素晴らしき異星に祝福を3

 その後、ミツは聖書は勿論の事、あらゆる文献や本を読み漁り知識を蓄えていく。

 その多くは未だパーチメントで作られたものであり保存状態が悪く、文字を拾うのに苦労するようなものであったが、それでも進んで知を吸収していったのは、己が心に生じた矛盾に対する答えを見つけようとしていたからである。差別はよくないと謳いながら弱者を使役し搾取する構造への正当な論拠を、自身が納得できるような根拠を必死に探していたのだ。


 だが、そんなものはどこにもなかった。


 あるのはユピトリウスの教が如何に素晴らしいか。ホルストの人間がどれだけ誇らしいかといった言葉だけである。神を信じる者が幸福となり、背信する者は地獄へ落ちる。読む物全てがそんな選民思想と排他的論調に塗れておりミツは絶望に涙を落とす。罪だの罰だのという言葉を用いて都合よく物事を解釈し構造を組み立てているホルストやユピトリウス教に対して、哀れみさえ抱くほどに彼は深く悲しんだ。


 そんな折に、ミツは足を怪我した奴隷と知り合う。

 奴隷はフェースから連れてこられた男で、名をキルケーパスと言った。この頃、奴隷には名前の最後に『パス』と付けられていた。故に、彼の本当の名はキルケーである。

 キルケーはとある一位国民によって使われていたが前述の通り足を怪我し、使い物にならくなったから捨てられたとミツに話した。しかし、多少でも人の心がある人間であれば治療を施すし、そうでなくとも、金を出して買った奴隷を容易に放り出すなどまずない処置である。つまり、キルケーが捨てられたのには何かしらの理由があるのであるはずで、それはミツも察するところではあったが、あえて聞く事もなく、毎日パンを与え、話を聞いたのだった。


 キルケーの話は彼の故郷の話がほとんどであったがその内容はミツにとって刺激が強く、ドーガ人が管理し、人間を家畜の様に飼育しているという事実を知った途端に気を失ってしまうほどであった。




「やはり今の世界は間違っている。僕は、それを正したい」


 キルケーにそう述べるミツの言葉はまさしく本心であったが、若さ故の傲りや盲目的な独善も多分に含まれていた。正しい心を持ち多分な知識を仕入れたとしても、経験の浅さや視野の狭さはどうしようもない。ミツはこの時、自らが正義の執行者であらんと決意し、善意の強制が悪であるなどとは想像もできずにいた。



 そんなミツに対して、キルケーはこう返す。



「世界を正すなんて傲慢だよミツ。運命というのは平等に不平等を運ぶものだ。それを覆すなんて事は、許されない」


 ミツはキルケーの言葉に納得できなかった。しかし、反論しようにも言葉が出ない。


「それでいいのか! 君はこれまでの人生を許容できるのか!」


 そう叫べればさぞかし気持ちよく爽快な想いができただろう。しかし、キルケーの声には有無を言わせない言外の圧が宿り、呪文にかけられたように喉が閉まるのである。


 キルケーにしても、無論奴隷として生まれ、尊厳を奪われた事に憤りも感じているであろう。しかし根底にあるのは諦観と悲壮である。彼は何もかも諦める事により生を肯定していた節がある。希望もない人生を運命だと割り切る事で、自らの凄惨な境遇と苦痛を胡麻化しているのだ。ミツがキルケーの言葉に反を示せなかったのは、最後の拠り所である、何人にも逃れられない運命というまやかしを否定する事により、返って彼に絶望を与えると知らず知らずのうちに感じていたからである。


 ミツがそうした、ある種の現実逃避により人間が生かされていると実感するのはすぐであった。

 いつものようにパンを持ってキルケーが隠れている場所へ行くと、複数の兵隊が、キルケーを取り囲んで尋問していた。


「マルクスの奴隷。キルケーパスで間違いないな?」


「間違いございません」


「では、貴様がマルクスを殺し、脱走した事についても相違ないな?」


「その通りでございます」


 ミツはそのやり取りを聞くと持っていたパンを地に落とし、「あ、あ、あ」とうめき声を上げた。



「なんだ君は。この奴隷に、パンをやっていたのか」



そんなミツに気がついた兵士が、声をかける。



「……はい」


「そうか。それは、罪深い事をしたね。話を聞いていただろが、この奴隷は主人を殺してここに逃げてきたんだ。フェースの罪深き人間がさらに罪を重ねたんだよ。君は、そんな奴隷に施しをしたのだ」


「……」


「本来であれば君も罪に問わなければならない。しかし、君には未来がある。今回のでき事を教訓とし、ホルストのために多くを学び、精進しなさい」


「……」


 兵の言葉などミツには入ってこなかった。彼はただキルケーを見つめ、何かを言おうとしたが、やはり、呪文にかけられたように喉が閉まって、声が出てこなかった。


「ミツ……」


 そんなミツを見て、キルケーが口を開く。


「助けてくれ……」


 力のない子供に向かってキルケーは乞うた。彼が何もできないと、できるはずがないと知りながら、つい、口にしてしまったのだ。


「罪人に救いはない!」


 兵隊に殴られるキルケーを見て、ミツは立っているのがやっとであった。キルケーの顔は悲嘆に歪み、苦悶に彩られ、死を意識させる影が覆っており、逃げる事のできない現実に、絶望していた。


 罪人に救いはない!


 兵隊が発したその言葉がミツの中で反響していた。


 キルケーは人を殺した。それは確かに罪である。まず間違いなく、死刑に処されるであろう。


 だが、彼が殺した人間と同じように彼を殺す事が、果たして正義なのであろうか。


 ミツはその疑問に、大いに悩み、苦しんだ。

 

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