5 第67話 世界の広さ
「これは……地図、か?」
星の巡り、月の形と位置。季節の言葉。そして細かく書き記された文字に囲まれて、床に広がった水の染みのような線を輪郭とした図が描かれている。
固有の名詞が多く、サナトが知っている文字と少し形が違う。古い時代の文字……なのだろうとサナトは察した。それでも「山」「原野」「河」など、基本的な単語は拾える。
見開いた
その森の下側、外周に沿って河のような線が描かれ、右側には鋭い山の様な形が連なる。
これは、サナトが今いる、この一帯を現した地図なのだ。
サナトは地図を食い入るように見つめた。
城の窓から見る景色や礼拝堂の塔からも、ベスタリア王国の果ては遠く、西の国境を見ることはできない。
また王都の東側も同じく。深淵の森からクタナ村を経由して王都までの道のりは、徒歩で七日から八日あまり。馬での移動だったため徒歩よりは早く着くことができたが、
けれど今目の前にある地図の、おそらくクーライ大連峰の麓から王都アルダンは小指の爪ほどにも離れていない。
この地図では、現在の西の領地の端となる国境が、どの辺りになるのか分からない。かつて多くの国々がひしめいていた時代のものなのだろう、縦横に伸びる細い国境線がバラバラになった蜘蛛の巣のようにも見える。
それでもベスタリア王国の左側、やはり小指……よりは長い、中指の爪ほど離れた位置で縦に連なる山が描かれ、その下の方には湖と思われる形も見えた。
南には湖や沼が多いと聞いていたから、これが現在で言う南の領土にあたるのかもしれない。
「ベスタリアは、こんなに小さな国……なのか?」
違う。
ベスタリアが小さいのではなく、世界が広大なのだ。
更に左の方、見開きの中ほどに「ダウディノーグ」の文字を見つけることができた。ダウディノーグはベスタリアと思われる形より更に大きい。それでも地図の上下、更に
サナトは、なんて小さな世界に居たのだろうと息を飲んだ。
深淵の森であろう右上の空間は、ベスタリアやダウディノーグを含めたよりも広い。にもかかわらず、世界はその何倍もの広がりを見せている。そして次の
他の地域――いや、大陸を描き表しているのだろう。
サナトがいる場所の地図は、更に広い世界のほんの一部でしかないのだ。
「これが、世界……」
息をするのも忘れたように、サナトは描かれた地図を見つめていた。
深淵の森や東の山脈、ベスタリアから西方ダウディノーグ王国。そしてその更に西の果てに在るという海までが、この世界の全てであるわけがない。
レラが言っていたダウディノーグだけが妖魔の危機にあるわけではないと、想像することもできたはずだ。
それなのに、何も実感していなかった。
この本に描かれた全ての場所に人や獣が暮らしているわけではないとしても、ベスタリア王国のように、多くの者たちが住まう場所はある。そしてその幾つかは、妖魔に苦しめられている土地もあるのだろう。
深淵の森に一番近いクタナ村ですら、妖魔は湧いていたのだ。
人の足では、例え一生を掛けたとしても全て行きつくことなど不可能だ。
ならばどうすればいいのだろう……と、サナトは地図を見つめたまま思う。
時間の許す限り竜を探し、精霊の呼び声のままに足を向け、時に戦い、時に身を削るようにして淀みを戻す。それでどれほどの澱を戻すことができるだろう。
世界には、おそらくザビリスより凶悪になった妖魔もいるはずだ。
深淵の森の森長は、そう遠くない未来に、サナト自身も人の姿を失うだろうと予言していた。既に左肩から胸辺りに変化の兆候は出始めている。
「――さま、サナト様……」
「あ……」
驚いた顔で振り返ったそこには、首を傾げるレラがいた。
呼ばれていたことにも気づかず見入っていた。
「すまない、聞こえていなかった。何かあったか?」
「いえ……ずいぶん熱心にご覧になっていると思ったので。何か手がかりになりそうな物を見つけたのですか?」
微笑みながら尋ねる。レラの青い瞳があまりに近くて、思わず顔を逸らした。
「手がかりではないのだが……地図を見つけた。おそらく古い時代のものだろうと思う」
レラも、サナトの手元の古く大きな本に視線を向ける。そして「ほんとうに……」と驚くような声を上げた。
「どのぐらい昔の物でしょう……知らない国が多く記されておりますね」
「ここ……の文字、読めるか? ロー……ローラズ、テア?」
ベスタリアが記された
更に身を乗り出すレラが、サナトの肩に触れた。
