邪魔な少女に遭逢

通学用の自転車のハンドルに右手で体重をかけつつ、思考に耽る。


祖母の家はそこそこ遠く、今いる都市部の郊外から自転車で約一時間程の標挟しめばさみという小さな町である。

幼少期の記憶が確かなら、標挟に当時では工事中であったアパートの隣の家だったはずだ。

実際、行くのは小学生の時に祖母から「何時でも帰って来て良いんだからね」と言い残された以来。

その後この家に連れて行かれ、祖母や親族との連絡手段を全て断れていた。


しかし、記憶は微かだが生きているのである。


ああ、夢を見ているようだ。

衝動的なのか本能的なのか理解出来ないが、祖母の家に行くという単純かつ、現状の状況からすると非常に合理的な目的を持たされている。


本当に逃避行かもしれない。


―――こんな過ストレスの環境なら、他の人もこうするだろう。


何だこれ、俺は何がしたいんだっけ?


他人がするような平均的な行動だと勝手に推測し、それに則って行動している。


他人がするような事?

常に他者との比較を求めて生きているんじゃなかったのか?

むしろ、いつだって他人に踏み寄らない癖に、怯えて遠くから軽蔑しているだけじゃないのか?

何が良いんだ?

何が効率的で俺に最も適した選択?

俺の行動パターンは限定されているのでは?

周囲の認知の範疇を超えた行動は非行ではないのか?

皆が認めて、誰もが辟易する愚者の典型的な行動を常に行うのが俺?


