秋の風が吹いている。
結局、あれからお姫様に会うことなく夏休みが終了した。白いシャツばかりが並ぶ教室の中で頬杖をついて、欠伸した。休みぼけの頭をひっぱたくには、やはりテストが最適なようだったが、終わって張り出された結果を見てみれば、いつもと同じ名前が上位に並んでいる。ちなみに俺と言えば至って普通で、無難な順位だ。
席替えの度にやきもきするような気持ちはもう慣れた。彼女が近くても遠くても、ちりちりするような気持ちがある。わずかに風に涼しさが含まれる時期、『合唱祭について』と、黒板には真っ白なチョークで刻まれていた。
いろんな行事があるものだ。
歌ときけば、ふと思い出してしまう女がいる。もうずっと、何年も聞いていない声なのに、今もひっそりと残っている。そう考えていたはずなのに、それが少しずつ遠くなって苦しくなっていたとき、彼女の声をきいた。悪花は、もっと大人びて落ち着いた、けれどもか細い声の女だった。お姫様と言えば、それとは違って、どちらかと言えば華やかな声だ。なのにいつの間にやら二人の声がかぶさっていたものだから、寝ているふりをしながら、俺は教室の中でいつもお姫様の声を探していた。
だから合唱祭で、ソロで歌う人を決めようという意見をきいたとき、真っ先に思いついたのはお姫様だ。まあしかし、そんなことを考えたのは俺だけではないようで、気づけばお姫様が教室の真ん中で立っていて、クラス全員から拍手を受けている状況だった。「ええ、あの、ええ、はい」 なんて言いながら、流されるままに肯定している彼女だが、大丈夫なのか。
とまあ、毎度のごとく心配してしまったが、すっかり杞憂だったらしい。練習でのお姫様の声をきいて、むずむずする気持ちを抑え込み当日を迎えた。「あれ、あれ、あの子、どこに行ったの?」 本番前の待機時間、お姫様の友人が探していた。教室の中には、彼女の姿はどこにも見えない。おいおい。
お姫様はすぐそこの階段で、体育座りでうずくまっていた。あんまりにも器用にまんまるになっているものだから、彼女のうなじがちろりと見えて、つむじだってよく見える。息を繰り返す度に震えていた。「おい」 ひんやりとした階段を下りた。ぎくりと彼女の体がまた震えた。
「そんなに嫌だったのかよ」
見つけたことに安堵して、相変わらずきつい言葉を吐いてしまった。あんたが近くにいてよかったよ。もっとどこかに行っていたら、どうしようかと思っていた。そんなことはしないだろうとは思っていたが。
お姫様はぴくりともしない。ただ固く膝を掴んでいたものだから、指先が真っ白だ。どうしたもんかと考えて、彼女が座る階段の、その反対の端っこに座ってみた。壁にもたれかかって前を見つめる。手洗い場からはぴちょぴちょと、少しずつ水がこぼれて音を出した。どうしたもんか。
「嫌なら」
今からでも嫌だと言えばいい。そう言おうとして、なんだか違うような気もした。なあ、ライアー。お前ならどうしただろう。好きな女が震えてる。怖がってる。でも彼女は生きている。閉じ込められたわけでも、濡れ衣を着せられたわけではない。いつも腰につけていた鍵束は重くて重くて嫌だった。本当は、それを投げ捨ててしまいたかった。でも怖かった。
自分じゃない。
あの塔から逃げ出そうとしたところで、俺が失敗して、彼女がいなくなってしまうかもしれないことが怖かった。でも彼女は。
(生きている)
彼女は悪花ではない。重たい十字架を背負わされているわけじゃなく、一人きりで寂しく歌をうたう必要なんてどこにもない。「嫌なら、最初からそう言わなかったお前がだめだ」 だからこんなところで、小さく縮こまる必要なんてどこにもない。「さっさと歌って、終わらせろ。どんだけ下手くそでも、俺はお前の歌がききたいよ」 自分勝手な言い分だ。背中を押して、逃してやればいいのに。
でも初めから、お姫様が逃げる気がないことなんて知っている。じゃなきゃこんな近くの階段で丸まっているはずもない。仮病でも、なんでも使って逃げればいい話だ。あんたはいつも、俺にとってきらきらしている。
***
「さっさと歌って、終わらせろ。どんだけ下手くそでも、俺はお前の歌がききたいよ」
