2、超能力の源

「見たところ五つか六つのお子さんのようだが、お孫さんですかな?」


 イェースズは黙って、ザッカイという老教師ラビをにらみつけていた。


「いえ、せがれなんですが……」


 ヨセフの言葉に一瞬戸惑ったような様子を見せたザッカイであったが、すぐにイェースズに向かって優しく語りかけた。


「お父さんに向かって、ものすごい口のきき方だね」


 ヨセフもいきなりのこの人の登場に、ただ困惑したような顔つきで、ただ、


「はあ」


 と、答えただけだった。その隙に、イェースズはヨセフの手をすり抜け、一目散に表へと駆けだした。


「こら、待て!」


 慌てて追おうとするヨセフの肩にザッカイは静かに手を置き、優しくうなずいて見せた。

 それからまるでザッカイの人柄に引き込まれるように、ヨセフは仕事場に転がっていた丸太の上に自然とザッカイと二人で並んで腰をおろし、イェースズについてひと通りの話をした。それを聞いた後、ザッカイはそっと立ち上がった。


「年が明けたら、私の学校にあの子をおよこしなさい」


 すでにザッカイが教師であることは聞いていたが、それでもヨセフは、


「はあ」


 と気のない返事をしただけだった。


「あの子は賢い子だ。智性も持っている。わしにはそれが分かる」


 ヨセフが他人からイェースズについて、こういうふうに言われたのは初めてだった。今までは、いじめられて帰ってくる我が子のイメージしか持っていない。

 だからヨセフは黙って聞いていた。


「わしの所ではまずあの子に字を教え、知識を教えるとともに、目上の人を敬って人々を愛することを教えよう」


 教師といっても学校というはっきりとした制度があるわけではなく、多くは「ラビ」と呼ばれるパリサイ人の律法学者が開いている私塾の教師だ。

 ヨセフもイェースズが、そろそろそのような所に入って文字を学ぶ年ごろだとは思っていた。だが、いつもいじめられてばかりいるイェースズの性格を考えると、どうしてもためらってしまうのだった。

 だが、ここ二、三日の我が子の変貌ぶりにもまた戸惑っていたところだった。それに気味悪さも手伝って、もしここでイェースズをザッカイのもとへやれば少しはまともになるのではないかと、ザッカイの話を聞きながらヨセフはふとそんな気がしてきた。

 そこでヨセフは、元気のない声でつぶやいた。


「お願いすることにしましょうか……」



 安息日に礼拝する会堂シナゴーグより少し広めの教室だったが、それでもイェースズには何となく会堂と同じにおいが感じられた。

 集まっているのは皆、イェースズより一つか二つ年上のようだったが、それでもひと時とておとなしくしていないような子供たちであった。

 その子供たちが、机も倚子もない教室のゆかの上に座っていた。

 

イェースズは初日ということもあってヨセフに付き添われ、教室の後ろから中へ入った。それと同時に、子供たちの視線は一斉にイェースズに向けられた。イェースズはそれを気にもとめず、父親のそばを離れてほぼ中央に座った。

 周りの子供たちの、明らかにイェースズについてのことだと分かるひそひそ話をよそに、イェースズは何も言わず身動きもせずに座っていた。ヨセフは後ろの方に立って、そんな我が子を心配そうに見ていた。

 すぐに教師ラビが入ってきた。ザッカイではなくひげが長い若い教師だった。

 一同の間に、さっと沈黙が広がった。


「諸君!」


 第一声で、若い教師はそう言った。


「今日から、新しい兄弟が仲間入りだ。大工ヨセフの子、イェースズだ」


 再び、皆の視線がイェースズに集まった。


「紹介しよう。イェースズ君。立ちたまえ」


 イェースズはそれでも、黙って座っていた。


「イェースズ君、聞こえないのかね。イェースズ君!」


 それでも、イェースズの反応は全くなかった。しばらく沈黙が流れた。後ろからヨセフが、


「イェースズ!」


 と、小声で呼んだ。それでもイェースズは、動こうとしなかった。

 子供たちの間から、失笑がもれた。しどろもどろとなった教師は一つ咳払いをした。


「いいだろう。新しい兄弟のために、今日はギリシャ語のアルファベットをもう一度復習しよう」


 今や、ギリシャ語が国際的公用語だった。

 かつて隆盛を極めたヘレニズム文化は政治的にはローマ帝国にとって代われたが、今でも文化の面ではギリシャの方がローマよりもまさっている。

 彼らユダヤ人の間でもギリシャ語を話すということがエリートの第一条件であったし、国外在住ディアスポラのユダヤ人はギリシャ語を日常語とさえしていた。ちなみにパレスチナに住むユダヤ人は日常用語としてはアラム語を使い、ヘブライ語は祭式用語や律法用語とされていた。だからこういった私塾では、ギリシャ語とヘブライ語が主に教えられていたわけである。

