これからも

 慧が目を覚ましたとき、時刻はすでに正午を過ぎていた。背中の感触が綿毛のように柔らかい。

 昨夜の帰還が遅かったとはいえ、十時間を超える爆睡。彼の連続睡眠時間の記録を大幅に塗り替えた。

 強烈な惰眠への誘惑に抗い、慧は上体を起こす。

 至るところの筋肉が軋む。無茶が過ぎたせいなのは自明の理だ。

 頭もぼんやりとしていたが、過度の睡眠によるものか、休養が足りず疲労が抜け切っていないためか、思考がふわふわしている彼には判然としない。

 重い身体を引きずるようにしてベッドから這い出る。

 会社ロゴの付いた青い制服に着替えた。

 元から部屋に置いてあった卓上の鏡に、自分の顔が映る。

 その気の抜けた顔に思わず笑うと、鏡のなかの人物もまた似たように笑った。

 廊下に出る。

 等間隔に並ぶ縦長の窓から、庭にいる三人の男女が見えた。

 

   ◆

   

「はぁ、何度言ったらわかるわけ? アレはあたしが勝ってたに決まってんでしょ? いい加減負けを認めなさいよ」

「ううん、あのまま続けてたら私が勝ってた。そんなこともわからないなんて、小さいのは身長だけじゃないってこと?」

「へぇ、随分と口が悪いわねぇ。育ちの悪さが滲み出てるようだけど、この際どうでもいいわ。そんなに意地を張るなら、もう一回りあってみる?」

「ほら、やっぱり私の勝ち。負けを認めたくないからやり直したいだなんて」

「……俊平、あたしキレてもいいわよね?」


 傍観していた俊平は、静かにかぶりを振った。


「そう熱くならなくてもいいじゃないか。彼女はもう僕たちの敵じゃないんだから」

「アンタはそうだろうけど、あたしは違う」

「お前みたいな偉そうな奴、私だって認めない」

「新入りのくせに、なんて生意気……っ!」


 芝生のうえでじゃれる三人は、同じ制服に身を包む。

 慧が輪に加わろうと近づく。彼は、そこにいるひとりの少女を見据えた。


「似合ってるじゃないか、千奈美」

「あ、慧……そんなこと言われても、自分じゃよくわからない。とりあえず、重くて動きづらい」

「昨日も薄着で暴れ回っていたもんな。戦闘の際は好きにすればいいだろうが、それは制服だ。まずは慣れることだな。俺自身、まだ違和感は抜けないが」


 妙な視線を感じて、慧は背後に目を向けた。

 傍らに立つ琴乃が、にやにやと気味の悪い目つきで慧と千奈美を交互に見比べる。


「なるほどねぇ。やっぱりアンタの彼女だったわけ」

「なんのことだ? さっぱりわからんが」


 眉根を寄せる慧。俊平がふっと吐息をもらす。


「僕としては兄妹と言われたほうがしっくりくるけどね」

「俺と千奈美のことか? 兄妹と喩えるなら、琴乃と俊平もそうだろ?」

「は、はァ!?」


 素っ頓狂な声をあげ、琴乃の口元が歪む。

 ちらりと、彼女は俊平の反応を窺った。逃さず彼は目を合わせ、爽やかな微笑みで応える。


「僕としては吉永さんの彼氏でも兄でも大歓迎さ! 遠慮なくお兄ちゃんと呼んでくれて構わないよ」

「は、無理……二度とその口が馬鹿を言えないよう土を詰めていいかしら」

「それを手伝えば初めての共同作業だね。兄でも彼氏でもなく夫扱いだなんて、流石の僕も驚いたよ」

「なんでそうなんなのよッ!」


 たわけた応酬をするふたりのそばで、千奈美はどこか落ち着かない様子で視線を泳がせる。慧が合流した直後は、そこまで居心地が悪そうではなかったのに。

 どうかしたのかと慧は尋ねようとした。

 その直前、邸宅の玄関から歩み寄ってくる人物の姿が視界に映る。


「みなさん早起きですね」

「いや、もう昼過ぎだが」