うずくまったまま聞こえた声が、ふんわりと体を包んで、温かくなった。なのに私は、「下手くそなんかじゃありません、失礼な」 気を抜くと涙が出そうになってしまったから、えずくような声を必死に飲み込んで、出てきたのは可愛げのない言葉だ。逃げる気なんて、もともとない。ただ少しだけ、思い出しただけだ。彼女がいつも、一人きりで歌っていたこと。
聞き手と言えば空からやってくる鳥たちばかりで、彼女はいつも囁くように、静かに声を震わせていた。だから大勢の前で、ぽつりと一人きりで歌う姿を想像すると、唐突に足がすくんで、気づけば教室から抜け出していた。でも違った。
顔を上げると、入学式のときよりも、少しばかり大きくなった彼が心配そうにこっちを見ている。いや、心配そうに、と思うのは、そうだったらいいなと勝手な私の願望だ。実際のところは眉間に皺を寄せて、兵士さんは不満げな顔をして私を見ていた。なぜだか少しだけ、吹き出してしまいそうになった。それから、ちゃんと思い出した。彼女には、彼がいた。決して一人きりの生ではなく、小さな言葉を積み重ねて、幸せを作って彼女は姿を消したのだ。
階段の端っこと端っこに座りあっていた。顔を上げた私に納得したのか、兵士さんは立ち上がった。私はそんな彼を見上げて、どうぞ、と片手を差し出してみた。あなたの力がないと、立ち上がれませんというポーズのつもりだ。兵士さんは、しばらく考えたあとにやっと意味を理解したのか、私の手のひらを握って、引っ張った。ちりりとした。
想像よりも力強く持ち上げられてびっくりした。それから、立ち上がったあとも、互いに手のひらを握りしめた。あのときとは違う。
壁越しに、ほんの僅かに指先が触れ合ったあのときとは。
でも、私は兵士さんの、手のひらを握っている。
ふと意識をすると、どんどん心臓が痛くなって、熱かった。まるで体が発熱しているみたいに、彼が触っている手のひらがあったかい。どきどきする。彼が、わずかに私の手のひらを握った。「ひっ……」 それだけなのにびっくりして、瞳をつむってしまった。体はすっかり逃げているのに放すこともできなくて、見えないせいか、その分彼の手がよくわかる。
クラスの女の子には小さいと言われていたのに、予想外に大きくて、ほっとする。でも怖い。互いの親指をわずかばかりにこすれたときには、二人で変な声を出して体を縮こませた。変な感じだ。嘘だ。これがなんなのか、私は知っている。
(好き)
私は兵士さんが好きだった。ううん、違う。私は今、このクラスの男の子が好きなのだ。口調が悪いくせに、優しくって心配性のこの彼が。
(だから、彼にかっこ悪いところなんて、見せたくないのね)
心の底では、とっくの昔に知っていた。
それから私と彼は時間をあけて教室に戻った。どこに行っていたの、と怒られてしまったけれども、ごめんねと謝った。壇上に立つと、静まり返ったその場所が、やっぱり少し怖かった。けれども握りしめられた手のひらが温かくて、体育館いっぱいに声を響かせて、ピアノの伴奏に合わせた。彼が好き。私は彼が好き。好きで好きでたまらない。そんな気持ちをいっぱいに歌にのせた。
そしたら、少しだけ泣いてしまった。
***
お姫様は緊張の糸が解けたのか顔を片手で覆って、すっかり小さくなっていた。すごくよかった、がんばったねと友人達に声をかけられて、困ったように見せた顔は、なぜだか少し瞳が赤い。そんな姿を見ていると、思わずぐすりと鼻をすすってしまった。彼女の声をきいて、ひどく胸に突き刺さって仕方がなかった。まさか俺に向けて歌われたわけでもないけれど。
まるで入学式で初めて会ったときのようだ。必死に涙を飲み込んで幾度も瞬きを繰り返した。それから長く息を吐いた。「ねえ」 並んだパイプ椅子に戻ろうとしたとき、隣のクラスの男が椅子に座ったまま声をかけた。「さっきの、ソロを歌ってた彼女。名前は?」
妙に甘っちょろい口調だ。目尻の下にはほくろが一つ。かちり、とどこかで音がしたような気がした。俺はこいつを知っている。なぜだかそう感じた。かちかちと、記憶が嫌な音を立てている。「女子の名前なんて覚えてねぇ。知らねえよ」 だからすぐに顔をそむけて、吐き捨てた。
「そう、残念」
キザったらしい言葉だった。そんな返答を最後まで聞かずに、拳を握って、力強く歩を進めた。嫌な汗がとまらない。あいつは。
――――悪花を、裏切った男だ。
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