素晴らしき異星に祝福を4
迷いながらもミツは神学校を首席で卒業しユピトリウス教の神父となった。
神父といえば聞こえはいいが、孤児であるミツが真っ当に務めたところで地方の司祭程度に収まるのが関の山である。神学校時代の成績を考慮してもせいぜいが司教、司祭の付き人止まり。ユピトリウス教はもはや権力渦巻く俗物の巣窟と化しており、一位国民らの既得権益を保持するだけの組織となっていたのだから、それ以外の人間が出世(という表現はおかしいかもしれないが)するというような事はまず有り得ない。無論、こうした事情はユピトリウス教徒達における不満の苗床となっていた。
それでもユピトリウス教徒の信者は絶えず、相変わらず神に祈りを捧げていたわけだが、信者の心情もそれぞれであり、大きく分ければ次の三つに類する事ができた。
一つは心の底からヨハネをはじめとした教会の幹部連中らを信奉している者達。
彼らはまったく愚直であり視野が狭く妄信的なのだが決して悪人ではない。しかし、だからこそ最も質が悪く度し難い人間である。彼らは頑なに神とその代行者を自称するヨハネ一派を疑わない。亜も派もなく、ユピトリウス教が唯一にして絶対な教であると譲らないのである。敬虔といえばそれまでだが腐敗した組織の旧態依然な保守層などはっきりいって癌でしかない。自ら考える事を放棄し権力者に従うなどとんでもない愚劣。それ自体が罪といっても差し支えのないものである。自ら考え、意思を選択する事を放棄する人間を俺は生きていると呼びたくはない。彼らは皆、ゾンビのように蠢き、権力者の養分となっているだけなのである。そしてユピトリウス教徒の大半がこの手の人間なのだから救いようがない。
次に、ヨハネに対して反感を抱きながらも従わざるを得ない人間。
こうした者は潜在的に相当数いるのであるが、表に出てくるのは稀である。無暗に騒いで角を立てたい人間は少ないし、ホルストで暮らす以上、ヨハネ派に歯向かう事は事実上の脱会を意味するからである。
ユピトリウス教が国の中枢を支配している以上、非ユピトリウス教徒が市民として真っ当に生きていく事はできない。ライフラインから近所の付き合いまで、何から何まで教義に組み込まれてしまっているのだ。そして何より。彼らの多くは神を信じており、ホルストからの移住を良しとしなかった。望めばほぼ無条件でリャンバに暮らせるのにも関わらずそうしないのは、やはり絶対的な神という存在に背を向けられないからである。あくまで許せないのは神の名を利用し私服を肥やすヨハネ一派という思考。こうした者達は、引き金が落ちればすぐに暴発してしまうであろう。つまることころ一般的な大衆だ。彼らに対しては否定もできないし肯定もできない。
最後に、これが最も危険であり、また、希望の持てる者達であるわけだが、それは、既存の神という概念に疑念を持ち、新たな教を説かんとしている人間である。
彼らは決して神を否定しているわけではないが、ユピトリウスで広まっている神の虚像、偶像に対して懐疑的な見解を有しており、あくまで従来の神を信奉している二番目の人種とは明確に異なる者である。
もはや宗派というより他宗教的な思想を持つ彼らは、下手をすれば怪し気なカルト教団と認識されユピトリウス教に敵対視される事となるだろう。それに、新たな教にしたってそれが正しいかどうかも分からないわけであり、どう転ぶにしても、恐らく十中八九で更なる混乱を招く事態となる。
しかし、現在の腐敗したホルスト及びユピトリウス教に支配されている人間を救うには根本を正すしかなく、また、それは旧い組織の中ではもはや不可能な事象であった。ユピトリウス教を正常化するにしても滅するにしても、外的要因が不可欠な段階へと陥ってしまっているのである。
さて、これについてミツは二番目に類する人間であった。彼はやはり神の教を尊んでいたし、保守的な思想も持っていたからである。世直しをしたいと言いつつも、それはあくまで、現在のユピトリウス教の教義が正しく守られていないという認識によるものであり、神の否定などと呼べるものではなかった。
だが、変革や革新、革命といった言葉は、往々にして積極的な保守派から実行されるものである。ミツは未だ正義に悩む少年でるが、自らの正義を定め、その正義に則り神の教を説くようになった時、それは最後に述べた人種へと変貌し、新たなる宗教の誕生となる。その未来は、そう遠くなく、かなり近い。
ミツは悩みならも神父としての働きを全うし、その傍らで貧しい人間に施しを授けていた。一切の差別なく、弱き者、腹を空かせた者、喉の乾いたもの、怪我をした者にできうる限り手を差し伸べていた。そしてそれは、フェース人の奴隷に対しても平等であった。
「神父様。そんな事はお止めない、お穢れになりますよ」
一人の女が、偽りのない心でそう言った。
「穢れなどしません。人に差はありません。罪も同じように平等です。どこで生まれたとか、誰に育てられたとか、そんな事でどうして罪過の有無が計れましょうか。私も、貴方も、フェースの人間も、人より生まれた命である以上同等であり、平等なのです。然るに罪とは、生まれ出て背負うものではなく、死ぬまでの途中に背負うものであると私は思います」
その説法はユピトリウス教の聖書には書かれていない言葉であったが、本来のユピトリウス教の教としては正しい見解であり、女の顔を紅潮させるのに十分な効果を持っていた。
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