淡く、長く、柔らかな絹のような髪が細い肩から滑り落ちる。それを、何気ない仕草で耳にかけ、首を傾げた。長い睫毛が、書庫の鈍い光の中にあっても輝き、花のような香油が鼻孔を撫でる。
触れた肩から温かなぬくもりが伝わってくる。
「ローラスティア大陸……私たちのいる場所です、ね」
微笑み振り返るレラから、サナトは視線を逸らした。
何故か胸の辺りに、違和感を覚える。
と、その時、人が近づく気配に顔を上げた。
サナトとレラの様子を目に留めたアーニアの従者ジーノが、何か見つけたのかと声を掛けてきたのだ。古い羊皮紙の本を机の横から覗き、彫りの深い顔立ちの、長身のジーノが身をかがめながら呟く。
「
「二百年前……確か、大海を望む王国――
サナトは横に立つレラに尋ねると、頷いて答える。
深淵の森の大社で、レラが森の
ジーノも興味深げに見下ろし、呟いた。
「当時この大陸全体――ダウディノーグのみならず、ベスタリアを含めた近隣諸国も大きな災難の影響を受けたと聞いている。その中でこれだけの物を遺していたとは。とても貴重な地図だ」
「俺は、世界の歴史もよく知らない……」
深淵の森に来た人から、森で生きるあらゆる知識や技術は教えてもらったが、周辺の国々の成り立ちを聞くことは無かった。
人の世を捨てた者たちにとって、遠い過去の歴史は不要なものという意識があったのだろうか。更に言えば、森の外の
ジーノは薄く笑みを浮かべて言う。
「昔は街角で吟遊詩人がよく歌っていたという。国の成り立ちに至る、兇悪な魔物や魔獣と戦った、剣と魔法を駆使した英雄たち。
「紋章の娘の奇跡?」
「竜を呼んで、民を救ったという英雄譚だ」
クタナ村の声聴き、グルナラが言っていた。竜はこの世に生まれる紋章の娘が呼べば、どんな地の果てからでも飛んでくるという、言い伝えだ。
サナトたちの表情を見て疑問を読み取ったのだろう。ジーノは皮肉気な顔に深い緑の瞳を細めて続けた。
「現在、ダウディノーグ王国には、お二人の姫、紋章の娘が控えている。ジュヌヴィエーヴ姫とセレーナ姫だ。十年前、ある聡明な魔法騎士が兇悪な魔物より国を救ったという話は、エルネスト殿下からも聞いただろう?」
サナトが頷く。
「その十年前の時も現在も、竜が紋章の娘の呼びかけに応えて現れたという話が無い。今、ダウディノーグは国に魔物――おそらく妖魔が、湧き始めていると囁かれているにもかかわらず、だ」
「クタナ村のグルナラという人は、竜は、呼びかけに応えられない状態にあるのでは、と言っていた」
「ずいぶん好意的な見解だな」
そう言ってジーノは苦笑する。
「竜は死んで、もうこの世にはいないと言う者も多い」
「お前はどう思う?」
サナトは見上げて問いかけた。薄く笑うジーノの表情は分かりにくい。
「さて……俺は竜の気配など分からないからな。居るも居ないも判断しようがない。ただ、ダウディノーグのセレーナ姫は、竜は存在していると、強く主張しているそうだ」
そしてレラに視線を移す。
「レラ殿もどこかに魔拯竜がいると信じているからこそ、この地まで探しに来たのだろう?」
「はい……」
俯きながら小さく答える。
人には言わないが、レラの背にも魔拯竜の紋章がある。竜の気配を辿れるのならば、このような場所で手がかりは無いかと、足踏みはしていないはずだ。
「まぁ、それにしても……」
と、声音を変えたジーノが、珍しくニヤリと笑った。
「魔法や竜の記述を探している中で、目をつけたのは地図か」
まるでファビオのようだ。
ジーノが言いたいことは分かる。本来の目的から逸れていると暗に
返す言葉も無いのだから、サナトは正直に言うしかない。
「ベスタリアの蔵書には驚いている。優先して調べなければならない本ではないというのにな」
「でも、精霊がこれをと薦めたのではないのですか?」
苦笑するサナトに、レラが言葉を添えた。
「サナト様がただの好奇心から、全く関係の無い物に目を向け、手に取るとは思えません」
「レラ殿は、ずいぶんサナトを信頼しているのだな」
「わ……私は、サナト様の人となりを拝見して……そう、思っただけです」
ジーノの言葉にレラの顔が赤らむ。
それを微笑ましく見下ろしながら、ジーノが頷いた。
「俺も同意見だ。精霊がそれを薦めたのなら、何か意味があるはず」
その時、昼の軽食の準備が整ったと声が掛けられた。
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