丘へ7

 ミツの死刑日はよく晴れていた。

 一点の曇りもない天。快晴に浮かぶ陽は白銀の光を大地に注ぎ、花、草、木、動物に生気を与え、川の流れを清くする。小鳥が囀り、猪や鹿が森や山や谷を駆け巡り、星の恵みに喜ぶ日に、ミツはその血を流すのだった。


「出ろ」


  監禁されていたミツの身体には無数の疵が付けられている。折れた指先に爪はなく、露出した肌の皮は剥ぎ取られ、火爛れと殴打の痕が痛々しく身体を彩っていた。拷問により、無実の罪過を唱えさせられようとした痕跡である。


 しかしミツは決して自らが神の意思に反したとは言わず、代わりにこう述べた。「汝に救いあれ」と。

 それは拷問官に対して向けられた慈悲である。彼は自身を傷つける者にさえ神の祝福が施される事を望んだ。全ての人間に、生命に幸あれと願ったのだ。その言葉を聞いた者は皆ミツを責める手を止めてしまい、拷問官が変更された回数は十五に及んだのだが、彼らは一様にこう口にしたのだった。「主よ。我らをお許しください」



 そうした背景もあり、ミツの死刑執行日は予定よりも早く決行される事となった。司教達は不満であったが、ヨハネだけは唯一人、胸を撫でおろしたような顔をしていた。恐らくではあるが、彼は、ミツがカリスマを超える資質を持つ事に気づいていたのかもしれない。




 ミツが外に出されると、多くの人達から汚い言葉を浴びせられ、石などが投げ入れられた。堪らず膝をつくと、ミツを連れ出したユピトリウス教徒の司祭がそれを立たせ、冷血な声を出す。


「これから貴様は処刑場まで自らの足で進まなければならない。道中、何があっても立ち止まる事を許さない。自らの罪を悔いながら、死へと向かうのだ」


 彼の言葉を聞いたミツは、柔らかい微笑みを向けた。

 厳かな風を装っていたがよく見ると司祭はまだ若く、穢れを知らない無垢な顔をしている。


「兄弟だよ。怯える事はありません。貴方は自身の仕事をしているだけに過ぎない。神はきっとお許しになるでしょう」


「な……」


 絶句した司祭を尻目にミツは苦難の道を歩き出した。靴はなく、地面にはガラスや鉄くず、糞尿などが撒かれている。道端に集まった衆人達が用意したものである。彼らは皆、ミツに対して酷い仕打ちを望んでいた。


「邪教徒!」


「異端者!」


「罪人!」


「詐欺師!」


 謂れ無い言葉や唾が吐きかけられ、時には殴られる事もあったが、ミツは歩みを止めなかった。彼の歩いた後には血溜まりが残り、一歩進むたびに、大きくなっていく。それでも彼の心にあるのは憎悪や私怨ではなく、人類への愛である。


 主よ。私の苦しみは自らに科せられた罰でありましょうか。それとも、救済への礎でありましょうか。望むのであれば、後者であってほしい。あぁ、しかし、私に罪がないとはいえないでしょう。多くの人を巻き込み、不幸にしてしまった。それは紛れもない事実です。主よ。どうぞ、彼らに哀れみを。苦しみ悩める人々に、ほんの少しの救済を……



 そう唱えた瞬間、ミツへの暴言が止まった。

 静寂、そして、足の裏に何かが刺さる音と、血の滴りが響く。次第に混じる嗚咽。悲嘆。祈り。そして幾人かがミツの進む道を掻き分け、道を平らにしていく。その中で一人の女が指を怪我をすると、ミツは、彼女に向かってこう言った。


「ありがとう。だが、血を流すのは、貴女の役目ではありません」


 泣き崩れた女にミツは祈りを捧げ、更に進む。だが、中程まで到達した直後、とうとう倒れ、蹲ってしまった。すると、今度は一人の少年がミツに手を差し伸べたのだった。


「どうか、私におつかまり下さい」


 だが、ミツはその助けを丁寧に断る。


「少年。君の手は、死にゆく者へ伸ばすものではありません。どうぞ、愛する者のために」


 ミツはそのまま立ち上がり、一歩、また一歩と血溜まりを残しながら、死への道を辿る。そして、陽が落ち掛ける頃にようやく死刑場へとたどり着くと、棒に縛られ、そのまま晒し者にされたのだった。そこへやってきたのがヨハネである。


「今より、救済を行う」


 ヨハネが述べると、その傍らに立つユピトリウス教徒の人間が槍でミツの胸を刺した。ゆっくりと、止めどなく流れる血液が落陽に反射し、樹液のように輝く。


「主よ……」


 ミツは燃える太陽を眺め呟いた。その言葉は落胆でもなければ懇願でもない。真に一つの信仰が顕現した、偽りのない、神を崇拝する正しき響きであった。


「……」


 もはや息は薄く、脈拍も遅い。血が流れ過ぎた。残り幾何の命もないであろう。

 彼が最後に見た景色は、あの日、シェードと共に見た斜陽と同じであった。熱く、眩しく、大きく、それでいて遠く、決して手に届く事はないのに、近くにある、汚れる事のない、沈みゆく斜陽であった。


 主よ……どうぞ……人々に……哀れみを……



 陽が没し、信仰の光が消えると、人々は悼み、悲しみ、そして嘆いた。

 星者として生を受けたミツの生涯は日没と共に落ちた。残ったのは夜の闇夜と、僅かばかりの星の輝きである。

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