなとみ働きの四十八よとや数霊かぞたまをその音に秘めたる名なるなり……


 マリアはその話に、身震いを禁じ得なかった。何から何まで、自分の体験と同じなのである。とにかくどう反応していいか分からずに目を見開いたままでいると、


「そんなこともあるんですかねえ」


 と、ぽつりとヨセフが言った。


「ええ」


「ところで、ザカリアは?」


 ヨセフが急に話題を変えたので、マリアはまだ自分の体験をヨセフには話していないだけに少しだけほっとした。


「うちの人はねえ、いることはいるんだけどねえ」


 エリザベツはばつが悪そうに、奥の部屋に続く扉を見た。


「じゃあ、ごあいさつしなければ」


 ヨセフが立ち上がりかけると、エリザベツは急に慌てだした。


「いえ、それがその……」


「では、もうお休みで?」


「いえ、寝てはいませんけど」


「じゃあ」


 と言って、とうとうヨセフは立ち上がった。もじもじしながらも、エリザベツはもはや止めなかった。

 エリザベツの夫でアビヤ組の祭司だったザカリアも、もうかなりの老人だ。その老齢のザカリアは、ヨセフが扉を開けた奥の部屋の床に、空中を見上げて座っていた。


「ザカリア」


 ヨセフが呼びかけても、ザカリアはそのポーズを変えようとはしなかった。


「ザカリア」


 もう一度、ヨセフは呼んでみた。後ろでエリザベツが、ヨセフの衣の袖を引いた。振り向くと、エリザベツは黙って首を横に振っていた。


「夫は今は耳も聞こえず、言葉もしゃべれないんです」


「え?」


「実は私が先ほどお話した体験をする前に、夫も同じような体験をしたらしいのです」


「そう、ザカリアが言っていたんですか」


「いいえ。本人の口から言葉では聞いていませんの。何しろ、その後すぐに言葉がしゃべれなくなってしまったのですから」


 マリアも立ち上がって、ヨセフのそばまで来た。

 やはりザカリアも異次元にて、ガブリエルと名乗る光体よりメッセージを受けたらしい。だが、とことん信じなかったザカリアは、ことが成就するまではものが言えなくなるという宣告を受けたということだった。

 そのことは、エリザベツがガブリエルよりメッセージを受けた際、ガブリエルが教えてくれたことだったという。


 その日の夜半、ヨセフが寝たのを確かめて、マリアはエリザベツの寝室に行った。そして暗い部屋で一本のろうそくだけをともし、マリアは自分の体験をすべてエリザベツに話した。


「んまあ、あなたもだったの?」


「ええ、だから私、びっくりしちゃって」


「びっくりしたのはこっちだわ」


 興奮のあまりエリザベツの声が大きくなったが、それでヨセフが目覚めはしないかとマリアは心配していた。だから声を落とすように手で合図をしてから、マリアは言った。


「私、本当のこと言うと、自分で体験したことが、自分自身でも信じられずにいたの。でもこれで、はっきり分かったわ。だって、あんな体験したのは、私だけじゃなかったって分かったんですもの」


「私もだわ。やはり人間って、いろんなことがあっても自分の頭の中で考えて解決しようとしてしまうのね」


「ええ。でもこうしてお姉さまの話を聞いて、やっと目覚めたわ。神様って、本当にいらっしゃるんだ」


「そう。厳としていらっしゃって、そしてお力をお持ちになって生きておられるお方なのね。神様って」


「だって、『在りて有るものエイーエ・アシエル・エイーエ』ですものね」


「そうだわ。そういえば、アブラハムの妻のサラも老婆になってからイサクを身ごもったのだけど、そんな遠い昔の話が今の私に現実に起ころうとしているのね。同じ神様のお力で……」


 マリアもまたエリザベツと同じことを、ろうそくの炎を見ながら確認した。遠い昔の奇跡が、自分の身の上にもこれから現実に起こるに違いないということをである。

 その時、


「あ、動いた」


 と、エリザベツは腹をさすって叫んだ。


 エリザベツの家にそのまま三カ月ほど滞在して、ヨセフとマリアはガリラヤに戻った。

 マリアが確信した通りすぐに彼女は妊娠し、そしてようやく妊娠の兆候も目立ち始めた頃、エリザベツより知らせが届いた。

 それは、無事に男の子を出産したという便りだった。そしてその瞬間に、ザカリアの耳も聞こえるようになったとのことであった。

 すぐにでも祝いのために駆けつけたかったが、何とか雑事に終われているうちに年も明け、その頃になってようやくヨセフとマリアは旅に出ることができるようになった。

 真冬で、しかもマリアは臨月である。しかし、この時を逃がしたらもう当分ヨセフの仕事の関係で旅に出ることはできそうもなかった。そこで無理をおして出発することにした。


 出発の前の晩、マリアは不思議な夢を見た。暗闇の中に岩屋のような洞窟があり、そこからかすかな光が漏れていた。マリアが見ているとその岩戸が少しずつ開き、中はまばゆいばかりの光の洪水の世界だった。

 そこには、目がらんらんと輝く黄金の龍がいた。マリアは、不思議と恐ろしいとは感じなかった。するとその龍のうろこの一枚が、ものすごい光の塊となって自分の方に飛来し、マリアの腹部に飛びこんできたのである。そのあと岩戸は閉じられ、龍の姿も見えなくなり、あたりは元の闇にと戻った。


