丘へ5
ミツは微笑みながらシェードのもとへ歩み寄ってきたのだが、この時すでに、自身の身に何が起こるか覚悟していた。全てを受け入れる心模様が痛ましく、尊かった。
「シェードいい夜ですね」
「……」
ミツの言葉にシェードは答えない。ただ無言で立ち、闇夜に紛れ捉えられないミツのあやふやな輪郭を眺める。
「シェード。貴方は、私に何を望むのですか?」
その様子を見たミツはそう問うた。しかし、シェードは依然黙ったままである。
シェード考えあぐねているように見える。もし自分が来てくれと言えば、ミツはきっと言う通りにするだろう。だがそれでいいのか。どこの誰かも分からない男の口車に乗り、親愛するミツを謀るような真似をして許されるのか、自身を許す事ができるのかという葛藤が、恐らくひしめいているのだろう。その迷いと悩みを、ミツは見流さなかった。
「シェード。悩む事はないのです。貴方がなしたいようにしなさい。それが正しくとも誤っていても、私はきっと、あなたを愛すでしょう」
その言葉は春先の花の芳香であり、夏に吹く冷風であり、秋の陽射しであり、冬のスープであった。全ての人間に与えられる慈悲であり、恵みであった。
これを聞いたシェードは涙を浮かべる。しかし、同時に彼はこう思った事だろう。この清らかなる存在を、俗世で汚すわけにはいかないと。
彼がシェードに抱いていた不信感はそもそもそれである。人の欲に呑まれ、神の恩寵を忘れ、自堕落に生きていく可能性があるのであれば、それを見過ごす事はできない。彼は自らが愛する存在が、神聖が汚される事が、何よりも許し難く、そして堪え難いのである。
ならば、シェードの下す決断というのは、一つしかなかった。
「先生。私と、私と共に、来ていただけないでしょうか」
シェードはっきりとした口調でそう言った。よく響く声は丘にこだまし、反響する。
「分かりました。行きましょう。何処へなりとも」
ミツは考える素振りも見せずに答えた。行先も目的も何も知らずとも、彼はシェードの願いに応じたのだ。魂からの叫びを、心からの懇願を無碍にする事など彼にはできない。ましてや、自身を慕う者の声ならばなおさらである。
「先生……」
シェードがそう呟くと、影からあの卑屈な男が現れて「お弟子さん」と割って入った。
「準備はできております。どうぞ、こちらへ」
「……いや、いい。私は、先生のお気持ちが聞けただけで十分だ」
シェードは男との約束を翻そうとしていた。しかし、それを止めたのは男ではなく、ミツであった。
「シェード。一度交わした約束を破ってはいけません。貴方はこの方に、私を連れてくるように言われたのでしょう。ならば私はそうする。貴方も、最後まで信を裏切ってはいけません」
「先生……しかし!」
「いいですかシェード。人を信じ、報いる事を忘れてはなりませんよ」
「……」
シェードは再び押し黙る。だが、握った拳から滴る血液が、彼の悲痛な心情を物語っていた。
「では、お二人様。行きましょうか」
シェードとミツを男が促す、しかし、そこにミツが口を挟む。
「その前に貴方に問います。貴方は、ホルストから来た人間ですか?」
「……さて、どうでしょうね」
「私は貴方についていきます。だから、正直に話してほしい」
「……そうですね。ホルストから来ましたよ。ユピトリウス教徒のお偉方に、あんたを連れてくるよう頼まれたんだ。詳しい事は知らないが、奇跡だなんだって言われて持て囃されているあんたが気に食わないそうだ」
「そうですか。では、目的は私であって、シェードではないのですね?」
「そうだ」
「それでは、シェードがここに残る事を、お許し願えないでしょうか」
「先生! それは……」
叫ぶシェードを制し、ミツは男をじっと見据える。
「……駄目だな。あんたのお弟子さんは人質として同行してもらう。一緒に来てもらわなきゃ困るね」
「私を逃げませんし反抗しません。これは約束です。何があろうと、貴方を裏切りません。信じてください」
「あんた、そいつは……」
卑屈な男の気配が少し変わった。それまで矮小で粗野な空気を纏っていたのが、少しだけ揺らいだのである。人は容易に他人を信じる事はできない。しかし、ミツには疑惑や疑心という壁を破壊する力がった。
「……分かった。信じよう」
「ありがとうございます。それでは、行きましょう」
「先生! 行かないでください! 私が間違っていました! すべては先生を信じ切れなかった私が悪いのです! どうか……どうか……」
「シェード。それはできません」
「何故ですか!? いったい何故!?」
「定めですから」
「では、やはり私も共に……」
「シェード。貴方はこの地に残り、私に代わって主の教を説くのです。それが、貴方の救いとなりましょう」
「先生……」
シェードの慟哭に見送られ、ミツはホルストへ向かう馬車へ乗り込んだ。それは長い旅路からの帰還でもあり、また、ミツに訪れる最後の受難の始まりでもあった。
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