丘へ2

 トゥーラにおいてケオスの治療薬が広まっていくと、同時にガーデニティの布教も行われていった。だが、そちらについてキシトアは特に関知しない方針を固めていた。


「神とやらは偉大なんだろう? では、別段俺が何をする必要もないだろうし、必要があるのであればそれは紛い物だ。俺は紛い物に用はない。それに、奴は宗教の政治利用を拒んでいるんだ。わざわざその約定を破る事もあるまいよ」


 パイルスの問いにそう答えたキシトアは皮肉めいた微笑を浮かべていたが、それはまぁ、いつもの事である。


 ミツはそのキシトアの態度に満足していた。道は違えど、キシトアが他者をおもんぱかり約束を守る人間であるという事に満足していたのだ。

 ミツは人を信じる。その信に報いられる事は、彼の中で最上に近い幸福であった。




 憂いも滞りもなく布教活動をしていたミツであるが、その折に、一人の子供がやってきてこんな事を聞いたのだった。


「ねぇ。本当に神様はいるの?」


 純粋な眼に無邪気な声。それ故の難儀な問い。それに対してミツは深く考え、子供達と視線を合わせて応えるのだった。


「きっと、いらっしゃるよ。主はいつも私たちを見守っているのだから」


「見守ってくれているけど、助けてはくれないの?」


「……そうだね。主は、私達の住む世界とは別のところにいらっしゃるから、おいそれとは助けてくださらないかもしれないね」


「だったら、どうして神様に祈るの? 神様は何をしてくれるの?」


「愛をくださる。神様は、人々を深く平等に救ってくださるんだよ」


「愛?」


「そうとも。君のお母さんが君愛するように、神は人類皆全てをそうしてくださる」


「お母さん……」



 子供はそう呟くと、先まで弾けていた快活な声が沈み、目頭に光が灯って、落ちた。ミツは、すべてを察する。


「そうか、君のお母さんは……」


「……」


 泣きじゃくる子供を優しく抱き留め涙を拭うと、ミツは、こういって聞かせた。


「辛かったね。けれど、君はお母さんのために泣く事ができる。それは、やはりお母さんが君を愛してくれたからに他ならない。君はこれからも生きていかなければならないが、その中できっとかけがえのない人と出会うだろう。その人に君は、君がお母さんから受けたように愛を与えなさい。そうすれば、今のこの苦しみと悲しみは未来への幸福に繋がる」


「本当?」


「そうだとも。それこそが、神の救済であり、愛なのだから」



 このやり取りは聞きようによってはミツの詭弁に聞こえる。しかし、生まれた瞬間母に殺されそうなり、捨てられ、同じ神を崇める人間に見放され、それでもなおこうして神を信じ、信仰の尊さを説く彼の言葉は、人の魂に響く力を持っていた。ミツに抱きかかえられた子供は勿論、やり取りを聞いていた周囲の人間でさえミツの魅力に魅入られ神の存在を信じてしまった。ヨハネが持つカリスマとは桁の違う人心掌握は天賦のものであるが、最も偉大なのはミツに私心がない事であろう。彼は本当に、神こそが人を救うと信じているのだ。その熱を帯びた言葉に人は魅了され、ミツと同じように、神を信仰する人間が増えていった。


 こうしてリャンバにおけるガーデニティの影響力は大きくなっていたのだが、それを快く思わぬ者がいた。ミツの弟子の一人である、シュードである。


「先生」


トゥーラの外れにある丘の上。そこで夕日を見送るミツのもとへやってきたシュードは、鬼気迫る表情でそう呼んだ。



「シュード。どうしたのですか?」


「先生は、このままリャンバで布教を続けるおつもりですか?」


「時が来れば去ります。しかし、まだ私にはやる事がある。今ここを出ていくわけにはいきません」


「それは、リャンバをガーデニティの聖地とするまでいらっしゃるという事でございますか?」


「……シュード。私は、貴方が何を言いたいか分かります。何を考えているのかも分かります。リャンバから政治利用される前に、再び旅に出ろと、そう私に言いたいのでしょう」


「その通りです。この地にはもう十分に信者がいる。以前のように、弟子を一人置いてまた旅立てばよろしいのではないでしょうか」


「君の言う事にも一理あります。しかし、私はキシトア様と約束をしました。それを果たさずにこの地を去るのは彼の信を裏切る事になる。それは、主の愛に反する行為です」


「本当にそうでしょうか。私は、このままでは先生が俗世に穢れ、ガーデニティがユピトリウスと同じ道を歩むのではないかと、畏れながら危惧しております」


「……」


「無礼は承知でございます。罰はなんなりと。追放でも、死刑でも、甘んじて受けましょう。ですが先生。先生だけは高貴なまま、美しいまま、混ざらぬままでいて欲しい……どうか、この場から発ち、今一度世に主の教を説く旅に出ていきたく……」


 涙を浮かべ懇願するシェードの言葉に嘘はないだろう。弟子の中で、彼は最もミツを尊び敬ってきた人間である。そう。それは、狂信の域に達するまでに。


「シュード。見なさい」


「……」


「美しい夕日です。信仰とは、まさしくこういうものです。熱く、眩しく、大きく、それでいて遠く……決して手に届く事はないのに、私たちの近くにある。そして、決して汚れる事はない」


「……」


「私は心に太陽を宿している。それは神がくだすった愛の賜物です。どうか、それを信じてほしい」


「先生……私は……」


 シュードの言葉は続かなかった。沈黙の内に日は沈み、薄闇の空が広がって、冷たい風が、二人の身体を包んだ。


 太陽は確かに汚れる事はない。しかし、上った陽は必ず沈む。ミツはそれを分かっていながらあえて斜陽に例えた。彼の中にある信仰が沈む時というのは、即ち……



「いきましょうシェード。ここは冷える」


「……はい」


 共にその場を離れるミツとシェード。二人の手が触れ合う事は決してなく、ただ、夜の歓喜だけが纏わりついていた。

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