濁った青年の逃避行
現在時刻はそろそろ18時を廻るところ。現在は初夏なので、あと1時間もすれば黄昏時になる故、日はだいぶ傾いている。
今日は土曜日。休日と中学生まではなっていたが、自分が通う高校は、土曜日に午前授業があるので、毎週1.5日が休日であり、加えて、自分は部活動は行っていないので、休む時間が減るということは滅多に無い。
黄土色の斜光が、所々段ボールが散乱している自室の小窓から差し込む。
「―――うるせェんだよ!!」
俺は激昂し、叫ぶ。
同時に、感じたことのない規模の頭から噴出する、熱く、イメージとしては深紅の怒りを分散、解放する為に、力一杯、木製の勉強机に右手の握り拳を叩きつける。
ただ、物に当たっているだけだが、反射的に手が動いた気がするので、いき過ぎだが、本能とでもいえるのか。
―――何故、このような衝動に駆られたのか。
俺は確かに聞いた。直前の記憶が殆ど消し飛ぶ程の、生まれて初めてかもしれない激情を覚えた為、詳細には記憶していないが、義母は確かに言った。
俺のかあさんを侮辱するような発言を。
幼少期から一度もかあさんに関連する話を口に出した事がなかった為、家族...否、俺の前では禁句だという事をなんとなくは理解していたが、そんな事は無かった。
まさか、こんな性格だからと、逆鱗に触れまいとでも思ったのだろうか。
普段は静かというより空気のような俺の家族間での認知とは相反した行動に、家中が静まり返る。
自分のいる部屋から少し離れたリビングから兄が見ていたとされるテレビから「県内で鈍器で殴打され、意識を失った男性が複数人発見されており...」という今時にしてはかなり現実と乖離した地方のニュースが聞こえてくる。
机に叩きつけた右手の握り拳から、骨まで浸透するようなヒリヒリとした痛みを感じながら、俺自身が座っているアーロンチェアを180度回転させ、自室の入口に立っている義母を睨みつける。
義母は顔面蒼白で、口をパクパクさせ、やや過呼吸ぎみ。更に、目尻には水滴が付着している。
呆れた。
それ程、俺の行動が奇異で、萎縮させるようなものなのかと。
「はぁ...」
この場の淀んだ空気を掻き消す為、半分物置のような自室の埃っぽい空気を吸い込み、吐き出す。
掻き消すと言いつつも、結果的には義母に対して険悪な行動の為、より一層空気を重く、義母の意気をどん底に落とすような形だ。
ただ、残念ながら、俺の家族の誰にも私情を持ち合わせていないので、一々、行動に情も感じない。
むしろ、深呼吸をしている最中に、将来への希望...というより、義母にかあさんの侮辱を含んだ叱責をされる前の思考の答えを確認する事ができた。
そもそも、俺は高校受験に失敗したせいで悪化した、この過度にストレスがかかる環境を打開すべく、一人思考に耽っていたのであった。
それを義母の叱責により、妨害された。
だがしかし、あのまま延々と考えても、視野が狭すぎて導けなかっただろうか。更には、義母の行動が俺を激昂、からの深呼吸に発展させたのは紛れない事実。
何か人智の超えたものが働いたのだろうか。
こんなラッキーに一々頭を使っても意味ないか。
まとめて、取り敢えず、俺がすべき事の答えが出たわ。義母よ。少しは役に立ったねありがとう。
「祖母の家に行ってきます」
俺は義母の目を穿つぐらいの眼力と、向こうに此方の考えを読ませない為のお飾りとして
義母は無言でぎこちなく首を縦に振ってくれたので、スムーズに準備に以降する事ができた。
始めに、激昂する前に、ネットサーフィンをしていたであろう自分のノートパソコンの画面を暗転させ、軽快に閉じる。
次に、ミステリー小説などの文庫本などが乱雑に散らばっている勉強机の上のミドルウォレット、子供用携帯電話を、アーロンチェアの背もたれに掛けてあった色褪せた紺色のワンショルダーバックに放り込む。
更に、暫く帰って来ない事が予測出来る為、自室に差し込む斜光を塞ぎ、あらゆるコードをコンセントからスパスパと抜いていく。
最後に、自室の入口付近に設置してあるハンガーラックから、白色のウィンドブレーカーを羽織り、入口前で呆然とする義母を押しのけ、闊歩する。
自室を出て直ぐ左を見ると、リビングに通じるドアがあり、中学の頃に義兄が制作したであろう優美な装飾品で飾られている。
そして、リビングに入らずに廊下を左折すると、正面に玄関があり、周りに骨にこたえるほどの激臭が充満していた。
玄関付近の靴箱の上に置かれた金木犀と百合の生け花からだろう。
一時的な解放感に浸りたいだけの逃避なのか、祖母の家に行けば何かが変わってくれる淡い期待感からなのかという思いが、嘔吐を催す匂いと共に俺の動きを鈍らせる。
今までたった一度も、かあさんの親族との交流が許可されなかった。
勢いではあるが、一応承諾されたが為、気が変わる前に、足早に家を出ていきたい...
だから、出ていこう。そういう自己欺瞞だったとしても、無理に突き通すまで。
両耳を両手で強く叩き、余念を叩き潰しながら、靴箱の中から白黒のブロックチェックのスリッポンを取り出し、土間に優しく放る。
式台にワンショルダーバッグを降ろしてスリッポンを履いていると、リビングから微かに軽い音がした。
どうせ義兄がノートパソコンを使用するのを止めたのだろう、と推測し、スリッポンを履き終え、ワンショルダーバッグを軽々しく担ぎ、玄関の熱を帯びた把手を掴んだ。
その時、慌ただしい足音と共に、リビングのドアが勢い良く開かれた。
開かれた直後に義兄が飛び出して来て、「出掛けるのは良いが最近物騒だから...」や、「今日は非常に暑いし、日も落ちてきたから...」などと遠回しに「行くな」と伝えてきた。
「俺は大丈夫だから」
されど、自分の意志の絶対の固さを示す為、「大丈夫」なんていう曖昧だが、強引にも行くぞという意味を孕んだ言葉を口にした。
その後は、義兄は何も口出しはせず、ひたすらに微笑を保ちながら、俺の動向を見つめていた。
なので、俺も義兄を見るのを止め、温められた右掌で再び把手を握り、ほんの少し、押し出した。
ドアを開ける。
閉鎖されていた空間に、徐々に長方形の縦穴が広がっていく。
拡張されていく縦穴から少しずつ、生暖かい風が吹き込んでくる。
手に籠める力を強くし、勢い良くドアを全開にすると...
身体全体に温風が直撃した。
風は周りに漂う無秩序な空気を一掃し、夏特有の香ばしい匂いで弾圧する。
俺はふと「黄昏ようかな」とのんきな事を考えたが、風の勢いがすぐさま弱まっていくのを感じ、すぐさま前へと歩み出した。
――――玄関から外の庭へと歩きながら、風を身体で感じなくなる直前、人の像が目の前に顕現したように見えた。
像は右掌で俺の左頬を撫で、その後、纏わり付くように抱擁した。
抱擁を終えると像は庭の景色と同化しながら消えていった。
―――なるほど。像は風だったのか。
俺は理解した。
風との抱擁を終えて背後を振り返ると、重々しい音を奏でながら、ドアが閉ざされた。
家の中には、まだ金木犀と百合のニオイが蔓延っている。
抜け出せて本当に良かった。
「行くか」
俺は玄関ポーチのアスファルトを蹴り、庭の土を踏みしめた。
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