・・・頭痛がする。初夏の暑さによる影響ではなく、単に心理的なものだと考える。


いつの間にか、体重をかけていた右手は下に垂れ下がり、両足は凡そ60にひん曲がっていた。


「どうでもいい」


声を殺して唇を震わせる。

思考は透明に、動作には気や情を籠めず。


両足の神経に、生まれ堕ちてから頻繁に流したであろう電気信号を送る。

直立して直ぐに、右足を素早く伸ばす。

庭の湿った土と共に、自分の自転車のスタンドを蹴り上げた。

蹴り上げた土は履いているスリッポンの爪先に粘るように付着し、自転車の後輪に血痕の如く散布される。


これは、もう泥だ。


――――スリッポンに付着した泥が、溶岩の如く足に纏わり付き、広がっていく。


泥の色は黒々とし、されど斜陽に照らされつつあるため、怪しげな光沢がある。

右足の太ももの部分に纏われた泥には重さがなく、ましてやさえ働かない。

泥は異常な規模の発泡が生じた。剰え、発砲した泥が人の手を形成しつつある。

それも無数にだ。


やがて、発泡が起こらなくなると、全ての泥が無数の人の両腕の形となり、血管が浮かぶ程の強い力で俺の右足を握り潰そうとする様子が伺える。

但し、痛覚は無い。


―――庭の土でさえ、俺をこの場所に拘束しようとするのか。


確かに、この家を今すぐに出て行かなくてはならないという理由もなければ、根幹たる俺が行動する理由すら存在しない。


適当で自由奔放であり、「自然」以外の事象が心の底からどうでもいい。


ただ、自分を殺し過ぎたせいで、大量に体に導入された毒が仮面を被った俺を動かす。

そうやって元の自分の所為ではなく、常に周りの事象や、他人に責任転嫁をする。


自己嫌悪も束の間であり、あらゆる思考が溶け落ち、どうでもよくなって、どうでもよくなる。

それが恒久的に繰り返される。

ああだこうだの御託を並べつつ、自己の正当化と不当化を平行して行い、結局は何も出来なくなる。


「こんなの......屑じゃないか...」


五月蠅い蝉の音が鳴き止んだ隙に言葉を零す。


落ち着いてきている。

嘘でもいい。


―――己に暗く示す。


いつの間にか、右足に纏わり付いていた泥の手の大群は、早々と庭の土に還っていく様子に変わっていっている。


少しの間思考に囚われてしまったが為に経過した時間を取り戻すべく、急いで自転車のサドルに尻を据えた。

手汗でびっしょりの両掌でハンドルをがっしりと握り、右のペダルに体重をかける。

前輪がゆっくりと回転し、次は左、右、また左と交互にペダルに体重をかけ、タイヤの瞬間の回転数を上げていく。

やがて、俺の乗る自転車の前輪は庭の湿った土を巻き込み、粉塵に変化させて周囲に撒き散らしながら庭を抜け、スロープを下り、住宅地の通路、そして通りへと走り抜ける。


輻射熱が未だに残る道路を走りながら、断続的に聞こえるコンクリートとタイヤの滑走音に耳を傾ける。

冬にしか聞けないが、ふんわりとした雪が積もった道路を走った時の音も好みだ。

コンクリートのごつごつとした走り心地、滑走音とは対比である滑らかなで継続的な音がとても心地が良い。


自宅は狭苦しい住宅地の中心にあるが為に、表の通りに出るのが非常に楽。

そして表通りは、夜でも煌びやかで豪華、人気ひとけもそこそこある場所だ。

標挟はそのギラギラとした通りを殆ど一直線にひたすら進み、人気や陽気を完全に...いや、過度に殺しきった僻地にある。


表通りに出たところで、自転車の方向を左に90度に傾け、ひたすら真っ直ぐに漕いでいく。


正面を見ると、コンビニで買ったであろうアイスコーヒーの透明な容器を片手に、微笑しながらゆったりと歩く男性、隣には、桃色のアイスコーヒーの容器とは似て非なる容器を持った女性が、男性の顔をじっくりと見つめている。


――――客観的に見れば、どうやら微笑ましい仲であるお二人だが、


ペダルに預ける体重を少しばかりサドルに移し、注視する。


すると、男性のアイスコーヒーの容器の中の液体が火山噴火を連想させるように溢れ始め、容器の蓋が山吹茶色の空に弾け飛ぶ。

が、カップルはその様子を気にも留めない様子どころか、完全に視認出来ていない様子だ。


当然か。


容器から溢れだす液体は、アイスコーヒーの茶色ではなく、墨汁のような...影よりも黒く、禍々しいモノだ。


空中に滞空した液体は徐々に渦を巻くように回転し、急激に圧縮されていく。

液体が圧縮された事で出来た黒い球体は、惑星の公転かのように女性を軸とし横に回転する。女性の体の輪郭を大雑把になぞるように。

球体が女性の頭頂部に到達すると、黒い稲妻を発生させながら、鈍い音を立てながら爆発し、破片が飛散する。

その爆音でさえ、カップルには届かない。


当たり前だ。


爆発で砕け散った球体の破片が、彼女を球状に取り囲むように静止された。

それぞれの破片が包帯のような形状に変異し、彼女に巻き付く、否、護るように360度、透明で巨大な球体の輪郭をなぞるが如く展開される。


その動きに呼応するかのように、女性が持っている桃色の容器からも同様の現象が見られる。

唯、液体の色は奇抜な桃色で、球体に変異する過程以降は現象が違うようだ。

桃色の球体に空間的な動作は起こらなかったが、形が人間の胎児に、一瞬で変貌を遂げた。

浮遊するショッキングピンクをした胎児は、へその緒のと思わしきものを男性の腹部に伸ばし、グロテスクな楽器の演奏が聞こえる。


筋肉は、壊れかかったギターの弦の音。

歪曲する骨は、音の響かないスカスカのドラム音。

泉のように湧き出す鮮血は、ピアノの不協和音。

鮮血と同時に零れ落ちる臓物は...


