5 第69話 竜の行方と西の領主

 最後のページめくっても、皆は言葉を失ったままでいた。

 精霊たちが敢えて指し示した本なのだから、嘘偽りがしるされているとは思えない。

 竜はこの世に生まれる紋章の娘が呼べば、どんな地の果てからでも飛んでくると言い伝えられている。だが人々が伝えている話は、この本に描かれた物語の一部分でしかなかった。


「ガンダーギとは、何だ?」


 アーニアが、沈黙を破るように問いかけた。

 司書のトーニがうめくように呟く。


「子供の頃の吟遊詩人の唄に、その名を聞いたことがあります」

「おそらく……歪みや淀み、おりと言った妖魔の元、もしくは妖魔そのものを示すのだろう」


 ひとつ、深く息を吸ったサナトが答えた。

 ニノが同じように溜息をついて、腕を組む。


「だとしても、今、竜がどこに居るかの手がかりは無いですね」

「憶測することはできるな」


 アーニアが難しい顔で呟くのを見て、サナトは頷いた。


「竜は歪みや澱――ここでいうガンダーギに冒され、紋章の娘の呼びかけに応えられない状態にある」

「でしたら、やっぱり僕たちが探すよりほかにない」


 ニノが顔を上げた。

 窓の外は清々しい夏の青空が広がっている。この空の下のどこかに竜がいるのだとしても、ただ飛んで来るのを待つことはできない。


「同時に……竜がガンダーギに冒されているとしたなら、それは妖魔化している、ということになりはしないか? 救えるのは魔拯竜ましょうりゅうの紋章の娘だけだ」


 ジーノが厳しい言葉を添えた。

 妖魔化した竜。

 ザビリスとは比べものにならないそれは、世界を破滅に導きかねない。

 この本に描かれた竜は破滅を避けるため、自ら地の果てへ飛んでいった。それだけの自我を保っている状態だったからであろう。だが歪みや澱――ガンダーギに飲み込まれ、一度自我を失ったなら、もう誰にも止めることのできない災厄にしかならない。


 レラは、青い顔で目の前の本を見つめていた。

 きゅっと唇を噛み、胸の前で指を握り、息を潜めている。


 クタナ村の声聴きグルナラから、竜は呼びかけに応えられない状態にあるのではと、その可能性を示唆していた。同時にレラは幾度となく、竜の行方ゆくえを精霊に尋ねているのだ。

 レラは森の大佳靈おおかみの御前で、精霊は「己が眼と耳で探せ」と答え、居所を教えてくれなかったのだと言っていた。旅をするうちに、竜こそが世界に災厄をもたらす元凶なのだという言葉を聞き、何が真実なのか分からなくなってきているのだとも。


 竜は世界を救う聖獣なのか、滅びを呼ぶ恐ろしい魔獣なのか。

 それは今、竜がどのような状態にあるか・・・・・・・・・・・・・、で決まるのだとしたら……。


「竜を、必ず見つけ出す」


 サナトは力を込めて呟いた。

 十年前、ダウディノーグを救ったとされる名も無き魔法騎士は、妖魔を倒すことはできても、すべての歪みや澱を戻すことが出来なかった。だからこそ今、王国は危機を迎えている。

 サナトはレラがいたからこそ、ギリギリの所で耐えることができた。

 人の身では、全ての澱を戻すことは不可能なのだ。


 ダウディノーグを始めとした、この大陸に広がりつつある災厄を止めるには、この世の全ての精霊を使役し、あらゆる魔法を使うことができるという――ガンダーギをも戻す力を持った魔拯竜を見つけ出すより他にない。

 見つけ出し、もし妖魔化しているようなことがあれば、紋章の娘の力で癒さなければならない。


 魔拯竜を探し、レラを――紋章の娘を、必ず、竜の元まで連れて行かなければと、サナトは心に誓う。


 強い意志が滲むサナトの声を前にして、皆が顔を見合わせた時、書庫の扉を軽く叩く合図が響いた。アーニアが「何用だ?」と声を上げると、扉の向こうから低い声が返る。


「西の領主、エスカニオ・ディ・バンニステールでございます」

「バンニステール卿か? 入れ」


 アーニアが答える。

 ゆっくりと扉を向けたそこには、落ち着いた表情の、壮年の領主がいた。


     ◆


 エスカニオ・ディ・バンニステール。

 ベスタリア王国の、広大な西の領地を治めるあるじである。


 短い、焦げ茶の髪を乱れなく後ろに流し、整った身なりで向かい合ったアーニアに目礼する。

 瞳の色は明るい茶。あまり彫りの深くない顔立ち。豊かな麦畑を抱えた手腕の領主というよりは、片手に古書を読み解く学者といった雰囲気が漂う。もしこの書庫の司書だと言われたならば、そのまま疑わないだろう。