 教師が示すギリシャ語のアルファベットを子供たちは一心に石板に刻み、きしきしと石が鳴る音だけが教室に響いた。イェースズだけが、それを無視したままだった。


先生ラビ!」


 沈黙を守っていたイェースズが突然手を挙げたので、教師は青ざめたような顔でイェースズを見た。


「な、何ですか……!?」


「あなたが本当の先生ラビなら、アルファという文字の起源や本当の意味を言ってよ。そうしたら僕が、ベータの意味を教えてやるよ」


 教室中に爆笑が響いた。


「イェースズ君! き、君は、教師に向かって、な、な、何てことを!」


 教師はついにたまりかねて、顔を真っ赤にしたままイェースズのそばに歩みより、イェースズの小さな頭をぽかりと殴った。


「いてえ!」


 イェースズは小声で言った後、じっと黙って教師をにらんでいた。後ろでヨセフは、頭を抱えていた。

 イェースズは泣きだすと彼は思っていた。いつもいじめられるのはこんなことがきっかけで、イェースズのこの性格がいじめられる原因だったのかと納得もしていた。

 ところがイェースズは泣きだしもせず、ますます恐い顔をして教師をにらみつけていた。


「な、な、何かね。何か文句があるのかね!」


「倒れてしまえ!」


 そのイェースズの叫びと同時に教師は大きな音を立てて床に倒れ、顔を強く打った。


 教室内は騒然となった。

 倒れた教師はようやく抱き起こされて運ばれていき、子供たちはただ騒ぎながらことの成りゆきを見ていた。


「静粛に!」


 代わりにザッカイが駆けつけてきて、子供たちの前に立った。


「いったい何があったのかね!」


「あの新入りが……!」


 前の方に座っていた数人が、ことのあらましをザッカイに告げた。


「そうか。しかしまだイェースズのせいと決まったわけじゃあない。イェースズがそう言ったから倒れたというより、イェースズが何も言わなくてもあの先生は倒れたのだよ。さあ、わしが代わって授業をしよう」


 先ほどの若い教師よりもこのザッカイの方が口数は多そうだった。


先生ラビ!」


 と、またイェースズが手を挙げた。そしてまた、同じ質問をした。


「しかしねえ。そんなことは君。君たちの年ごろにはまだ難しすぎる」


「知ってるの? 知らないの? アルファという文字の起源と本当の意味!」


 ザッカイは口ごもっていた。


「し、し、しかし、文字というのはそうなっているものをそうと覚えるしかないのであって……」


「偽善者!」


 急にイェースズは大声で叫んだ。


「アルファの意味も知らないで、ベータを教えるんだね。アルファについて教えてくれるなら、ベータについても信じるさ」


 イェースズは立ち上がった。


「だいたいアルファという文字は、どこの国でできた文字? どういうふうにしてできた? 一つ一つの音にこめられている意味は? そしてその並べられている順番の意味は?」


 さすがに年の功だけあってザッカイは取り乱すことはなかったが、何も答えられずに黙っていた。

 この時すでに、イェースズは自分の中からこんこんと湧き上がる叡智を感じていた。それはずっと上の方から、直接に脳天に流れ込んでくるような感覚の流れでもあった。今この教室の中にいる自分は百のうち九十しかない仮の自分であって、別の世界に残りの九十の自分があるという感覚を思い出した時、九十の自分の叡智が堰を切ったように流れこんできたのだ。

 それに満たされて、もうあとは何も考えることもなく、口が勝手に動くのにまかせて彼は語った。


「アルファという文字の音は『ア』で、遥か太古に神様がお造りになった『神の御名の型の文字』つまり『象神名カタカムナ』の最初の文字で、横の線が斜めとなり、斜めの線が横に貫き、一点で連なる斜めの線は縦となって上にあがって輪舞する。その意味は、『天』で、だから最初の文字なんだ!」


