くじら山と雪の妖精
真賀田デニム
くじら山と雪の妖精
「一緒に滑ってもいい?」
彼女は白く、可憐で、無邪気で、まるで雪の妖精だと思った。
それは子供の安易で大袈裟な例えで、彼女は
「うん。別にいいよ」
「やった。じゃあ、競争しよっ」
「競争? 分かった」
「さきに十勝した方が勝ちね。ソリから落ちたらそこで負けだよ」
「うん」
よーいどんで、銀色に輝くくじら山をソリで滑走していく光輝と少女。
最初は彼女が勝って、次は光輝が勝って、三回目と四回目は彼女が勝って、五回目は光輝が勝った。
そのあとも二人は、バランスよく勝者と敗者に分かれながらくじら山を滑り続け、彼女の「やった、十勝っ」の声で競争は終わりを告げた。
「ほ、本当に十勝したのかよ」
「したよー、だってちゃんと数えてたもん」
「じゃあ、全部で何回滑った?」
「それは知らないけど、私が十勝したのは確かだかんね」
「分かったよ。君の勝ちで俺の負け。はいはい」
負けはしたけれど、少女との距離が近づいたような気がした。
今日会ったばかりで、一緒にソリを滑っただけなのに、とても不思議な感覚だった。まるで昔から友達だったような、そんな不思議な――。
もっと彼女と一緒に遊びたい。
でもそれは両親の光輝を呼ぶ声で、叶うことはなかった。
帰ることを伝えると、少女はひどく落ち込んだ。その顔を見て光輝は後ろを振り返る。もう帰るぞと父親の叫ぶ声が聞こえた。どうしようもない。光輝は少女にさよならを告げる。すると彼女が言った。
「くじら山滑り団、だよ」
「え? くじら山滑り団?」
「そう。私達はくじら山滑り団。団長は私。その私との約束」
「約束って?」
彼女が小指を出す。光輝は訳も分からないまま、自分の小指をそれと絡めた。
「また一緒に滑ろうね。それが団長からの約束」
それが名前も知らない彼女との最後だった。
約束を果たすことなく、彼女の顔も忘れ、淡い恋心も霧散して、膨大な記憶の取るに足らない一欠けらとなり、時は過ぎた。
~~~~
「武蔵野台地? なにそれ」
助手席に座る
光輝は知識の取捨選択をして、八歳の息子に分かりやすいように説明を始める。
「武蔵野台地とは、十三万年前から一万年前の間に多摩川によって作られた、扇子の形をした台地なんだ。多摩川が奥多摩の山々を削り、それらの土砂と関東ローム層という粘性のある土で成形された、とほうもなく広大な台地だよ」
「ふーん。僕の住んでる川越市より広いんだ」
「比べものにならないくらい広いよ。面積は700㎢だから。ちなみに川越市は武蔵野台地の一番北にあるんだ」
「へー。あ、変なゆるキャラいるっ」
光太郎の興味が一瞬にして、歩道で客引きをしているパチンコ屋の着ぐるみへと向く。光輝は苦笑すると、運転に集中する。行き先はその武蔵野台地にある武蔵野公園。二十数年前に、両親に一度だけ連れて行ってもらった都立公園だ。
ふと、大脳皮質の奥底にある引き出しが僅かに開く。
その隙間からかすかに見えるいつの日かの思い出。鮮明とは程遠いモノクロのような映像の中で、一人の少女が笑ったような気がした。
先日降った雪がそこかしこに残っている。
銀世界とは言えないが、東京でこの積雪なら充分すぎる量だろう。都内で雪が降り積もるというのはあまり喜ばしいものではないが、それは大人の事情ゆえだ。子供にとっては天からの遊び道具にすぎない。
「くらえ、雪玉アタック」
光太郎の投げる雪玉が光輝の顔をかすめる。
眼鏡を吹き飛ばして視力を奪おうとするとは、なかなかの策略家ではないか。こいつは本気で相手しなければ失礼にあたる。光輝はお遊びモードを解除すると雪合戦に集中する。光輝の投げた雪玉が面白いように息子に当たった。
「ギブっ、ギブだってっ。何本気になってんだよー」
息子がふくれっ面を浮かべる。
「そう簡単に父親は超えられないって教えてやったんだよ。痛かったか? 帰ったらお母さんに慰めてもらえ」
「そうする。お父さんが大人げなかったことも言ってやる」
「余計な事は言わなくていい。さあ、先に――」
眼鏡が飛んだ。
光輝の振り返り様になげた雪玉が顔面にヒットしたのだ。何やら不自然に背中を見せていたが、こそこそと雪玉制作に勤しんでいたらしい。
「わーい、やったっ。だっせー」
してやられた。
光輝は眼鏡を拾って掛けると、息子を探す。光太郎は入口の噴水を抜けて
武蔵野公園は、『武蔵野の森構想』のもとに造成を行った八つの公園の一つだ。
それらは武蔵野を代表する緑地でもあり、遊びやスポーツ、そして自然や歴史が楽しめる都会のオアシスとも言える。武蔵野台地全体で緑地となると、トトロの森でおなじみの狭山丘陵が真っ先に上がるが、そこだけではないのだ。
その武蔵野の森の一つである武蔵野公園を歩く光輝。