竪琴の音だろうか。


あのような音の竪琴ならオルフェウスも当然弾かないだろう。


男性はそれでも、何も気にせず、女性に対して微笑を保つ。


至極当然である。


胎児は産声と機械音が混同したような叫びをあげつつ、女性に接近しようとするが、女性を取り囲む漆黒のモノが、形状を人の掌に変化させ胎児に急接近し、肉を、未発達の臓器を抉り取る。

が、それでも胎児は女性に接近しようとする。


―――いつの間にか、自分の足が地面についていた。


ふと、女性の桃色の容器を持つ左手の反対である右手が目に留まる。


女性の右手には...が握られている。

自分が金槌を確認した瞬間、女性の右手は漆黒のモノで見えなくなった。

何かに駆られるように、次は女性の顔を視る。

先程は距離が遠すぎて、唯々女性が男性の事をじっと見つめているように思えたが...違う。

今の女性の顔からは何かしらのが読み取れる。


理由は不明だ...ただ...


これ以上、俺がここに居る意味は皆無だ。


加えて、俺が今見ている歪で、異形で、この世のモノとは思えないようなバケモノはは...



苦しい胸に右掌を押し当て、呼吸を促し、再びハンドルを握る。

見つめ合い、立ち止まっている二人を自転車で追い越そうとすると、男性が急に振り向き、「塞いですいません」と声をかけられる。


此方も反射的に言葉を返すが


「いえ......うぐっ!?......かっ!!」


急に胸に疼痛が走り、倦怠感と吐き気が襲い、一瞬意識が薄くなる。

激しい痛み、薄れる触覚、痙攣する身体。

稀に心臓が痛くなる時とは異なる症状が発生する。

「大丈夫ですかッ!?」と男性は驚きつつも焦りが感じられる声色で叫ぶ。


俺は自分の安否を示す言葉を返そうと、男性に再度振り向こうとするが、途中で首が硬直した。

自分の視線は女性に...正確にはに視線が釘付けとなった。


「大丈夫、大丈夫ですから...」


俺は男性を視認せず、即座に逃げるように自転車を漕ぎ出す。


―――あれは、アレは妄想。それでこれは幻痛かんちがい。女性の視線やオーラを過度に想像しただけ...大丈夫...俺は大丈夫...