 マリアがそんな夢を見たその翌朝、二人はカペナウムを後にした。マリアだけがろばに乗り、ヨセフは徒歩で出発した。

 ところが思うよりもろばの足は遅く、ガリラヤ湖の西南の麦畑の中にぽつんと突き出た円錐形の山のふもとで、第一日目は暮れようとしていた。だが、町は遥か先だ。

 そんな時、予定よりも早くマリアは産気づいてしまった。陣痛に顔をしかめ、ろばの背で彼女は苦痛にもだえ苦しんだ。だが、近くに民家はありそうもなかった。

 途方に暮れたヨセフは、岩山に洞穴ほらあながあるのを見つけ、とにかくそこまでろばを引いていってマリアを下ろし、穴の中に寝かせた。

 さて、どうしたものかと、ヨセフはなすすべを知らない。マリアはますます陣痛に顔がゆがみ、うめきまわっている。もう外は真っ暗になりかけていたのでヨセフは松明たいまつをともし、それを岩の間にはさんで固定して洞内を照らした。

 ヨセフは、ただ祈るしかほかに何もできなかった。ひたすらひたすら、妻のうめき声を隣にして神に祈った。


 それからかなりたった頃、


「どうしました?」


 と、言って、洞窟に駆け込んできた少年たちがいた。ヨセフはひたすら祈り続けてたから、洞窟に入ってからどれくらい時間がたったかは分からなかった。


「何かあったんですか?」


「妻が、産気づいてね」


 ヨセフの言葉に、みすぼらしいなりの三人の少年たちは視線を寝ているマリアに向けた。


「じゃあ、産婆さんを!」


「でも、こんな人里はなれた所に産婆さんがいるのかい?」


 少年たちもそれに対する返事は持っていないようで、ただ立ちすくんでしまった。


「とにかく、そんな岩の上に寝ていたら寒いでしょう」


 やがて彼らは、わらと飼い葉桶を持ってきた。


「どこで、そんなものを?」


「僕たち、羊飼いですから」


「今は雨季で、羊は小屋に入れてますけど」


 羊飼いの少年たちは、口々に答えた。


「じゃあ、君たちは野に出ていたわけじゃあないのに、どうしてここに私らがいるってことが分かったんだい?」


「不思議な声を聞いたんです」


「不思議な声?」


「天からの声とでも言ったらいいような、不思議な声だったんです」


「そうそう。『天には神に栄光。地にはみこころにかなう人に平和』って」


「聞いた聞いた。はっきりと、なあ、聞いたよなあ」


 少年たちは、互いに顔を見合わせていた。


「それで外へ出てみたら、この洞窟に明かりが見えたんです。普段ここに明かりが灯っていることなんかないので来てみたら、中からうなり声が聞こえましたから……」


 一人ではなく、複数の少年が同時に声を聞いたと言っているのだから、あながち幻聴とも言い切れない。だが今は、ヨセフにとってそれどころではなかった。妻のマリアのうめき声は、ひときわ高く、激しくなった。


「き、君たち。女の人を呼んできてくれ。なるべく、子供を産んだことのある女の人を!」


 ヨセフに言われ、少年たちは急いで洞窟から飛び出していった。


 暗い夜道で、少年たちが最初に会ったのは幸い女性だった。


「すみません。子供を産んだことがありますか?」


 いきなりの不躾ぶしつけな質問だったが、その少年たちのあまりの慌てぶりに単なるからかいとも思えなかったようで、女性は、


「私は尼僧だから子供を産んだことはないけど、何があったの?」


 と聞いてきた。

 こんな夜になってから一人で外を出歩く女性など、確かに尼僧くらいしかあり得ない。少年たちは、とにかくことのいきさつを告げた。


「じゃあ、私、行ってみるわ」


 少年たちと一緒に、その尼僧は洞窟に入った、そして入るなり、


「あ、マリア!」


 と、叫んだ。ヨセフはその尼僧を見た。顔に見覚えはなかったが、その尼僧の服から自分たちと同じナザレ人であることはすぐに分かった。だから


「おお!」


 と、彼は叫んだ。


「ナザレ人ですね。私たちもです」


「ええ、知っています。こちらはマリアでしょう? そしてあなたは、その御主人のヨセフ」


「え? なんで?」


「私、『ナザレの家』でマリアと一緒だったサロメといいます。それにしても、こんな所でマリアが……」


 その時マリアは、すでに破水していた。そこでサロメはてきぱきと、羊飼いの少年たちに指示を下した。


「桶に水を入れて持ってきて。布も!」


 そして、高らかな産声が上がったのは、夜半も近くになってからだった。男の子だった。

 サロメが取り上げてその子をヨセフが抱いた後、サロメはひとしきり泣いて、そして天を仰いで祈った。


「神様、お許し下さい。私がアブラハム、イサク、ヤコブの子孫であることを思い出して下さい。私はマリアを疑っていました。マリアの話を聞き、それをマリアの夢と決めつけていました。しかし神様、彼女は今や神様のみ言葉通りに身ごもって、そして男の子を出産しました。年老いた夫の間に男の子が生まれたという、あり得ない奇跡があり得たことは、すべて神様のみ言葉の成就であります」


 サロメの祈りの言葉が、松明の灯かりだけの薄暗い洞窟の中に響いた。

 ヨセフは生まれたばかりの子を、羊飼いが持ってきた飼い葉桶の中にそっと寝かせた。


 時に西ローマ暦紀元前四年一月ヤヌアリウス五日。ただし、この地方の暦では第十の月テベトの中旬のことであった。

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