インデペンデンス・ナウ2

 異星において多くの国が大小諸々の憂慮を抱えている中でトゥトゥーラだけがそれを感じさせなかった。それはキシトアが基本的人権の保護を定め、自由と権利の行使を認めた事により、後世においても自助自立と助け合いの精神が残されたからとされている。

 確かにトゥトゥーラには、あらゆる社会に共通する一般的な問題は除くとして、差別や格差。貧困、飢え、不平等など、皆無ではないにしろ相対的に「ない」といっても過言ではない程に治安は安定しており、世界有数の安全地域として知られていた。弱者は弱者として、強者は強者として己が生を全うでき、多数の幸福が生まれていたのは事実である。


 それ故に、社会に適合できない人間にとっては、大変住みにくい国家となった。


 トゥトゥーラは原則的に自己決定が最も尊重される。人生の善し悪しは自身の選択に委ねられ、進むと決めた道に対し後悔を挟むのは軽蔑の対象だった。

 自律と自己責任が尊ばれるのは一見優良な社会に思える。しかし、人間の中にはどうしたって意志薄弱なる者が一定数存在し、そうした人間は彷徨いながら漠然とした不安を抱え、漫然と生きていくしかない。それを嘲笑し後指を指す文化というのは個人的には賛同しかねる。それは俺がニートであったからという理由が大きいのは否定しないが、兎にも角にも「自己責任。自己防衛。他人に頼ってちゃ駄目」などという高い意識ばかりが認められる国を肯定するのは、心情的に肯不可能なのだ。


 例えば、トゥトゥーラにも引き籠りと呼ばれる児童がいる。

 彼らに対し親が何をするかといえば、だいたいがカウンセリングに出したり、薬を飲ませたり、外に連れ出して遊んだり、望まぬ集団生活へ無理やり送り出すくらいなものであった。誰もがその子供がどうして引き籠っているのか、何に対して悩んでいるかなどという事は考えもせず、「健全な精神は健全な肉体に宿る」と昭和めいた筋肉臭い汗まみれの思考に取りつかれて我が子を地獄の底へと突き落としていく。しかもそんな親は皆口を揃えて「私は子供と向き合った」「心の病気だから仕方がない」などと宣うのだから始末が悪い。彼らのいう「向き合った」というのは己が思いつく限りの至らない解決策を並べて満足するようなエゴイズムばかりで、クソの役にも立っていなかった。



「それじゃあ生きていけない」


「いつまでも子供じゃいられないんだぞ」


「お前が道を選ばなければならないんだ」


「モラトリアムに身を委ねては駄目だ」


「いつかは自立しなければならないんだぞ」



 並ぶ圧力的正論に反論などできるはずなく子供は口を噤む。そして、親の言う通りにして、また傷ついていく。表情からは感情が消え、世界に対する憎しみが心に巣食い、それでもどうしようもなく、ならばもうこのまま全てを受け入れ、死んだように生きるしかないなと悟った瞬間に、親はこう言うのだ。「立派になったね」と。


 両親がもう少し、ほんの少しだけ子供の目線に立ち、共に寄り添って考えてやれば、豊かな感性は死なずに済み、芸術や文化において偉大な天才が台頭してトゥトゥーラは精神的な豊かさを手に入れる事ができたかもしれない。逆にそれができないからこそ、トゥトゥーラから芸術が失われ、合理的という名の無機物社会が形成されたのであろう。未来のトゥトゥーラにはかつて虹の郡都と呼ばれた面影はない。あるのは効率化と合理化に支配されたロボットとその機械だけであった。

 この社会構成はトゥトゥーラの理念と大きく乖離しており矛盾している。判で押したような思考に支配され、自由と自律を良しとしていながら、子供を束縛し自由を害しているのだ。これを不自由といわずに何といおうか。トゥトゥーラの国民は自由を求めるあまり、人間が生まれながらに持つ権利の存在を忘れてしまっているように思える。自由の権利とは即ち、理不尽を駆逐する義務なのである。個人の尊厳を奪う行為は何人にも許されない。それを置いて、やれ自由だの独立などといった声を掲げる輩はつまるところ詐欺師だ。善良なる無知者を騙す悪人だ。俺はそうした人間が嫌いだし、心底軽蔑する。恐らく、建国の祖であるテーケーにしろ、その血を引くキシトアにしろ、同じ気持ちに違いない。そうであると信じたい。俺は不自由強要する人間を、どうしても許す事ができないのだ。


 そうはいっても、トゥトゥーラが強く、また、世界的に評価されている国である事は変えようのない事実というのが悲しいところだ。自由というのは、本当に難しい。


 一つだけ記しておきたい。

 国の価値とは、個人の価値が高くなって初めて高くなるものであると、俺は考える。

 国は個人が価値を保証し、その命を尊び助けなくてはならないのはそういう理由があるからだ。一人一人に大きな価値があり、国にとってかけがえのない存在だからこそ、彼らの人生により国家は潤い発展していく。それを忘れ、人間を労働力としての側面だけで考えたり、或いは多様な個性、感性を尊重せず、思想統一など行うのであれば、その国は三流以下の屑集団といえるだろう。論理も理論もない、上辺だけの綺麗事であるのは重々承知しているが、もし絶対的な世の理というものがあるのであれば、個人的な想い、というより願望として、そうであってほしいのだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る