「だいッ...じょうぶ...なんだ...」


抑えきれなくなった心の自己暗示の叫びが喉や、唇まで動かす。

脹脛に強く力を籠め、全力で自転車を漕ぐ。


何度も自分に「何故故そこまで他者を嫌うのか」問いかけ、その度に即答し、すぐに忘れ去っていたが、はっきりと思い出した。


「怖いから、他者こそが自分の根源的な恐怖だからだ」と。

またすぐに忘れるのだろう。他人を心象に取り入れぬ限りは。


「どうでもいいか」


そう自分を呪殺する。


幻痛は無くなり、呼吸や体の異常も落ち着いた。


徐々に黄金色に染まっていく通りを駆けながらふと考える。

「何故、現状自分は万物の中でも自然のみを愛せるのだろう」と。

逆を言えば「自分は自然以外の万物を嫌えるだろう」か。


左掌で口と顎を覆いながら、答えを探す。


周りを見渡せば住宅やコンビニなどの人工物の他に、家に帰宅した我が子を迎える親子が。

客観的に視れば、いたって普通の光景かもしれないが、俺は嫌いだ。


―――何故嫌いなのか。


「主観的に視ると妄想してしまうから」というのが根本的な理由だが、求めるは派生。


・・・・・奪いたいから、削りたいから......全て俺のモノにするか、全て捨てるかしたいから.........虚無が欲しいからだろうか。


が、自然物...正確には野生の生物も含むものにはその欲が働かない。


これらは、ただ在るだけで満たされるのだ。


根源的な恐怖から派生した自分の第一たる衝動が「虚無を求める」こと。


「何も見たくない、感じたくないなら自死を選択した方が良いのでは?」と思う時もあるが、生と死はほぼ同等だ。

自分の状態の結果が、関わった人々に影響を及ぼしたり、まぁまぁ痛いとか辛いぐらいだろう。

自死は楽に考えれば、人生のショートカットみたいな感じだ。

ただ、それはこの世の愚行中の愚行であり、俺よりも酷だ。

比較はしたくなかったが断言できる。


何故なら、かあさんが俺を産んだ意味があるという事を信じているからだ。

それが希望だ...だから―――


考えが深くなり過ぎた。

考えながら自転車を漕いでいる間に、周りの風景は人工物よりも、自然物のほうが多くなる。


道路の右側に生い茂る杉の木々の中にある神社が斜陽に照らされ、元は白色であろう鳥居が山吹色に染められる。

蜩の声も木々から聞こえるようになり、左側の田園からは蛙の輪唱が。

林と田園の間の簡素に舗装された道路を駆ける


やがて、田園は黄緑色の木のような細々とした背丈の高い植物の畑に変わっていく。

自転車のスピードを落としつつ、左半身を捩じり、植物を観察してみる。

黄緑の植物には割れ目が少し確認でき、中には真っ黄色の粒がびっしりと並んでいた。


「トウモロコシか。でも何故このような場所で?」


独り言だ。誰が答える訳でもなく、滑稽だ。


と、何やら異臭が漂ってくる。

異臭と言っても、自宅の生け花のようなきつくも華やかな匂いでなく、単純に臭い。

何かの糞尿に近い匂い.........牛だろうか。

ただ、この辺りに養牛場は聞いた事が無く、あるとすれば...豚、養豚場だろう。

自転車が進む度に臭いが濃くなり、鼻腔を染める。

反射的に左手の人差し指と親指で鼻をつまみながら体勢を戻す。

しかし、目的地はこの道の先にあるので、何としても突破しなければならない。

加えて、正面にある地平線に沈みかける太陽を見れば、時間など誰にだって分かる。

黄昏時も終わりを迎えそうだ。

急がなければ。


左手をハンドルに戻し、全力で漕ぐ。

吐き気を催す臭気が口や鼻から入り、意気を落とさせ、耳へと吹き入れられる熱風が体温を上げる。


一々構っていられない。

サドルから尻を離し、足を真っ直ぐに立て、右手でギアを最高に設定するようにグリップを捻る。


加速する。


すると、自分の動作に同調するように走っている道路も下りを迎えた。


さらに加速する。


左側の景色が右側と同様な生い茂る背丈の高い雑草と、弱くなる陽光を遮断する杉林に変わる。

両側が杉林となれば、このまま一直線に進むと標挟に到着するはずだ。


安堵感とともに自転車を加速させようと思ったが、少し奥に薄い人影と、何かが横になり道を少しばかり塞いでいるのが視認出来た。

こんな僻地に...ましてやこんな時間に何者だろうかと疑問を抱えつつも、ただでさえ狭い道路の幅がより狭まっており、これ以上加速を続けるのは危険だろうと判断し、加えてここからの道は傾斜があり、ギアを上げて上るのは疲れる。


加速を終える。


ブレーキを甘く掛け、人影の細部が刻々と視認出来るようになる。

十数メートル離れた人影はどうやら女性であり、横たわっている何かは低身長だががたいの良い男性である事が分かり、加えてマウンテンバイク一台とママチャリ一台が倒されているのが確認できる。


事故だろうか、と考えつつも更に接近する。


が、即座に後悔した。

後悔といっても、俺にそれしか選択肢が用意されておらず、絶対的に回避、否、忌避しようとしても避けられないことは必然であった。

運命だろうか。それもdestinyではなく、fate

この場で愚者ではなく、運命のタロットカードを選択肢デッキから引いてしまったのだ。。


先程まで視認出来ていた女性は女性ではなく童顔の、更には、さえもがはっきりと視認出来てしまう。


少女の握りしめるに、朽ちた太陽が収束し、少しばかり付着したが瀕死の陽光を反射する。


「ああ、面倒だな」


思ったこと直ぐに呟く自分の性格からしても、今回ばかりは唇を微動させることに収めた。


日が堕ちた今、空を染め上げるは地平線から侵食していく夜の闇。

古人はこの時間帯を「黄昏時」の次である「逢魔時」と呼んだらしい。


普段は気にも留めないこの刹那に、本当になんてな。


鬱陶しい。反吐が出る。



















































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