「昨日は遅かったので。本当はもっと寝ていたかったんですが、窓からみなさんの姿が見えたので起きることにしたんです」


 大きく伸びをして、鏡花は千奈美を見据えた。

 柔和な彼女とは対照的に、千奈美はばつが悪そうな顔をする。


「その服、とても似合っていますね、九条さん」

「えっと……その……」

「そういえばちゃんと自己紹介できてなかったですね。私は天谷鏡花といいます」

「ううん、名前はもう知ってるから。そうじゃなくて、その……ごめんなさい」


 歯切れの悪かった千奈美が、真摯に頭を垂れる。


「あなたがいなければ、私は、慧を……」

「謝らなくてもいいですよ。その代わり、私を守ってください」

「えっ?」


 思いがけない返答。千奈美は虚を突かれた顔で鏡花を見る。


「私たちはもう敵ではありません。だから、これからは九条さんに、上倉くんだけじゃなくて私も守ってもらいたいんです。そうしたら、全部許します」


 彼女の命じる贖罪に、千奈美は驚き唖然とする。その様子を眺めていた慧は、鏡花と初めて言葉を交わした日の情景を思い出した。

 我を取り戻す千奈美。

 彼女は、ぎこちなく笑って頷いた。


「わかった。約束する」


 ようやく明るい表情をこぼした彼女に、全員が頬を緩めた。


「さて、そろそろ食事の時間だ。みんな起きてから何も口にしていないだろう? ここに来る前に遅い昼食を用意しておくよう頼んでおいた。そろそろ出来上がる頃合のはずさ」

「アンタもやるときはやるじゃない。冷めないうちに行くわよ。ほら、アンタも」


 動こうとしない千奈美の腰を琴乃が叩く。

 催促された千奈美は、戸惑いを浮かべた眼差しを向ける。


「もちろん君の分も用意してあるさ。さぁ行こう九条さん。きっとこの家の食事を知ったら、他では満足できなくなるよ」

「そ、そんなにすごいの?」

「見たこともないご馳走を前に、アンタがどれだけ間抜けに驚くか楽しみね」

「絶対に驚けなくなった」


 ふたりのあとについて、千奈美も邸宅に入った。

 千奈美と琴乃。友情と呼ぶには少々歪んでいるように感じなくもない。しかし彼女が歳相応の仕草を見せるだけで、慧としては喜ばしかった。

 庭に残った鏡花も、彼らのあとを追って歩き出す。


「鏡花」


 名前を呼ばれ、彼女は慧に振り向いた。


「どうかしましたか?」

「お前に言えてなかったことがあった」


 心当たりがまったくないらしく、鏡花は不思議そうに首を傾げる。

 こうして今日を生きていられることも、千奈美が平和な顔を見せてくれるようになったことも、すべては彼女がいたからだ。

 あの雨の日、廃墟の屋上で出会った彼女が、背負う重荷の半分を受け持ってくれたから。だから、押し潰されずに叶えられた。

 慧は思う。

 彼女の協力がなければ、この結末は在り得なかった。


「俺を信じてくれて、ありがとな」


 飾り気のない感謝。

 言葉だけでは足りないとわかっていた。不足している分はこれからの行動で補うと、慧はそう決めていた。


「いいえ。それをいうには、まだ早いですよ」


 何度も意表を突く発言をしてきた彼女は、今回も彼の想像の及ばない返答をする。

 呆けた顔の慧に、鏡花は楽しそうに伝えた。


「これからも、信じ続けるんですから」


 誓いは、遠い未来にまで延長された。

 別の言葉が、慧の温かい胸中に浮かぶ。

 彼は改めて、彼女に伝えることにした。


「ならば、これからよろしく、鏡花」


 今度は心から湧き上がった彼の言葉に、彼女は明るく返事をした。

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