 ザビリスよりは十程歳のいった、三十代半ばから終わりのように思っていたが、落ち着いた所作を見るに四十代だと言われても不思議ではない。

 目に留まる特徴的な顔立ちではないが、先日の戦いの直前に深淵の森と不可侵の盟約を結んでいることを口にして、ザビリスをたしなめた姿は記憶に残っていた。


「調べものは進んでおりますか?」

「分かりやすい答え、というものは容易よういに見つからないものだな」


 アーニアが苦笑しながら答える。


「だが、竜と紋章の娘の物語は見つけた。改めて妖魔の脅威を完全に払拭するためには、魔拯竜を探し出さなければならぬということだ」


 閲覧の机に広げた本に視線を向けて、エスカニオは小さく頷いた。


「やはり、長くこの書庫を守っていた司書を亡くしたことは残念です。けれど立派な後継者がいると、エルネスト殿下から伺っております」


 そう言って、アーニアの側に控えていた司書のトーニを労わる。

 トーニはもったいないお言葉だと、頭を垂れた。


「実はエルネスト殿下に代わり、改めてサナト殿とお礼の言葉を交わしたく思いまして。先日の見舞いの際は、まだ意識が戻っておりませんでしたゆえ。しばし、サナト殿をお借りできるでしょうか?」


 場所を変えて二人だけで話をしたい、ということだろう。アーニアを始めとして一同の許しを確認するように、エスカニオが問う。

 王女であるアーニアはともかく、他の者に対してはエスカニオの方が高位であるのにもかかわらず腰が低い。サナトは椅子から立ち上がり、答えた。


「俺は構わない。少し席を外していいか?」

「うむ、後は我らが如何様いかようにもしよう。レラもよいな?」

「え……あ、はい」


 アーニアに問われたレラは慌てて頷いた。

 気配を察したナギが付き従う。そのまま、サナトとエスカニオは書庫を後にした。


     ◆


 無骨な石の廊下を過ぎ、入り組んだ階段を下りた先は、四方を城の壁に囲まれた花の咲き乱れる中庭だった。

 小路にそって所々に水が流れ、中央に位置する場所に白い東屋あずまやが建つ。とても古いものであったが、日々磨かれてもいるのだろう石の中に埋まった小さな鉱物が宝石のように輝いていた。

 影に日向に精霊たちは微睡み、小さな虫が花の蜜を求める。

 そこはまるで、深淵の森に帰って来たような輝きと静寂があった。

 今朝、王城をナギと共にぐるりと巡って駆けた時には、目にすることのなかった場所である。


「ここは、亡きベスタリア王妃のお気に入りの場所でしてね。エルネスト殿下からここにお招きするよう、仰せつかったのですよ。今日が夏至祭の当日でなければ、殿下自ら案内したかったとおっしゃっていました」

「国王の代理として祭事も多かろう。民を優先するのは長として当然のことだ」


 だが、それだけではない。エルネストが表だって功績を称えられないのは、他にも理由がある。

 エスカニオに東屋へと促され、豪奢な卓子テーブルの椅子へと腰かけたサナトは、向かい合う席の領主に問いかけた。


「妖魔の正体は、伏せられるのだろう?」

「ええ」


 否定すること無く、エスカニオは頷く。

 一歩遅れて召使いたちが飲み物と茶菓子を運び、給仕を終えると、静かに一礼して去って行った。ナギはサナトの側で伏せる。

 サナトとエスカニオの他には誰もいない。

 風と、時折響く虫の音だけが、耳に届く。


「本来なら国を挙げて英雄と称え、それ相応の褒美を与える所ですが、そうなれば民は妖魔の正体も知ることとなるでしょう。今、南の領主が、魔物より恐ろしい化け物になったと知れば、民の動揺は火を見るよりも明らか」


 国王不在の王国にあって、それはあまり良いことにはならない。

 ずっと隠し通せないとしても、明らかにするのは今ではない。と、国を治める者たちは決断した。ならばそこに、サナトが異議を唱える理由はない。


「王子にも言ったが、俺たちは既に十分すぎるほどの持て成しを受けている。そもそも、功績が欲しくてやったことではない」

「それは知っています」


 エスカニオは、意識を失っているサナトの元へ見舞いに訪れている。

 精霊の奇跡がなければ腕は使い物にならなくなり、下手をすれば死んでいたと治癒魔法師が言う状態を、直接目にしていた。


「功績欲しさでは、割に合わない」

「ザビリスとは……俺が深淵の森に居た頃から、少なからず因縁があった」

「家臣の者からも聞きましたよ。深淵の森に侵入しようとして、金の瞳の青年と狼の魔獣に追い返されたのだと」


 サナトは苦笑した。

 それらのことが後押しとなって、ザビリスを妖魔化させる一因になったのだろう。

 エスカニオは身を乗り出し、サナトを真っ直ぐ見つめた。


「サナト殿は昨日、鍛錬中の騎士たちと会い、騎士隊長と言葉を交わしたと聞きました」


 名を、ユルゲン・フォン・シュタインと言った。正装のように鎧を整えた壮年の、誰よりもしっかりとした体格と貫禄の男の顔を思い出す。


「その時、南の先代領主の行方ゆくえを尋ねた上で、ザビリスのことは悪く言わないでくれと……そう言ったそうですね?」

「あぁ……」

「私は、その理由を知りたいのです」






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