無気力少女の末路

石蕗 景

無気力少女の末路


 瞼はしっかりと持ち上がっているのに、うつらうつらと日々を過ごすことにエスは飽き飽きしている。

 たぶん、絶望でも虚無でもないそれは、嫌気でも嫌悪でも憂鬱でもなく『飽き飽き』と表現するにふさわしい。

 汗と生温い風で、ペッタリと肌に纏わり付くブラウスとプリーツスカートが鬱陶しかった。

 梅雨が明けても湿気を多く含んだままの、この街の夏がエスは嫌いだ。だからと言って、他の季節が突出して好きというわけでもない。春も秋も曖昧になってきて、冬と夏しかないような気がするし、わざわざ過ぎ去る季節に一喜一憂してやる必要もない気がした。そう考えると、この街の夏を嫌う必要もないのかもしれない。そこまで考えて、一気に季節のことなんてどうでもよくなる。

 そうすると、急激に全てがどうでもいいと思えた。

 望んでもいないのに迫ってくる進路も、なんとなく噛み合わない友人関係も、明後日公開の映画も、来週発売の漫画も、さらに先のことなんて尚更。

 昼間と見紛うほど青い空。エスは友人と話を合わせる為に買った、興味もないプチプラブランドの腕時計を見遣る。三と四の間で半端に止まっている短針。ガラスの向こうの、こんなちっぽけな針をへし折りたくなるが、それもまた馬鹿げていると、エスの口元は呆れたように歪む。

 アスファルトを叩く靴の音。誰と誰が会話をしているのかがわからないほど響き渡る囁き声。どこから鳴らしているのか、客引き注意の放送。大きな画面で流れるニュース。

 一通りの音をその耳に掻き集めたエスは、うんざりした。

 平和ボケと言われるこの街は、平和に飽きている。大袈裟なくらいに騒いで、泥を投げ合い、正義を語り明かすのだ。賛成や反対、正義と悪、天使と悪魔、被害者と加害者。対になるそれらに、エスは吐き気がした。

 無知は罪だというが、知らぬが仏という言葉もあって、語られるから歴史は繰り返すのだとエスは思う。ある学者は、想像することの全ては起こり得ることだと言ったらしい。ならば、語り継がなければいいのだ。人から人へ、親から子へ、そうして想像できてしまうから、脳にインプットされてしまうから行動に起こせてしまう。

 しかし、たとえ誰に語られることがなかったとして『知らない』ということに耐えられないのもまた、人なのだろう。無知は罪。そうだ、罪を背負うのは怖いし苦しいし不安だから、知らずにはいられない。

 そこまで考えたエスは、またふと気づく。どうでもいいのに、何をこんなに重苦しく考えているのだろう。

 首筋を伝い、背中を流れていく汗が気持ち悪い。


 ふらりふらりと歩き続け、一体どれほどの時間が経ったのか。エスが腕時計を見ると、短針は六と七の間にいる。それでもまだ空は、橙と紫を纏いながら青を残していて、エスの心が粟立った。

 こんなに明るいのに、人ひとり歩いていない寂れた街を彷徨い続ける。一歩一歩がやけに重く、歩いても歩いても一向に目的地にたどり着かない。このまま倒れてしまいたいのに、それが現実になるほど体は蝕まれていないし、演技ができるほど理性を欠いているわけでもない。ただひたすらに、重く気怠い一歩。

 さっきまでの騒がしい街がなぜだか恋しくなる。ついさっきの自分と今の自分でさえ既に矛盾しているのだから、きっと賛成も反対も正義も悪も天使も悪魔も被害者も加害者も、どちらかに統一されることなんてないのだ。

 見る角度によって、立場によって、環境によって答えが変わってしまうなら、誰も傷付かない言葉なんてどこにもないのではないか。

 エスは這い上がってくる胃酸を無理やり呑み込んだ。

 面倒臭い、どうでもいい。何度そう投げ出しても、結局そのどうでもいいことで頭を埋め尽くされてしまうエスは、心身共に不快感を味わってきた。何度も。

 誰かに話せば少しは気が楽になるのかと思ったが、否定されるのはもっと不快だったし、上辺だけ掬い取られて噛み合わない会話をするのも苛立った。うまくエスの思考に発展をもたらしてくれる人はいなかった為、こうしてひとりで悶々としている。

 空気を求め、広く深い海を漂うようにエスはふらりと歩く。いい加減足を止めてしまいたいのだが、一体どれほど歩けばいいのだろう。なぜか街は消え失せ、ジャリジャリと足の裏を刺激するのは砂道だ。小石がローファーを傷つけている。このまま歩き続けていて大丈夫だろうか。まだ着かないが、何か目印などはないか。

 そこでエスは気づく。

 目的地なんてなかったことに。

 行きたい場所も、生きたい理由も、目指す夢もないまま、ふらりふらりと彷徨い歩いているエスが『目的地』なんかに着くはずもなかったのだ。

 降らない雨が、エスを濡らしていく。音もなく降り立つその雫が、エスの全てに吸い込まれ波紋を広げていく。

「あー、あー、あー」

 音として発せられた意味なき声は、誰もいないこの場所によく響くのに、そこにはなんの美しさも醜さもない。

 エスは退屈だった。飽きていた。考えれば考えるほど、自分の存在が消えていくのを感じながら、退屈凌ぎにわけもわからないまま頭を働かせ続けた。特別な不幸も悲劇も、才能も孤独もなかったエスは何かを求め続け、ひたすらに息苦しかった。これを幸福と呼ぶ人もいて、どことなく違和感を感じながらも言い聞かせ続けた。今ここでエスが消えたとて、命が燃え尽きたとて、誰もあわれむことはないだろう。近所を賑わすことくらいならあるかもしれないが、それ以上はきっとない。

「ああ」

 漸く目の前に新たな景色が現れた。端も底も見えない暗闇が、人々の騒めきによく似た波と波がぶつかり合う音が、エスを招く。

 まるで歩き慣れた道を辿るように、エスは一歩を踏み出した。

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