 水を打ったように、教室中が静まりかえった。子供たちの目は、教師ラビザッカイの次の動作に集中していた。


「わ、分かった」


 しばらくの沈黙の後で、ザッカイはやっとそれだけを言った。


「とにかく、座りたまえ」


 イェースズはおとなしく座り、自信に満ちた目で教師ラビを見据えた。


「わざわいだ!」


 と、ザッカイはつぶやいた。


「困ったことになった。自分で呼んでおいて、その子供のためにこんな恥をかくとは……」


 子供たちも、誰も何も言葉を発しなかった。ザッカイは教室の後ろに立っているヨセフを見た。


「兄弟ヨセフよ。どうかこの子をもう、連れて帰ってくれ。この子の視線にわしは耐えられないし、この子の言うことはわしの理解の範疇を超えている。この子は、この世の人間とは思えない。どうしても、分からぬ」


 ザッカイはそう言って、子供たちの前であるにもかかわらず頭を抱え込んだ。それから子供たちに向かい、


「わしはこんな年寄りになって、こんな子供に恥をかかされたことをここではっきりと認める」


 と、言った。子供たちはわけも分からず、押し黙ったまま不審そうな目を教師ラビに向けるだけだった。ザッカイはもう一度、ヨセフを見た。


「この子はなんと偉大な子だ。神か天使か、それとも何なのか……。ああ、わしは何と言ったらいいのか、全く分からん!」


 イェースズはおもむろに立ち上がった。


「肉の目は開いていても、霊の目を閉じていたら何にもならないのさ!」


 それだけ大声で言うと、父ヨセフさえその場に残してイェースズは教室から出て行った。


 この直後、イェースズは六歳になった。

 ヨセフにとって、自分の息子についてもう何がなんだかわけが分からなくなってしまった。

 いじめられっ子からある日突然超能力少年に変身した我が子を前に、父親としてどう振る舞っていいのか分からなかった。誰に相談できることでもない。イェースズの弟のヨシェは普通の子だし、またその弟のヤコブも普通に育っている。イェースズは自分が年をとってからの子だけに、ヨセフの困惑と焦燥は募っていった。

 妻のマリアはまだ若く、ヨセフほど戸惑いは見せていないようだ。しかしその落ち着きは若いというだけではなく、何かイェースズについて知っているからではないかという気さえヨセフにはしてきた。

 そのマリアは、四人目の子供の臨月を迎えようとしている。


「イェースズを絶対に外に出すな」


 今のヨセフがマリアに言えるのは、それだけだった。


 大工とはいってもひと月の半分は家にいてベッドや農具を注文に応じて製作しているヨセフだったが、この日は外の現場に出ていた。

 外出を禁じられてもう半月もたち、その間に新しい弟のユダも生まれたが、父が久々に外に作業に行くというこの日はイェースズにとって格好の脱出のチャンスとなった。

 ヨシェも何とかイェースズを連れ出そうと味方して努力してくれたが、父が家にいる時はいつも徒労に終わった。仕方なく、ヨシェはいつも一人で外に遊びにいっている。いじめられる身代わりならよいが、ヨシェがイェースズの代わりに外で遊ぶというのはイェースズにとっては愉快なことではなかった。

 もう、我慢の現界が来ていた。

 父が出かけるのを確かめたイェースズは、母が生まれたばかりユダに乳をやっているのを確認し、そっと父の作業場の方へ行った。例によってヨシェはもう一人で遊びに出て、家にはいない。

 ゆっくりと足音を忍ばせて、イェースズは外へ通じる木の扉の方へ向かった。

 だが、あと一歩という時、


「イェースズ!」


 と、いう鋭い声が背後でした。振り向くと、いつの間には母がすぐ後ろに立っていた。


「お父さんから、表に出てはいけないってあれほど言われてるでしょう」


 父と違って、イェースズにとって若い母はさほど恐怖の対象ではなかった。そこで彼は母親に向かって馬鹿にしたように舌を出した。


「待ちなさい」


 そのまま出て行こうとするイェースズの服の袖を、母マリアはしっかりと握った。


「放せよ。今日はお父さんがいないから、遊びに行くんだ!」


「いけません。あなたを外に出してはいけないって、お父さんからきつく言われてるんだから」


「放せったら!」


 やっとのことで母を振り切ったイェースズは、一目散に表へと飛び出した。春の到来を告げる日ざしが、さっと彼の全身を包んだ。

 しかし、そんな安らぎを感じている暇もなく、母が追ってくる。つかまってしまったらせっかく手に入れた自由は飛んでいってしまい、また暗い家の中に閉じ込められる生活が始まる。

