放課後の歌。君に会いたい。

 馬鹿みたいに高い塔をのぼっていた。粗末な食事を抱えて、がちゃがちゃ鎧の音を鳴らす。ああ、重てぇ。ぐるぐると螺旋状に続く階段を見上げてぞっとした。まだ半分にも届いていない。知っている。昨日だって来たのだから。



 やってらんねぇ。


 こりゃもうやめた。そんな風に投げ捨ててしまうことができたら、どんなにいいだろう。始めこそは違ったが、今ではこんな高すぎる塔なんて誰も登りたがらないし、食事だって忘れ去られていたところを叩いて出させたくらいなのだ。俺以外に、誰がこんな馬鹿なことをするってんだ。



 声がきこえた。口元から荒く吐き出た息を無理やりに飲み込んだ。息を落ち着かせて、音を立てないように、少しずつ、少しずつ頂上に足を踏み入れる。女の歌だ。



 悪花は、歌が好きな女だった。ときどき、こんなことがある。誰にきかせているわけではないのだろう。か細い、綺麗な歌声だった。今日は当たりの日だ。



 気配を殺して、僅かな隙間しかない扉にもたれかかった。瞳をつむって、女の歌をきいた。それはきっと、俺がいるとわかればぴたりと止まってしまうから、今だけだ。こいつは、一体どんな顔をしているんだろう。ふと、想像した。毒のような美しい女に違いないと言われていたが、本当のところは誰も知らない。たった一枚の扉があるだけなのに、俺は彼女のことを何も知らない。










「…………ん?」

「…………おはようございます?」





 お姫様が、こっちを見ていた。「ん、あ、ん?」 着ているはずの鎧はただの学ランで、教室には彼女以外誰もいない。持っていたはずの食料もどこかに消えていて、窓からは温かい陽射しがほかほかとこちらを誘ってくる。夢を見ていた。「おはようございます」 気づいたところで、お姫様がにっこり笑った。なぜだかめちゃくちゃに恥ずかしくなった。



 ライアーは、いつか扉を開けて彼女と話をしてみたい。心の底では、ずっとそう願っていた。あいつは扉を開ける鍵束は持ってはいた。けれども、彼は結局、最期まで何もすることができなかった。できたことといえば、ただ理不尽を叫んだくらいだ。なのに生まれ変わったとしても、未練がましく彼女の夢を見る自身が情けなかった。その上、彼女の顔を見てみたい、そう考えていたときに、お姫様がいたのだから。



 息を吸って、吐き出して、妙に胸の内が熱かった。きっとひどく恥じていた。そんな自分をごまかそうと、目元を拭った。



「なんで、あんたがいるんだよ」



 出てくる言葉は相変わらずひねくれている。生まれ変わっても変わらない。なのにお姫様は気にすることなく手を後ろに回したまま、にこにこして椅子に座る俺を見下ろしている。



「私、美化委員ですから。委員のお仕事で、放課後は各教室を見て回っています」

「……そりゃ大変だな」

「いえいえ」



 お仕事ですから、と拳を握る彼女に適当に返事をしていたところで、「でも、はやく帰らなきゃいけませんよ。放課後はまっすぐおうちに帰りましょうね」「はいはい。あんたもな」「私はお仕事ですから!」 二回目だ。むん、と胸をはっているらしい。



「でもそれも、この教室で終わりです。どうです、もしよければ一緒に帰りませんか?」

「遠慮しとく」



 あらまあ、と大してショックも受けていない口調で、お姫様は口元を覆っている。別に仲良くなりたいわけではない。とは言え、これから日が沈むことを考えてみると、少しばかり不安になった。「途中までだぞ」 お姫様の瞳が、一瞬だけ嬉しげにきらきら光ったような、そんな気がしたが、多分ただの気の所為だ。すっかり彼女は人懐っこくなってしまったみたいだ。




 ***




 兵士さんが、一人きりの教室で寝ていた。「あらまあ」と、こっそりひっそり呟いて近づいてみる。起きないかな。起きてくれるかな。美化委員の仕事は本当だけど、それでも彼が起きるまで、しばらくのところ待ってみた。起きたら、素知らぬ顔をしておはよう、と言ってみよう。何度も心の中で練習して、声に出してみたのだけれども、成功しただろうか。



 一緒に帰りませんかと告げてみて、断られたときには、少しばかり胸の辺りが痛くなった。そのことを兵士さんに知られたくもなくって、わざとらしい仕草をしてみたものの、チクチクする。なのにやっぱり、となって、緩んだ口元を、必死に隠した。彼の言葉一つですっかり踊らされてしまっているけど、案外それが楽しい気もする。



 荷物をまとめて、スキップしそうになる自分を落ち着かせて、平常の顔を作ってみた。そんなときだ。「なあ、あんた」 彼は私のことを呼ぶ声が、以前ととても似ているから、なんだか嬉しくなってしまう、なんて見当違いに考えていたとき、「もしかして、さっき歌ってなかったか?」 さっと顔から血の気がひいた。と、思えば今度は耳の裏が熱くなって仕方がない。



(聞かれてた)



 寝ている彼の顔を見ていると、なんだか嬉しくなったのだ。兵士さんの顔なんて、悪花と呼ばれた少女は見たこともなかったけれど、きっとこれが彼女の見たかった男の人の顔なんだと、そう思ったら嬉しくなった。そしたら、昔みたいに、言葉を口ずさんでいた。





 そろそろ兵士さんが来る時間だと、そう考えると彼女はとっても嬉しくて、か細い声を震わせた。狭い部屋の中で、もしかすると惨めな最期だったのかもしれない。けれども彼女はそんなことは思いもしなくて、ただ兵士さんの訪れを待っていた。



「……気の所為、じゃないですか?」

「……そうか」



 あまりにも適当な誤魔化しだったのだけれども、深堀りをされなくてほっとした。それから下手なことを言うまい、と口をつぐんでいたはずが、やっぱり彼がいることが嬉しくて、ぴょんぴょん跳ねて帰路についた。まっすぐ歩け、と兵士さんには怒られた。

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