あー🥺8

 かくして、些かの諍いはあったが無事会談は終わった。


そしてその夜。ワザッタはムカームに呼び出され今にも泣きそうな顔で公室を訪れたのだが、待っていたのは酒と煙草(この頃にはもう紙巻煙草が普及し始めていたが、高級品に類していた)であった。


「まぁ座って一杯やれ」


 面食らったワザッタを気にも留めず、ムカームは酒を酌む。


「は、いただきます!」


 ワザッタの胃はボロボロだったろうが、上官からの勧めを断る事などできるはずもなく、駆け付け三口控えめに舐めて紫煙を呑んだ。


「美味しゅうございます」


「それは結構。なにせ一仕事の後だ。美味かろう」


「は……」


「此度は貴様の機転により迅速に目的を達する事ができた。それは素直に称えよう。よくやった」


「ありがたきお言葉……」


「で、どうだ。リビリとやらの国主相手にも、同じようにできそうか?」


 その問いにワザッタは一と時口を噤んだ。それはそうだ。リビリ皇帝はセンゲなどとは物が違う。大きさも尊さも、何もかもが比較にならないのである。

 それはセンゲが(卑屈陰険でこそあれ)特別劣っているというわけではない。皇帝の存在があまりに巨大すぎるのである。血の襲名とはいえあの広大な地を統べ営んでいる人間に対抗できる人物などそうそういるはずもなく、あのツネハでさえ役者不足感が否めない。それを考えると、ワザッタの口がまごつくのは致し方のない事である。



「……難しいか」


「恐れながら……」



 ワザッタは本音を漏らした。それは恐らく叱責や懲罰覚悟で発したものであったろうが、以外な事にムカームは微笑を浮かべ、咎めようとはしなかった。


「なるほど。分かった。明日も頼むぞ」


「は、え、よ、よろしいんですか?」


「何がだ?」


「いえ、あの、何か特別に実行することなどございましたら、伺いたく……」


「ない。今日と同じでいい。いや、明日は無駄な事は喋るな。通訳だけをしていろ」


 なんとも拍子抜けな命令にワザッタは若干肩の荷が下りたような面持ちとなった。


「は、了解いたしました」


「よし。酒を飲んだら下がっていいぞ」


「は!」


 退室の許可を得たワザッタはグラスに残った酒を無理やり流し込み、一礼を残して公室を出た。

 ワザッタは、明日リビリへと出発する事が決まったため隊に合流し、久方ぶりにハイドジョイ内にあるタコ部屋の硬いベッドで眠る事となっていた。それは当然、屋敷の床と比べるまでもなく劣悪な環境であるわけだが、ワザッタは特に不満など述べないどころか、逆に歓喜しているようにも見えた。やはり故郷の香りのする場所は落ち着くのだろうか、その表情は、帰郷した若者が見せるような、淡い微笑みが浮かんでいた。


 しかし、すぐさま軍兵の顔に戻るでき事が起きる。格納庫から怪しげな音とうめき声が聞こえるのだ。

 もし侵入者であればこれを逃すわけにはいかない。ワザッタはナイフを手に持ち、気配を殺して音の出どころへと向う。

格納庫に入ると、明かりが一つ。蛍のような儚い火である。それに照らされていたのは……


 



「……司教様」


 聖ユピトリウスの司教。ジョージであった。


「いったい、どうしたのです? このようなところで」


 司教は答えない。ワザッタを虚ろな瞳で一瞥すると、すぐさま背を向け、積み荷をあさり始める。


「司教様。いったい何を……」


 再度ワザッタが声をかけると、言い切る前に司教は「あった!」と大きな声を上げて叫び、狂喜した。


「あった! あった! あった! はははははははははははははは!」


 狂気という言葉以外に該当するものなし。司教はけたたましく笑ってランプを乱暴に床へ置くと、箱の中から何か取り出す。直後、手にした何かを鉄皿の上にのせて着火し、その煙を吸わんと筒を構えた。何かが何であるかは明白であろう。阿片である。


「司教……それは……」


 その様子を見てワザッタも何が起こっているかを理解した。しかし、分かったからといってどうする事もできない。ここで無理に取り押さえようとすればランプや火のついた阿片が倒れ、貨物室が火の海となる可能性もある。刺激するのはまずい。まずいが、このままこうして手をこまねいているというわけにもいかない。ラリッタ司教が錯乱し暴れれば、これもまた貨物室が炎上しかねないのである。誰か人を呼びに行くというのも悪手だ。目を離した隙に、司教が貨物室で焚火をしないとも限らないからである。八方塞がりとはこの事であろう。どうするにもどうにもならず、成り行きを見守るしかない。


 ワザッタの顔はどんどんと青ざめていき、司教の顔はどんどん恍惚としていく。薄いランプの明かりが照らす二人は、光と闇の中で対極的な存在となり、動と静のコントラストをまるで絵画の様に遺憾なく染めている。時が止まっているかのような錯覚は俺ばかりではなく、ワザッタにおいても大いに味わった事であろう。


 だが時間というのは無慈悲に流れていくものである。永遠とも思えたのは僅か二分。一度動き出した時の加速度は、光のように高速に感じられる。


「はははははは」


 司教がランプを持って立ち上がるのに要した数秒がコマ送りの如く飛んでいくように錯覚した。ぉして、その後に起こった事もまた、一瞬であった。



「馬っ鹿!」



 ワザッタが叫ぶ。司教がランプをそのまま床に落としたのだ。


 燃え広がらんとする火を必死に消そうとするワザッタ。それを見てひたすらに笑う司教。気が付けば多くの人が集まり、いつの間にか火は消えて、司教の姿もなかった。代わりにムカームが立っており。ワザッタにこう述べた。


「お前は何も見なかった」


 ワザッタは言葉を返す事もできず、また、ムカームも聞こうとせず、一連の失火騒動は終息。その後、誰一人としてその事を口にする者はいなかった。

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