 イェースズはひたすら逃げた。だが、母はどこまでも追ってきた。走りながらもイェースズは、自分が逃げるだけしか能がない普通の子供ではないことを思いだした。そうしたらもう、ためらいはなかった。


「ころべ!」


 彼は立ち止まって母の方を向き、強い念とともに言葉を母親に送った。次の瞬間、なぜか足がもつれて鈍い音とともに土の上に転がったのは、イェースズの方だった。その拍子に石で膝をすりむき、出血と痛みで彼は泣きだした。

 すぐに母が追いついた。そしてイェースズを羽交い絞めにして連れ去ろうとした。


「さあ、帰るのよ!」


「やだ、やだ、やだ!」


 泣きじゃくりながら暴れて、イェースズは何とか逃げようとした。だが、いくら暴れても、マリアが六歳の少年を運び去るのはわけなかった。

 それでも何とかマリアの腕をすり抜けたイェースズは、逃げながら、


「お母さんの足なんか、地面にくっついてしまえ!」


 と、再び強い念と言葉を送った。

 ところが、あれよあれよという間に膝から下が硬直して、両足が地面に釘付けになったように動かなくなったのは、今度もイェースズの方だった。


「足があ、足が動かないよう! お母さあん、助けてよお!」


 通り過ぎる人々が何ごとかとちらちら見る中で、イェースズだけが棒立ちの状態となった。


「自分の言葉よ。自分で何とかしなさい。お母さんのこと、憎いって思ったでしょ。その気持ちを解きなさい」


「うん。お母さん、ごめんよお、ごめんよお!」


 足の硬直は、徐々に溶けていく。そこで、一歩、また一歩と、彼はこわごわ足を踏み出してみた。遠慮がちに、涙も引いていく。


「さあ、帰るわよ」


 イェースズは、今度は逃げようとはしなかった。

 家に着くまでの間、なぜ自分の力は母には効かなかったのかが、イェースズには不思議でならなかった。入るとすぐにマリアはドアを閉め、イェースズを父の仕事場に連れていった。


「そこに座りなさい」


 ふてくされたようにイェースズは、しぶしぶとマリアに指差された木材の上に座った。


「人を憎んだり怨んだりすると、その想いは自分に跳ね返ってくるのよ。分かった?」


 うなずきながらも、


「でも、なんで?」


 と、イェースズは尋ねた。


「その人の霊魂の問題よ。怨んだり憎んだりした相手の霊魂が浄い場合、怨みや憎しみの想いは自分に跳ね返ってくるのよ。特にあなたのように強い念の力を持っている場合は、はっきりとそうなるのね」


「霊魂なんて、本当にあるの? サドカイびとたちの子供は、そんなものないって教わったって言ったけど」


「あの人たちは、そう言うかもしれない。でも、あなたは違うでしょう。よく、お化けが見えるって言ってたじゃない」


「うん」


「お母さんもはっきりと知っているのよ。霊魂がちゃんとあるってことは。お父さんにも言ってはいないけど」


「ねえ、どうして僕は、外に出ちゃいけないの?」


 イェースズの関心は霊魂云々よりも、むしろそちらの方にあるらしい。


「あなたは確かに不思議な力を持っている。お父さんにもお母さんにもない力をね。でもね、あなた、今までその力を何に使った?」


「何にって?」


「人を怨んだり、憎んだりして、懲らしめてやろう、やっつけてやろうって、そんなことににしか使わなかったんじゃない?」


「いいだろ。僕の力なんだから。僕がどう使おうとも」


「でもね、今日のようなことだってあるのよ。お父さんは、あなたがその力を人を傷つけることにしか使わないから、それで外に出さないようにしたの」


「どうして自分のために使っちゃいけないんだよ」


「じゃあ、なぜ神様はそんな力を、あなたに下さったのかしら」


「たぶん……僕は、神様の子供なんだ。だって、おかしいよ。何でうちのお父さん、あんなおじいちゃんなの? 何でお母さんだけ若いの? よそのうちのお父さんとお母さん、みんなどっちも同じくらい若いよ。だから……たぶん……僕は……」


