丘へ1

 トゥーラの政治機能を置いた建物はカンバスと呼ばれていた。

 元は真っ白かつ平坦な壁に囲まれた建物であったが、いつしかここに政府への要望や陳情が書き込まれるようになり、人々はジョークと敬意を込めそう呼称するようになった。


 そして、今書き込まれている言葉は一つ。


 救いを。


 市民からの願いはそれで充分伝わる。皆一様に救済を持ち、絶望の中から僅かな希望を得ようとしている。カンバスへの願いはキシトアへの願いに他ならない。リャンバの住む人間から奇跡を求められたキシトアは、それを叶える責任があった。


 そのキシトアの前にミツが通されたのはパイルスとの出会いの翌日である。キシトアはボロボロの衣服に身を包むミツを見て、大層驚いた様子で口を開いた。


「君の話は聞いている。しかし、多くの人間を助けたというのにそんななりというのは、随分と欲がないものだな」


「私は何かを得たいと思って主の声を実行しているわけではございません。それに、人々をお救いしているのは私ではなく主でございます。その一点、どうぞお間違えにならぬよう」


「……君に欲望はないのか? うまい飯が食いたいとか、女を抱きたいとか、酒を飲みたいとか」


「恐らく、あると思います」


「恐らく? 妙な事を言う。俺は君の事を聞いているんだぞ?」


「実のところ、そういう実感が湧かないのです。私は主に仕え、主の思うままに生きたいと考えております。しかし、未熟な私は主のお考えを推し量る事叶わず、常日頃からどうしたものかと悩んでおりますとその内に日が暮れ、月日が経ち、キシトア様が申されたような欲望が差し込まれる余地もなく、こうして今を迎えているのでございます」


「では、神が欲望のままに貪れと、快楽の限りを尽くせと言ったらどうする?」


「主はそのような言葉を発しません」


「仮定の話だ。仮定の」


「断じてありません」


「頭の固い奴だな君は」


「主への信仰とはそういうものでございます」


「随分息の苦しい生き方だ。俺には真似できんな」


「模範される必要はございません。人の生き方も考え方にも、主は干渉されません。自由と平等の元、あまねく人々に慈悲を与えてくださるのです」


「それは犯罪者にもか?」


「人は罪を、間違いを犯すものです。それを咎める事を、どうしてできましょうか」


「……俺は、幼いながらに暴漢に辱められ殴り殺された者や、酷い拷問を受け狂った者。差別され、迫害され、尊厳を踏みにじられた者達を知っている。神とはこうした者と同様に、等しく罪人を愛するというのか」


「償いはあるでしょう。しかし、本質的にはその通りです。主は、差別も区別もなく、全てを慈しみ、愛を与えます」


「やはり俺には理解できんな。無限の寛容など人心を害するだけではないか」


「だからこそ、主は偉大なのでございます」


「……まぁいい。納得はできんが理解はした。確かに、お前の言う神というもの存在は、幾らかの人間の救いになるだろう。そうなってくれれば、ホルストへの流出も避けられる」


「一つ、ご質問があるのですが」


「なんだ、言ってみろ」


「私のような人間をお頼りになるのではなく、ユピトリウス教を国教とされた方が早いのではないでしょうか」


 それはミツらしからぬ発言であった。ユピトリウスを政治利用したらどうかと言っているのである。道は違えど、崇める神は同じ。それをあえて口にするというのは、キシトアは思考を探る目的があった。


「まさにその通りなんだがな。そういうわけにはいかんのだ」


「何故でございますか?」


「リャンバにはホルストに迫害された者やユピトリウス教徒に搾取された人間が大勢いる。そいつらの心理心情を無視して今からユピトリウス教を信じろなど言えるはずがないだろう。まぁそれ故、わざわざホルストへ戻っていく人間がいるのか不思議でならないのだがな」


「つまり、全ては民のためであると、そういうわけでございますか?」


「全部というわけではない。俺自身のプライドもある。俺達は打倒ホルストを掲げて生きてきたのだ。それを軟化させるなど許せるものではない」


「しかし、民の命がかかっているのでしょう」


「馬鹿め。その場を凌ぎで筋を外してみろ。それこそ内乱の元だ。きっとまた戦乱が起き人命が失われる」


「……」


「多くの人間は腹が膨れれば、今が生きられればそれでいいと言う。だがそれは違う。いや、市民はそれでいい。だが上に立つ人間には命を懸けた信条、信念が必要だ。それこそが、多くの人間が明日を生きられるための道を切り開くのだ」


 ミツはキシトアの言葉を聞き終えると、一つ一つ確認するように頷き、それが終わると大きく息を吸い込んで、真っ直ぐと声を発した。


「賛同できぬ点もございますが、素晴らしい考え方だと思います。貴方が信じるに足る人物であると、確信いたしました」


 その発言をキシトアは鼻で笑ってミツを見据え、わざとらしく腕を組んで返答を送った。


「中々無礼な奴だ。だが、嫌いではない。俺の方も貴様を信じてやってもいいと思ったよ。どうか、力を貸してくれまいか」


「私如きがどれほどお役に立てるか分かりませんが、是非とも、この国に住まう人々に神の教を説かせていただきたく存じます」


 ミツとキシトア。信じるものは違えど、互いに目指すは一つ。キャンバスに書かれた言葉の実行。つまり、人々の救済である。

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