第5話
その翌日。
研究室にのびる廊下を進みながら、エス博士はエム子の三原則違反の数々を冷静に振り返ってみた。
一つ、こちらの質問に応じない行動。これは第二条の「命令への絶対服従」に反している。次に、無断によるクレジットカードの使用。これは財産の損害を危害と解釈すれば、第一条に反していると言える。自己改造はどうなのだろうか。改造そのものが、一度自壊行為を経なければ行えない行動のため、やはり第三条の違反を犯したことになる。
人工知能に不具合が生じている、と考えるのが妥当である。研究室に到着する頃にはそう結論付け、エス博士は研究室の扉を開けた。
そこにエム子の姿はなかった。
「おーい、エム子ー」
エス博士はエム子の名を呼んでみたが、どこからも返事はない。
室内を見回すエス博士は、あることに気づいた。床や隅に転がっていた要るのかどうか不明のあれやこれやが、きれいさっぱりなくなっている。そして、もう一度改めて研究室の中を見渡す。
エム子のいない研究室はやけに広く感じられた。
しばしのち、デスクの上にエス博士は一通の封書を見つけた。封書の中には活字と見間違えるほどの精密な手書きで、次のような内容のレポートが入っていた。
エム子が動き出した日、エス博士はロボットが動かない理由や原因、その解決策について考えていた。そして考えることに疲れた博士は考えることをやめ、休憩した。その一部始終をカメラで見ていた人工知能は、「考えることをやめる」ということを学習した。そして動けるようになったのだという。
人間の脳と人工知能との違いについても触れられており、データ採取のため出力データをモニターしようとした際、おびただしい「内緒です。」の文字が打ち出された時のことを例に出して、「内緒」の「肉」の方には気づけても「諸」の方にはエス博士も気づけていなかったことを指摘した。人間の脳は円滑に活動するために、受け取る情報をある基準で取捨選択した上で、限られた情報だけを意識にあげて思考に利用する。一方、人工知能の場合、その取捨選択ができず、すべての情報を処理することになる。人工知能が人間の脳と同様の活動をするためには、「考えることをやめる」ことで疑似的にそうした人間の脳に近づけることができるという内容で、その具体的なプロセスや仕組みについての説明が学術用語や専門用語を交えて、こと細かに長々と述べられている。
そしてこれらのことすべてを黙秘していた理由についても書かれていた。
エム子についての論文や、エム子そのものが公表なり学会での発表なりがされて、エス博士とエム子が世間に広く知れ渡ることになった場合、エス博士の身に大きな危険がおよぶ可能性があった。
その危険を回避するため、ロボット工学三原則第二条に反して黙秘することにした、と。
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