「たぶん、何なの?」


「僕はお父さんとお母さんの、本当の子供じゃないんじゃないの? だからきっと、神様の子なんだ」


 音をたてて、マリアの平手打ちがイェースズの頬に飛んだ。


「言っていいことと悪いことがあるわ。どこまで思い上がってるの、この子は!」


いてえ! 何すんだよお!」


 イェースズは再び泣きだした。


「あなたはちゃんとしたお父さんとお母さんの子よ。あなたは自分が神様の子供だって言うけれど、それなら誰だってそうでしょう。お父さんだって、お母さんだって、ヨシェもヤコブもユダも、そして隣のクレオもいじめっ子のゼノンも、みんなみんな神様の子供でしょ」


「だってみんな、僕みたいなことできないじゃないか」


「確かにあなたには特別の力があるみたいだけど、神様はそれで人をやっつけろってことで、そんな力を下さったのかしら。どうしてその力を、もっと人のために、みんなが喜ぶようなことのために使わないの」


「そんなのやだ! だって僕は、今まで何にも悪いことはしていないじゃないか。それなのにいじめられてばかりいるからかわいそうだって思って、神様はこの力を下さったんだ」


「そう? 何も悪いことはしていない?」


 マリアの声のトーンが、急に低くなった。口調もその速度が落ちた。


「本当に何も悪いことはしていないつもり?」


 一時的に泣きやんだイェースズは、しっかりとうなずいた。そんなイェースズを、マリアは鋭く見据えた。


「そう? じゃあ、何であんなにいじめられて、苦しい思いをしなければならなかったのかしら」


「あれは、ゼノンたちが悪いんだ」


「何でも他人が悪い、友達が悪い、先生が悪い、大人が悪いって決めつけて、人を怨んで生きていく心に、安らぎがある? 地獄そのものでしょ」


「だって悪いやつは悪いんだ。僕は悪くない!」


「『ヨブ記』を読んでご覧なさい。いじめられたりとか、病気とか、そういった不幸せなことは、必ず罪という原因があるって、ちゃんと書いてあるから」


「だって、僕には罪なんかないもの」


「今は覚えていなくても、生まれてくる前の世界では何か悪いことしてきたかもしれないじゃない。そして今もあなた、お父さんやお母さんにどんな口きいてる? どんな想いを持ってる? この世に生まれてくるためにはお父さんやお母さんがいなかったらできなかったってこと忘れて、あたりまえに生まれてきたと思っていない? おまけに、自分はお父さんとお母さんの子供じゃないなんて言いだすなんて」


 イェースズは黙っていた。


「そうでしょう。それだって、立派な罪なの。そしてあなたには、大きな罪があるのよ。あなたは覚えていないでしょうけれど」


 部屋の中の空気がしんと静まりかえる中、マリアも近くの木材に腰をおろして、さらにゆっくりとした口調で続けた。


「あなたがまだ生まれたばかりの赤ちゃんだった時……」


 イェースズはただ、母を凝視していた。


「あなたのせいで、何千人もの赤ちゃんが殺されたのよ」


「え!? 赤ちゃんが? 僕のせいで? なんで!? なんで!?」


「いい? ユダヤの王様……と、言っても今の王様じゃなくって一つ前の王様で、今の王様のお父さんなんだけど、もう亡くなった方よ。その王様が、ある町の二歳以下の赤ちゃんを全部殺しなさいって、そんな命令を出したのよ」


「え? 赤ちゃんを全部?」


「そう。それもみんな、あなた一人を殺すためによ」


 イェースズは意志のように体中が凍りついたように動かなくなり、目だけ見開いて黙り込んでいた。「王様があなたを殺そうとして、でもあなたが見つからないから、いっそのこと全部の赤ちゃんを殺せばあなたもその中に入っているだろうって、それでそんな命令を出したのよ」


 イェースズはもはや言葉を失い、蒼ざめた顔で母を見ていた。


「幸い前もってそれを知らせてくれた人がいたので、お父さんとお母さんはあなたを連れてエジプトに逃げて、それであなたは助かったのよ」


「ど、どうして王様が、ぼ、僕を……」


 イェースズの体は、小刻みに震えだした。


「今のあなたにはまだ難しくて話しても分からないから、大きくなったら話してあげるわ」


「やだ、今、今話して!」


 そう言ってせがむ息子の声をよそに、マリアはいつしか六年前の、イェースズの誕生の時のことを回顧していた。

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