森の爽やかな深緑はなりを潜めているが、身を引き締めるような冷気が心地よい。高く伸びる苗圃を見上げれば、雲ひとつない清々しい青天井がそこにある。今日は来てよかったなと、光輝は息子のはしゃぐ姿を見ながら頬を緩ませた。
「ねえ、もうすぐ? くじら山とかいうの」
雪を蹴っ飛ばす光太郎が聞いてくる。
今日の主な目的はそのくじら山でのソリ遊びであり、気になるのも無理はない。
「もうすぐだよ。ほら、あそこを見てみろ。あれがそうだ」
光輝が指を向けた先、そこに緩やかな傾斜を作る小高い丘がある。通称、くじら山。園西部に隣接する小金井市立南小学校を作ったときに出た土砂を積み上げてできたものだ。当時はおそらく誰もが、皆の憩い場所になるとは思わなかったに違いない。
くじら山には十数人の人達がいて、その大半はソリで滑っている子供達だ。あとは親なのだろう。ほら、お前も行ってこい。と言う前に光太郎はソリを奪い取るようにして駆けていった。
光輝は携帯椅子をセットすると腰を掛ける。そしてくじら山を眺めた。
両親に連れられて初めて来たときと何も変わってはいない。くじら山は長い年月の間、己の背中で遊ぶ子供達を変わらず見守ってきたのだろう。とても懐かしく、光輝はぼうっとした頭で感慨に浸る。
その最中、再び、少女の姿が脳裏を過る。
少女とは一緒に遊んだ。そう、確かソリで競争をしたような気がする。
俺はあのとき、彼女をどう思っていたのだろうか。
知ったところで何が変わるわけでもない。思い出すことにより、平凡だが幸せな日常がなんら影響を受けるものでもない。ただ、くじら山に来たのだからもしかしたらという思いがあっただけだ。
しかし茫漠であやふやな記憶は、光輝の期待に応えることはなかった。
「お父さんっ」
突如、耳元で自分を呼ぶ声が聞こえて光輝の意識が覚醒する。
どうやら寝入っていたらしい。前日の残業の疲れが睡魔を呼び寄せたのかもしれない。
「光太郎か。悪い、寝てた。で、どうした、もう滑んないのか?」
「うん。いっぱい滑ったし。ねえ、腹減ったから何かおやつ買ってよ」
腕時計を見ると時刻は十五時を過ぎている。くじら山に来たのが十三時半だから一時間半ほどいた計算だ。なら、いっぱい滑ったというのはその通りだろう。一人で遊ばせて自分は寝てしまったというのもあり、光太郎の中に罪悪感が発露する。いつもより奮発してやることにした。
「何が食べたい? なんでもいいぞ」
「なんでもいいのっ? じゃあ、ステーキっ」
「バカ。三時のおやつにステーキがあるか」
「じゃあ、苺のショートケーキでいいや」
「ああ」
「やったっ」
安いもんだと光輝は了承する。
雪と泥で汚れている光太郎の体を綺麗に拭いてやると、駐車場へと向かう。
「それでどうだった? 楽しかったか、ソリは」
「うん。めっちゃ楽しかった。上からだとすげー速くなるんだよ。何回も滑っちゃった」
満面の笑みを浮かべて話す光太郎。本当に楽しかったのだろう。親としてはそれだけで満足だ。連れてきた甲斐があったというものである。
「また連れてきてやるよ。冬じゃなくても春だったり夏だったり、季節毎の楽しみ方ができるだろうから。そのときはお母さんも一緒にな」
「うん。でも冬がいいな。今日みたいな雪があるとき。だって俺、女の子……団長と約束したから」
「団長と、約束?」
刹那、蘇る少女との一幕。
……――また一緒に滑ろうね。それが団長からの約束――……。
そうだ。あの日、約束した。団長を名乗る少女と。
初めての恋の相手だった雪の妖精みたいな彼女と。
でもそれは、二十数年前の光輝の思い出。光太郎があの少女と出会えるはずがない。
「くじら山滑り団……」
「あれ? お父さんなんで知ってんの? 俺、言ったっけ?」
「そっちこそ、くじら山滑り団を知っているのかっ?」
まさか。そんな。
彼女は本当に雪の妖精だったというのか。
「知ってるも何も」光太郎が後ろを振り向いて指をさした。「えっと、あっ、あの子、あの子がくじら山滑り団を結成するから君もどうぞって言ったんだ」
光太郎の指の先を追うと一人の少女がいた。
遠くてよく見えないが、年の頃は光太郎と同じくらいだろうか。その女の子がこちらに気づいて手を振ってくる。光太郎が振り返すと、女の子はお母さんとおぼしき女性と共に反対側のほうへ歩いていった。
ああ、そういうことか。
俺に光太郎がいるように、彼女にもまた――。
「約束、守らないとな」
「え? うん。だから来年また雪が降ったら連れてって」
「ああ」
今度こそ、必ず。
くじら山と雪の妖精 真賀田デニム @yotuharu
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